見過ごせないので
朝から妙だった。
落ち着かないのは、もう昨日今日の話ではない。ここ数日ずっと、胸の奥のどこかが静かにざわついている。問題は、今日はそれが自分の中だけで済んでいない気がすることだった。
廊下ですれ違う使用人たちの応対が、ほんの少しだけ整いすぎている。丁寧なのはいつものことだ。けれど、いつもより半歩だけ慎重というか、言いかけてやめる気配が混じるというか、どうにも落ち着かない。自意識過剰だと言われればそれまでだが、嫌な勘だけはやけによく当たる。
「……何か、変じゃないか」
独り言のつもりで呟いたのに、背後から返事が落ちてきた。
「ようやくお気づきですか」
振り返ると、案の定シオンが立っていた。今日も隙がなくて腹が立つ。
「おまえ、毎回そこにいるな」
「失礼ですね。常に後ろに控えているわけではありません」
「常にいないなら、なんでこう毎回ぴったりなんだよ」
「運がいいのでしょう」
絶対違う。だが、そこを詰めてもどうせろくな答えは返ってこない。
ノアは息をつき、声を落とした。
「やっぱり、変なんだな」
「少し目立ちすぎでは、とは思っておりました」
その言葉に、ノアは顔をしかめる。
「……何が」
「ご自身でお考えください」
「嫌な言い方するなあ」
「親切に申し上げるなら、見ておられる方は思った以上に見ておられます、ですかね」
それは親切なのか。たぶん、シオンなりには親切なのだろう。そう思うと余計に腹が立つ。
ノアは視線を逸らした。
「別に、変なことした覚えはないけど」
「そう思っておられるのは、ご本人だけかもしれませんよ」
「おまえ今日ちょっと刺しすぎじゃない?」
「本日はまだ控えめです」
控えめでこれか。先が思いやられる。
シオンはノアの顔を一瞥してから、何でもないことのように続けた。
「それと、昨日の件ですが」
「……ああ」
「整理が一歩進みました」
その言い方でろくでもないとわかるのが嫌だった。
「どんなふうに」
「北棟の補助役が一部替わります。茶会まわりで動いていた者も、何人か位置をずらされるでしょう」
「それ、結局」
「ええ。誰かに寄せて済ませる形です」
あっさり言われて、ノアは口をつぐむ。
予想していなかったわけではない。前からそういう方向へ進んでいる気配はあった。けれど、気配で済んでいたものが、こうして具体的な形で示されると、急に腹の底が冷える。
「……誰が」
「そこまで知って、どうなさるおつもりですか」
先にそう返されてしまうと、言葉に詰まる。
どうするつもりなのか。正直、自分でもまだわからない。ただ、知りたくなかったわけではない。知らないふりで済ませられるならそのほうが楽なのに、そういうことばかり気になってしまう。
シオンは小さく息をついた。
「これ以上、妙な火種を増やさないでください」
「増やすつもりはないよ」
「結果として増える場合もあります」
「おまえそれ、だいぶ俺を信用してないよな」
「行動の一貫性については、十分に信用しております」
「それ絶対褒めてない」
「ええ、もちろん」
清々しいくらいにはっきりしている。
ノアは返事もできずに黙り込んだ。自分の行動が面倒を呼ぶことくらい、もう否定しきれない。けれど、面倒になるからという理由で、目の前の理不尽を見なかったことにできるほど器用でもなかった。
そのまま廊下を歩く。戻ったところで落ち着ける気もしない。
角を曲がった先で、ふと見覚えのある後ろ姿が目に入った。淡い色のドレス。整った立ち姿。人目のある場所でも、どこか張りつめた静けさをまとっている。
リリアだった。
今日は一人ではなく、傍らに侍女が控えている。その侍女の顔を見て、ノアは足を止めた。見覚えがある。たしか昨日まで、もっと近くで動いていたはずの顔だ。今は少し離れた位置に立っていて、立ち位置そのものが変わっているように見える。
リリアがこちらに気づく。目が合ったあと、ほんの少しだけ間があった。
「……こんにちは」
先に口を開くと、リリアは静かに一礼した。
「こんにちは、ノア様」
