第8話
『ブルー』を出た一向は、そのまま『不可侵の医師団』へと直行した。椛の容態は重篤で、生死の狭間を彷徨っている状態だった。たまかも加わった『不可侵の医師団』の少女達は、三日三晩懸命に彼女の治療を行った。彼女は外見もボロボロだったが、体内の損傷も激しかった。大量出血に加えて骨が何本も折れ、眼球も内臓も潰れていた。火傷や打撲も酷い状態だ。切り落とされた指の先や剥がされた爪、抜かれた歯も回収することが出来ていない。それでもたまか達は、彼女の命を救うために全力を尽くした。彼女が意識を取り戻すことを最後まで諦めず、決してその手を止めることはしなかった。
椛を『ブルー』の拷問から救出してから、六日が経った。たまかは連日続いている椛の手術へ向かうため、今日も朝から『不可侵の医師団』の建物へと足を運んでいた。椛は治療の甲斐あって、一命を取り留めた。命に関わるような緊急の手術は概ね完了し、今日は骨折手術を行う予定だった。たまかが椛のベッドを覗くと、彼女は人工呼吸器の奥で目を閉じて静かに横たわっていた。脳や神経の無事を確認するために鎮静薬を調整したため、近いうちに意識が戻るはずだ。彼女がまた目を開けることを祈り、たまかは励ますような微笑みをぎこちなく作って浮かべてみせた。
緊急手術を終えた後のこの三日間は、日々の手術の後に『レッド』にも顔を出して溜まった仕事をこなしていた。水面の件についても『レッド』の者から報告を受けたが成果はなく、引き続き情報を探るよう依頼した。そうしてたまかが執務室にいると、決まって毎日梅が訪ねて来た。食事が喉を通っていないのか、その顔色は悪く少し痩せたようだった。椛の容態を連日不安そうに尋ねる顔は、心から彼女を心配していることが伝わるものだった。梅はもしかすると椛と仲が良かったのかもしれない。たまかが現状を説明すると、椛の意識が戻っていないことを悲しみつつも、一命を取り留めたと知って心から安堵したようだった。そして椛を拷問した『ブルー』への恨みを顕わにするように、小声でぶつぶつと呪詛のように憎しみを並べ立て、親指の爪をギリギリと噛んでいた。社交的で明るいイメージを持っていたが、その時の梅は不気味で少し怖かった。このように梅はあからさまに気が気でないように不安がっていたが、一方で桜もまた、ずっとそわそわとして過ごしていた。桜は梅と違って何回も訪ねてきたりはしなかったが、それでも気になって仕方がないようで、任務の合間におずおずと椛について切り出してきた。一命を取り留めたことを説明すると、桜は全身から力が抜けたようにほっと胸を撫で下ろしていた。仲間意識の低い『レッド』の象徴たる人物であるはずの桜も、なんだかんだ椛のことが大事なのだとたまかも嬉しくなった。早く二人へ椛が目を覚ましたと報告して安心させてあげたい。そんなことを考えながら、たまかは椛が寝ているベッドへと背を向けた。
病室を出て手術の準備へ向かおうとした時、『不可侵の医師団』の制服に身を包む少女がたまかを見つけて駆け寄って来た。
「たまかさん、来客です」
「……来客ですか?」
たまかは驚きを滲ませながら、彼女の言う『来客』がいるらしい待合室へと向かった。そこには、背景と不釣り合いな黒白のフリルの塊が座っていた。簡素なロビーベンチに腰かけた彼女は、たまかの姿に気が付くと長い二つ結びを揺らして顔をあげた。頭上で揺れるミニハット、現れる星と月のフェイスペイント。リップの塗られた桃色の唇は、にっと弧を描いた。
「たまか、お疲れ様。……今手術の前だろうけど、ちょっといいかな」
どうやら椛やたまかの状況について、ある程度彼女は把握しているらしい。たまかは姫月の予想外の登場に驚きながらも、頷きを返した。気が急くまま病室に椛の顔を見に来たが、実は手術の時間までは大分間がある。たまかは姫月を誘って、談話室に向かおうとした。しかし姫月は丁重にそれを断り、複数人が集うところは避けたいと申し出た。
「二人きりで会えるところですか……『不可侵の医師団』の建物だと、なかなか……」
何か重要な話があるようだと察したたまかは、隣の個人寮の共用スペースや自身の部屋を頭に思い浮かべた。しかしどちらも壁が薄いため内緒話には向かない。たまかが悩んでいると、姫月はにやりとした笑みを崩さぬまま口を開いた。
「『レッド』の彼女の病室にしよう」
「え、……もしかして椛さんの病室ですか?」
「そう。一人部屋でしょ」
椛は一連の手術が終わり次第、相部屋へ移動することになっている。そのため現在は個室である。確かに誰かに聞かれたくない会話をするには、そこが一番なのかもしれない。患者は来ないし、この時間は『不可侵の医師団』の人間も立ち入らない。
「……わかりました。こちらです」
たまかは姫月を連れて、椛の病室へと案内した。真っ白な廊下、同じく真っ白な階段室。先程通ったばかりの景色を逆進していく。
「姫月さんは、その話をするためにここまで来てくださったのですか?」
靴音を響かせながら、たまかは姫月へとそれとなく尋ねた。姫月は振り返ったたまかへ、のんびりと頷きを返した。
「うん。定例会議の日、過ぎてるじゃん。その代わり」
「……あ」
たまかははっとして思わず足を止めてしまった。それから慌てて動きを再開させ、階段をあがっていく。
「参加出来なくてすみません。椛さんの手術ですっかり頭から抜け落ちてしまっていました……。もしかして姫月さん、待ちぼうけてしまいましたか?」
申し訳なさそうに窺うと、姫月はメッシュの彩る髪を舞わせてふるふると首を横へ振った。
「いんや、うちも行ってないから大丈夫。……たまかは手術で来られないだろうって、分かってたからね」
(……え?)
