見なかったことにはできない
朝から落ち着かなかった。
理由はわかっている。わかっているからこそ、できれば考えたくなかった。昨日、あの渡り廊下で自分が何を言ったのかを思い出すたびに、胸のあたりが妙にざわつく。気になる、では足りない、などと、どうしてあんな言い方をしたのか。いや、したかったわけではない。たぶん。たぶんではあるが。
しかも最悪なことに、今日は屋敷の空気まで変に静かだった。
誰も騒いではいない。足音も、挨拶も、いつも通りに整っている。けれど、何も起きていない顔をしている時ほど、だいたい何か起きている。昨日の茶会での小さな綻びが、目に見えないところでまだ尾を引いているのだと、そんなふうに思わせる静けさだった。
廊下を曲がったところで、侍女とすれ違う。
彼女はきれいに一礼した。仕草に乱れはない。けれどその肩だけが、ほんのわずかに強ばっているのを見てしまった。疲れている、というより、何かをこぼさないように踏ん張っているような強ばり方だった。
少し通り過ぎてから、結局ノアは足を止める。
見なかったことにできるなら、そのほうが楽だ。わざわざ厄介ごとへ顔を突っ込む理由もない。ないはずなのに、見てしまった以上、何もなかったことにはしにくい。
振り返って声をかけた。
「……大丈夫ですか」
侍女は一瞬だけ目を見開き、それからすぐに整った顔をつくった。
「はい、何も問題ございません」
その返しがもう、問題がある時の言い方だろう、と思う。
ノアはそれ以上追及するつもりはなかった。ないのだが、黙って頷いて終わるほど器用でもない。
「少し、顔色が悪く見えたので」
「お気遣いなく。すぐに整いますので」
整いますので、という言葉が妙に引っかかった。
何が整うのか。表情か、持ち場か、それとも都合の悪い何かをなかったことにする段取りか。聞いても答えが返る気はしなかったし、そもそも返していい立場でもないのだろう。ただ、その場を離れていく背中を見送ることしかできない自分が、ひどく頼りなく思えた。
「また余計なことを考えている顔ですね」
背後から落ちてきた声に、ノアは肩を揺らした。
振り返るまでもなく誰かわかる。案の定、シオンが立っていた。朝から腹立たしいくらい隙のない顔である。
「おまえ、そういう登場の仕方やめろよ」
「お気に召しませんか」
「驚くんだよ」
「それは失礼いたしました。ですが、だいたい予想通りの反応ですので」
まったく悪びれない。こいつは本当に、心の底からこういうやつなのだと思う。
ノアは小さく息をついた。
「……昨日のこと、あれで終わったのか」
シオンは一拍置いた。
「表向きには」
その答えに、ノアは顔をしかめる。
「その言い方、嫌なんだけど」
「嫌でも現実ですので」
淡々と返される。
「給仕の件自体は、小さな不手際として処理されるでしょう。ですが、同じことが起きないようにと理由をつければ、配置や役回りの見直しくらいはいくらでもできます」
「要するに、別のところに皺寄せが行くってことか」
「そういうことです」
あっさり言うなよ、と思う。だが、あっさり言えるくらいには珍しくない話なのだろう。そう思うと、なおさら気分が悪かった。
ノアは先ほど去っていった侍女の背中を思い出す。
「……それで、ああいう顔してたのか」
「見抜いておられるのなら、知らないふりをなさるのが賢明ですよ」
「できたら苦労しない」
「でしょうね」
即答だった。
腹が立つのに、否定できないのがいちばん腹立たしい。
シオンはノアの顔を見て、わずかに目を細めた。
「昨日から、ずいぶん落ち着きがありませんね」
「うるさい」
「何が原因か、伺っても?」
「絶対聞きたいだけだろ」
「ええ、もちろん」
清々しいくらいにはっきりしている。ノアは無言になった。
まさか昨日の会話をそのまま言うわけにもいかない。言えるなら苦労しないし、そもそも言ったところでたぶんろくなことにならない。
「別に、何でもない」
「何でもない方は、そんな顔をなさいません」
「おまえ、ほんと嫌なこと言うよな」
「よく言われます」
「誰に」
「主に一名から」
しれっと返され、ノアは顔をしかめた。絶対わざとだろう、それ。
シオンはそれ以上は踏み込まず、代わりに視線だけで廊下の先を示した。
「関わるつもりがないのであれば、このままお部屋へ戻られるのがよろしいかと」
「……そうしたほうがいいのは、わかってる」
「理解はしておられるのですね」
