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少しでは済まない

朝から妙に落ち着かなかった。


昨日の茶会のことなんて、もう終わった話だ。そう思うことにしたはずなのに、頭のどこかが勝手に昨日の談話室へ戻っていく。白い卓、銀の茶器、行き届いた笑顔。あの場で自分が言ってしまった余計な一言と、そのあとで向けられたリリアの視線まで、なぜか変に残っていた。


しかも今日は、屋敷の空気まで少しだけ妙だった。


表向きはいつも通りだ。廊下は静かだし、使用人たちも乱れてはいない。けれど、静かすぎる時のほうがむしろ何かある、というのはもう何となくわかり始めている。


「また余計なことを考えている顔ですね」


背後からシオンの声が落ちた。


ノアは振り返らずに言う。


「その言い方、だいぶ感じ悪いよな」


「事実確認です」


「便利だな、その台詞」


「重宝しております」


朝から腹が立つくらい通常運転である。


ノアは窓際から離れ、わざとらしく肩をすくめた。


「別に、何も考えてない」


「そう言う時のあなたは、だいたい何か考えています」


「決めつけが強いな」


「経験に基づく判断です」


そう返されると弱い。実績があるのが困る。


少し黙ってから、ノアは声を落とした。


「……昨日のこと、あれで終わったのか」


シオンは一拍だけ間を置いた。


「表向きには」


「表向き、って言い方がもう嫌なんだけど」


「嫌でも現実ですので」


淡々としている。けれど、完全に誤魔化すつもりもない声だった。


「給仕の件は、小さな不手際として整えられるでしょう。誰かが表に立って叱責されるほどではないはずです」


「はず、ってことは」


「別の形で責を負う者が出る可能性はあります」


それが聞きたくなかった。


ノアは顔をしかめる。


「それ、結局あんまり変わってなくないか」


「変わらないから面倒なのですよ」


シオンはいつもの調子で言いながら、わずかに視線を細めた。


「知らないふりができるなら、そのほうが賢い」


「できたら苦労しないだろ」


「でしょうね」


即答だった。腹が立つのに、否定できない。


見てしまった以上、何も見なかったことにはしにくい。そういうところが面倒だと、自分でも思う。しかも最悪なことに、昨日のあの件を気にしているのは自分だけではないらしかった。