椛の病室の扉が見えてきて、たまかは怪訝に思った発言を深掘りするタイミングを逃してしまった。「ここです」と言って扉をスライドさせて開ける。先程見た光景と同じ、数多の医療器具に囲まれたベッドと、その中心で目を閉じたまま横たわる椛の姿が視界に映った。姫月を中に入れ、静かに扉を閉める。たまかが部屋へと振り向くと、姫月は椛のベッドへと近づいていくところだった。椛と姫月には交流はなかったはずだ。たまかは不思議に思いながらも、その後をついていった。
「……酷いね」
ベッドに横たわる椛を見下ろし、姫月はぽつりと一言そう漏らした。包帯はほぼ全身に巻かれ、繋がったカテーテルやチューブも何本も伸びている。姫月は表情を変えなかったが、たまかはその言葉に眉尻を下げた。
「はい。……なんとか一命は取り留めましたが……右脚の先は潰れ、手の指の数は減り、片目は失明しています。火傷も広く、瘢痕拘縮や麻痺が残る可能性があります。……運動機能は著しく低下し、以前のようにはもう歩けないでしょう」
「火傷? ……アイロンか」
姫月はそれだけ言って口を閉じた。『ブルー』の倉庫に乗り込んだ際、床にアイロンが転がっていたことをたまかは思い出した。熱したアイロンの表面を、何度も爛れた肌に当て続けられたのだとしたら……想像するだけでも余りに惨い。あの時彼女の声が掠れていたのも、悲鳴を上げ続けていたからなのかもしれない。体の状態から見て、拷問は何度も長時間にわたって行われていたとしか思えない。苦痛に藻掻き苦しむ、永遠にも思える時間。いっそ死ぬ方が楽に思った時もあったかもしれない。それでも最後まで彼女は理性を残していたのだから、その胆力は尋常ではない。
「たまか」
火傷が出来た瞬間へと想像を巡らせていたたまかは、名前を呼ばれて顔をあげた。声の主である姫月は、いつの間にかたまかをじっと見つめていた。その顔は、なんだか何かの覚悟を決めたような真剣なものだった。心情が透けた声色は落ちている。姫月は真っ直ぐとたまかを射貫いたまま、言葉を続けた。
「こいつをこんな目に遭わせたのがうちだって知ったら……あんたは心の底から軽蔑するだろうね」
たまかはその言葉に頭が真っ白になった。見開いたままの瞳で、こちらを見つめてくるモデルのような華やかな顔を映す。彼女は自虐するように、僅かに笑っているようにすら見えた。しかしその瞳は、友達を失う寂しさに揺れているようにも感じられる。……意味がわからない。何を言われたのか、脳が思考することを拒否していた。
「ど、……どういうことですか?」
声が震えた。たまかの顔は険しいものに変わり、その言葉には責めるような鋭さが混じっていた。
「椛さんが死にかけたことに……姫月さんが関わっているのですか?」
たまかは『ラビット』の長へ向けて、怒りの籠った視線を向けた。思えば姫月は椛やたまかの状況について、不自然な程よく把握しているようだった。姫月が関わっていたためならば、辻褄が合う。
「私が誰かが傷つく世界を無くしたいことを……姫月さんは誰よりも知っていると思っていました。それに姫月さんだって、そんな世界は望んでいないとずっと傍で思ってきました」
だからこそ、これまで共に歩んで来られたのだ。やはり所詮は敵対組織だったということなのだろうか。……自分は姫月のことを、信用し過ぎていたのだろうか。
「どうしてこのようなことをしたのですか? ……教えてください」
たまかは目の前の顔を睨んだ。小動物のような外見のたまかが睨んでもあまり怖くは見えないが、しかしその顔を見れば怒りを湛えていることは一目瞭然だった。姫月はその顔を見て、一瞬だけ寂し気な笑みを浮かべた。すぐに視線が逸れ、『ラビット』の長の顔は横たわる少女へと下げられた。
「『レッド』の前長がここにいればやっていたであろうことを、うちが代わりにやったんだ」
「前長……、林檎さんですか?」
「今の『レッド』の長は、誰かが犠牲になるようなことを絶対にしないから。勿論あんたの意に沿わないことはわかってた」
いつまでも視線は合わない。たまかは拳を握り締めたまま、姫月の横顔を穴が空くほどに見つめていた。
「でも、それだけじゃあ得られない情報ってのは世の中に確実に存在する」
彼女の目に映るのは、ベッドの白いシーツではなく、紅色の髪を靡かせる小柄な少女だったのかもしれない。
「林檎なら犠牲を出してでも確実に情報を手に入れる。あいつは利益に絶対的価値を置くからね。AIの林檎はそうする気はなかったみたいだから、うちがやるしかないと思ったんだ。……水面の死の真相を探るためには、必要だった」
つまり、水面のために椛を切り捨てた。大事なもののために犠牲を払って情報を手に入れた。……本来そのようなやり方をするのは林檎だった。『レッド』が血も涙もないと恐れられていた所以だ。
「こんなことを言う資格はないかもしれないけど、彼女が死ななくて良かったと思ってる。これは本心だ」
「……」
たまかは唇をきつく結び、顔を下げた。目の前の少女は、『レッド』の人間を殺そうとした。それについては、許すことなど出来はしない。しかし怒りが込み上げると同時に、それ以上の悲しみが胸を支配していた。たまかは姫月のことを、敵対組織の長であると同時に友達のようにも思っていた。彼女は狂気に染まっている『ラビット』においても理由なく人を殺すことを避け、たまかの目指す世界へ共に向かってくれる盟友だった。その絆は、こんなにもあっけなく崩れてしまった。姫月はたまかの悲しみを湛えた表情を横目で見て、漸くたまかへと顔をあげた。
「……あんたに嫌われることもわかってたよ。でも、うちも譲れなかった。林檎に加えて水面まで喪って……このまま黙ってなんていられない」
彼女はとっくに覚悟を決めていた。決意を滲ませた顔は普段の彼女からは想像もつかない程真剣で、マスカラの塗られた睫毛の下の瞳は仄暗さを宿していた。彼女は何が何でも水面を殺した犯人に辿り着こうとしている。それ程までに、彼女は失ったものが大きすぎたのかもしれない。
