第六章 三つ目の声
翌朝、早苗は志帆の腕を見て眉を寄せた。
「だから、外に出るなって言ったでしょう」
「人にぶつかったんです。普通の人みたいな女性でした」
「そりゃ、普通に暮らしてるんでしょうね」
「早苗さんも見たことがあるんですか」
「小さい頃、一度だけ。家の裏で知らんおばさんが洗濯してた。こっちを見て驚いてたよ」
「怖くなかったんですか」
「怖かったさ。でも、向こうも怖かったと思うよ」
早苗にとって、その記憶は驚くべき怪異ではあっても、人に話せない秘密ではないようだった。島で道あけの夜に外出しないのは、互いの暮らしを邪魔しないため。志帆は初めてその説明に納得した。
録音機には足音や話し声が残っていた。ただし、多くの言葉は雑音に埋もれている。あの女性の声も、聞き取れる箇所はわずかだった。その中で一つだけ鮮明な一節があった。
『あんなに大勢いるのに、見えないんだから。』
直後、低い響きが長く続いていた。風とも声ともつかない、一定の高さで微かに揺れる音だった。イヤホンを通すと頭の奥が重くなる。志帆は思い当たり、以前の録音を開いた。カメがグイスを止める十八秒の沈黙にも、同じような響きがある。昨夜ほど明瞭ではないが、耳に残る揺れ方が似ていた。
カメの家を訪ねて音を聞かせると、彼女は老眼鏡を外し、目を閉じた。しばらく聞いて頷く。
「ああ、これね」
「何の音ですか」
「分からんよ」
「聞いたことがありますか」
「いつもあるよ」
「いつも聞こえるんですか」
「聞こえんよ。でも、あるでしょう」
志帆には、その区別がすぐには理解できなかった。カメは台所を指さした。
「拝むとき、ここで一度止まるって母ちゃんが教えた。母ちゃんも、その母ちゃんに教わった。理由は知らんけど、止まらんと落ち着かん」
「返事を待つためでしょうか」
「そうかもしれんねえ。でも、返事が来たら困るかもしれんよ」
カメは何かを隠しているのではなかった。知らないものを知らないまま扱う方法を、受け継いできたのだ。志帆はそれ以上問い詰めず、唱えの言葉と順序をもう一度確かめさせてもらった。家庭でのグイスは毎日の祈りであり、御嶽でのものは島全体の安寧を願う。目的は異なるが、沈黙を置く位置には共通点があった。
午後、志帆は集会所の調査記録を読み直した。祭祀歌についての聞き書きに、小さな文字で追記があった。
『唱言ハ三段ヨリ成ルト云フ。但シ現存スルハ第一段ノミ。第二段ハ旧時、別ノ者之ヲ唱ヘタリト。第三段ハ不明。』
三段。志帆はカメが歌ってくれた短い節を思い浮かべた。第一の声が止まる。間がある。その次を別の者が歌う。もともと掛け合いであったとすれば、現在の沈黙には説明がつく。では、第三段は誰のものだったのか。
録音を聞き比べた。カメの声のあと、衣擦れと息遣いが混じる。さらにその奥に、低い響きが残る。仮に別の世界の人々が同じ場所で歌っていたなら、二つ目の声もそこにあったのかもしれない。そして低い響きは、さらに別の何かなのかもしれない。
志帆は調査ノートへ『祭祀歌とグイスの休止が同じ性格を持つかは未確定』と書いた。すぐに断定する気にはなれなかった。古謡と祈願の唱えは同じものではない。採録した声だけで三つの世界を証明できるはずもない。それでも、道あけの夜に女性が見ていたものが、現世と幽世のどちらにも属していない可能性は残った。
古い集落図を広げた。七つの空き地は、それぞれ独立した空白に見えていた。志帆は道の曲線を赤鉛筆でなぞり、石垣の位置を書き足した。何のためにそこを避け、なぜ祭祀の順路が片側へ寄るのか。ばらばらだった記録が、初めて一つの形につながりかけていた。




