そこは引っかからない
朝から嫌な予感がしていた。
理由ははっきりしている。昨日までの流れを思えば、面倒が増える予感しかしない。しかもそれが、外から降ってくる面倒ではなく、自分の足元に最初から置いてある種類のものだというあたりがなお悪い。
「最近のあなたは、少し不用心すぎます」
案の定、朝一番でシオンにそう言われた。
ノアは顔をしかめる。
「おまえ、その言い方で人が素直に反省すると思ってるか」
「思っておりません。ですが、事実は事実ですので」
「便利だな、その台詞」
「重宝しております」
腹が立つくらい、いつも通りだった。
ノアは廊下の窓枠にもたれ、わざとらしくため息をつく。
「不用心って言われてもな。好きで綱渡りしてるわけじゃない」
「好きでなくても落ちる時は落ちます」
「朝から縁起悪いこと言うなよ」
「縁起の話ではなく、運用の話です」
この男は本当に、情緒より実務を優先して会話を組み立てる。そういうところがたまにありがたくて、大体は腹が立つ。
シオンは少し間を置いてから言った。
「一度、境界を確認しておきましょう」
ノアは眉を寄せる。
「嫌な予感しかしない言い方やめろよ」
「感覚で避けるには、最近のあなたは危なっかしすぎます」
「それ、遠回しに信用ないって言ってるよな」
「遠回しではなく、かなり直接的に申し上げております」
そこを曖昧にしないのがなおさら嫌だった。
だが、否定できないのも事実だった。最近の自分が少し危ないことくらい、自覚はある。言うつもりのないことが口先まで来たり、言ったあとで自分で詰んだ気分になったり、そういうことが増えている。
ノアは小さく舌打ちした。
「……やるしかないのか」
「今後のためです」
「今この瞬間に楽しい要素ゼロなんだけど」
「娯楽ではありませんので」
それはそうだが、だからといって前向きになれる話でもない。
結局、二人は人目の少ない一室へ移った。
机と椅子だけの簡素な部屋で、窓から入る光が妙に白い。こういう時に限って天気がいいのが腹立たしい、とノアは思う。
シオンは向かいに立ったまま、淡々と言った。
「では、問題のないところから」
「おまえ、こういう時だけ妙に楽しそうだな」
「気のせいです」
「そうか?」
「そうです」
絶対違う。だが、楽しんでいると言い張るほど顔に出す男でもない。
シオンは何事もない口調で問いを投げる。
「今いる場所は」
「学院の一室」
「今日は」
「晴れ」
「現在お使いの名は」
ノアは少しだけ嫌な顔をしたが、答えた。
「ノア」
問題は起きない。
息苦しさも、喉が詰まる感じもない。ただ普通に言える。それが確認できただけでも少し気が抜けたが、もちろんこんなところで終わるはずもなかった。
「では次に」
「その“では次に”が一番嫌なんだよな」
「慣れてください」
「慣れたくない」
シオンは無視した。
「名前について、もう一段」
ノアは露骨に顔をしかめる。
「そこから行くのかよ」
「危険域の確認ですので」
「わかってるけど、心の準備があるだろ」
「最近のあなたは、準備なしで危険域に足を踏み入れがちです」
「だからって今それ言う?」
「今だから申し上げております」
いちいち正論で殴ってくるの、ほんとやめてほしい。
ノアは息を整えてから、慎重に口を開いた。
「俺は――」
そこで、喉の奥にひっかかるような違和感が走る。
うまく空気が通らない。言葉の形までは見えているのに、そこから先へ押し出そうとすると、見えないものに喉元を押さえられるみたいに苦しくなる。
「……っ、これ以上はだめだ」
シオンは即座に頷いた。
「ええ。この辺りは変わらず危険ですね」
ノアは小さく咳き込み、椅子の背に体重を預ける。
「毎回思うけど、最悪なんだよなこれ」
「だから確認しているのです」
「確認したところで気分が良くなるわけじゃない」
「気分の問題ではありませんので」
今日だけで何回それを聞かされるのだろう。数えたくもない。
しばらく間を置いてから、シオンは少し調子を変えた。
「では、切り分けます」
「何を」
「断言が危険なのか、中身が危険なのか、そのあたりです」
「おまえ、ほんとこういう時だけ容赦ないな」
「こういう時こそ容赦してはなりません」
そこで少しずつ、言い換えの試行が始まった。
はっきり断言すると危ない。けれど、印象や感想としてなら少しだけ言えることもある。本当の一部だけを抜き出せば通るものもある。逆に、言い回しを曖昧にしても中身が危ないとだめなものもある。