「たまか、今ここでうちを殺してもいいよ。あんたに殺せるのならね」
『ラビット』の長としての不遜な笑みが浮かぶ。目の前にいるのは、『敵対組織のリーダー』だった。
「……」
たまかは姫月を鋭い目で睨んだ。姫月もその視線を迎え撃つ。ベッドの横にある生体情報モニターだけが、静かに心電図の波形を描き続けていた。静寂が満ちる病室で、二人は睨み合い続けた。やがてたまかの強張っていた体から、力が抜けた。たまかは深く項垂れ、力無く首を横へと振った。
「出来るわけがないでしょう。……知っていますよね」
「……」
姫月からは、何も言葉は返ってこなかった。たまかは前髪で隠れた奥で、真っ白な床をぼんやりと見下ろした。
「……私の落ち度です。敵対組織の陰謀に、上手く対処出来ませんでした。それによって、『レッド』の組織員に大怪我を負わせてしまいました」
姫月が『レッド』に危害を加えるかもしれないと微塵も想像出来なかったことが敗因だ。きっと林檎ならば相手の動きを事前に察知して、椛を早めに『ブルー』から撤退させたり、もしくは先んじて姫月を殺したり、何かしら策を講じていただろう。だからそもそも姫月を殺して解決する問題ではない。『レッド』の長として、たまかは組織員を守ることが出来なかった。椛を酷い目に遭わせてしまったのは、自分の未熟さのせいだ。
「これでは、椛さんに恨まれても仕方ありません……」
大事な組織員に、これだけの苦痛を味わわせてしまった。信じていた長はみすみす敵の陰謀を許し、そしてその仇を取る事さえ出来ない。彼女は意識が途切れる最後まで、『レッド』に尽力してくれていたというのに。椛の気持ちを考えると瞳に涙が浮かんできて、たまかは零れないように必死に瞬きを繰り返した。
「……椛さん。ごめんなさい……」
たまかはベッドで眠る彼女へ向けて、心からの謝罪を述べた。守れなかった彼女に今のたまかが出来ることは、それだけだった。隣に立つ仇を殺すことさえ、たまかには出来ない。
「……抗争に巻き込んで、ごめんね」
姫月が項垂れた頭に向かって、ぽつりと零す。敵の言葉にしては不釣り合いな程、掛けられた声は柔らかかった。そう、これが『抗争』なのだ。相手の隙をつき、敵を欺き、自分の利益だけを追及する。この抗争社会における、本来の形だ。敵を屠り、奪い、破滅に追い遣るのが世の常。姫月もその輪の中にいたに過ぎない。たまかがその輪から逸脱し過ぎていただけなのだ。そして姫月も違うのだと、愚かにもそんな幻想を勝手に抱いてしまっていただけなのだ。
「……っ」
たまかは今の抗争社会の中で、一人だけ異端な存在となっている。殺しをすることはなく、誰も傷つけたりはしない。しかしそれは……間違っていたのだろうか? 『ブルー』を襲撃するべきだと主張していた林檎と桜の顔が脳裏を過った。一人だけ抗争社会の輪から外れても、何も守れやしないのだろうか? 最後に会ったにこやかな椛の顔、そして共に財団の悪事に立ち向かい、三者会談で案を出し合った姫月の顔が脳裏を過ぎった。姫月を疑い、姫月を先に殺すことが——『レッド』の長として正しい選択だったのだろうか?
「……それでも……」
たまかは項垂れた下で、ぽつりと吐き出した。拳を握り、震えるか細い声で続ける。
「……それでも私は……姫月さんを殺したくありません。殺せません。ごめんなさい……」
椛へ心情を正直に吐き出す。例え間違っていたとしても。どんなに正しくないとしても。大事な組織員を嵌めた相手だとしても。人を傷つけないことはたまかの信念であり、林檎に誓った未来でもある。姫月が水面のためならば犠牲を出すことも厭わなかったように、たまかにも人を傷つけないことは決して譲れないのだ。それくらいならば自分が死ぬ。それ程までに曲げられない、たまかを構成する根っこの部分だ。例え椛へ出来る償いが姫月を殺すことだけだったとしても、たまかに選ぶことは出来ない。静寂ばかりが返って来ることがわかっていても、たまかは謝罪の言葉を再び喉の奥から絞り出した。
不意に、パフンパフンという、布を軽く叩くような小さな音が聞こえてきた。不自然な音に、たまかはそろそろと顔をあげた。音の出所は、ベッドの上だった。いくつものチューブをつけた先、包帯の巻かれた人差し指が、シーツの上を柔らかく叩いていた。
「……っ!」
たまかは弾かれたようにベッドへ身を乗り出した。人工呼吸器の奥で、包帯の巻かれていない瞳が薄く開いていた。その視線は真っ直ぐとたまかへ向けられている。話すことの出来ない口は、それでも僅かに口角をあげていた。
「意識が戻ったんですね……!」
堪えていた涙がついに零れていってしまった。たまかは心の底から安堵し、力が抜けて思わずへたり込みそうになった。……本当に良かった。尊い命が消えることなく、再びこの世に力強く灯ったのだ。
「……」
横たわった彼女の表情は、決してたまかを責めてはいなかった。いつから意識が戻っていたのかは定かではないが、しかし直前の言葉は確実に聞こえていたはずだ。柔らかい笑みはいつもより元気がないが、それでも彼女は否定的な感情を浮かべてはいなかった。そしてその視線はゆっくりと移り、横の姫月を見上げた。
「……」
椛は姫月へと同じように微笑みを浮かべた。人工呼吸器が邪魔となって僅かにしか口角はあがらないが、それでもその顔に憎しみは微塵もないのが見て取れた。それを見て、姫月は驚いたように固まっていた。
「……うちのことも許すの?」
戸惑いの滲んだ声に、椛は顎を小さく引いた。頷いたのだろう。姫月は呆然としてその顔を見下ろした。
「……今の『レッド』は皆こうなわけ? それとも油断させようとしてる?」
姫月は苦笑いを浮かべた。引き攣った頬は、信じられないと言わんばかりだ。
「……」
