隠しているつもりで
朝から落ち着かなかった。
理由を言葉にすると、たぶん余計にひどい。
だから考えないようにしていたのに、人というのは考えるなと思うほど、きれいにそこへ戻っていくらしい。
平気だった。
あの言葉は、平気で口にできてしまった。
好きだ。
守りたい。
そこは引っかからなかった。制約は黙ったままだった。
つまり、少なくとも自分の中では、それは嘘ではない。
「……思い出すな、思い出すな」
ぼそりと呟いてから、ノアは顔をしかめた。
翌朝になってからじわじわ効いてくるのが最悪だ。昨日の自分に言ってやりたい。そこで止まれ、と。いや、止まれたなら最初からこんなふうにはなっていないのだが。
「手遅れですね」
背後から返ってきた声に、ノアは肩を跳ねさせた。
「おまえな」
振り返れば、案の定シオンが立っている。今日もすました顔で、まるで最初からそこにいたみたいな立ち方をしているのが腹立たしい。
「最近わかりやすすぎます」
「朝から刺すなよ」
「朝だからです」
「理屈になってないだろ」
「そうでしょうか」
まったく悪びれない。こういうところ、本当にどうかしていると思う。
ノアは窓辺から離れ、わざとらしく息をついた。
「隠してるつもりなんだけどな」
「そう思っておられるのは、ご本人だけかもしれませんね」
「そこまで言う?」
「まだ控えめです」
控えめでこれなら、全力だとどうなるのか知りたくもない。
シオンは少し間を置いてから、何でもないことのように続けた。
「近いうちに、小さな顔合わせが入るようです」
ノアは眉を寄せる。
「その報告、嬉しかったためしがない」
「私も、あなたが喜ぶとは思っておりません」
「じゃあもう少し柔らかく言えない?」
「婚約前提の整理も、少し表へ出てきました」
結局まったく柔らかくならなかった。
むしろ、そっちのほうが嫌だった。
ノアは腕を組む。
「“前提”って言葉、ほんと嫌いだ」
「お気持ちはわかります」
「そこだけはわかるのかよ」
「ええ。ですが、嫌っていても進むものは進みますので」
そういう言い方をされると、余計に腹のあたりが重くなる。
進むものは進む。
整うものは整う。
そして、いつもその下で押し込められるものがある。
ノアは視線を逸らした。
「……その顔合わせ、リリアも出るのか」
シオンは一瞬だけ、何かを察したような目をした。
それがまた嫌だった。
「おそらくは」
「そうか」
短く返しただけなのに、妙に喉が渇く。
シオンは少しだけ口元をゆるめた。
「ずいぶんわかりやすいですね」
「うるさい」
「否定なさらないのですね」
「できると思うか、今の流れで」
「思いません」
即答だった。
本当にこういうところだけ、息が合うのが腹立たしい。
そのあと一人になっても、気分は少しも落ち着かなかった。
顔合わせ。
整理。
前提。
どれもろくな言葉じゃない。しかも、そこにリリアがいる。そう思うだけで、さっきまでとは別の意味で落ち着かなくなる。
歩いて気を紛らわせようとしたのに、曲がり角を一つ過ぎたところで、その考えはだいぶ無意味だったと気づく。
向こうから、本人が歩いてきたからだ。
淡い色のドレス。整った姿勢。周囲の空気まで静かにするような落ち着いた足取り。
見間違えるはずもない。
リリアだった。
目が合った瞬間、ノアは一拍遅れてから頭を下げた。
「……おはようございます」
遅れた。
今の絶対に遅れた。
自分でもわかる。
リリアはほんの少し目を瞬かせてから、静かに微笑んだ。
「おはようございます、ノア様」
その声だけで、余計にだめになる。
昨日までと同じ挨拶のはずなのに、11話のせいで頭の中に余計な注釈がついてしまっている。好きだ。守りたい。そこは嘘じゃない。わざわざ思い出さなくていいのに、勝手に浮かぶのだからたまったものではない。
リリアが首を傾げた。
「どうかなさいましたか」
「いや、別に……」
そこまで言って、ノアは自分で眉を寄せた。
別に、ではない。
ではないのだが、では何なのかをそのまま言えるわけもない。
「……別に、ではないのか……」
小さく漏れた独り言に、リリアの目が少しだけやわらぐ。
「少し、お疲れですか」
やさしい言い方だった。責めるでもなく、詮索するでもなく、ただ気にかけるような声。
その声に少しだけ救われて、同時にさらに困る。
気づかれているわけではない。
でも、見られている。
ちゃんと見られている。
「たぶん、そうです」
結局それだけ答えると、リリアはごく静かに頷いた。
「ご無理はなさらないでくださいね」
そんなふうに言われると、本当にどうしたらいいのかわからなくなる。
