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わたくしが受け入れれば

部屋へ向かう足取りが、最初から重かった。


まだ始まってもいないのに、もう帰りたい。そんなことを考える時点でろくでもないのはわかっている。わかっているのに、嫌な予感しかしないのだからどうしようもない。


小さな顔合わせ。

今後のための調整。

婚約前提の整理。


どれも、言葉だけなら穏やかだ。けれど最近のノアには、その手の穏やかな言い回しがいちばん信用ならない。整えるだの円滑だのと言いながら、結局は誰かが端へ押しやられる形になることを、もう何度か見てきてしまった。


「ずいぶん嫌そうなお顔ですね」


隣を歩くシオンが、わざとらしさもなく言った。


「嫌だからな」


「正直で結構です」


「おまえ、そういう時だけ肯定的だよな」


「気のせいでは」


「そうか?」


「そうです」


絶対違う。だが、そこを詰めてもどうせ面倒なだけだ。


扉の前まで来たところで、シオンがほんの少しだけ声を落とした。


「ここで感情で動けば、余計に面倒になります」


ノアは眉を寄せる。


「その言い方で落ち着けると思うか?」


「思いません。ですが、申し上げておく必要はあります」


「必要なら何言ってもいいみたいな顔するなよ」


「誰も悪意の顔をしていないぶん、なおさら厄介です」


その一言には、少しだけ棘があった。

シオンがこういう言い方をする時は、本当に厄介な場なのだ。


ノアは短く息をつく。


「だから黙って見てろって?」


「できるのでしたら、それが最善です」


「できると思ってる顔じゃないよな」


「ええ」


そこは即答だった。

腹が立つのに、少しだけ救われるのが嫌だった。


室内へ入ると、思った以上に整った場だった。


大きすぎない室。茶が出るほどくだけてもいないが、かといってあからさまに固いわけでもない。人の数も多すぎず少なすぎず、言葉遣いは丁寧で、全体がよく磨かれた食器みたいに滑らかにできている。


だからこそ、息苦しかった。


最初の挨拶は何事もなく進む。今後のため、皆の負担を減らすため、穏やかに準備を整えるため――そんな言葉が、静かな声で行き交う。誰も強い言い方はしない。誰も命令の形を取らない。なのに、場の向きだけは最初から決まっている感じがした。


ノアは視線を上げた。


リリアは正面やや奥に座っている。表情は整っていて、姿勢にも乱れがない。いつも通りに静かだ。けれど、今のノアにはその静けさが前より重く見える。取り乱していないのではなく、取り乱さないようにしている時の静けさに思えた。