「理解してても、できるとは限らないだろ」
そこまで言ってから、ノアは自分で嫌になった。
結局、もう答えは出ている。見てしまった時点で、たぶんこのまま引き返すことはできない。そういうところが面倒だし、そういうところが自分なのだとも思う。
シオンは小さくため息をついた。
「本当に、危なっかしい方だ」
「おまえまでそれ言うのかよ」
「本日何度目かは数えておりませんが、少なくとも初回ではありません」
数えてたら嫌だな、とノアは思った。
そのまま部屋へ戻るのも落ち着かず、ノアは結局、もう少しだけ廊下を歩くことにした。少し歩いたところで何かが変わるわけではない。わかっている。けれど、じっとしているよりはましだった。
中庭へ面した回廊のあたりで、見覚えのある姿が目に入る。
リリアだった。
一人ではない。侍女と短く言葉を交わしているところで、その顔はいつも通りに整っていた。けれど、やはり昨日までとまったく同じではないようにも見える。何が違うのかと問われると困るのだが、少なくともノアにはそう見えた。
侍女が去ったあと、リリアがこちらに気づく。
一瞬だけ目が合って、それからほんの少し、間があった。
「……こんにちは」
先に口を開いたのはノアだった。どうして挨拶ひとつで緊張しているのか、自分でもよくわからない。
リリアは微かに目元をやわらげる。
「ええ。こんにちは、ノア様」
ただそれだけのやりとりなのに、昨日までと同じでは済まない感じがしてしまう。たぶん向こうもまったく忘れてはいないのだろうし、こちらも忘れられるはずがない。
沈黙が長くなる前に、ノアは言った。
「さっき、侍女の方と話してましたよね」
「ええ、少しだけ」
「昨日のこと、ですか」
リリアは誤魔化さなかった。
「そうです」
あっさり認められて、逆に言葉に詰まる。
リリアは回廊の先へ視線を向けたまま、静かに続けた。
「大ごとにするつもりはありませんの。ただ、わたくしの知らないところで、済んだことにされたくはありませんので」
ノアはその言葉を反芻する。
済んだことにされたくない。まさに、さっきから自分がうまく言葉にできずに引っかかっていたものだった。
「……それは、俺も同じです」
思わずそう返すと、リリアがこちらを見る。
「ご覧になったのですね」
「少しだけ。でも、少しで十分でした」
言いながら、自分でも変な言い方だと思う。だが、ほかにうまく言えない。
リリアはわずかに息をついた。
「目立たないところへ押し込めば、何もなかったことになるわけではありません」
「そういうの、たぶん一番だめでしょう」
「ええ」
短い肯定だった。けれど、その一言が妙にうれしい。わかる、と思ってしまう。自分と同じものを、この人もちゃんと見ているのだとわかってしまう。
リリアは少しだけ表情を曇らせた。
「そのほうが円滑だと、そう判断されることもあります。誰かが少し役を替われば済む話だと」
「済ませ方の話をしてるんじゃないでしょう」
思ったより強い声が出た。
リリアが目を瞬く。しまった、と思ったが、引っ込めることもできない。
「……すみません。いや、その、言い方が強かった」
「いいえ」
リリアは首を振る。
「ただ、少し驚きました」
「呆れた、の間違いじゃなくて?」
「それでしたら、昨日の時点でもう少し早くにそうなっております」
そこへそんな返しが来るとは思わず、ノアは一瞬言葉を失った。昨日の時点、ということは、やはり忘れていないのだ。
リリアはほんのわずかに視線を伏せる。
「先日のお言葉、軽くは扱えませんでした」
ノアの胸がどくりと鳴る。
真正面からそんなことを言われるとは思わなかった。ありがたいような、困るような、どちらでもある。いや、たぶん両方だ。
「……それは、ありがたいような、困るような」
正直にそう言うと、リリアの口元が少しだけやわらいだ。
「どちらですの」
「両方、です」
「正直なのですね」
その一言に、妙に昨日を思い出す。嘘ではないのでしょうね、と聞かれた時のことまで一緒に蘇ってきて、ノアは視線を逸らしたくなった。
「正直っていうか、うまくごまかせないだけというか」
「それを正直と呼ぶ方もおられると思います」
「便利な言い換えですね」
「お嫌いですか」
「……嫌いではないです」
たぶん、その言い換えに救われている部分もある。
