センセー<point of view of Bucho>
佐久間 友一は数学教師だ。
年齢は、知らない。多分27、8くらい。身長も知らない。ウチより高い。そして、多分独身。
今年この学校にやってきて、ウチのクラスの数学を受け持っている。面は良い方だが、教えている全員の成績を上げることに熱中していることもあり、不真面目な生徒からの評判は悪い。かく言うウチも、不真面目な人間の1人なので、彼のことは少しだけ苦手だ。
そして今、ウチはその苦手な人間の前に立っていた。
もっとも立っているのはウチ1人だけではなく、合計3人ではあるが。
「何で俺まで…」
後ろで木庭がぼやく。お前が怖いこと言わなけりゃウチだって1人で来れたさ! こいつは後できっちりしめおこう。
「佐久間先生、私も苦手なのよね…」
口に出したわけではないが、夢見の顔にはそんなことが書かれている。…非常に不機嫌そうだ。後で何か埋め合わせせねばなるまい。
「おぉ、春日井。来たか。後ろの2人はどうしたんだ?」
こちらの3人とは対照的に、件の佐久間は嬉しそうに顔をほころばせる。そんなに不良生徒の指導ができるのが嬉しいか。…それとも、本当に別の意味の“指導”をするつもりだったのか。
…いかんな。これは考えないことにしていたのに。
「来いって言ったのはそっちだろ…。この2人は部活の後輩。部長権限で補習授業の道連れにした」
ウチは大きく息を吐いてからそんな言葉を口にする。
すぐに緊張するのはウチの悪い癖だ。そして緊張している時は、何かアクションを入れてからじゃないとスラスラと言葉が出てこない。演劇部に入ったのはそれを直すためだったけれど、今のところは上手くいっていない。
「そうか。…3人となると、どっか教室使った方がいいな」
佐久間はそう言うなり教材を持って立ち上がり、ついてくるようにと職員室を後にした。ウチと他2人もそれに続く。
高かった日差しも段々と傾いてはいたが、それでもまだまだ空は明るい。ウチってば夜行性だから夏は苦手なんだよね。日差しもきついし、何よりにっくきあの太陽を見るとテンションが下がる。日光どころかどんな光でも忌避する夢見には、非常にシンパシーを感じている。ついでにあんま身長も高くないし。
「…そういや、夢見は佐久間先生知ってんのか?」
ウチは首だけで夢見を振り返りながらそんなことを聞く。彼女は少し目を細めながら頷いた。…もしかして廊下が眩しいのか?
「はい。私のクラスの数学も担当していらっしゃいますので、一応は」
「ふーん…」
一応、ねぇ。
本当に佐久間のこと苦手なんだな。これはウチの我が侭で、嫌なことにつき合わせてしまったかもしれない。申し訳ないなぁ。…木庭? いいんだ、あんな奴。あれだけウチの…その、色々見たんだから、むしろウチに尽くせ。
「さてと、付いたか」
佐久間は唐突に立ち止まると、ウチの教室の扉を開けて中へと入る。教室は窓際に日差しが降り注いでおり、その光が机や床にに反射していた。…ウチの個人指導だから、ウチの教室でやるのか。
そして佐久間はウチの席の隣に教材を置く。…ウチは自分の席に座れと。
「じゃ、やろうか」
「はいはい…」
渋々自分の席に腰を下ろすと、鞄からさっきまでやっていたプリントの束を取り出す。半分も終わらなかったが、まぁ全部やって来いと言われたわけではないので、構わないだろう。
ウチは何も考えずに着席してしまったが、そんな中で気遣いの男、木庭が、開いていた教室のカーテンを閉じた。…確かに、南向きの窓は眩しいからな。
窓に背を向けて座っていた佐久間は、そんな彼の様子に不思議そうな顔をしていた。佐久間にとっては眩しいと感じるほどでもなかったのだろう。…何となく、夢見が佐久間を嫌う理由が見えてきた気がする。
「少し暗くないか?」
教材を眺めていた佐久間がそんなことを言う。それでも無理なく文字を読めている様子だが。
「…そりゃ、あんたはこっち向いて座ってるからな」
夢見がウチの後ろの席に座るのを横目で見ながら、ウチがそんなことを言う。あまりそのことについて触れて欲しくないのだが…。
夢見は多分、気を遣われていることを心苦しく思っている。それでも木庭のことは好意的に思っているようなので、木庭が親切で何かする分にはあまり角が立たない。しかし、それにも限度がある。何度も掘り返されると、夢見も居た堪れなくなってしまうかも知れない。だから、その件にはこれ以上触れてくれるな。
ウチの願いが通じたのか、木庭が席に座ると、佐久間の数学講座が始まった。
「…じゃあ、二次方程式やろうか。問題作ってきたから、とりあえず10分だけ解いてみて」
また問題作ってきたのか。ウチにどれだけの問題を解かせるつもりなんだこいつ…。
この熱血具合こそ好きになれそうもないが、この情熱は尊敬に値するんじゃないだろうか。問題を作る労力がどの程度なのかは知らないが、それでもこれだけの数を作るのは流石に辛そうだ。
それぞれ問題を配られて、各々が解き始める。元々ウチのための問題であるので3人分も用意しているはずがなく、内容は全員違う。
「…」
ウチに配られた問題は、単純な計算問題。この程度ならば悩む必要もない…と思ったかバカめ!