「ローゼンベルク様も、少し動かれているようです」


ノアは思わず顔を上げる。


「……気にしてるのか」


「見ればわかります」


「便利だな、その言い方」


「気に入っていただけて何よりです」


気に入ってはいない。だが、その一言で余計に落ち着かなくなったのは確かだった。


自分の部屋へ戻る気にもなれず、ノアはあてもなく廊下を歩いた。歩いたところで何かが解決するわけでもない。けれど、じっとしているよりましだった。


学院の回廊は相変わらず白くて静かで、冬の光を薄く含んでいる。足音だけがやけに響く。その途中、温室へ続く渡り廊下の手前で、ふと見慣れた色が視界に入った。


淡い色のドレスだった。


リリアは窓際で侍女と短く言葉を交わしていた。侍女が一礼して去っていくのを見送ってから、彼女はこちらに気づく。


ほんの少しだけ驚いたように目を見開き、それから静かに微笑んだ。


「ノア様」


名前を呼ばれるだけで、なんでこうも心臓に悪いのかよくわからない。


「……こんにちは」


ぎりぎり変ではない返事が出た。たぶん。


リリアはそのままこちらへ歩み寄ってくる。近づいてくるだけで空気が少し整う感じがするの、ずるいなとノアは思う。


「お一人で?」


「ええ、まあ。少し歩いてただけで」


「そうでしたか」


それだけのことなのに、妙に会話が続いてしまう。昨日の茶会の時より、よほど近い気がした。


ノアは一度迷ってから、結局聞いた。


「昨日のこと……気にしてるんですか」


リリアは答える前に、ほんのわずかに視線を落とした。


「ええ」


否定しない。ごまかしもしない。


「大げさなことではありませんの。ただ、あのような場では、小さなことほど別の形で残ってしまいますから」


「やっぱり、誰かにしわ寄せが行くんですか」


「そうならないようにしたい、と思っております」


静かな声だった。怒っているわけでも、嘆いているわけでもない。ただ、本当にそう思っているのがわかる声だ。


「わたくしのために、誰かが責めを負うのは、あまり愉快ではありません」


ノアは返事をしそびれた。


そういうところだ、とまた思う。


きれいだから目を引かれるのではない。もちろんきれいではある。かなり。困るくらいに。けれど、それだけではなくて、この人はちゃんと、周りで切られそうになるものまで見ている。