たまかは姫月を見上げる椛をぼんやりと見つめていた。彼女とたまかは、全く異なる。考え方も違うし、彼女は敵を傷つけることに対して過剰な忌諱感はないはずだ。そんな彼女が、どうしてたまかの考え方に同調してくれているのだろうか。『レッド』の合理的な考えに則れば、自身が被った損害に対してメリットが釣り合わなければ納得などしないはずなのに。
(メリット……)
そこまで考えて、たまかははたと姫月へ顔を向けた。
「姫月さん。……それで結局、水面さんの死の真相に近づくような何かは得られたのですか?」
椛の犠牲を出してまで行動を起こした結果について、彼女はまだ一言も触れていない。姫月はその言葉に、ぎこちなくたまかへと顔を向けた。
「……そうだね。絶交する前に、その情報は『レッド』にも共有しておくべきだ」
姫月は強張った笑みを作って頷いた。そして、ベッドの中を見下ろす。
「あんたもこんな体になるまで頑張ったんだ、聴く権利があるだろう」
そう言った後、姫月は小さく深呼吸を挟んだ。顔付きを変える。そして静かな病室に、声を響かせ始めた。
「うちは水面の死の件について出来る限り情報を探っていたんだけど、全く手掛かりがない状態が続いていてね。だからちょっと参っちゃってて。そんな時、方舟と鳩の二人が部屋に遊びにきたんだ。方舟は『ラビット』のメンバー、鳩は『ラビット』の元メンバーのAI。『ラビット』の皆は『ブルー』に影響を受けたのか嫌に好戦的で、最近は積極的に襲撃に出向いてアジトにいないことが増えてた。だから珍しいなって思って、休憩がてら彼女達の話を聞くことにしたんだ」
鳩の名が出てきた途端、たまかの体は小さく強張った。胸に渦巻く、様々な感情。それに気付いているのかいないのか、姫月はそのまま言葉を続けた。
「……でも、その内容に違和感があってね。鳩は仕切りに『レッド』に乗り込もうと方舟を誘ってた。今の『レッド』は『ラビット』の子を無闇に傷つけられないから、殺して遊ぶのは簡単だってね。あんまりしつこくせがんでいたから、『たまかに嫌われるよ』って口を出したの。そうしたら鳩は、むしろそのためにやるんだって返した。もうたまかちゃんは友達じゃなくなったから手足を捥いで皆殺したい、って」
たまかはいたたまれずに顔を伏せた。最後に会った鳩の顔が蘇る。
「さらには姫月ちゃんにも協力して欲しいとも言われた。ポポに酷いこと言うたまかちゃんなんて許せないでしょ、って。だけどさ……鳩って、そういう子じゃあないんだよね」
しみじみと続いた言葉に、たまかは思わず顔をあげた。姫月は在りし日々を思い起こすように、遠い目をしていた。
「あの子は何と言うか、すごく愛嬌がある子でさ……確かに押しが強い部分もあるんだけど、相手が嫌なことはきちんと見抜いて避けるというか。あれやりたいこれがいいって主張するわりには、相手の意見を尊重するタイプなんだよね。それに一度友達になった子と喧嘩したからって、相手を憎むようなタイプでもない。だから鳩のたまかへの態度を見て、凄く不審に思ったんだ。本来の鳩は絶対にこんなことは言わないだろうって。さらに言えば鳩は遊ぶのは好きだけど、積極的に抗争に乗り込みに行くタイプじゃない。だから方舟にしつこすぎるのも違和感があった。少なくとも生前は、そこまでせがんでいるのは一度も見たことがない」
姫月は『ラビット』のメンバーを大事にし、全員と友達のように親しく接している。そして彼女は、誰よりも『ラビット』の少女達をよく見ている。監視や戦力を目的としているわけではなく、単純に仲良くなるために。そのため姫月が見ているのは性格や内面、好みなどが中心だ。そしてそれは勿論、鳩に対しても同じだったはずだ。だからこそ、故人を完璧に模倣しているはずのAIが見せた、些細な違和感を彼女は察知出来たのだろう。
「つまり死者を完璧に再現しているように思えたAIが、突然本人の言動にそぐわないような行動を取り始めた。まあ鳩がたまかにキレたと思えばギリギリするかもくらいの温度感ではあったんだけど、でも今までの完璧な再現性から考えると、やっぱりおかしいと思って。で、気付いたんだ。最近『ラビット』の子達が積極的に他に乗り込んでいるのは、皆こんな風にAIに扇動されていたからなんじゃないか、って」
『ブルー』は手を付けられないほどに暴れて強奪や虐殺を繰り返しているが、その陰で『ラビット』もまた、様々な組織へ乗り込んで殺戮を繰り返していた。『レッド』も数多被害を受け、『不可侵の医師団』でも『ブルー』に次いで多く運ばれるのは『ラビット』に襲われた患者だ。抗争よりも楽しさを優先するはずの『ラビット』だが、最近は血の気の多さが目立つようになっていた。『ブルー』に当てられたのだと思っていたが、もしそれが誰かの差し金だったのだとすれば。
「結果はビンゴ。『ラビット』の子達のほとんどが、AI主導で抗争を仕掛けにいってたことがわかった」
姫月でも気付くのに遅れたということは、AIは周りに悟られることなく上手く『ラビット』の少女達を誘導していたのだろう。AIに依存する者が増えている今、それも難しいことではない。
「だからね……AIに何か絡繰りがあるんじゃないかと思ったんだ。もともと『グリーン』の目的は見えていなかった。今までは大人しかったけど、もしかするとこれが目的でAIを売りつけたのかもしれない、って」
『グリーン』の目的は謎に包まれており、AIを売りつける狙いも見えていなかった。金稼ぎにしては金に執着がなく、三大組織の傘下に入ることも自ら蹴って断り続けた。そんな中訪れた、『ブルー』の総大将の突然の死。そして不自然な綻びの見えてきたAI。情勢を掻き乱すような動きを見て、『ラビット』の長として怪しい匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
