第二章 唱えの間
翌朝七時過ぎ、志帆は金城カメの家を訪ねた。引き戸は開いており、奥から鍋の蓋を置く音がする。声をかけると、白髪をきちんと結った女性が台所から現れた。八十四歳とは思えないほど足取りが軽い。
「上原さんね。ご飯は食べた?」
「はい。民宿でいただきました」
「じゃあ、お茶だけ飲んでいきなさい。拝みはもう終わったよ」
座敷には大きな仏壇があり、その脇に家族写真が並んでいた。ヒヌカンは台所に祀られている。志帆がグイスの採録について説明すると、カメは笑った。
「あんなもの、聞いても面白くないよ。昔の人が言ってたことを言ってるだけ。意味を聞かれても分からんのがあるさ」
「その言葉が、どう受け継がれているか知りたいんです」
「そうねえ。じゃあ、いつものをやってみようか」
志帆は録音の許可を取り、台所の棚に機材を置いた。カメは供えた水を整え、ヒヌカンの前に立って手を合わせる。低くかすれた声が、息の流れに沿って続いた。神々への呼びかけ、今日を迎えられたことへの感謝、家族の健康と出入りの無事。聞き取れない古い表現は混じるものの、内容は日々の暮らしを守ってほしいという祈りだった。
不意に、声が止まった。
カメは手を合わせたまま動かない。志帆は録音機の赤いランプを確かめた。五秒、十秒。やがてカメがわずかに頭を傾け、再び唱え始めた。その後は途切れず、静かに祈りが終わる。
「ありがとうございました。一つ伺ってもいいですか。途中で黙っていらっしゃいましたよね」
「ああ、あれね」
「何か意味があるんでしょうか」
「母ちゃんもやってたから、私もそうしてる」
「誰かの返事を待っているように見えました」
カメは少し考え、頷いた。
「そう言われたら、そうかもしれんね」
「返事があるんですか」
「聞こえたことはないよ」
聞こえない返事を待つことに、カメは何の不思議も感じていないらしかった。志帆は、意味を忘れた所作だけが残ったのだろうと考えた。しかし、沈黙の長さまで決まっているのは興味深い。
昼前、カメは古い歌を二つ披露した。一つは農作業に関するもので、もう一つは御嶽の祭祀で歌ったというものだった。後者は短い節を歌うたびに間が入る。カメは唇を閉じ、次の声を待つように耳を澄ませた。
「そこも昔から止まるんですか」
「そこは待たんといけない」
「何を待つんでしょう」
「次の歌さ。次を歌わんと終わらんでしょう」
一人で歌っているのに、次の歌を待つ。かつて掛け合いだった形式の片方が失われた可能性がある。志帆はノートにそう記した。採録した古謡とグイスは別の性格のものだが、両方に同じような間があることは覚えておきたかった。
午後、宿に戻って録音を確認した。カメの息遣い、衣擦れ、遠くの鶏の声。音質は良好だった。問題の箇所で再生を止め、もう一度聞く。カメが黙ったあと、微かな音が混じっている。誰かが息を吸っているようでもあり、布が擦れるようでもあった。録音機は棚の上、志帆は少し離れた場所にいた。カメも動いていないはずである。
波形を拡大してみると、雑音は沈黙のほぼ中央で始まり、カメが唱えを再開する直前に消えていた。志帆は『十八秒の休止。微弱な呼吸様の音あり。機材由来の可能性』と記録した。異常を見つけたい気持ちに引きずられてはいけない。調査では、分からないものを分からないまま残すことも必要だった。
夕食のとき早苗に話すと、彼女は味噌汁をよそいながら笑った。
「古い家だから、何か入ったんじゃない? カメおばあ、独り言も多いよ」
「唱えの間に声を聞くことはないんでしょうか」
「私は聞いたことないねえ。でも、道あけの日には、知らん人に呼ばれても返事しないほうがいいよ」
「どうしてですか」
「知らない人だからさ」
あまりに当然の答えだったので、志帆は笑うべきか迷った。早苗はもう翌朝の天気の話をしていた。
夜、志帆はイヤホンで沈黙の部分だけを聞き直した。布が擦れ、何かが小さく喉を鳴らしたように聞こえる。耳を外すと、宿の外で砂を踏む音がした。窓を開けたが、街灯の下には誰もいない。しばらくするともう一度、道を歩く足音がした。