無理をしているつもりはない。むしろ、できるだけ普通にしようとしている。なのにその普通が、最近いちばん難しい。
「……ありがとうございます」
ようやくそう返すと、リリアはまた少しだけ不思議そうな顔をした。
たぶん、いつもより妙なのだろう。
わかる。自分でもわかる。
それ以上会話がこじれる前に、リリアは軽く一礼して去っていった。
去っていく後ろ姿を見送りながら、ノアは心の中で盛大にうなだれる。
「なんで普通に話すだけでこうなるんだよ……」
壁に寄りかかって小さく呻く。
知ってしまったあとのほうが、余計だめじゃないか。
少なくとも11話の前は、もう少しまともに振る舞えていた気がする。気がするだけかもしれないが、それでも今よりはましだった。
「それは、意識しておられるからでしょう」
また横から声がした。
ノアは心底嫌そうな顔でそちらを見る。
「おまえ最近ほんと絶妙なところにいるな」
「評価として受け取っておきます」
「褒めてない」
「存じております」
ほんとうに腹が立つ。
シオンは壁際に立ったまま、少しだけ目を細めた。
「避けておられるわけではないのに、妙に噛み合わない。なかなか見苦しいですね」
「見てたのかよ」
「少し」
「その“少し”絶対信用ならないな」
「お互い様では」
それを言われると弱い。
ノアは顔をしかめて、視線を外した。
「……好きだと否定できないのと、平静でいられるのは別問題だろ」
言ってから、自分で少し黙る。
いま何を口にした。
わりとそのまま言った気がする。
シオンのほうも一瞬だけ静かになった。
その沈黙が余計に嫌だ。
「今のは忘れろ」
「難しいご相談です」
「だろうな」
もう少し何かごまかせればよかったのに、最近ほんとうにだめだ。
ごまかそうとすると、余計に変なところへ落ちる。
シオンは軽く息をついた。
「顔合わせの件ですが」
唐突に話題を戻されて、ノアは少し助かる。
いや、助かる話題でもないのだが、それでも今さっきの流れを続けられるよりはましだった。
「……ああ」
「詳細はまだ出ておりません。ただ、席を整える以上、配置の話も自然に済ませるつもりかと」
「自然に、で済ませていい話じゃないだろ」
「そう思う方が少ないから、自然に進むのです」
その言い方がひどく冷静で、だからこそ嫌だった。
ノアは窓の外へ目をやる。
まだ何も起きていない。
誰かが泣いたわけでもない。
責め立てられたわけでもない。
なのに、次に来るものの形だけは、すでにぼんやり見えてしまう。
今度は、見てしまったあとで動くのでは済まないかもしれない。
最初から、そういう場に居合わせることになる。
しかも自分はもう、ただの外野の顔で立っていられる気がしなかった。
「……また、あの人が一人で飲み込む形になるのか」
思わず漏れた言葉に、シオンはすぐには答えなかった。
やがて、淡々とした口調で言う。
「その可能性は低くないでしょうね」
低くない。
つまり、十分ある。
ノアは目を閉じ、小さく息を吐く。
やっぱり嫌な予感しかしない。
しかも、それがただの思い込みではなく、ちゃんと形を持って近づいてきている感じがある。
シオンはそんなノアを見て、ほんの少しだけ声をやわらげた。
「まだ何も起きてはおりません」
「そうだな」
「ですが、起きる前にわかることもあります」
その言葉は、慰めなのか警告なのか、少しわかりにくかった。
たぶん両方なのだろう。
ノアは苦く笑う。
「おまえ、たまに妙にまともなこと言うよな」
「たまに、ではなく常時です」
「そこは盛るな」
「事実ですので」
またそれか、と思う。
でも、そのいつもの言い方が、少しだけありがたかった。
その場で別れたあとも、ノアの胸のざわつきはおさまらなかった。
リリアの「ご無理はなさらないでくださいね」という言葉が、なぜか妙に残っている。
さっきの少し不思議そうな眼差しも、頭から離れない。
変わったのは自分のほうだ。
リリアは何も知らない。
知らないまま、ただいつも通りにこちらを見て、気にかけてくれただけだ。
それなのに、もうその“いつも通り”が少しつらい。
つらいのに、嫌ではない。
むしろ、もっと見ていたいと思ってしまうあたりがだいぶ末期だった。
夕方近く、ふと廊下の先にリリアの姿を見つけた時も、ノアは立ち止まるしかなかった。
話しかけるほどの用事はない。
でも、目が行く。
そのこと自体が、もう以前とは違う。
リリアはノアには気づかないまま、別の廊下へ曲がっていく。
その後ろ姿を見送りながら、ノアはぼんやり思う。
何かがずれ始めている気がした。
まだ何も起きていないのに、たぶんもう前と同じではいられない。




