ぎりぎり及第点
茶会に出ると聞いた時点で、嫌な予感しかしなかった。
しかも学院内の小さな集まりだという。
小さい、の定義がおかしいのはもう知っている。ここではたぶん「王宮の大広間ではない」くらいの意味だ。自分の知っている“ちょっとしたお茶”とは、まるで違うに決まっている。
朝からやけに整った服を出され、髪までいつもより丁寧に整えられて、ノアは鏡の前でひどく嫌そうな顔をした。
「顔が終わってます」
背後からシオンが言う。
「おまえ、朝の一言目がそれなの感じ悪いな」
「正確には二言目です」
「今そういう訂正いらないだろ」
「今日は拾わないでください」
「脈絡が雑なんだよな」
シオンは鏡越しのノアを見たまま、表情も変えずに続けた。
「余計なことを言わない」
「呼ばれたら遅れず応じる」
「困っているものを見つけても、まず場を優先する」
「最後のだけ無理そうなんだけど」
「でしょうね」
でしょうね、で済ませるな。
最初から信用していない顔をしながら、きっちり服の襟元だけ整えてくるのが腹立たしい。
「一応聞くけど、断れないんだよな」
「ええ」
「だと思った」
「フェルネス家の傍系として、顔を出すくらいはしていただかないと困ります」
「便利だよな、その“傍系”」
「いまのあなたほどではありません」
「褒められてないよな」
「ええ、まったく」
言い切られるとそれはそれで少し傷つく。
通されたのは、中庭に面した小さな談話室だった。
温室へ続くガラス戸が片側に並び、もう片側には淡い色の花がいくつも飾られている。白いクロスのかかった丸い卓、銀の茶器、小ぶりな菓子皿。どれも華美ではないのに、いちいち育ちの良さがにじんでいる。
小さな茶会、というのは本当なのだろう。
参加しているのは十数人ほどで、学院全体の行事に比べればかなり少ないに違いない。
でも、ノアには十分しんどかった。
「これ、ほんとに“小さい”のか?」
「ええ。大きくはありません」
「十分息苦しいんだけど」
「ご安心を。すぐ慣れます」
「慣れたくないんだよな」
周囲では、静かな声で挨拶が交わされていた。
笑顔もある。けれど、どの笑顔にもちゃんと“誰に向けたものか”がある感じがして落ち着かない。適当にへらっとしていれば何とかなる世界ではないのが、空気だけでよくわかる。
ノアはシオンの半歩後ろに立ちながら、できるだけ余計なところを見ないようにしていた。
見ないようにしても、見えてしまうものはある。誰が誰に先に頭を下げるか、どの名前に周囲が少しだけ反応するか、そういう細かいことが嫌でも目に入る。
「学校っていうか、息をするのにも順番がありそうなんだけど」
「だいたい合っています」
「合ってるのかよ」
「ですから、黙っていてください」
その時、室内の空気がほんの少しだけ動いた。
人の出入りがあっただけだ。
なのに視線の流れが変わる。さっきまで散っていたものが、静かにひとところへ集まる感じがした。
ノアはそちらを見て、言葉を失った。
リリアだった。
昨日までに何度か会っている。
中庭で見て、近くで話して、笑うところまで知っている。もう見慣れたはずだと思っていたのに、こういう場に現れた彼女は、昨日までとは少し違って見えた。
整えられた髪はいつもより光を受けて、蜂蜜色よりもう少し淡い色に見える。淡い色のドレスは華やかすぎないのに、周囲の空気ごと静かにまとめてしまうみたいだった。白い肌も、伏せられた睫毛も、やわらかな口元も、全部がちゃんと侯爵令嬢のものだった。
知っている顔のはずなのに、昨日までよりずっと遠くて、きれいだった。
「見すぎです」
横からシオンの声が飛んできて、ノアははっとする。
「見てない」
「ええ。苦しい言い訳ですね」
