第一章 誰も通らない道
渡名瀬島へ向かう船は、午前九時に港を出た。十月も終わるというのに、日差しはまだ強い。潮風に髪が乱れるのを、上原志帆は片手で押さえた。沖縄本島を離れて一時間ほどすると、水平線の上に低い雲がかかり、その下から緑の島影が現れた。あれが渡名瀬島らしい。海の真ん中に、ぽつんと置かれた岩のようだった。
島を訪れるのは初めてだった。県内の民俗資料を扱う調査員として働き始めて八年になる。渡名瀬島については、まとまった報告書がほとんどない。県立図書館には昭和三十年代の調査記録が残されているが、そのなかには古謡の詞章が数篇と祭祀についての簡単な説明があるだけだった。その中の一文が志帆の目を引いた。
『旧八月某日、婦人三名、拝所ニテ唱言ヲナス。唱言ノ中途ニ長キ間アリ。意味未詳。』
唱えの途中に長い間がある。調査者は理由を記しておらず、録音も見つからなかった。今回の調査は、グイスと古謡を採録する。ついでに、この「間」が何なのかも聞いてみたい。資料には祭日も正確に書かれておらず、志帆はまず古老への聞き取りから調査を始めるつもりでいた。
港には数人の島民が待っていた。荷物を受け取る男性、買い物袋を提げた女性。眺めていると、その脇に停まった白い軽トラックから小柄な女性が手を振った。
「上原さんねえ。比嘉早苗です。船、揺れなかった?」
「大丈夫でした。お世話になります」
「こんな何もないところまで、よく来たねえ。荷物、後ろに載せて」
民宿までは車で五分もかからなかった。島の道の両側にはフクギの屋敷林が続き、低い石垣の向こうに赤瓦とセメント瓦の家が並んでいた。アルミサッシの窓、軒下の洗濯物、ブロック塀に並ぶ植木鉢…どれも沖縄の古い集落では珍しくない風景だ。しかし、道がやけに広かった。車が通るにも十分すぎる幅があるし、舗装の両側にはさらに人が歩けるほどの余地が残されている。路肩には古い石畳がのぞいていた。
「昔は大きな集落だったんですか」
「今よりは人がいたと思うけど、戦前でも二百人くらいじゃないかな」
「道が広いので、何か理由があるのかと」
「広いかな。普通じゃない?」
早苗はフロントガラスの向こうを見て、さほど気にせずハンドルを切った。道は小さな空き地の前で不自然に大きく膨らみ、やがてまた狭くなった。空き地の奥には石柱が二本立ち、家の入口のような空間があったが、門も建物も見えない。
案内された民宿は平屋の住宅を改装したもので、客室は二つだけだった。志帆の部屋には机と古い籐椅子があり、窓を開けるとフクギの葉越しに海が見えた。冷蔵庫には冷たいさんぴん茶が一本入っている。机に録音機とノートを置いたところで、早苗が昼食に呼びに来た。
三枚肉の載った沖縄そばを食べながら、翌日の聞き取りの段取りを確かめた。
「カメおばあには話してあるよ。明日の朝、拝みが済んだ頃に行ったらいいって。御願の途中に知らん人がいると落ち着かんだろうからね」
「グイスも聞かせていただけそうですか」
「本人がいいって言えばね。あの人は昔の唱えをよく覚えているさ」
早苗は箸を置き、何か思い出したように手を打った。
「そうそう、再来週は道あけがあるよ。上原さん、その前に帰るんだったね?」
「道あけ、ですか」
「旧暦の行事。夕方から道を歩かないだけ。大したことじゃないよ」
「何か祭祀があるんですか」
「カメおばあたちが拝むくらいかな。せっかくだから見ていけばいいのに」
「何のために道をあけるんでしょう」
早苗は笑った。
「それを調べに来たんじゃないの?」
午後、志帆は集落を歩いた。港からの道は集落の中央で二手に分かれ、一方は御嶽の森へ、もう一方は畑を抜けて北へ続いていた。空き家は多いが、庭の草が刈られたところもあり、人の手が完全に途絶えてはいない。志帆の足が止まったのは、家ではなく空き地の前だった。
石垣で囲まれた土地に雑草はほとんどなく、地面は掃き清められていた。入口の石柱の間から奥へ踏み跡が続く。屋敷跡なら井戸や基礎の痕跡があってもよさそうだが、目につくものはない。そこへ自転車を押した老人が通りかかった。
「そこ、何もないよ」
「昔は何があった場所ですか」
「何もないさ」
「ずっと空き地なんですか」
「そうだねえ。昔から、そこには何も建てんよ」
「御嶽か何かでしょうか」
「御嶽は上の森。ここは普通の場所」
老人はそう言って歩き出した。道には十分な幅があるのに、石柱の前だけ自転車を反対側へ寄せ、大きく迂回した。志帆はその後ろ姿を見送り、石柱の間を覗いた。通り抜けられそうな踏み跡の先には低い石垣があり、その向こうは別の屋敷になっている。
何のための入口なのだろう。
一歩踏み出しかけたとき、小石が転がる音がした。志帆は足を止めた。誰かが砂を踏んだようだったが、猫も人もいない。しばらく待ってから引き返すと、背後でもう一度、小石が鳴った。今度はすぐ後ろを誰かが歩き始めたように聞こえた。




