第四章 道あけ
志帆は滞在を延ばした。調査事務所に連絡し、船の予約を変更する。早苗は「せっかく来たんだから」と宿代を少し安くしてくれた。道あけまで三日になると、集落では道端の草刈りが始まった。家の前に積まれた植木鉢や使わない椅子まで片づけられる。清掃そのものは珍しくないが、人が普段使う道より、空き地の脇や石柱の奥が丁寧に掃かれていた。
「道あけの準備ですか」
竹箒を持った勝彦が頷いた。
「通るところはきれいにしないと」
「でも、ここは今、誰も通らない道ですよね」
「普段はね。上原さん、当日の夜は外へ出ないでくださいよ」
「何か危険があるんでしょうか」
「危ないと言うより、迷惑になることがあるんです」
勝彦は箒を立てかけ、若い頃の話を始めた。友人と酒を飲み、言いつけを馬鹿にして夜中に港まで歩こうとした。曲がり角で、昼間は空き地だった場所にぶつかったという。
「壁だと思って触ったら、木の戸みたいな感触で。叩いたら、向こうからも叩かれたんですよ」
「誰かがいたんですか」
「いたんでしょうね。怒ったような声がして、慌てて逃げました」
「その家はどこにあったんですか」
「家なんかなかったです。翌朝見に行っても、何もありませんでした」
酔って道を取り違えただけではないか。志帆はそう考えたが、勝彦の腕には今も、そのときささくれ立った板で切ったという細い傷跡が残っていた。
道あけの前日、カメたちの御嶽での拝みに同行した。女性は三人。カメのほかに七十代の二人がいる。森の入口から石段を上がり、小さな広場へ出る。奥には自然石を中心とした拝所があり、葉陰で昼間でも涼しかった。志帆は許可を得た位置から所作を記録した。三人は決まった順路を進み、神々への感謝と島の安寧を願うグイスを唱えた。言葉の区切りには緩やかな抑揚があり、芝居がかった節回しではなかった。
やがて三人は立ち上がり、広場の左へ移った。そこには目印になる石も木もない。一人が何もない空間へ深く頭を下げ、カメが短いグイスを唱える。そして、あの沈黙が訪れた。
志帆は耳を澄ませた。葉が擦れ、鳥が鳴き、遠くで枝が折れる音がする。沈黙のさなか、誰かがすぐ横に立ったような感覚があった。見ても誰もいない。ただ落葉が一枚、ゆっくり裏返った。カメが唱えを再開すると、気配は薄れた。
祭祀が終わってから、志帆は先ほどの場所について尋ねた。
「あそこも拝所なんですか」
「そうだよ」
「名前は?」
「ないよ。母ちゃんも呼んでなかった」
「真ん中に何かあるんでしょうか」
「行ったらいけないって教わったよ。邪魔になるから」
何の邪魔になるのか、志帆は聞かなかった。答えを知らないカメに繰り返し問うても、無理に理屈を作らせるだけだと思った。
その夜、早苗は翌日の夕食を早めに用意すると言った。
「日が落ちたら戸を閉めて、部屋で普通にしていればいいから」
「もし誰かがいたら?」
「知ってる人でも外にいるなら放っておきなさい。道をあける日だからさ」
志帆は調査報告書の古い写しを読み返した。『当夜、島民ハ道路ヲ避ケ、各戸ニテ静粛ニ過ゴス。道ヲ空ケ置ク理由ニツキ、古老ハ往来ヲ妨ゲヌ為ナリト語ル。』誰の往来なのか、やはり説明はない。寝入りばな、外で木箱を引きずるような音がした。翌朝、石柱の奥には、前日に掃いた地面を長く引っかいたような細い筋が残っていた。