単純な「嘘禁止」ではないのだと、改めてわかる。わかるが、わかったところで面倒なのは変わらない。
「簡単なルールにしてくれよ、ほんと」
「そうなっていないからこそ、厄介なのです」
「知ってる」
知っているし、今後も苦しめられるのだろうということまで見えて嫌になる。
そんなふうに少しずつ境界を探っていくうち、シオンが何でもないことのように言った。
「では、ローゼンベルク様については」
ノアは顔を上げた。
「なんでそこへ行くんだよ」
「最近のあなたにとって、危険域に関わりやすい話題ですので」
「嫌な言い方するなあ」
「親切に言い換えましょうか」
「いい」
親切の方向がたぶんこちらと違う。
シオンは本当にただの確認のつもりなのか、それとも少しはわかっていてやっているのか、顔色からは読めないまま続けた。
「気になる、はどうですか」
ノアは嫌そうに眉を寄せる。
「……それ、試す必要あるか?」
「あります」
「即答するなよ」
「必要ですので」
どうしてこう、この男は無駄に澄んだ顔で人の嫌なところを突いてくるのか。
ノアは渋々、視線を逸らしながら呟く。
「……気になる」
何も起きない。
喉も苦しくならないし、言葉も詰まらない。ただ普通に口にできた。
ノアは少し黙る。
「ほら」
「ほら、ではありません。続けます」
「続けるのかよ」
「会うと落ち着かない、は」
「おまえ今日ほんと最悪だな」
「評価として受け取っておきます」
受け取るな。
ノアは観念したように息をついた。
「……会うと落ち着かない」
やはり、何も起きない。
その事実に気づいた瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。正確には、ノアの中で何かが変わったのかもしれない。
シオンは目を細める。
「問題ありませんね」
「……だな」
答えながら、嫌な予感が濃くなる。
ここまではまだ、逃げ道がある。気になるとか、落ち着かないとか、その程度ならどうとでも言える。いや、どうとでも言えないから今こうして嫌な気分になっているのだが、それでもまだ、誤魔化しの余地はある。
問題は、その先だった。
シオンは一拍置いてから、いつも通りの口調で言った。
「では、好きだ、は」
ノアは思わず立ち上がりかけた。
「待て待て待て、なんで段階の上がり方が雑なんだよ」
「十分に段階は踏みました」
「踏んでない。二段飛ばしくらいしてる」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
ノアは額を押さえる。
嫌だ。
ものすごく嫌だ。
なんでこんな検証会でそんなことを言わなければならないのか。というか、言えるわけがない。言いたくない。言いたくないのに、ここで拒否すると逆に何かを認めるみたいでそれも嫌だった。
最悪だ。
どこからどう見ても最悪だった。
「おまえ、絶対ちょっと面白がってるだろ」
「心外ですね」
「その顔で言う?」
「いつも通りですが」
それがなおさら腹立たしい。
ノアはしばらく黙り込んでから、とうとう観念した。
もう今さら、ここで変に逃げても仕方がない。
たぶん。
いや、仕方はあるかもしれないが、逃げ方がわからない。
「……好き、だ」
言った瞬間、自分で自分の息の音が聞こえた気がした。
静かだった。
何も起きない。
喉は詰まらない。胸はうるさいのに、制約は沈黙したままだった。
シオンが淡々と告げる。
「問題ありませんね」
その一言で、余計に現実味が増した。
ノアは顔を覆う。
「なんでそこは平気なんだよ……」
「私に聞かれましても」
「今のなし」
「検証結果としては、採用されました」
「最悪だ……」
本当に最悪だった。
好きだ、と口にして、制約が反応しない。
それはつまり、自分の中でそれが嘘ではないということだ。
認めたくなかったわけではない。たぶん。
でも、こんなふうに外から証明されるみたいな形で突きつけられるのは聞いていない。
シオンは少し考えるようにノアを見てから、静かに言った。
「では、守りたい、も試しますか」
ノアは顔を上げた。
「おまえ今日ほんと最悪だな」
「検証の一環です」
「一環の顔して人の心を踏みにじるな」
「踏みにじってはおりません。確認しているだけです」
その言い分が通ると思っているのが本当にすごい。
だが、ここまで来ると逆に投げやりになってくる。どうせもう十分詰んでいる。ひとつ増えても二つ増えても大差ない気がしてくるあたりが危険だった。
