35 天気
七月十五日・火曜日。
酒屋〈こおりやま〉。
なんとか安定してきたので、もともと大滝守道がアルバイトとして働いていた酒屋〈こおりやま〉で自分も働くことになった。
店主の氷山三郎と、もうひとり茅野恵理子という女がいて、その女はどうやら話を聞くに、かつて大滝守道に救われたことがあるらしい。
ドメスティック・バイオレンスの被害者で、娘はいつもストレス発散のためのおもちゃになっていたらしい。いつものようにやられていると、そこに彼が突然現れたのだと言う。
彼は娘の顔の怪我も自分の怪我も治してみせたと言う。
「彼は、私だけじゃなくて、あの娘の恩人なんです。ヒーローなんです。……彼のお知り合いなんですよね、元気ですか?」
「……たぶん、ずっと元気がない人だから……」
大滝守道を知る人は、みんな彼を善良な人間だと言った。
望月牧場の望月小夜も、彼に救われたことがあるのだと言う。みんな、何かしらのかたちで彼のことを高く評価している。
(それじゃあ、なんで誰ひとり彼のことを救おうとしないんだろう)
唯一いるとすれば、妹の明子だが、彼女は大滝守道が張っている壁を乗り越えることができないらしく、時折彼女の部屋からは泣くのを押し殺す声が聞こえる。
彼はおそらく正常な判断を奪われている状態にあるのだと思う。
心とか、頭とかの病気なのだろう、と思う。
「彼は元気か?」とみんな言うが、なぜもっと強く彼を想わないのだろう、と……そんなふうに思ってしまう。
「おっ、こりゃまたやってるぜ」
三郎が言う。
彼の方を向いてみると、どうやら新聞らしい。覗き見てみれば、彼のオートバイクと港の写真と、ヘルメットで顔を隠した彼の姿があり、どうやら久慈市で起こった海難事故で船の乗員三名を単独で救い出したらしい。
おそらく疲れていたのだろう、逃げ切れずに記者からのインタビューに応じており、「やるべきことをしただけ」と答えていた。
〝青年は自らの名を明かさず、颯爽と去っていきました〟
「…………オヤジさんは、心配じゃないんですか」
「心配だよ」
「もっと心配してやれないんですか」
「してるさ。お前が思ってるよりずっと心配してる。けれも、心配してもあいつにはわからない。あいつが人助けをして怪我をするたびに、もしかしたら死んじゃうんじゃないかって怖かったし、あいつが酒瓶を二つ持ち上げるので精一杯だって感じの非力さをみるたびに、『そんな貧弱な身体でなにができるんだ』って言いたかったさ。けどね、あいつ動いちまうし、ぜったいに助けちまうから、もう俺が思ってる以上の心配はせんのよ」
三郎は「あいつが生きてるってわかってりゃ俺は十分だよ」と言う。
「俺は、そうは思えません。彼にはそろそろ安心してちゃんとした人間として生きてほしいと思います。ちゃんと誰か一人だけを愛して、人らしく生きてほしいと思います。彼はずっと死にたがってます。けど、死ぬ勇気がないから生きてるだけです。生きてるうちは人を救っていようと決めてるだけです。じゃあ、俺は人を救わなくてもいいから生きてほしいと思うだけです」
「ちゃんと届けなさいよ、その思いは。ちなみにその想いは四文字にまとめられる」
「俺はそんなに軽い人間ですか?」
「この世で最も愛おしい四文字さ」
三郎はからからと笑って、新聞の記事を切り抜いていた。




