20. この世に残したい
喉に引っかかりを覚えて、咳をしただけのつもりだった。
ぽたぽたと口からこぼれる血が、ルシーの白い手袋とウェディングドレスの膝に広がっていく。
「ひっ、お、お嬢様っ」
着替えのドレスを準備するためにメイドの多くはルシーのそばから離れており、そばで見ていたのは、幸い侍女のアメリ一人だけだった。
「静かに。騒がないで」
ルシーは血に塗れた手袋を外し、大きく息をついた。
思ったより冷静に、これからやるべきことが頭に浮かんでくる。
「アメリ。人払いをして、私は疲れたから一時間だけ休むと皆に伝えて。それから、レアをいつも診てくれている医者を連れてきて。赤ワインも一緒に持ってきてちょうだい」
アメリは、正確にルシーの意図を組むと動き出してくれた。
人払いをした自室で、ルシーは医師の診察を受けていた。
「吐血の原因は、肺に炎症が起き、血管を損傷したことでしょう。薬で緩和することができます」
しかし、医師は治療できると言いながら難しい顔をしたままだ。
「先生、全ておっしゃってください。病気の原因はレアと同じなんですね」
「……はい。肺ほどひどくはありませんが、体のあちこちに臓器不全、機能障害が見られます。……以前から症状が出ていたのでは」
「そうですね。よくふらつくとは思っていましたわ」
「クレマン様をお呼びした方が」
「先生。私は、あと二年はもちますわね?」
「そういうお話は、今は……」
「先生?」
ルシーは、じっと赤い瞳に魔力をのせて、医師の顔を見つめた。
精神干渉の魔法を試みる。
診察前からアメリに頼んで、精神干渉の際に使う香を焚いている。
「……はい。私が適切な処置をすれば、あと二年は大丈夫でしょう」
それを聞いて、ルシーはほっとした。
二年あれば、きっと大丈夫だ。
「先生。レアの病気は、先生が対処療法として診てくださったので、だいぶ良くなっています。私も同じ処置でお願いします」
「承知しました」
「それに、先生。このことは、公爵家のためにも内密にしておいた方がいいと思うのです。旦那様に心配をかけたくありませんもの」
「はい、承知しました。奥様」
医師は誰にも見られないようにルシーの部屋から出ていった。
医師から処方された薬を飲むと、胸のあたりがすっとして、重苦しさが引いていった。
ずっと口に出せなかったことがある。
魔塔に行っても、レアの治療方法が見つからなかったときのことだ。
むしろ見つからない可能性の方が高いとすら思っている。
そうなれば、レアは死んでしまうだろう。
(よかった。その時は、レアを一人でいかせなくて済むわ)
それと同時に、一人残すことになるクレマンのことが気がかりだった。
クレマンは、結婚すると決めた相手には、愛情深く尽くすことができる人だ。
きっと、二年も一緒にいたら、ルシーに情が移ってしまうだろう。
立ち直るのに時間がかかるかもしれない。
死ぬかもしれない自分がクレマンと結婚するのは、とても罪深いことなのだと、ルシーはそう思う。
(でも、私はもう、旦那様を失いたくない)
だから、身を引くことのできないルシーの精一杯がこれだった。
「子どもがほしい」
クレマンが愛情を注ぐことのできる相手、無条件にクレマンに愛情を返してくれる相手──そんな相手をクレマンのためにこの世に残したい。
ルシーは切実にそう思った。
◇◇◇◇◇
クレマンは、自室で湯あみをしてガウンを羽織ると、氷の入ったグラスに蒸留酒を注いだ。
今日一日の様子が思い起こされる。
大聖堂での結婚式。
ステンドグラスからの光を受けたルシーの横顔はまぶしかった。
ベールの奥から透けて見えるまっすぐでつややかな黒髪と、赤い神秘的な瞳が目に焼き付いて離れない。
宵闇の妖精。
ルシーは、そんな通り名が嘘のように、陽光の下が似合う。
いや、彼女自らが光を発しているかのようだった。