「おまえ、今ちょっと楽しんでるだろ」
「まさか」
まさか、の顔じゃないんだよな。
リリアは年長の侍女をひとり従えていた。
その侍女もきちんとしている。けれど、ノアはつい別のところを見てしまう。昨日のことがあるからだろう。誰がどこで戸惑っているのか、前より少しだけ目につくようになってしまった。
そして、もう一人いた。
セドリックだ。
彼はこういう場に、本当によく馴染んでいた。
むしろ、この場そのものが彼に合わせて整っているようにさえ見える。誰に声をかけるべきか、どこで笑うべきか、どのくらいの距離で立つべきか、その全部を最初から知っている人の動きだった。
外から見れば、本当に理想的な婚約者にしか見えない。
だから余計に厄介なんだよな、と思う。
「顔に出ています」
「限度があるだろ」
「限度の問題ではありません」
シオンが補足になっているようでなっていない。
茶会は穏やかに始まった。
学院内の小さな顔合わせらしく、話題は季節の花だとか、近いうちの講義だとか、地方の屋敷の空模様だとか、当たり障りのないものばかりだ。けれどその当たり障りのなさの中に、ちゃんと立場の確認と見定めが混ざっているのがわかる。
ノアはできるだけ無難に頷き、無難に茶器を持ち、無難にそこにいる努力をしていた。
それだけでちょっと疲れる。
そんな時だった。
給仕に入っていた若い侍女が、茶器を置く順番でほんのわずかに迷った。
たったそれだけのことだ。たぶん、何も知らない人なら気づかない。
でも、リリアの手元に置く前に、彼女は一瞬だけ別の卓へ視線をやった。迷いがあったのがわかる。
しかもその迷い方が、昨日聞いた“配置が変わった”という話を思い出させた。
あ、とノアは思う。
まずい、たぶんそれはまずい。
リリアも気づいたらしかった。
視線だけがそちらへ向く。けれど本人が動けば、それはそれで場に波が立つ。
考えるより先に、ノアの口が動いていた。
「そっちじゃなくて、たぶん順番が逆です」
しん、とまではいかない。
けれど、その周辺の空気が一瞬だけ薄く止まる。
侍女が固まる。
自分でも言ってしまったあとで、あ、これやったかもしれないと思う。人前の場で目立つなと言われた直後である。
ノアはすぐに少し声を落とした。
「いや、違ったらすみません。でも、そのままだとたぶん不自然で」
「フェルネス家では、その順で教わりますので」
間髪を入れず、シオンが横から補った。
完璧にフォローだ。
こいつ絶対、最初から動く気で見てたな。
若い侍女は慌てて一礼し、手元を直す。
今度は正しい順で茶器が置かれ、場はぎりぎり乱れずに済んだ。
会話は再開した。
何事もなかった顔で。こういう場はたぶん、そういうふうにできている。
ノアはじわっと変な汗が出るのを感じながら、なるべく無表情を装った。
無理がある気はする。
その時、視線を感じる。
顔を上げると、リリアがこちらを見ていた。
ほんの一瞬だけ。
でも、その目はちゃんと礼を言っていた。
たぶん気のせいじゃない。
茶会が終わるまでの残り時間は、やけに長く感じた。
ノアはそれ以上何もしないと固く決めて、決めたまま二、三度シオンに「まだ何かする気ですか」みたいな目で見られた。心外である。
ようやくお開きになり、人の流れが少しずつほどけていく。
ノアはほっと息をつきかけたところで、背後から静かな声に呼び止められた。
「ノア様」
振り返る。
リリアだった。
近くで見ると、さっきまでの“場の中の侯爵令嬢”より少しだけやわらかい。けれど、まだ人のいる場所だからか、昨日の中庭ともまた少し違う顔をしている。
「先ほどは、助かりました」
「いや、たまたま見えただけです」
「それでも、見てくださったのでしょう」
