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寄り添う音

扉が閉まる音は、ほとんどしなかった。


それでも、

部屋の空気が、わずかに変わる。


エレオノーラは、

オルゴールを両手で抱え、

隣室へと足を運んだ。


展示室でも、応接間でもない。

小さな私室。


窓は一つ。

カーテンは引かれている。


音を、外へ逃がさないための部屋だ。


「……」


台の上に、そっと置く。


扱いは丁寧だが、

過剰ではない。


“物”としてではなく、

“時間”として扱う手つきだった。


蓋に、指を掛ける。


一瞬だけ、迷う。


(……ひとりで、だったわね)


ミレイアの言葉を思い出す。


「まずは、一人で、聴いてみてください」


評価でも、確認でもない。

“体験”のための順番。


エレオノーラは、静かに息を整え、

蓋を開けた。


ゼンマイを、回す。


——音。


最初は、

ごく単純な旋律だった。


懐かしい。

だが、特定の記憶には結びつかない。


幼少期でもない。

舞踏会でもない。


ただ、

“よく整えられた音”。


だが。


数拍、進んだところで、

音色が、わずかに変わる。


混ざらない。

主張しない。


別の旋律が、

すっと、前に出る。


「……あ」


思わず、声が漏れた。


それは、

若い頃の記憶だった。


夫と出会う前。

まだ、何者でもなかった頃。


夜の工房。

香りと、試作品と、

失敗ばかりの時間。


——それでも、楽しかった。


旋律は、

すぐに、また引く。


次に前へ出た音は、

もっと最近のものだった。


子どもたち。

忙しさ。

責任。


失ったものも、

得たものも、

区別せずに、音が包む。


涙は、出なかった。


だが、

胸の奥が、静かに満たされていく。


「……そういうこと」


誰に言うでもなく、呟く。


このオルゴールは、感情を揺さぶるものじゃない。


ただ——

“その人の時間”に、寄り添う。


最後の旋律が、

静かに消える。


音は、きちんと終わった。


途中で途切れない。

名残だけを残して。


エレオノーラは、しばらく動かなかった。


それから、

そっと蓋を閉じる。


隣の部屋へ戻ると、

ミレイアは、静かに待っていた。


工具は片付けられ、

作業台も、元通りだ。


「……いかが、でしたか」


控えめな声。


エレオノーラは、

少しだけ微笑んでから言った。


「ありがとう」


短い言葉。

だが、重さがある。


「とても、良かったわ」


ミレイアは、ほっとしたように息を吐く。


「……でしたら、よかったです」


それ以上、

何も言わない。


説明もしない。

価値の話もしない。


エレオノーラは、

その態度を、はっきりと気に入った。


「ねえ、ミレイアさん」


「はい」


エレオノーラは、穏やかに言う。


「他の子たちも、あなたにお願いしたいわ」


押し付けない。

急かさない。


「全部じゃなくていいわ。あなたが、“触る価値がある”と思ったものだけで」


ミレイアは、静かに頷いた。


「……承知しました」


仕事として。

だが、誠実に。


直せるものと、触るべきでないものを、ちゃんと分けた上で。


エレオノーラは、満足そうに息を吐く。


「では、今日はここまでにしましょう」


「はい」


「続きは——次の予約で」


その言葉に、

ミレイアは、ほんの少しだけ目を見開いた。


(……次が、ある)


それが、

何よりの評価だった。


帰り際。


廊下を歩きながら、

エレオノーラが、ふと振り返る。


「ミレイアさん」


「はい」


「あなた、忙しくなるわよ」


断言だった。


ミレイアは、

少しだけ困ったように笑う。


「……一つずつ、です」


エレオノーラは、楽しそうに笑った。


「ええ。それでいいの」


“待つ”ことを知っている人の笑みだった。


その背中を見送りながら、

ミレイアは思う。


(……仕事、だ)


ただの仕事。


だが、

確実に——

次へと繋がる仕事。


眠っていた物が、また一つ、世界に戻った。


それだけで、今日は、十分だった。

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