以前より自然に交わせる挨拶のはずなのに、胸の奥は相変わらず落ち着かない。
ノアは視線を侍女へ向け、それからリリアに戻した。
「ご存じなんですね」
リリアはそれだけで意味を察したらしい。表情を崩さず、けれどごくわずかに目元を曇らせた。
「ええ」
「やっぱり、動いたんだ」
「動かした、というほうが近いかもしれません」
その言い方が、思っていたよりずっと重かった。
侍女が空気を読んだように一礼して下がる。二人きりとまではいかないが、少しだけ声を落とせる距離が生まれた。
リリアは回廊の先へ目をやったまま言った。
「目立たないところへ押し込めれば、穏便に済んだことになるのだそうです」
ノアの口から、考えるより先に言葉が出る。
「それでいいわけがないでしょう」
思ったより強い声になった。
リリアがこちらを見る。その目には驚きがあった。怯えや不快ではなく、本当に少し意外そうな色だった。
ノアは遅れて自覚して、少しだけ視線を逸らした。
「……いや、その、すみません。言い方が」
「いいえ」
リリアは首を振る。
「ただ、少し驚きました」
「呆れた、の間違いじゃなくて?」
「それでしたら、もう少し前の段階でそうなっております」
そう返されて、ノアは口をつぐむ。やっぱり、あの時のことは消えていないのだ。わかってはいたが、改めて言われると心臓に悪い。
リリアは続けた。
「皆、そのほうが円滑だと申します」
「円滑なら、誰が困ってもいいわけじゃない」
「ええ」
短い肯定だった。けれど、それだけで十分だった。
この人は本当に、同じところを見ている。
ノアは小さく息をついた。
「……それで、近くの人まで動かされたんですね」
リリアは少し黙った。
「わたくしの近くにいる者は、理由にされやすいのです」
それは、聞いていて気持ちのいい言葉ではなかった。自分が原因だと責めているわけでもない。諦めているわけでもない。ただ、何度も似たものを見てきた人の言い方だった。
ノアは思わず言う。
「そんなの、おかしいだろ」
「おかしいことが、そのまま通る場もございます」
「だからって」
そこから先をどう続けるか、少し迷う。勢いだけで言うのは違う気がした。立場も違う。ここで自分が正義感だけで騒いでも、リリアの助けになるとは限らない。
少しの沈黙のあと、リリアが静かに言った。
「どうして、そこまでなさるのですか」
その問いは、以前のものと少し似ていて、けれど今は違う響きを持っていた。試すような気配ではなく、確かめるような声だった。
ノアは息をつく。
ごまかせるならごまかしたい。けれど、こういう時に限ってうまい言葉が出ない。
「……見てしまった以上、見なかったことにはできないので」
それが結局、一番正しかった。
リリアは目を伏せる。長い睫毛が揺れて、それからほんのわずかに微笑んだようにも見えた。
「そういう方なのですね」
「そういう、って」
「見えてしまう方なのでしょう」
言われて、ノアは妙に言葉に詰まる。自分でもうまく名前をつけられなかったものを、そんなふうに言われると、なぜか少しだけ救われる気がした。
「……たぶん、そうです」
「それで、どうなさるおつもりですか」
また問われる。
今度は、さっきよりもはっきりと。
気にするだけではなく、どう動くのかを聞かれている。
そこまで来て、ようやくノアは、自分が分岐の前に立っていることを自覚した。
口を出す資格があるのかはわからない。出れば余計にこじれるかもしれない。リリアの立場を悪くする可能性だってある。そう考え始めると、やらないほうがましな理由はいくらでも浮かぶ。
でも、その全部を並べても、黙って見ている自分のほうがどうしても想像できなかった。
ノアは観念したように笑う。
「正直、どうするのが一番ましなのかは、まだわかりません」
リリアは何も言わず、続きを待った。
「でも、何もしないのはたぶん無理です」
その言葉に、リリアの目が静かに揺れた。
「……そうでしょうね」
否定しない。その一言で、背中を押された気がした。