「でもそれだけじゃ疑念のままだ、だから決定的な証拠が欲しくて探りを入れることにした。買ったAIの一人、紬って子を呼んで、うちはある情報を流した。紬は『ラビット』には珍しいタイプの子でね、殺戮を好む感じではないし、大人しくて倫理観もしっかりしている。つまり大事な情報を安易に周囲に漏らしたりしないタイプだ」
「情報……まさか」
たまかは思わず言葉を漏らして、眉間に皺を寄せた。
「うん。『ブルー』に『レッド』の奴がスパイに入ってるって、雑談に混じってそれとなく教えたんだ。それでうっかりを装って、誰にも言うなって釘を刺しておいた。三者会談で見かけた時からこいつが『レッド』のスパイであろうことは予測がついてたからね、ついでに身体的特徴も全部流しておいた。本来の紬だったら、うちとの二人だけの秘密としてその情報は胸にしまっておいてくれるはずだ。AIは完璧に死者を模倣しているからね」
姫月は『ラビット』の少女達の分析に長け、そして彼女達を信頼している。姫月が言うなら間違いないのだろう。一度口を閉じた姫月は、怪し気に笑みを零した。
「でも、結果は見ての通りだ。紬は『ブルー』に知り合いなんて一人もいない。それに『ブルー』はAIを敵視しているから、内部にAIは一台もない。にもかかわらず、『ブルー』は何処からか『レッド』のスパイの情報を得て、彼女に制裁を加えた」
『ラビット』のAIにだけ、こっそりと漏らした情報。何故かその情報は組織を跨り、『ブルー』へと流れている。
「つまりさ……AIの知った情報が、全部『グリーン』にわたってないと説明がつかないんだよ。そんで『グリーン』は、情報を作為的に『ブルー』に流せる仕組みを持っている」
「……」
「なんでだと思う? ……『ブルー』を潰す意図があるからとしか言えなくない?」
『レッド』が『ブルー』のメンバーを殺したと虚偽の情報が流れ、それによって青空が乗り込んできた記憶がたまかの脳内に過った。強張った顔で、念を押すように慎重に尋ねる。
「……。……ツムギさんの気が変わって、『ブルー』の方に接触して教えた、あるいは情報屋に売った可能性はありませんか」
「ないね。……まあ、林檎なら制服に盗聴器でも仕込んでその可能性を完全に潰すんだろうけど。プライベートに踏み込み過ぎない範囲で、うちもその辺は出来る限り対策をしておいたんだ。紬とよく一緒にいる虹に頼んで、彼女の行動を注意して見てもらっておいた。紬が出かける時は必ず傍に虹がいたけど、『ブルー』の子とも情報屋とも一度も接触していなかったらしい。『ブルー』のアジトには、近づくことすらしていない」
確実にツムギしか知り得ないはずの情報が、接触のなかった『ブルー』に知れ渡っているということになる。椛が拷問されたことが、何よりの証拠だ。『レッド』のスパイという情報を選んだのは、目に見えてわかる形で検証の結果が出るという理由もあったのだろう。
「……」
ツムギと『ブルー』に接触がなかった以上、『ブルー』に情報が流れるには何かしらを経由する必要がある。虹によるとツムギは怪しい者への接触はなかった。つまり開発者である『グリーン』以外に情報を抜ける者はいない。そしてその情報を意図的に『ブルー』に流したのだとすれば、そこには明らかな思惑が存在することになる。
「勿論、信じるか信じないかはあんたの自由だ。たまかから見れば今のが完全に作り話で、『レッド』のスパイの情報をうちが直接『ブルー』に流した可能性だってあり得るだろう」
姫月は長い睫毛を揺らし、その目を鋭くした。
「でもね、うちは今回の件で確信できたよ。AIは『グリーン』なりの抗争の兵器だったんだって。AIを使って情報を抜き、他組織を扇動しているのを実際に確認したからね。『グリーン』は他組織を潰すため、水面下で着実に動いている。そしてその矛先は三大組織だ。今回の件の結果を見ればわかる」
『ブルー』は『レッド』がスパイを紛れ込ませていたと知って、『レッド』への憎しみをさらに募らせていた。倉庫を見張っていた『ブルー』の者が『レッド』の手で殺されたことも大きい。たまかが椛の手術に明け暮れている間、『レッド』は何度も『ブルー』の襲撃を受けていた。『レッド』側の死傷者は山のように増え、『レッド』も武力行使で迎え撃たざるを得ない状況に追い遣られている。先日の梅の発砲が皮切りとなり、『ブルー』と『レッド』は本格的に衝突し始めている。両組織とも死者の数は連日増え続け、積極的に抗争を仕掛けている『ラビット』もまた、似たような状況だ。『ブルー』に情報を意図的に流したのならば、まさにこの現状こそ狙っていたものなのだろう。他組織にとっては姫月とたまかは敵同士に映っているため、『ラビット』のAIが情報源だと『レッド』側に知られる心配もなかったはずだ。
姫月は黒いレースに包まれた拳を握り締めた。その顔は、怒りに燃えている。
「水面の死にも、確実に『グリーン』が絡んでいる。ここまで水面下で事を運んでいるのなら、『ブルー』の総大将が死ぬことも計算に入っていたとしか思えない。それに『グリーン』が情報を抜いたのが、今回だけのはずはないんだ。水面はAIに賛成派で常にAIと共にいたから、あいつの弱点を探るなんて造作も無かっただろう。あいつの情報は常に抜かれていたと見た方がいい」
水面は死ぬ間際、『グリーン』の機械を壊しに向かった。AIや『グリーン』に肯定的だった水面にしては、違和感の残る行動だった。しかし姫月の話によれば、AIは情報を抜いて扇動出来る。つまり弱点を把握して依存させ、意のままに操ることが出来るということだ。もし水面の不可解な行動を、AI、そして『グリーン』が仕組んでいたのだとすれば。……水面は、『グリーン』に殺されたことになる。
