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一人で決めないで

朝の空気は、昨日までと変わらない顔をしていた。


廊下を行く使用人たちの足音も、窓から入る光の具合も、遠くで聞こえる人の話し声も、何も特別なことはないみたいに整っている。昨日の場で少しでも波が立ったのなら、今朝はその名残がもっと見えてもよさそうなものなのに、そういう露骨さはどこにもない。


だからこそ、昨日のことがかえって現実味を持って残っていた。


目立った。

たぶん、かなり。


見られ方も変わっただろう。

今までみたいに、外から来て成り行きで巻き込まれているだけの顔は、もうしにくい。

それでも、あの場で黙ったまま終わるほうが、ずっと後味は悪かった気がする。


「……目立ったよな、さすがに」


独り言のつもりで呟いたのに、すぐ横から返事が来た。


「ええ。十分に」


ノアは顔をしかめる。


「おまえ、そういうところだけ返事が早いよな」


シオンはいつものように涼しい顔で立っていた。最近ではもう驚くのも面倒になってきたが、出てくるタイミングがいちいち絶妙なのは相変わらず腹立たしい。


「確認が必要かと思いまして」


「嬉しくない確認をどうも」


「どういたしまして」


本当に腹が立つ。


ノアは壁にもたれ、腕を組んだ。


「で。やっぱり、見られ方は変わったか」


「変わりましたね」


即答だった。


「昨日の踏み込みは、十分に目立ちました」


「言い方が他人事なんだよな」


「他人事ではありません。十分に面倒です」


「そこは自覚あるのかよ」


「ございます。主に、これから先の分が」


その言い方で、昨日が何かを解決したわけではないことを改めて思い出す。


あの場では、一度止まった。

即決は避けられたし、“リリアが受け入れたからそのまま決まり”という形にもならなかった。

けれど止まっただけだ。

流れそのものはまだ続いている。


ノアは息をついた。


「それでも、引くつもりはないんだろう、って顔してるな」


シオンは少しだけ目を細めた。


「そうではないのですか」


「……否定しづらい聞き方するな」


「得意ですので」


「知ってる」


本当に知りたくない形で知っている。


しばらく黙ってから、ノアは小さく言った。


「やりすぎたかもしれないとは思ってる」


「はい」


「でも、やらないよりはましだった」


「はい」


そこで妙に素直に頷かれると、逆に調子が狂う。


「そこはもう少し何か言えよ」


「何と」


「たとえば、無謀でしたとか」


「それは昨日の時点で申し上げました」


「そうだったな……」


それもそうかと思い直し、ノアは一人で疲れたように息を吐いた。


シオンは少しだけ視線を廊下の先へ向ける。


「昨日で終わったとは、お思いにならないことです」


「思えるわけないだろ」


「でしたら結構です」


その口ぶりは、相変わらず冷たいのに、どこかいつもより静かだった。

責めているのではなく、確認している。

そしてたぶん、もう止まらないのだと、シオン自身もわかっている。


その場を離れて少し歩くと、すれ違う使用人の一礼が前よりわずかに丁寧になっている気がした。

気のせいと言い切るには、二人三人と続くと少しつらい。


何か言われるわけではない。

露骨な噂話が聞こえるわけでもない。

けれど、ひと呼吸ぶんだけ空気が違う。

昨日の場にいた者がいたのか、そうでなくてもどこかで話は伝わっているのか。いずれにしても、もう“よくわからない外から来た人”では済まなくなっている気配があった。


「前より丁寧だな……」


思わず漏らすと、少し後ろを歩いていたシオンが返す。


「気づかれましたか」


「気づくよ。これはさすがに」


「配慮ではない可能性もあります」


「わざわざ言い直すなよ」


「認識の精度は大切ですので」


それももっともではあるが、もっともなことばかり言われると嫌になる。


それでも、いよいよ後戻りしにくくなったのだという実感だけは、はっきりしていた。