ノアは一礼して、その場を離れた。歩きながら、頭の中はひどく騒がしい。やると決めたところで、何をどうするのかは別問題だ。勢いだけで進むには、相手の立場が重すぎる。
それでも、まっすぐ部屋へ戻る気にはなれなかった。
角を曲がった先に、ちょうどよく――いや、たぶんちょうどよすぎる位置に、シオンがいた。
「おまえさ」
「何でしょう」
「なんで毎回いるんだよ」
「必要とされる場に現れているだけです」
「自分で言うのか、それ」
「事実ですので」
本当に腹立たしい。
ノアは周囲を見て、人が遠いことを確かめてから、声を落とした。
「……ひとつ頼みがある」
シオンの眉がごくわずかに動く。
「頼まれる内容によっては、お断りしたいですね」
「頼む前からそれ言う?」
「経験則です」
経験則で断られるの、だいぶ不本意だ。
ノアは息を吸う。
「北棟の補助、急に替わっただろ」
「ええ」
「その理由が、昨日の件の後処理と無関係じゃないなら、少し確認したい」
シオンは無言でこちらを見る。その無言が嫌だ。ものすごく嫌だ。たぶん今、かなり面倒な顔をしている。
「……それで?」
「それで、もし押しつけで済まされてるなら、せめてそのままなかったことみたいにするのは違うだろ」
「違うでしょうね」
「おまえ、そう思うならもう少し協力的でもいいだろ」
「思うことと、巻き込まれることは別です」
ひどい言い分である。だが、シオンらしいといえばこれ以上なくらしい。
それでもノアは引かなかった。
「少しだけでいい」
「少しで済んだためしがありませんが」
「今回はたぶん、今までよりは少しだ」
「信用できません」
即答だった。
ノアは思わず額を押さえる。
「でも、頼む」
そこまで言うと、シオンは小さく息をついた。
「……本当に、引き返すおつもりがないのですね」
その問いに、ノアは少しだけ黙った。
最初からそのつもりだったわけじゃない。ほんの少し、気になっただけのはずだった。昨日より今日、今日より今のほうが、立ち位置はずっと前へ来ている。自分でもその速さにはついていけていない。
それでも、もう違うとは言えなかった。
「最初から、こうするつもりだったわけじゃない」
「存じております」
「でも、今さら何も知らない顔もできない」
「それも、存じております」
淡々と返しながら、シオンはほんのわずかに目を細めた。
「だから厄介なのですよ」
「協力してくれるのか、くれないのか、どっちだよ」
「内容次第です」
「十分前向きじゃないか、それ」
「不本意ですが」
シオンらしい。けれど、その不本意な前向きさに、ノアは少しだけ救われる。
短く打ち合わせをして別れたあと、ノアは回廊を一人で歩いた。足取りは軽くない。むしろ、やるべきことが一つ増えた分だけ現実味が増して、胃のあたりが重い。
それでも、不思議と後悔はしていなかった。
さっきのリリアの表情が残っている。
見えてしまう方なのでしょう、と言われた時の静かな声。
そして、どうなさるおつもりですか、と問われた時の目。
あれは責める目ではなかった。試す目でもなかった。たぶん、信じていいのかを確かめる目だった。
そこまで考えて、ノアはふと足を止める。
自分はいま、何をしたのだろう。
大したことではない。たぶん。まだ何かを変えたわけでもない。ただ一つ、見過ごさない側に立つと選んだだけだ。
でも、その“だけ”が、これまでとは少し違う。
気になったから見た。
見たから引っかかった。
引っかかったから言ってしまった。
ここまでは、半分くらい流されてきた気もする。
けれど今回は、自分で選んだ。
その違いが、思っていたより重かった。
遠くで人の話し声がする。学院の朝は何も変わらない顔で続いていく。その中で、自分だけが少し場所を変えてしまったような気がした。
前なら、ここで引き返せたかもしれない。
けれどもう、たぶん無理だ。
見えてしまったものを、見なかったことにはできない。
そして今は、それだけではなく、自分でその側へ立つと決めてしまったのだから。