たぶん自分は、そういうところにやられている。


リリアは窓の外へ一瞬だけ目をやり、続けた。


「婚約そのものより、その周りで失われるもののほうが、目につくこともあります」


「……それ、しんどくないですか」


思わず聞いてしまってから、踏み込みすぎたかと思う。


けれどリリアは不快そうにはしなかった。ただ少しだけ困ったように笑う。


「しんどい、という言い方は、あまり上品ではないかもしれませんね」


「じゃあ、言い換えます」


「何と?」


「たぶん、かなり嫌ですよね」


リリアは一拍置いて、ふっと目元をやわらげた。


「ええ。たぶん、かなり」


笑ったわけでもないのに、その返しだけで胸のあたりが妙に熱くなる。


まずいな、とノアは思った。だいぶまずい。


少しの沈黙のあと、リリアがこちらを見る。


「ノア様は、どうしてそこまで気にかけてくださるのですか」


不意打ちだった。


ノアは一瞬、言葉を失う。


「いや、それは」


「お優しいのですね」


リリアの声はやわらかい。責める響きはない。むしろ逃げ道を置いてくれているみたいですらある。


「きっと、どなたに対しても」


そう言われてしまえば、普通なら、そんなことはありませんよとか、たいした意味はありませんとか、適当に丸めるのが正しいのだろう。


でも、その“適当に丸める”が、自分にはいつも難しい。


ノアは少し視線を逸らし、それから諦めたみたいに息をついた。


「……どなたにでも、というわけではありません」


言った瞬間、自分で自分を殴りたくなった。


それ、もうだいぶ駄目ではないか。


リリアが静かにまばたきをする。


「そうなのですか」


「いや、その、違う、違わない……いや、違わないのか」


何を言っているんだ自分は。


引き返そうとするほど足場が崩れる。いつものやつだ。ごまかしたい時に限って、ごまかしのための言葉がうまく出てこない。


ノアは観念したみたいに言う。


「あなたが、そうしていると気になるんです」


リリアの睫毛がわずかに揺れた。


「そうしている、と申しますと」


「自分のことより、先に周りのことを気にするところとか」


そこまで言ってしまうと、もう止まらなかった。


「困ってるのが自分じゃなくても、見なかったことにしないところとか」


自分でも、ずいぶん見ているなと思う。見すぎだろ、ともう一人の自分が言っている。


それでも口は止まらない。


「……気になります」


一度そこで切ってしまってから、ノアは小さく付け足した。


「いや、気になる、では少し足りない気もしますけど」


終わった。


今ので終わった気がする。何がとは言わないが、たぶんいろいろ終わった。


しんとした、というほどではない。ただ、廊下に射し込む冬の日差しまで少し静かになった気がした。


リリアはすぐには何も言わなかった。少しだけ視線を伏せる。白い指先が、袖口に触れて止まる。


やがて彼女は、ほんの少し困ったように言った。


「あなたは……ずいぶん正直なのですね」


「そうでもないです」


反射で否定してから、ノアは自分で首をひねる。


「いや、そうでもあるのか……?」


「少なくとも、いまは」


リリアが顔を上げる。その頬に、ごくわずかに色が差しているように見えて、ノアは余計に困った。


「それは、嘘ではないのでしょうね」


その言い方に、胸の奥が変に詰まった。


たぶん、という逃げ方はできる。少しだけ曖昧にすることも、本来ならできるのかもしれない。けれど、ここでそれをすると、今言ったこと全部が軽くなる気がした。


だからノアは、結局頷くしかない。


「ええ。それは」


短く答えるだけで、十分だった。


リリアはまた少し黙ったあと、小さく息をついた。


「そういうことを、そんなふうにおっしゃってはだめです」


「だめですか」


「……困ります」


その言葉に、ノアはどうしていいかわからなくなる。


困る、の意味がひとつではない気がしたからだ。困惑なのか、迷惑なのか、それとも別の何かなのか、そこまでは読み切れない。


ただ、完全に退けられてはいない。それだけはわかった。


リリアは視線を外したまま言う。


「誰にでも、そのように言ってはなりませんよ」


「安心してください」


つい、口が先に動いた。


「そんな無謀なことを言う相手、多くないので」


言ってから、さらに自分で自分を追い詰めたと気づく。


リリアは目を丸くしたあと、今度こそ少しだけ笑った。困ったような、呆れたような、それでもやわらかな笑みだった。


「本当に、危なっかしい方ですね」


「よく言われます」


「どなたに?」


「主に一名から」


「それは、少しだけ同情いたします」


その一言が、なんだか妙にうれしかった。


遠くで足音がして、二人は同時にそちらを見る。人が来る気配だった。


リリアはすっと表情を整える。さっきまでのわずかな揺れが、きれいに衣の下へ隠れてしまう。その切り替えの鮮やかさに、ノアはまた胸の奥をざわつかせた。


「では、わたくしはこれで」


「……はい」


「ノア様」


呼び止められて顔を上げる。


リリアは少しだけ迷ってから言った。


「先ほどのお言葉は……忘れないでおきます」


それだけ言って、彼女は一礼した。去っていく後ろ姿を見送るしかできない。


忘れないでおく、って何だ。肯定なのか保留なのか、こっちに判断を投げないでほしい。いや、投げてはいないのかもしれない。わからない。わからないけど、たぶん今日はもう駄目だ。


「その顔は、ろくなことをしていませんね」


背後から落ちてきた声に、ノアはびくっとした。


振り返れば、案の定シオンが立っている。いつからいたんだ、と聞いてもたぶんろくな答えは返ってこない顔だった。


「盗み聞きしてた?」


「人聞きの悪いことを。たまたま通りかかっただけです」


「絶対嘘だろ」


「そう思われるのは心外ですね」


ノアは無言になった。こいつの場合は、嘘っぽく聞こえる真実の可能性もあるから余計に困る。


シオンは一歩近づき、じっとこちらを見る。


「何を言ったんですか」


「別に何も」


「何も隠していない人間ほど、そういう言い方はしませんよ」


刺さる。


ノアは顔をしかめた。


「おまえ、そういうとこほんと嫌だな」


「よく言われます」


「誰に?」


「主に一名から」


さっきの会話を雑に返されている。腹立つな、こいつ。


シオンはため息をついた。


「少なくとも、余計なことを口走った顔はしています」


「口走ってはない」


「では?」


「……少し、正直だっただけで」


言った瞬間、シオンの眉がごくわずかに動く。


「その“少し”で済む顔には見えませんが」


「うるさい」


「否定はなさらないのですね」


「できないんだよ、そういうの」


半分、独り言みたいな声になった。


シオンはそれ以上追及しなかった。ただ、いつもより少しだけ静かな目でこちらを見る。


「本当に、危なっかしい方だ」


「おまえまでそれ言うのかよ」


「本日だけで二度目なら、少しは重く受け取ってください」


重く受け取っている。受け取りすぎて困っている。


ノアは回廊の先へ視線をやった。もうそこにリリアの姿はない。それなのに、さっきの「忘れないでおきます」だけが妙に残っている。


外野のままでいるつもりだった。


昨日までは、たぶん本当にそのつもりだったのだ。


なのに今はもう、そう言い張るには少し無理がある。

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