何でプリント半分も終わらなかったと思っているのだ。頭が悪いからだ。
「…かけて8、足して6…」
…なんだろう。解の公式使うのか? えーっと、公式は…
そんな風に悩んでいると、突然後ろから声がかかった。
「2と4です」
…なるほど。
夢見が教えてくれた答えを元に式を分解すると、Xの値が求まった。すごいぞ、夢見。ウチより頭いいんじゃないのか?
「じゃあついでに、かけて-18、足して-3は?」
「-6と3です」
「かけて18、足して11」
「9と2」
「かけて28、足して-11」
「-7と-4です。…自分でやってください」
はーい。
夢見先生の答えを元に式を変形して解を求める。なんと楽な問題なのだろう。これならば何も悩む必要はない。数学ってこんなに単純だったのか。
ウチがさらさらと問題を解いていると、隣で佐久間が驚きの表情を見せていた。ふふん。ウチだってやればできるのだということに驚いているに違いない。
「…驚いた。梔子は数学できるんだな」
…違った。ウチじゃなくて夢見の話だったか。
しかし、夢見ってそんなに頭悪い印象ないんだけどなぁ。そんなに意外かな。…あ、補習受けてるから、成績は良くないのか。
「…えぇ」
素っ気無く答える夢見。まぁ、人見知り激しいからな。この程度でも返事をしただけマシだろう。
佐久間も夢見の態度に気を悪くした様子ではないし。むしろ嬉しそうである。
「授業の時もそのくらい頑張ってくれると助かるんだがなぁ」
「…わかりました」
…ウチの手が止まる。
夢見先生のヒントが無くなったので、自力で解かなければならなくなったのだ。
かけて-72、足して-6って何だよ。72になる掛け算は…9×8? 足しても-6にならないぞ。問題に不備があるのかもしれないな。
「…あ、10分経ったからペン止めて、解説に入ろう。…分からない所あった?」
「はい、先生」
佐久間の言葉に小バカが…間違えた。木庭が手を上げる。こいつ、積極的に手を上げるタイプじゃだろうに、どうしたというのか。
「平方完成が分かんないっす」
平方…完成…だと…?
バカな…木庭がウチよりも高等な部分で悩んでいる…? …これは夢かもしれないな。
「ふむ。…平方完成というか、二次式の変形は完璧にできないと、高校数学ついていけないからね。せっかくの機会だし丁寧に教えようか」
ウチが夢を見ている間に、佐久間は教壇に立って黒板に何かを書き始める。カツカツと黒板とチョークがぶつかって音を立てる。…人数が少ないせいか、今日はいつにも増してひどいな。
「センセー」
「ん? 何?」
ウチが声をかけると、佐久間は笑顔で振り返る。何がそんなに嬉しいのか分からないが、今日は異様に上機嫌だなこいつ。
そんなところに水を差すようで悪いが、今日はダメ出しさせてもらおう。
「前から言おうと思ってたんだけど、黒板に書くとき字が小さくて見づらい」
「え? あぁ、そう? 直すよ」
ウチがそう言うと、佐久間は書いていた内容を消して、また新しく書き始めた。…こいつの気遣いレベルは気遣いの男に遠く及ばないな。煩悩に支配されていない時の木庭は普通に好青年。
その後も、教え方だけは丁寧な高校数学講座は続いた。
流石夏。
まだまだ日の高い空を見てから、ウチは後輩2人に先に行っているように伝えた。
佐久間と2人きりになったウチは、じっと彼を見つめる。
…もう怖くない。大丈夫。
大きく息を吸って、吐き出す。
静かに切り出した。
「…センセーは、夢見のこと知らないだろ」
「…? 知らない? 梔子のクラスの数学は受け持ってるけど…」
意味が分からないと言うように佐久間は首をかしげる。…あぁ、やっぱりこいつは知らないのだろうなぁ。
「じゃあ、あいつは目が悪いのに何であんなに小さい字を書くんだ?」
「それは…見えないとは言わなかったから」
「…明るい教室を選んだ理由は?」
「…? 暗いところよりいいだろう」
「…授業中やテストで、夢見の頭が悪いと思ったのは?」
「…問題が解けないからだ」
…多分、こいつは悪い奴というわけでもないのだろう。
ただ、ウチはこいつよりもずっと夢見のことが好きだ。
だからこれは、もしかするととても自己中心的な考えなのかもしれない。
「お前、何で夢見がルーペ使って教科書読んでるのか知らないだろう。
何でいつも日傘使ってるのか知らないだろう。
何で袖の短い服を着ないか知らないだろう。
何で登下校でサングラスかけてんのか知らないだろう。
…あいつが、どういう体質なのか知らないだろう」
「そ…」
佐久間が口を開く。それをさせじと、ウチは言葉を紡ぐ。
「もしもあんたがそれらを知っているというなら、ウチはあんたを軽蔑する」
「…」
そして呆然とウチのことを見つめる佐久間に、背を向けた。
「…さてと、木庭の家にでも行こうかな」