昨日も似たようなことを言われた気がする。
でも、今日は人前の場を経ているぶんだけ、その一言が少し重く感じた。
「まあ……見えてしまったので」
「そういうところが」
「はい?」
「いえ」
リリアは小さく首を振って、それからほんの少しだけ笑った。
「昨日より、少しだけ頼もしく見えます」
「それ、昨日は頼りなかったってことですか」
「ええ。少し」
「そこは否定してくれないんですね」
「今は褒めています」
「基準が厳しいな……」
思わずそう返すと、リリアはまた小さく笑った。
その笑い方が昨日より自然で、ノアは妙に落ち着かなくなる。
知っている相手が笑っているだけなのに、なんでこうもいちいち胸のあたりがざわつくんだろう。
「本当に、ありがとうございました」
今度はさっきより真面目な声だった。
ノアは少し視線を逸らし、それから何とか頷く。
「……どういたしまして、で合ってるんですかね」
「たぶん、合っています」
また少し笑う。
その時点で、たぶん今日の自分はもうだいぶだめだな、とノアは思った。
背後から、ため息混じりの声が落ちる。
「……ぎりぎり及第点です」
振り返るまでもなくシオンだった。
「褒めるならもう少しちゃんと褒めろよ」
「本当にぎりぎりでしたので」
「そこを正直に言うな」
「事実ですので」
「便利だな、その台詞」
「重宝しております」
リリアがそれを見て少しだけ目をやわらげる。
シオンはきっちり一礼した。
「ローゼンベルク様」
「シオン。……お手数を」
「いえ。こちらこそ、うちの者が」
「うちの者?」
思わず口を挟むと、シオンは完全に聞こえていない顔をした。
絶対聞こえている。
リリアはそのやり取りを見て、またほんの少しだけ笑う。
それからノアに向き直った。
「また、お会いすることがありそうですね」
「……そうかもしれないです」
自分でも驚くくらい、まともな返事だった。
シオンが横でわずかに目を細める。なんだその顔。
リリアは侍女を連れて去っていく。
その後ろ姿を目で追いかけてしまってから、ノアは自分で少しうんざりした。
外野のままでいるつもりだった。
そのつもりなのに、たぶんもう、そう言うには少し無理がある。
「言っておきますが」
シオンが歩き出しながら言う。
「今日はかなり危なかったですよ」
「最後フォロー入れたのおまえだろ」
「ええ」
「じゃあちょっとは褒めろよ」
「ですから、ぎりぎり及第点です」
「厳しいな」
「あなたが毎回ぎりぎりだからです」
それは否定しづらい。
実際、今日の自分はだいぶ危なかった気がする。
しばらく歩いてから、ノアは小さく言った。
「……でも、あれ」
「はい」
「ほんとに、もう噂とかじゃないんだな」
「最初からそのつもりで動いていますよ、あちらは」
「困る人がいる」
「ええ」
シオンは珍しく、そこで曖昧にせず頷いた。
「だからこそ、ローゼンベルク様は止まっているのでしょう」
「知ってたのか」
「見ればわかります」
「便利だな、その言い方」
「気に入っていただけて何よりです」
気に入ってはいない。
でも、今日はその返しに少しだけ救われる気もした。
ノアは中庭の方を振り返る。
もうリリアの姿は見えない。なのに、さっきの「昨日より、少しだけ頼もしく見えます」が妙に残っている。
知っている顔のはずだった。
なのに、こういう場で見ると、思っていたよりずっと遠くて、きれいで、見てしまう。
それがちょっと、面倒だった。
「……ちゃんと面倒だな」
「ええ。ご愁傷様です」
「そこは否定しろよ」
「事実ですので」
ノアは深くため息をついた。
そのため息の中に、呆れと、居心地の悪さと、たぶん少しだけ、認めたくない何かが混ざっているのを、自分でもわかってしまう。