「AIの驚異的な死者の再現性、それがどうやって作られているのかはずっと謎のままだったよね。死者を完璧に再現しているのは、死者に未練がある人の弱みに付け込むためなんだろう。だけどその情報の入手先は、全くわかってない。だからうちは、そこから切り込もうと思ってる。AIには『グリーン』が知り得ないような情報すらもプログラミングされているけど、この状況を見るに正規の手段だけで集めてはいないはずだ。そこから『グリーン』の不正を追って、証拠や弱点を掴もうと思ってる」
今回の椛の件で、姫月の視野は二倍にも三倍にも広がったらしい。水面の死にAIや『グリーン』が関わっているという確証を得た彼女は、確実にたまかよりも先の盤面を見通していた。
「……」
たまかにとって、目の前の『ラビット』の長は、『レッド』の組織員を『ブルー』に売った人間だ。彼女の話、そしてAIや『グリーン』が水面の死に絡んでいるという考えを、安易に信じて良いのだろうかという葛藤に苛まれた。今まで彼女を疑うことなく信じてきたせいで、椛を危険な目に遭わせてしまったというのに。たまかは姫月に何と声を掛けて良いのかわからずに、無言で小さく俯いた。姫月もたまかの心中を察したようで、話を切り上げるようにたまかへと体を向けた。黒い厚底の靴が、病室の白い床を小さく叩いた。
「これが最後になるかもね、たまか。うちは引き続き、水面の死を探ろうと思う。正直あんたが関わったとは思ってないから……何か情報が必要になった時は、また声を掛けて。何か得られたら、そっちにもくれてやる」
姫月はそう言い残すと、最後にベッドを横目で一瞥した。そして足を踏み出し、たまかの横を通り過ぎて行った。彼女の背中についていく、メッシュの入った二つの長い白髪の束。まるで別れを惜しむかのようにふわりと靡き、視界から消えていった。たまかは扉へ向かう彼女の背中を静かに振り返った。姫月は振り向くことなく、そのまま扉の奥へと去っていった。厚底の鳴らす靴音は、すぐに小さくなって遠くへ消えてしまった。病室に一人立って項垂れる小さな背中を、ベッドに横たわった怪我人は力無く見上げていたのだった。
翌日。たまかはいつものように、椛の病室の前へとやってきた。ノックをする背中は元気がないように丸まっている。昨日はいろいろと考えることが多く、あまり寝付けなかった。姫月が『不可侵の医師団』を離れた後、手術を終えて『レッド』へ向かったたまかは、桜達へ情報の共有をし、そして『ラビット』への警戒を強めるように要請をした。姫月はたまかのことを疑っていなかったため、『レッド』に抗争を仕掛けるような指示は出さないだろう。だが今の彼女は、水面の死の真相に迫るためならきっとなんでもやる。
「……」
姫月の去り際の顔を思い起こし、たまかは扉の前で悲し気に項垂れた。姫月のことは、同じ方向を向く盟友だと思っていた。たまかの身近な人を危険に晒すような真似をするなど、想像もしていなかった。裏切られたように感じて、深い悲しみと悔しさ、そして怒りが湧き起こる。しかしこの抗争社会では、彼女の行為は当たり前なのだということもわかっている。それを未然に防ぐことが出来なかったのは、偏に自分が未熟だったからだ。この抗争社会に適合出来ず、『レッド』の長として余りにも力不足だったというだけだ。そのせいで椛に辛い思いをさせ、二度と元の体に戻れなくさせてしまった。罪悪感が肩に重くのしかかる。椛にどんな顔で会えばいいのか、正直わからなかった。
自身を指名した前長の顔が、たまかの脳裏を過る。自分は『レッド』の長として、選択を間違えたのだろうか。トップに立つに相応しくない人間なのだろうか。それらの不安を振り払うように、たまかは目の前の扉へと手を伸ばした。
(それでも今の私に、出来ることをしなければなりません)
まずは大怪我を負った椛の治療に専念しなければならない。『不可侵の医師団』の医療従事者であるたまかの本分だ。そして『ラビット』や『グリーン』、猛攻している『ブルー』を警戒し、適切に対処していかねばならない。水面の死の真相を探る手も止めず、昨日の姫月の話を考慮して『グリーン』の情報をより深く集める必要もある。立ち止まってなどいられない。姫月、椛、林檎、水面、そして水波や青空、桜や灯、茜。様々な顔が浮かび、様々な感情がたまかの胸を支配する。それでも一歩一歩進むのだ。理想の世界へ向けて、確実に。それが彼女達に対する誠意だ。
扉をスライドさせ、病室へと一歩を踏み出す。丸まっていた純白の背中が、ピンと伸びた。
「あっ、たまかさん。やっほ~」
暢気な挨拶が聞こえてきて、たまかは思わずぎょっとした。慌ててベッドを振り向くと、怪我人がにこやかに片手を振っていた。チューブが繋がっているからかまだ力が戻っていないからか、その動きはいつも通りとはいかずにぎこちない。密会の時に彼女がいつもする仕草だが、その指は包帯が幾重にも巻かれて太くなっている。
「い、……椛さん。まだ喉が痛むでしょう、喋らないでください」
たまかは堪らずベッドへ駆け寄った。人工呼吸器が取れたのはつい昨日のことだ。酸素マスクは今朝取れたようだが、喉の痛みはまだまだ残っているだろう。声を聞いた感じは嗄れてはいないようだが、言葉の節々に掠れが残っている。まだ発声は辛いはずだ。
「昨日『ラビット』の長が散々長話を聞かせてきたじゃない? お陰で言いたいことが沢山あって」
椛は肩を竦めるように体を小さく揺らした。……酷い拷問を受けた後のはずなのに、彼女は驚く程いつも通りだった。あるいはたまかを心配させないように、わざとそう振舞っているのかもしれない。飄々としたいつもの姿に、たまかは安堵とともに胸がじんわりと熱くなった。その瞳が潤んでいく。……本当に、良かった。それを悟られないように、わざとらしく大仰に身を乗り出す。
「そのお話は、後日お聞きします。今はただ、回復に専念してください」
「いやいや、そういうわけにもいかないよ。私からも、たまかさんへ持ち帰った情報があるしね」
