受け入れなくていい
場は、何も起きなかったような顔のまま続いていた。
誰も声を荒らげない。誰も不快そうな顔をしない。先ほどまでのやりとりも、少しだけ立ち止まっただけのこととして、すでに表面はなめらかに整い直されている。そういう顔をされたまま、何かが決まりかけていく空気のほうが、ノアにはよほど息苦しかった。
リリアは静かに座っている。表情は崩れていない。背筋も、視線も、手元の置き方までいつも通りだ。
だからこそ、余計につらい。
さっきの言葉が、まだ耳の奥に残っている。
わたくしが受け入れれば済むことでしたら。
穏やかに収まるのでしたら、それで。
そんなふうに言わせて、それで終わらせるつもりなのか。
そう考えた瞬間、ノアの中で何かが、すっと冷えるように固まった。
進行役の男が、穏やかな声で続ける。
「では、そのように進めさせていただければと存じます」
別の者がやわらかく頷いた。
「ローゼンベルク様にも、異論はおありではないご様子ですので」
その一言が、引き金だった。
ノアは顔を上げる。
「それは、本人の意向として確認された話なんですか」
場が、一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
誰かが息を飲んだわけでも、あからさまに狼狽えたわけでもない。ただ、それまで自然に流れていたはずの会話が、初めて少しだけ引っかかった。磨かれた器の縁に、爪先が触れたみたいに。
進行役の男は、すぐに困ったような、それでいて礼を崩さない表情を浮かべた。
「……突然、どういうご趣旨でしょうか」
ノアは視線を逸らさなかった。
「切り離される側の意思は、どこで聞かれたんです」
今度は別の者が口を開く。
「もちろん、皆様にとってより良い形を考えてのことですが」
「“皆様”って、誰のことです」
言いながら、自分でも少し驚く。
こんなふうに声が出るとは思っていなかった。怒鳴っているわけではない。むしろ、ひどく静かだった。静かなまま、引きたくないところだけが固まっている感じだった。
何人かが、わずかに視線を交わす。
「ご懸念はもっともですが、今は全体の均衡を優先すべきかと」
「一時の感情で動かすべき話ではございませんので」
その言葉に、ノアは思わず笑いそうになった。
ひどく乾いた気分で。
感情。
いまここで“感情”という言葉を使うのか。
誰が切られ、誰が飲み込む役を引き受けるのかを、もうほとんど決めた顔で話している場が。
ノアは低く息を吐いた。
「感情で言ってるんじゃありません」
「では」
「確認もないまま整えるのを、穏当とは言わないと思っただけです」
室内の空気が、さらにほんの少しだけ変わる。
誰も怒らない。
誰も露骨に責めない。
それでも今、自分が場に対して明確に逆らう側へ足を踏み入れたのだと、ノアにはわかった。
横でシオンがごく小さく息をつく気配がした。止めに入るかと思ったが、まだ何も言わない。言わないまま、こちらの次の言葉を見ている気配だけがある。
そのとき、リリアが静かに口を開いた。
「もう結構です、ノア様」
その声に、ノアの胸が強く引かれる。
リリアはまっすぐこちらを見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく、ただ静かに止めようとする目だった。
「わたくしが受け入れれば済むことですので」
その一言で、ノアの中の最後のためらいが切れた。
済む。
また、その言葉だ。
ノアはリリアを見返す。
「あなたが受け入れるからって、それでいいことにはならないでしょう」
言ったあとで、室内の静けさが一段深くなった気がした。
周囲の視線が一度にこちらへ寄ったのがわかる。
でも、もう止まれなかった。
「飲み込める人にだけ飲み込ませて終わるなら、何も整ってない」
リリアの目が揺れる。
整った表情の奥に、一瞬だけ生の驚きが見えた。
誰かが、やわらかく咳払いをした。
「お気持ちはわかりますが」
「わかってないでしょう」
言葉が、思ったより先に出た。
しまった、と思う。
思ったが、引っ込めるにはもう遅い。
「穏やかに見えるように押し込めてるだけだ」
「ノア様」
今度のリリアの声は少しだけ強かった。
止めたいのだろう。これ以上目立たせたくないのだろう。自分がここで飲み込めば、少なくとも波は小さく済む。そう考えているのが、ノアには痛いほどわかる。
だから余計に、止まれない。
「それで終わるなら、また同じことが起きる」
誰に向けた言葉なのか、自分でも半分わからなかった。
場全体に向けてでもあり、リリアに向けてでもあり、そして自分に言い聞かせるようでもあった。
「受け入れられるほうにだけ受け入れさせて、それで皆のためって顔をするのは、おかしいでしょう」
今度こそ、場が揺れた。
露骨ではない。
けれど、今までと同じ速度では進めないのがわかる。
きれいな理屈の上に乗っていたものが、一度下ろされた感じがした。
そのタイミングで、シオンが静かに口を開いた。
「少なくとも、この場で即決すべき話ではないでしょう」
ノアは横目でシオンを見る。
シオンはいつも通りの、腹立たしいほど整った顔をしていた。
けれど今の一言は、確かにこちらを支えていた。
「確認不足のまま進めるには、少々論点が多すぎます」
進行役の男が、表情を崩さないまま答える。
