第五章 隣の暮らし
道あけの日はよく晴れた。朝から畑へ向かう軽トラックが行き交い、共同売店ではいつもどおり客が世間話をしていた。祭祀の日とは思えないほど穏やかで、志帆は昨夜の音を自分の聞き違いだったようにも感じた。午後四時を過ぎると、集落の様子が少しずつ変わった。道端の掃除を終えた人たちが家へ戻り、共同売店のシャッターが早々に下りた。港の車も一台ずつ姿を消す。
早苗は六時前に夕食を運んできた。煮物と魚の焼き物、温かい汁物が盆に載っている。
「今日は部屋で食べてね。私は家に戻るから。何かあったら電話して。でも外へは出ないでよ」
「道あけは何時までですか」
「日が落ちてから、空が明るくなるまで。それを守れば大丈夫」
「大丈夫、ということは、守らないと何かあるんですね」
「困る人がいるんだよ」
早苗はそれだけ言い、帰っていった。志帆は窓際の机に録音機を置いて食事を済ませた。夕闇が濃くなるにつれ、車の音も人の声も消え、遠い波音ばかりが聞こえる。いつもの静かな夜のはずなのに、島じゅうが息を潜めているようだった。
八時半頃、子どもの笑い声がした。志帆が顔を上げると、街灯の下に白い道が続いている。人影はない。少しして複数の足音が聞こえた。草履を引きずる音、砂利を踏む音、車輪の軋む音。それぞれが違う速さで近づき、窓のすぐ前を通り過ぎる。録音機を作動させたとき、魚を焼く匂いがした。続いて味噌汁の香り。隣で夕飯の支度をしているように生々しかった。
「もうご飯よ」
「今行く」
女と子どもの声が、確かにした。志帆が窓を開けると、外の景色がわずかに違っていた。昼間は何もなかった場所に低い石垣があり、その奥に家が建っている。戸口から灯りが漏れ、軒先には洗濯物が下がり、履物が二足揃えてあった。瞬きをしても消えない。ただ、目を逸らしてから見直すと、石垣の位置が少し変わる。家の中で何かをかき混ぜる音がして、茶碗を置く乾いた音が続いた。
台所から出てきた女が志帆に気づいた。四十歳くらいだろうか。竹籠を提げ、普段着に見える衣服を身につけている。目が合った瞬間、女は立ち止まり、志帆と同じように驚いた。
「あら」
「こんばんは」
志帆が挨拶すると、女は返事をせず、籠を抱え直して後退した。家に戻り、戸を閉める音が響く。志帆は窓に手をかけたまま立ち尽くした。幽霊が現れたのだと考えるには、あまりにも生活の匂いが濃かった。あの女は夕飯を作っており、向こうも志帆の姿を見て怖がったのである。
道のあちこちに人の姿が見え始めた。最初からそこにいたものが、徐々に焦点を結ぶようだった。男性が籠を背負って歩き、子どもが家の前を駆け、老人が軒下で縄を編んでいる。古い衣服ばかりではない。Tシャツのような上着を着た若い男もいた。ある家ではラジオに似た音が鳴り、隣家からは小言が聞こえた。人々は何かを迎えたり儀礼を行ったりしているのではなく、ただ夜を過ごしていた。
志帆は初日に見た石柱のある空き地を思い出した。ここから角を一つ曲がれば行ける。早苗の言葉も、勝彦の体験談も覚えていたが、外で起きていることを確かめたい気持ちが勝った。録音機を胸ポケットに入れ、そっと玄関を開けた。外気は昼間より冷たく、草の匂いに知らない家の炊煙が混じっている。
道へ出た途端、右腕に衝撃が走った。何かが肩をかすめて通り過ぎ、志帆はよろめいた。
「あっ、すみません」
「危ないねえ」
振り向くと年配の女性が立っていた。灰色の髪を低く結い、色褪せた上着を着て、小さな包みを提げている。志帆を見る目には警戒があったが、怒ってはいなかった。
「こんな時間に何をしてるの」
「すみません、私、ここの……」
「こっちの人かね」
志帆はうまく答えられなかった。女性は一度頷き、すぐ近くの家を見やった。
「今日は、たまに見えるからねえ」
「あなたにも、私が見えるんですか」
「そりゃ見えるさ。さっきからそこにいるでしょう」
「この道も、家も、昼間は見えなかったんです」
「そうなの。変な話だねえ」
志帆が周囲を見回すと、灯りの漏れる家の向こうに、昼間から知っている民宿のブロック塀が透けるように重なっていた。二つの壁は完全には一致せず、一方を見つめるともう一方がぼやけた。自分がどちらの道に立っているのかさえ、曖昧になっていた。
「ここは、あなたたちの集落なんですか」
「そりゃそうでしょう。あんたには違うの」
「私たちは同じ場所に、別の家を建てているようなんです」
女性は困った顔で志帆を見たが、理解したのかどうかは分からない。少し考えてから、むしろこちらを気遣うように言った。
「でも、あんたたちは大変だねえ」
「どうしてですか」
「あんなに大勢いるのに、見えないんだから」
女性の視線は志帆の肩越しへ向けられていた。振り返ると、そこには初日に見た石柱が二本立ち、その奥に空き地が続いていた。あちらの家々が現れている今も、空き地には何もない。街灯の薄い光が地面を照らし、砂と落葉が見えるだけだった。
「何が見えるんですか」
女性は返事をせず、空き地の奥を見た。目を細め、包みを抱え直す。その表情がゆっくり変わった。志帆を見たときの驚きとは違う、何かを邪魔しないようにする人の顔だった。
「そこは近づかんほうがいいよ」
「なぜですか」
「邪魔になるから」
カメと勝彦の言葉が重なった。志帆がさらに尋ねると、女性は「あれは」と言いかけ、急に口を閉じた。視線が志帆の頭上を越え、遠くの何かを追いかける。彼女は志帆の腕を取り、道の端へ引き寄せた。指が触れたところに、熱とは違う確かな圧力があった。
石柱の向こうで砂が沈んだ。右から左へ、目に見えない大きな面がゆっくり重みをかけるように、落葉が押し分けられていく。地面が揺れたわけではない。それなのに、志帆の胸は狭い隙間へ押し込まれたように苦しくなった。周囲の家々がかすみ、足音と声が遠ざかる。女性が何かを叫んだが、言葉は耳に入らなかった。
志帆はよろめき、手近な石垣につかまった。掌に湿った石の感触がある。息を整えて目を開けたとき、近くで鶏が鳴いた。空が白み始めていた。見知らぬ家も、道を行く人々も消えている。石柱の向こうは、ただの空き地だった。
民宿へ戻ろうとして腕を動かすと、右腕には赤い指の跡が残っていた。胸ポケットの録音機もまだ動いている。志帆はそれを取り出し、録音時間を確認した。八時間を超えていた。自分では短い間しか外にいなかったつもりだった。今しがた聞いた鶏の声を、再生せずとも録音機が記憶していることに、なぜか少し安堵した。