彼女はそこで一度言葉を止め、力無く咳き込んだ。たまかが背中を摩ろうと手を伸ばすと、彼女の体はビクリと大きく跳ねてそれを避けた。たまかの手が宙で止まる。彼女は咳を落ち着かせながら、ゆっくりと呼吸を繰り返した。
「あー……ごめん。体が反応しちゃうんだよね。たまかさんを怖がってるわけじゃないよ」
彼女は苦笑を漏らした。拷問の記憶が、体にこびりついているのだろう。たまかは伸ばしかけたままだった手を、静かに引っ込めた。
「そんな顔しないで。大丈夫だから」
たまかの泣きそうな顔を見上げ、椛は弱々しく微笑んだ。たまかは涙を堪えるように、こくこくと必死に頷いた。
「もしかしてたまかさん、私がこうなったことに罪悪感抱いてる?」
たまかの顔を下から覗き込み、椛は小さく首を傾げた。
「なら全然そんな必要ないよ。こうなることも覚悟した上でスパイをやってたんだから」
椛は自身の包帯だらけの手と足を見下ろし、「想像以上に高くついちゃったけどねえ」とお道化たように笑みを浮かべた。たまかは一緒になって笑みを作ることは出来なかった。彼女はやはり喉が痛むようで再び咳き込み、呼吸を整えるとともにたまかを見上げた。
「……あれ、もしかして信じてない?」
未だ曇ったままの悲し気な顔を見て、椛は包帯の巻かれていない片目をパチパチと瞬かせた。
「本心だよ? 昨日『ラビット』の長も言ってたけど、これは本来朱宮さまのやり方なんだ。私という駒は失うけど、その分手に入れられる情報の価値は大きい。『グリーン』がAIを通じて情報を抜いていることが、確実になるからね。その後の動きの足掛かりにも出来るし、敵も明確になるこれ以上ない貴重な情報だ。私以上の価値がある……朱宮さまが生きていたら、たぶん同じ方法を使ってたよ。『ラビット』の長がやらなくてもね。だから私は、『ラビット』の長に対してはあんまり憎しみとかは感じてないんだ。とんでもなく痛かったし辛かったけど、その行動自体は納得できるからさ」
あの髪を引っ張ってやるくらいはしたいけどね、と茶化して付け加えた後、彼女は激しく咳き込んだ。背中を摩るわけにもいかず、たまかははらはらとそれを見守った。
「……もし私に遠慮して『ラビット』の長と距離を取ろうとしているなら、それは必要ないよ。たまかさん、いつも三者会談で縹や『ラビット』の長と気兼ねなく話してたでしょ。『レッド』の長になった今、そういう風に話せる人って他にいなかったんじゃないかな。たまかさんにとって、あの子は大事な人だったんじゃないの?」
「……」
椛に優し気な眼差しを向けられ、たまかは思わず視線を下げた。なんと口にしてよいのかわからなかった。胸の中の感情は、ぐちゃぐちゃだ。
「それに実利的な話をするとね、交流があれば盗聴やスパイの必要なく『ラビット』の情報を得られるんだから、かなりお得だよ。『レッド』だけでは見えてこない盤面も、彼女の視点や協力があれば見通すことが出来るかもしれない。……だからね、『レッド』の得る利益として考えても、彼女と交流を続ける意義は大きい。私のためを思うなら、たまかさんと『ラビット』の長には、これまでの関係でいて欲しいな~って」
椛はにこやかに笑みを作った。きっと彼女は、たまかと姫月が唯一無二の盟友だったことを理解している。メリットがあるという思惑も『レッド』の組織員らしい本心ではあろうが、彼女の言葉の真のところはたまかを想ってくれているのだろう。
「……。ありがとうございます」
たまかは椛へとぎこちなく礼を述べた。それから、落ちた声色で小さく続ける。
「ちょっと……姫月さんが椛さんを『ブルー』へ売ったことが、どうしてもショックで。感情の整理が付かないんです。でも、この抗争社会においてはそんなの当たり前だってことも理解しています。だから本当は、私がそれを防がなくちゃいけなかったんです。姫月さんは悪くありません。……私が予想出来ず、何も出来なかっただけなんです。私が『レッド』の長として未熟だったんです……でも、それでもやっぱり、彼女はそんなことをしないって思っていたから……悲しく感じてしまうんです」
「……」
友達のように、思ってしまっていたから。たまかはそこで、はっとしたように顔をあげた。
「す、すみません。今は椛さんの方がお辛いのに」
たまかはぱたぱたと両手を振り、先程の発言を掻き消そうとした。それを見て、ボロボロの怪我人はけらけらと笑った。
「あはは、なんで? もっと弱音も吐き出してよ。裏切られたんだから、悲しんだり怒ったりするのは当然。まったく、押し付けられた長なんてやってられないよねえ」
椛の顔は明るかった。予想外の反応に、たまかは言葉を返すことが出来ずにおずおずと口を閉じた。
「未熟、かあ。たまかさんはちょっと勘違いしてるかもね。朱宮さまが君を次期リーダーに任命したのは、『レッド』の長を完璧にこなして欲しかったからじゃないと思うよ」
たまかはこれまで、『不可侵の医師団』に所属する平凡な一般人だった。抗争に参加することもなく、人を傷つけることもしない、組織間の権謀術数とは全く無縁の人間だった。『レッド』の長の席に座った今でも、他の組織からは『抗争のことを何も知らない赤ちゃん』と見縊られている。事実、それは正しい。そしてそれは、たまかを任命した林檎もわかっていたはずだ。
「何が何でも誰も傷つけないところとか、立ち止まることはあっても決して折れずに貫き通すところとか、たまかさんのそういうところを買ったからこそ、朱宮さまはたまかさんを選んだんだと思う。だからたまかさんは、たまかさんらしくいることこそが『レッド』の長としての仕事だよ。『ラビット』の長を殺さないこと、私を助け出してくれたこと……それは他の人が長になってたら、起こりえない未来だった。今でも充分、たまかさんは役割を果たしているんだよ」
裏切りを見越して先に始末することをせず、さらに自白を受けてもなお殺さなかった姫月。敵に顔を知られたスパイだとしても切り捨てることなく、すぐさま救出へ駆け付けて懸命に治療を続けた椛。たまかが選び取った選択により、彼女達は生きている。