ノアは半ばやけになって呟く。
「……守りたい、とは思う」
やはり、問題ない。
ノアは机に突っ伏したい衝動をこらえた。
「もうやめよう。今日はもうだめだ」
「そうですね。十分な成果はありました」
「おまえだけ妙に満足げなのやめろ」
「気のせいです」
「それも便利だな」
「重宝しております」
そこを回収しなくていい。
少しの沈黙のあと、シオンがぽつりと言う。
「ずいぶん都合のいいところだけ、問題が起きませんね」
ノアはゆっくり顔を上げた。
「……うるさい」
「否定はなさらないのですね」
「できると思うか、今の流れで」
「思いません」
即答だった。
それが腹立たしいのに、今はもう反論する気力もない。
シオンは椅子に浅く腰かけたまま、珍しく少しだけ言葉を選ぶような間を置いた。
「最近の危なっかしさの理由が、少し見えた気がします」
「見えなくていいところまで見えてるだろ、おまえ」
「たまたま検証結果がそうだっただけです」
「その“たまたま”が一番信用ならない」
「それは失礼いたしました」
まったく悪びれない。
だが、全部を言い切らないあたりが、シオンなりの遠慮なのかもしれないと思う。
いまここで「つまりそういうことですね」と整理されでもしたら、たぶんノアはその場で立ち直れなくなる。
「……今日のこと、忘れろよ」
「無理なご相談です」
「だろうな」
「ですが、他言はいたしません」
「それは助かる」
本当に助かる。
助かるが、だからといって自分の中で起きたことまで消えるわけではなかった。
検証を終えて部屋を出ると、廊下の空気は朝と同じように整っている。誰も何も知らない顔をしている。なのに、自分だけが妙に居心地悪い。顔に何か書いてあるのではないかと思うくらい落ち着かなかった。
角を曲がったところで、足を止める。
向こうからリリアが歩いてきた。
何の構えもしていなかったせいで、心臓が一拍遅れて跳ねる。さっき口にした言葉が、そのまま頭のどこかに残っているせいで、前よりずっとまずい。
リリアはノアに気づくと、いつものように静かに一礼した。
「こんにちは、ノア様」
「……こんにちは」
返事が少しだけ遅れた。
だめだ。
たぶん今、わかりやすい。
リリアは首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
その問いに、ノアは一瞬だけ言葉を失う。
どうしたもこうしたもない。さっきまで部屋の中で、自分の気持ちが嘘ではないと外堀から埋められていたなど、説明できるわけがない。
「……いや、別に何も」
どうにかそれだけ返すと、リリアは少し不思議そうにまばたきをした。
「お顔が少し赤いようですが」
「気のせいです。たぶん」
最後の一語が余計だった気がする。
たぶん、って何だ。
気のせいだと言い切ればまだよかったのに、自分で逃げ道を残してどうする。
リリアの目元がほんの少しだけやわらぐ。
「そうですか」
それ以上は追及されなかった。
されなかったことに、助かったような、少し惜しいような、わけのわからない気持ちになる。もうこの時点でだいぶ末期だと思う。
短いやりとりのあと、リリアは軽く一礼して去っていく。
その後ろ姿を見送ってから、ノアは壁に軽く額をつけた。
「最悪だ……」
背後から、聞き慣れた声が落ちてくる。
「本日二度目ですね」
振り返れば、少し離れたところにシオンが立っていた。
本当にこの男は、こういう時だけ絶妙な位置にいる。
「おまえな」
「何でしょう」
「今の見てた?」
「見ておりました」
隠す気がないのも腹が立つ。
シオンはごく静かに言った。
「問題が起きないのも、無理はないのかもしれませんね」
ノアは何も言い返せなかった。
言い返せないまま、たださっきのリリアの声と、検証の最中に平気で通ってしまった言葉を思い出す。
気になる。
落ち着かない。
好きだ。
守りたい。
そこに嘘はないらしい。
認めたくないわけではない。
でも、こんなふうに、逃げ道ごと塞がれるようにわかってしまうのは聞いていなかった。
それでも、最後にリリアの顔を見た時、自分の中にあったのは否定より動揺で、動揺よりたぶん安堵に近いものだった。
少なくとも、自分が見てきたものも、感じてきたことも、全部ただの思い違いではない。
そういう意味では、最悪で、少しだけ救いがある。
廊下の先にはいつも通りの静けさが続いている。
何も変わらない顔をしていて、その実、自分の中だけが少し前へ進んでしまったような気がした。