進行役の男が、穏やかな声で続ける。


「今後のために、より円滑な形へ整えられればと存じます」


別の者がそれを受けて、にこやかに頷く。


「皆様にご負担のないよう、事前に調整しておきたく」


その“皆様”の中に、誰が入っていて誰が入っていないのか。

ノアには、その時点で少し見えてしまっていた。


話はしばらく、曖昧な配慮の言葉のまま進んだ。だがやがて、その曖昧さは少しずつ具体的な形を取り始める。


「近くの者は、一部入れ替えたほうがよろしいかと」


「応対の形も、今後に合わせて整える必要がございます」


付き添い。補助。役目。配置。

誰も“切る”とは言わない。

でも、何が行われようとしているのかだけは、いやにはっきりわかる。


リリアの周辺を、婚約前提の形に整える。

そのために、今近くにいる者たちを少しずつ外していく。


ノアは無意識に指先へ力を入れた。

横目で見ると、シオンはすでにそれに気づいている顔をしている。気づいていて、何も言わない。今ここで余計な刺激を入れたくないのだろう。


場は穏やかなままだった。


「もちろん、ローゼンベルク様にもご不便のないように」


「そのための見直しでございますので」


言葉だけなら、本当に配慮しかしていないみたいだ。

それが余計にひどい。

済ませる側ばかりが、きれいな顔をしている。


そこで初めて、リリアが静かに口を開いた。


「……皆のためには、そのほうが穏やかなのでしょう」


その声は、とても落ち着いていた。

落ち着いているのに、ノアの胸の奥をひどくざわつかせる。


誰かがすぐに応じる。


「ご理解いただけて何よりでございます」


その一言に、ノアは思わず視線を上げた。

理解。

いまのが、本当にただの理解に見えたのだろうか。

違うだろう、と言いたくなる。

でも口を挟める立場でもない。そういう場だと、最初からわかっていたはずなのに。


リリアは続けた。


「わたくしが受け入れれば済むことでしたら」


ノアの喉の奥で、何かがひっかかった。


済む。

それで済むことにされるのか。

近くにいた人間が動かされて、これまでの形が切り離されて、それで皆が穏やかになるという顔をして、受け入れる側だけが静かに頷けば終わるのか。


それは、全然“済む”ようには見えなかった。


ノアはわずかに身じろぎする。

その動きだけで、シオンが横からほんの少しだけ視線を寄越した。やめておけ、と声にしないまま言われているのがわかる。


わかる。

わかるが、腹の底で何かがきしんでいた。


場はまだ続いていた。

具体的な名は出さないまま、役目や配置の変更だけが静かに積み重ねられていく。誰も追い詰める顔をしない。誰もリリアを責めない。むしろ気遣っているような顔で進む。

そのこと自体が、ひどく一方的だった。


「そのほうが、皆様も安心かと」


その言葉を聞いた瞬間、ノアは心の中で低く呟く。


皆のため。

穏便のため。

円滑のため。

結局は、その人に飲み込ませるための言い方じゃないか。


そこで場がひと区切りつき、少しだけ人の動きがゆるんだ。

完全に席が解けたわけではない。ただ、進行役が別の者と短く言葉を交わし、視線の流れが一瞬だけ散る。


その隙に、ノアはリリアのほうを見た。

リリアもまた、ごく短くこちらへ視線を向ける。


ほんの一瞬だった。

けれど、その目の奥にある疲れのようなものは見えた気がした。

表面は整っている。なのに、その整い方が余計につらい。


ノアは席を立つほどではない距離で、声を落とした。


「……それでいいんですか」


かなり短い問いだった。

こんな場で長々と言えるわけがない。

けれど、それでも聞かずにはいられなかった。


リリアは一拍だけ黙ったあと、静かに答える。


「仕方のないことです」


ノアは眉を寄せる。


「仕方ない、で」


「わたくしが受け入れれば、少なくとも今は済みます」


その言い方が、たまらなく嫌だった。

嫌なのに、そこにあるやさしさはわかる。

周囲をこれ以上巻き込みたくないのだ。

自分が飲み込めば、今この場は穏やかに終わる。

そういう計算がある。

そしてたぶん、その計算は間違っていない。


だからこそ、余計に腹が立つ。


「それでいいようには見えません」


思わずそう返すと、リリアの目がわずかに揺れた。


ほんの少しだけ、人の顔になった気がした。

いつもの整った表情の下にある、疲れや、痛みや、諦めきれなさみたいなものが、ほんの一瞬だけ浮かぶ。


でも、リリアはすぐに静けさを取り戻す。


「穏やかに収まるのでしたら、それで」


その“それで”が、ノアにはどうしても飲み込めなかった。


「それは――」


口を開いた瞬間、横からごく低い声が落ちた。


「おやめください」


シオンだった。


その声は大きくない。

けれど、いまここで一線を越えるなという意味は十分すぎるほど伝わる。


ノアは言葉を止めた。

止めた、というより、止めざるを得なかった。

今ここで全部言えば、確かに場は壊れるだろう。

壊したところで、リリアの助けになるとも限らない。

むしろ、余計な火種を増やすだけかもしれない。


わかっている。

わかっているのに、奥歯を噛みしめるしかない自分がひどく嫌だった。


そこから先の進行は、あまり耳に入らなかった。


何が決まり、どう整えられ、誰がそれを穏当と呼んだのか。細部は曖昧なのに、場の後味だけは妙にはっきりしている。

何も起きなかった顔で進んで、何も起きなかった顔で終わる。

それなのに、確実に何かが切られている。

そんな場だった。


最後には、誰かがやわらかい声で言った。


「では、そのように整えましょう」


別の者が続ける。


「ご理解いただけて何よりでございます」


その言葉が、今日聞いた中でいちばん冷たく響いた。


席が解かれ、人が静かに動き始める。

リリアもまた、乱れのない所作で立ち上がる。何もなかったかのように整っている。けれど、ノアにはその整い方が、どうしても痛々しく見えた。


去っていく後ろ姿を見て、ノアはようやく自分の指先に力が入りっぱなしだったことに気づく。

爪が食い込んで、手のひらが少し痛い。

それくらいしか、自分が今どれだけぎりぎりかを示すものがなかった。


「だから申し上げたでしょう」


人の流れが少し遠のいたところで、シオンが横に立つ。


ノアはその顔を見ずに言う。


「おまえ、よく平気でいられるな」


「平気ではありません」


その返答は少し意外だった。


ノアが視線を向けると、シオンはいつも通りの顔をしている。

けれど、目元だけがわずかに硬い。


「ただ、今ここで壊しても得るものが少ないだけです」


「それで納得できるのか」


「納得の話ではありません」


淡々と返される。

それがシオンの言い分なのだろうし、正しいのだろう。

正しい。

でも、その正しさだけで収まるなら、こんなに腹は立たない。


ノアは低く息を吐いた。


「……今度は、見てしまったあとじゃない」


シオンが少し黙る。


「最初からその場にいて、それでも止められなかった」


「ええ」


「もう次は無理だ」


その声は、自分で思っていたより静かだった。

怒鳴るような決意じゃない。

もっと底のほうで固まってしまったみたいな、そういう声だった。


シオンはしばらく何も言わなかった。

やがて、小さく息をつく。


「そうだろうとは思っておりました」


「だったら最初から止めるなよ」


「止めなければ、今ごろもう少し面倒だったでしょう」


それはそうかもしれない。

悔しいが、そうなのだろう。


ノアは再び、リリアが去っていった方向を見る。

もう姿はない。

なのに、さっきの言葉だけが残っている。


わたくしが受け入れれば済むことでしたら。

穏やかに収まるのでしたら、それで。


そんなふうに言わせて、それで終わらせるのか。

あの人が受け入れるから、それでいいことにするのか。


胸の奥で、何かがはっきり形を取る。

もう次は黙っていられない。

たぶん、止まれない。


今回みたいに、その場で飲み込んで終わることは、もうできない気がした。


場を出る足取りは重い。

けれど、迷いだけは少し減っていた。


見てしまったからではない。

今度は最初からその場にいて、それでも止められなかった。

その違いが、ノアの中で静かに重く沈んでいる。


次は、もう止まらない。

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