披露宴会場でも、ルシーの美しさは格別だった。
エメラルドグリーンのドレスを身にまとい、公爵夫人として彼の隣で堂々とふるまっていた彼女が、愛しくて誇らしかった。
そんな彼女に近づきたがる輩は多かったが、クレマンはもう彼女に近づく男を許すつもりはなかった。
男どもが、ひっとか、うっとか変な声をあげて去っていたのは、クレマンのその意思を感じたせいだろう。
(俺は、こんな狭量な男だったのか……いや、これは、いつぞやのような信奉者から彼女を守るためだ。夫としての義務だ)
いつの間にか空になっていたグラスに再び酒を注ぐ。
華やかに笑い、場を盛り上げていたルシーだが、実は、少し顔色が悪いことが気になっていた。
結婚式の夜は、まだ終わらないのだ。
続き部屋である夫婦共用の寝室からは、人の気配がして、そして消えていった。
ノックの音がして、執事のジャンに声をかけられる。
「奥様のご準備が整いました」
「わかった」
クレマンは酒をぐっと飲み干すと立ち上がった。
室内から隣室につながるドアをノックすると「はい」とルシーの声がした。
クレマンの寝室と、ルシーの寝室の間にある夫婦共用の寝室は、数か月前、ルシーに押し倒され、押し倒した場所でもある。
思い出すと頬が熱を持つ。
あの時は、こんな気持ちでこの部屋の扉をくぐるとは思っていなかった。
「旦那様。申し訳ありません。お酒臭くありませんか? 先ほど、部屋でワインをこぼしてしまって」
「ああ、大丈夫だ。俺も飲んでいるから」
「なら、平気ですわね。こちらにいらしてくださいな」
ルシーは、ベッドの端に腰かけてクレマンのことを待っていた。
体の線を拾う薄絹の夜着の下に、白い肌が透けて見える。
ふわりとほほ笑むルシーは、近寄りがたくて、クレマンはなんとなく距離を置いて座ってしまう。
「もう、旦那様ったら。私の裸など見慣れていらしゃるでしょうに」
「見慣れてはいない!」
そうは言ったが、ルシーに関する過去の様々な光景が頭の中に湧き上がってきて止まらない。
公爵邸では、池のそばでドレスの裾を持ち上げて足をさらすし、仕立て屋では、あろうことか下着姿で抱きついてきた。王宮では、それこそ一糸まとわぬ姿をクレマンの前にさらした。
「では、見慣れてくださいな」
ルシーが自分でネグリジェの胸元の紐を引こうとするのをクレマンは慌てて止めた。
「待て!」
「あら、申し訳ありません。ご自分でなさりたいですわよね」
「それも違う!」
ルシーといるといつも調子が崩れてばかりだ。
ただ、最近ではそれが楽しくもあった。
言うと調子に乗るだろうから絶対言わないが。
「まあ、では、どんなプレイをお望みですか? 私、実はいろいろ学んでいるんですの。お望みでしたら……」
クレマンは、ルシーの口をふさいだ。
自分の唇で。
腕の中でルシーの体から力が抜けていくのがわかる。
自分に全てをゆだねてくるこの生き物を自分のものにしてしまいたいという衝動をどうにか押さえつけると、クレマンは、ルシーから体を離した。
「今日は、ここまでだ」
「……え?」
クレマンはルシーの体を抱きしめると、そのままベッドの上掛けをめくって、倒れこんだ。
「顔色が悪い。今日はもう無理をするな」
「私は無理をしてなど」
「ならば一時間だけ寝ろ。起きられたら相手をしてやる」
「もう、約束でしてよ」
「ああ」
ルシーは五分もせずに眠りについてしまった。
クレマンは、ルシーをベッドに残したまま起き上がる。
ルシーの部屋へとつながる扉を開く。
酒の匂いが、ぷんと香る。
「そこにいるな、アメリ」
「はひっ」
寝室の隣には侍女の控えの間があって、そこには必ず侍女が控えている。
今日は、特別な日であることもあり、彼女と一番近しい侍女が控えていた。
「全部話せ」
クレマンは、どすの効いた声で、部屋の隅で縮こまる侍女を脅しつけたのだった。




