表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

36/72

埋まる予約

工房の昼は、少しだけ間延びしていた。


炉の音は安定している。

刻印の乾いた響きも、どこか落ち着いている。


ミレイアは、自分の作業台で工具の整備をしていた。


刃の欠けを確認し、

位相調整ピンの歪みを直し、

布で一本ずつ拭いていく。


(……出張、終わった)


まだ、体の奥に移動の感覚が残っている。

だが、手は迷わない。


——その時。


空気が、わずかに歪んだ。


「……っ」


反射的に、顔を上げる。


次の瞬間、

何もなかった位置に影が落ちた。


転移。


「出張、お疲れ様」


聞き慣れた声。


ラザルだった。


ミレイアは、思わず手を止める。


「……あ」


ほんの少しだけ、目を見開く。


「お、お疲れ様です……」


「そんなに驚く?」


楽しそうに言いながら、ラザルは周囲を見回した。


「ちゃんと戻ってきてるね」


「はい……」


工具を置き、姿勢を整える。


「思ったより、早かったです」


「うん。終わった瞬間に、来た」


その言い方に、

ミレイアは、ほんの少しだけ嫌な予感がした。


「……何か、ありましたか」


ラザルは、答えの代わりに、

一歩近づいて作業台の端に腰を預ける。


「噂が、回り始めた」


短く。


ミレイアの指先が、わずかに止まる。


「ヴァレンティア侯爵家夫人が、君を直接呼んで直させた、って」


一拍。


「正確には、“直させた”じゃないけどね」


肩をすくめる。


「でも、向こうの世界じゃ、そういう言い方になる」


ミレイアは、静かに息を吸った。


(……来た)


「商会に?」


「うん」


ラザルは、あっさりと言う。


「貴族からの依頼が、一気に来た」


少し間を置いて。


「学会の分と合わせて、今の予約……一年先まで埋まった」


ミレイアは、ゆっくりと顔を上げる。


「……一年、ですか」


驚きはある。

だが、声は落ち着いていた。


「正確には、一年分までに調節した」


ラザルは、軽く訂正する。


「全部、受けたわけじゃない」


ミレイアは、ラザルを見る。


「どう、されたんですか」


即答だった。


「値上げはしない。人も増やさない。君を、表に出さない」


一つずつ、指で数えるみたいな言い方。


「順番も変えない。直せる物だけ受ける。待てない人は、断る」


それから、少しだけ笑う。


「……楽しいけどね、こういうの」


ミレイアは、思わず視線を上げた。


「急に、世界が騒がしくなる感じ」


肩をすくめる。


「でもさ。騒がれた結果、壊れるのは道具じゃなくて“人”だから」


ミレイアは、少しだけ目を伏せる。


「……反発、ありませんでしたか」


「もちろん、ある」


笑う。


「でもね」


声が、少しだけ低くなる。


「“あの侯爵家が待った”って事実は、強い」


ミレイアは、何も言えなかった。


その判断の重さが、

遅れて、胸に落ちてくる。


「君に、判断してもらう」


ラザルは、はっきり言った。


「どれを触るか。どれを触らないか」


ミレイアは、少しだけ間を置いてから答える。


「……一年分、全部見られるかは分かりません」


正直な言葉。


だが。


「でも」


顔を上げる。


「触る価値があるものは、ちゃんと拾います」


声は、静かだ。

だが、迷いはない。


ラザルは、一瞬だけ黙った。


それから、楽しそうに笑う。


「うん」


短く。


「それでいい」


工房の音が、戻ってくる。


炉の唸り。

刻印の音。

誰かの足音。


ミレイアは、工具を布に包みながら思った。


(……変わってない)


やることは、同じだ。


壊れているものを、

壊さずに、動かす。


ただ——


それを待っている人が、

確実に、増えただけ。


工房の空気は、

いつの間にか——


「この人がいなければ回らない」

そんな重さを、帯び始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