昼に近いころ、ノアは中庭に面した回廊でリリアと顔を合わせた。


前なら、それだけで少し落ち着かなくなる程度だった。

今はそこへ、昨日の場のことが丸ごと重なってくる。

自分が何を言ったか。

あの人が何を受け取ったか。

そして、あのあと交わした短い言葉のことまで、全部。


それでも、今回は逃げたくなかった。


リリアも、ノアを見ると足を止める。

静かに一礼して、それから顔を上げた。


「おはようございます、ノア様」


「……おはようございます」


昨日までより自然に返せた気がした。

たぶんほんの少しだけ。

それでも、自分の中では十分なくらいだった。


しばらく、短い沈黙が落ちる。

重い沈黙ではない。

何を言うべきか、互いに軽く測っているような静けさだった。


やがてリリアが口を開く。


「少し、お話ししてもよろしいですか」


ノアはすぐに頷いた。


「はい。もちろん」


並んで回廊の端まで歩く。

人目が完全にないわけではないけれど、さっきまでよりはずっと落ち着いて話せる場所だった。


リリアはすぐには切り出さなかった。

少しだけ視線を中庭へ逃がしてから、静かに言う。


「昨日は……止めるべきだと思っておりました」


ノアは黙って聞いた。


「そうだろうな」とすぐに返すこともできた。

でも、それでは足りない気がした。

その続きがあるのだと、声の調子だけでわかったからだ。


リリアは少しだけ息をつく。


「でも、止めてほしくなかったのかもしれません」


その一言が、ひどく静かに胸へ落ちる。


ノアは言葉を失った。

聞き間違いではないと思う。

けれど、あまりにまっすぐ来たので、すぐには受け止めきれない。


リリアは続けた。


「わたくしが受け入れれば済むと思っていたのです」


ノアはそっと息を吐く。

昨日の言葉だ。

あれを、リリア本人がこうして振り返っている。


「ですが……あなたのお言葉で、そうではないのかもしれないと、少しだけ思えました」


そこまで言って、リリアはかすかに目を伏せた。


「昨日のお言葉に、救われた部分がございます」


ありがとう、とは言われなかった。

でも、そのほうがずっと重かった。


ノアは喉の奥に少しだけ乾きを覚える。


「……よかった」


出てきた言葉が、我ながらあまりに素朴で情けなかった。

もっと何か、ましな返しはなかったのかと思う。

でも、うまいことを言える気もしなかった。


リリアはほんの少しだけ目元をやわらげる。


「ありがとうございます、だけでは足りません」


14話でも聞いた言葉だった。

でも今日は、昨日より少しだけ落ち着いた声で、それでもやっぱり感謝より重く響く。


ノアは思わず苦笑した。


「それ、どう受け取ればいいのか、まだうまくわかってないんですが」


「わからないままで結構です」


「便利ですね」


「ええ」


以前より、そういう言い方が少しだけ自然になっている。

自然になったぶんだけ、余計に困る。

けれど、困るだけではなかった。

前よりずっと、落ち着いて話せている気もする。


少しの沈黙のあと、ノアは静かに言った。


「たぶん、これからも黙れないと思います」


リリアがゆっくりこちらを見る。


「それで面倒が増えるとしても、もう仕方ないので」


大げさな宣言ではない。

でも、自分で言ってみると、それはかなり決定的なことのように思えた。

昨日だけの勢いで終わらせない、ということだからだ。


リリアはすぐには返事をしなかった。

しばらくノアを見つめてから、静かに頷く。


「昨日だけのことではないのですね」


「たぶん」


「たぶん、なのですね」


「断言すると、おまえ――じゃない、あなたに笑われそうなので」


「笑いません」


「少しは?」


「少しだけなら」


その返しに、ノアはようやく少し笑った。

こうして軽く言葉が返ること自体が、前よりずっと自然になっている。


リリアはふと真顔に戻る。


「では、お願いがございます」


「はい」


「次に何かあるなら、一人で決めないでくださいませ」