少しだけ、風が抜けた。回廊の外では冬の光が中庭の石畳を白く照らしている。静かな時間だった。静かなまま終わってくれればよかったのだが、そうもいかないらしい。
向こうから近づいてくる足音とともに、侍従らしい若い男が一礼した。
「ローゼンベルク様。先ほどの件ですが、当面は北棟の配置を一部替える形で整うこととなりました」
リリアの表情が変わる。驚きではない。予想していた報せを受けた時の、静かな硬さだった。
「そう」
「はい。表立って騒ぎにはなりませんので」
表立って騒ぎにはならない。つまり、目立たないところへ押し込まれたのだ。
ノアは思わず口を挟んでいた。
「そのほうが円滑なら、何でもいいわけじゃないでしょう」
侍従が困ったように目を伏せる。
「それは……」
「ノア様」
たしなめるでもなく、けれど止めるようにリリアが名を呼ぶ。
その声で、ノアは自分がどこまで踏み込んでいるのかをようやく思い出した。余計なことだ、と言われればそうだろう。口を出す立場でもない。けれど、こうして正しい整理みたいな顔で誰かの負担が増えるのを見ていると、どうにも黙っていられなかった。
リリアは侍従に向き直る。
「報告はわかりました。下がってください」
侍従が去っていくと、短い沈黙が落ちた。
やってしまった、と思う。昨日から本当にろくなことをしていない。いや、昨日からというか、たぶん元からだが。
「……すみません」
先にそう言うと、リリアはすぐには答えなかった。
やがて静かに言う。
「いいえ。お怒りになる理由は、わかります」
「でも、出しゃばりでしたよね」
「少し」
少し、で済むのかとノアは思う。だいぶ救われる言い方だが、あの人の“少し”はたぶん信用しきってはいけない。
リリアは続けた。
「けれど、見ておられるのですね」
その言葉に、ノアは顔を上げる。
「何をですか」
「目立たないところへ押し込められるものを」
それは、昨日よりもやわらかい声だった。責めていない。むしろ、どこか信頼に近いものが滲んでいる気がする。そんなふうに受け取っていいのかどうかはわからない。わからないが、少なくともただの物好きだとは思われていないらしい。
ノアは息をついた。
「見えてしまうんです」
それが答えとして正しいのかはわからない。けれど、それ以外の言い方もできなかった。
「見えてしまったら、見なかったことにはしにくいので」
リリアは一瞬だけ黙ったあと、小さく頷く。
「あなたがお気になさる理由が、少しわかった気がいたします」
その返しは、ひどく静かなのに、妙に胸へ残った。
少しわかった。少し。たぶんまた、その“少し”は少しではない。
「……それは、嬉しいです」
「ええ。わたくしも、たぶん」
最後の“たぶん”が、らしくない気がして、ノアは思わず彼女を見る。
リリアはそれ以上続けなかった。ただ、以前よりほんの少しだけやわらかい目をしていた。
そのあと別れの挨拶を交わして、ノアは回廊を戻った。足はちゃんと前へ進んでいるのに、心のほうはあまり進んでいる感じがしない。落ち着いたわけでもないし、むしろ前よりややこしくなっている気もする。
途中で、壁際に寄りかかるように立つシオンを見つけて、ノアは露骨に嫌そうな顔をした。
「何その顔」
「こちらの台詞ですが」
シオンは涼しい顔で返した。
「また何かおっしゃったのですか」
「また、って言うなよ」
「一度ならぬ前例がありますので」
ぐうの音も出ない。実に腹立たしい。
ノアは観念して視線を逸らした。
「……少し」
「その“少し”で済む顔には見えませんね」
「もうその言い方やめろよ」
「おや、図星でしたか」
ノアは返事をしなかった。できないというのが正しい。
見すぎたし、たぶん言いすぎた。しかもそれでもまだ、引き返せる気がしない。最初は少し気になるだけのつもりだったはずなのに、どうやら本当に、少しでは済まなくなっているらしい。
シオンはそんなノアを見て、呆れたように息をついた。
「本当に、危なっかしい方だ」
「……知ってるよ」
そう答えながら、ノアの頭に浮かんでいたのは、さっきのリリアの言葉だった。
あなたがお気になさる理由が、少しわかった気がいたします。
あれをどう受け取ればいいのか、まだよくわからない。わからないままなのに、胸の奥だけは妙に静かだった。たぶん、自分が見ているものを、彼女も軽んじなかったからだ。
前なら、気のせいだと言い聞かせて済ませられたかもしれない。
けれどもう、それで済ませるには、少し見すぎてしまった。