「しかし、現時点での最善を」
「現時点での最善と、確認を省いてよいことは同義ではありません」
シオンの声もまた静かだった。
静かなまま、逃げ道だけをきれいに塞いでいく。
「ローゼンベルク様のご意向も、今一度確認されるべきかと」
その言葉に、さすがに場が無視できなくなる。
少しの沈黙。
誰かが視線を伏せ、別の誰かが短く息をつく。
やがて進行役の男が、わずかに調子を整え直して言った。
「……では、本件は一度預からせていただきます」
それだけで、空気が少し変わった。
全部が覆ったわけじゃない。
配置変更の話も、人員整理の意向も、なくなったわけではない。
けれど少なくとも、さっきまでみたいに“リリアが頷いたから決まり”という形では進まなくなった。
小さい。
でもたしかに、小さく動いた。
会はそのまま、表向き何事もなかった顔で畳まれていった。
言葉遣いも、所作も、最後まで乱れない。
だからこそ、ノアには自分だけが場の輪郭を少し歪めてしまったように思えた。
人が静かに席を立っていく。
リリアもまた立ち上がる。
その一瞬、目が合った。
さっきまでとは違う目だった。
驚きと、戸惑いと、それ以上の何かが混じっている。
でもそれを読み切る前に、人の流れが二人のあいだへ入り込んだ。
場が完全に解けたあと、回廊のほうへ出たところで、ようやく短い隙が生まれた。
リリアは数歩先で立ち止まり、ノアを振り返る。
「……本当に、なさるのですね」
その声は低く、静かだった。
責める響きではない。
驚いている。困っている。たぶん、少し呆れてもいる。
でも、それだけじゃなかった。
ノアは少しだけ肩をすくめる。
「見てるだけで済ませるのは、無理でした」
「わたくしは、止めたはずです」
「ええ」
「それでも」
「止まれると思いませんでした」
正直にそう言うと、リリアはほんのわずかに目を見開いた。
それから、困ったように、でもやわらかく息をつく。
「どうして、そこまで」
その問いに、ノアは一瞬だけ言葉を探した。
うまく言えば、少しはましなのかもしれない。
でもたぶん、いま必要なのはそういうことじゃない。
「あなたが受け入れれば済む話には見えなかったので」
リリアが黙る。
その沈黙は、拒絶ではなかった。
むしろ、何かを正面から受け取った時の沈黙に近い気がした。
やがてリリアは、小さく言った。
「ありがとうございます、では足りない気がいたします」
その一言が、胸の奥へ落ちる。
ありがとうでは足りない。
それはどういう意味ですか、と聞きたくなった。聞いたらたぶん何かが壊れる気もして、聞けなかった。
リリアは視線を落とし、それからまたノアを見る。
「わたくしは……軽くは扱えません」
10話の言葉の続きみたいだった。
でも今は、あの時よりもっと重い。
ノアは息をつく。
「それで十分です」
本当は十分ではないのかもしれない。
でも今は、それ以上を求めるほうがずるい気がした。
リリアはほんの少しだけ目元をやわらげた。
それだけで、今日自分がしたこと全部が、いきなり軽くなってしまいそうで困る。
軽くはない。
かなり目立った。
たぶんこれから面倒も増える。
それでも、いまこの人がこういう顔をするなら、後悔だけにはならない。
リリアが去ったあと、案の定というべきか、シオンが回廊の柱のそばに立っていた。
「少々、目立ちましたね」
開口一番それである。
ノアは顔をしかめる。
「おまえ、それしか言えないのか」
「他にも言えますが、今はいちばん適切かと」
「嬉しくない適切さだな」
「今日に限った話ではありません」
本当にそうだな、と言い返せないのが悔しい。
シオンは壁から背を離し、こちらへ歩み寄る。
「これで見え方は前とは違うでしょう」
「だろうな」
「ローゼンベルク様の側へ立ったと見られても仕方のないことを、先ほどあなたはなさいました」
その言葉を、ノアは否定できなかった。
事実だ。
たぶん誰が見ても、あれはそういう行動だった。
理屈を崩しただけじゃない。
場の中で、明確にリリアの側へ寄った。
シオンは少し黙ってから、静かに続けた。
「……止まりませんでしたね」
「無理だった」
「でしょうね」
そこに呆れも諦めもある。
でも、責める響きはなかった。
ノアは廊下の先を見る。
リリアはもういない。
けれど、さっきの言葉と目だけがやけにはっきり残っている。
ありがとうございます、では足りない気がいたします。
わたくしは……軽くは扱えません。
もう前の場所には戻れない気がした。
見てしまうだけだった頃の位置には。
何かが起きてから、後から首を突っ込むだけだった頃の場所には。
今日は、自分から足を踏み入れた。
しかも、公の場で。
目立ったし、面倒も増えただろう。
それでも、あの人が受け入れたままで終わるよりはずっとましだった。
「……でも、それでよかったんだと思う」
独り言みたいに漏らすと、シオンがごく小さく息をついた。
「そう思われるのでしたら、たぶんもう後戻りはできませんよ」
「今さらだろ」
「ええ。今さらです」
その言い方が、妙に静かに胸へ落ちた。
後戻りできない。
たぶん本当にそうなのだろう。
でもそのことを、前ほど重荷には感じなかった。
むしろ初めて、立つべき側へ立ったのかもしれないと、そんなふうに思ってしまった。