その一言に、ノアは目を瞬く。


思っていたより、ずっと深く胸に来た。

それは恋人の約束でも、甘い言葉でもない。

でも、確かにこの人が自分をその輪の中へ入れた言葉だった。


ノアはゆっくり頷く。


「……では、あなたも一人で決めないでください」


リリアの目が少しだけ揺れる。


「わたくしも、ですか」


「一人で受け入れて終わらせるの、たぶんもう嫌なんで」


言いながら、少し照れくさくなる。

けれど、これだけはちゃんと言いたかった。


リリアはしばらく黙ったあと、ほんのわずかに笑った。


「はい」


短い返事だった。

でも、それで十分だった。


しばらく、二人で何も言わずに中庭を見た。

風は冷たかったが、沈黙は前みたいに重くない。

無理に言葉を継がなくても、一緒にいられる。

それが思っていた以上に、ノアにはありがたかった。


「こうしてると、昨日のことが嘘みたいですね」


ぽつりとそう言うと、リリアはすぐに首を振る。


「嘘ではございませんよ」


その返しに、ノアは少しだけ息を呑む。

11話のことまで思い出してしまって、さすがにそれは反則だろうと思った。

思ったが、リリアはそんなこと知るはずもない。

だから余計に、勝手に動揺している自分が馬鹿みたいだった。


「……そうですね」


それだけ返すのが精一杯だった。


やがてリリアが時間を気にして立ち上がる。

別れ際、ほんの少しだけ視線が重なって、それだけで何かが確認されたような気がした。


一人になって回廊を戻ると、案の定シオンが待っていた。

この男は、もはや驚く余地すら残してくれない。


「穏やかに終わったようで、何よりです」


開口一番それだった。


ノアは顔をしかめる。


「その言い方、絶対何かあるだろ」


「ございます」


「素直だな今日は」


「隠す必要を感じませんので」


その言葉に、昨日までより少しだけ気が抜けた。

面倒があるとわかっているものを、今さらもったいぶられても困る。


シオンは歩きながら続ける。


「昨日の見直しで、即決は避けられました。ですが流れそのものが消えたわけではありません」


「だろうな」


「むしろ、今後はもっと丁寧に整えようとするでしょう」


「嫌な言い方しかしないな」


「正確さを優先しております」


「いつも通りだな」


「ええ」


そこだけは変わらないらしい。


シオンは少しだけ声を落とした。


「今後は、気持ちだけでなく言葉にもお気をつけください」


ノアは一瞬、言葉に詰まる。


「……それが一番難しいんだよ」


「存じております」


「知ってるならもう少し優しくしろ」


「善処はいたしません」


「そこ即答なんだよな」


そうやって軽口を叩いていられることに、少しだけ救われる。

昨日の踏み込みも、今日の約束みたいな言葉も、全部ひっくるめて、もう前の位置には戻れないのだと思う。

でも、それはたぶん悪いことばかりではない。


シオンと別れたあと、ノアはしばらく一人で歩いた。


まだ何も終わっていない。

婚約前提の流れも、周囲の視線も、自分にかかった制約も、そのままだ。

むしろ厄介なのはこれからかもしれない。


それでも、昨日までとは違うものが胸の中に残っていた。


次に何かあるなら、一人で決めないでください。

では、あなたも一人で決めないでください。


あれは約束と呼ぶには曖昧で、小さくて、頼りないのかもしれない。

でも、今の自分たちにはあれで十分な気がした。


もう、ただ一人で見ているだけではない。

あの人もまた、きっと一人で飲み込むだけではいられない。


そう思えたことが、何より大きかった。


遠くで人の話し声がする。

学院は変わらず、何事もない顔で今日を続けていく。

その中で、自分たちだけが少しずつ前と違う場所へ来てしまったのだと、ノアは静かに思った。


戻れないのだろう。

けれど、それでよかった。

ここまでで一章です。

読んでくださりありがとうございます。

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