「私の情報を『ブルー』に流されることを防げなかったのはしょうがないよ。抗争に慣れていないたまかさんの価値観じゃ、想像つかなかっただろうからね。私はそこを恨んでなんていないし、むしろ切り捨てずにこうやって治療してくれたことに感謝してる。『ブルー』に顔を知られた私を生かすメリットって、『レッド』にとっては薄いもの」
「……人が生きるのに、メリットがあるかどうかなんて関係ありません」
「うんうん、そうだよね。それでこそたまかさんだ」
小さく口を挟んだたまかへ、椛は嬉しそうに頷いた。彼女は軽く咳き込んだあと、再びたまかを見上げた。
「だからね、たまかさんが罪悪感や未熟さを覚える必要はないの。『ラビット』の長への感情も別に悪いことじゃないよ、たまかさんは彼女を敵対組織の長じゃなくて盟友だと思ってたんだから。ちゃんと『喧嘩』すればいい。友達としてね」
「……」
「たまかさんはそういうの苦手そうだけどねえ。だから私がアドバイスしてあげる、まずは弁慶の泣き所を狙え!」
明るく笑い声を響かせる椛に、たまかも釣られて口角をあげた。その笑顔はぎこちなかったが、椛の笑顔を見ていると少し元気を貰えた気がした。
(喧嘩……)
抗争では、敵対組織の情報を流すことも裏切ることも当たり前だ。そう自分に言い聞かせて、自分の中の感情を押し込めようとしていた。しかし敵対組織の長ではなく友達に対してなら、このどうしようもなく溢れる悲しみをぶつけてみてもいいのかもしれない。椛の言葉で、たまかは初めてそう思うことが出来た。聞こえていた笑い声が止み、病室に静けさが満ちる。
「……前にさ、大切な人が組織に入る前に殺された、って言ったじゃない?」
声量を落とし、穏やかな声で椛はそう切り出した。彼女はたまかを柔らかな眼差しで見つめていた。
「その子、『不可侵の医師団』に入ることを夢見てたの」
「……え……」
「小さい頃からずっとね。生きてたら、今頃たまかさんと一緒に治療に奔走していたかもしれない。あの子も君も優しいから、絶対仲良くなれてたよ」
彼女は亡くなった少女を映すように、目を細めた。
「たまに思うんだ。たまかさんが治療している姿を見て、まるであの子が『不可侵の医師団』に入れた姿みたいだって」
叶わなかった未来、恐らく『ブルー』によって潰された少女の将来。たまかの姿は、まるで彼女の手の届かなかった輝かしい未来の姿。椛には、たまかと彼女が重なって映る瞬間があったのかもしれない。
「あの子の分も、沢山の人を救ってほしい。あとね、君があんまり悲しい顔をしていないと、私も嬉しいかな」
遠くを見ていた視線はたまかへと戻り、彼女は屈託なく笑いかけた。彼女は年上に見えるからか、いつもたまかを優しく見守ってくれている。彼女に感謝しながら、たまかも微笑みを返した。椛の大切だった人、たまかの会うことの出来なかった少女。その子のためにも、これからも誰も傷つけない道を歩んでいくべきだ。例え抗争社会の輪から、たった一人外れてしまっていようとも。椛の言う通り、それはきっと長として未熟なわけではない。ただ己の信じる道を、突き進んでいるだけなのだろうから。
「そうだ、そろそろ『ブルー』から持ち帰った情報を共有してもいいかな?」
椛はそう尋ねて首を傾げた。たまかはその言葉に、眉尻を下げて首を横へ振った。
「これ以上は喉を傷めてしまいます、その辺りはまた後日お伺いします」
「いやあ、平気だよ? というか、なるべく今の私は情報を保持しているべきじゃあないと思うんだよね。『ブルー』がここまで追いかけてきて、始末するかもしれないから」
椛は窓の外、そして閉まった扉を一瞥した。『ブルー』は裏切り者を決して許しはしない。ここまで殺しに来る可能性も充分ある。大怪我を負っているため、椛が『不可侵の医師団』にいることは彼女達も察しているだろう。
「……」
「『不可侵の医師団』に迷惑をかけないようになるべく早く出ていこうとは思ってるんだけど、まだ自力で動けないからねえ。とりあえず身軽にして、私だけが持つ情報が無いようにしておきたいの」
椛の言葉に、たまかはそれでも静かに首を横に振った。
「一通り手術が終わったら、すぐに『レッド』で保護しましょう。『ブルー』のことは、その時にお伺いします。……気持ちは分かりますが、どうか今は喉を労わってください」
これは『レッド』の長としての言葉ではなく、『不可侵の医師団』の一員としての言葉だ。椛は意見を曲げる気のないたまかの顔を見て、小さく肩を竦めてみせた。
「じゃあ、明日。明日『レッド』に運んで欲しい」
「あ……明日ですか? 術後感染や容態が急変した場合に対応できる設備が『レッド』にはありませんから……」
「たまかさんがいれば大丈夫だよ」
あっけらかんと言い切られ、たまかは口を噤んだ。確かに椛が『レッド』へ移ったあとも毎日容態を確認して治療を続けようとは思っていたが、何せ向こうには医療設備はない。大がかりな手術は終わったとはいえ、体の損傷具合を考えると一定期間は『不可侵の医師団』にいるべきだ。
「それにさ……ここはちょっと静か過ぎて。一人だと、あんまりよくない記憶が蘇っちゃうからさ」
椛は視線を逸らし、小さくそう零した。暗い表情を笑みで誤魔化す。恐らくPTSDの侵入症状だ。話し相手がいた方が、拷問時のフラッシュバックに苛まれることは少なくなるのかもしれない。たまかはその言葉に、ついに折れた。
「……わかりました。明日、皮膚移植手術後に問題がなければ、『レッド』に移りましょう。ですから今日は、これ以上は喋らないでくださいね。喉を労わることも、患者の仕事の一つですから」
たまかが渋々と認めると、椛は満面の笑みで頷いた。言いつけ通り、彼女は声を出すことなくにこにことしている。たまかはその調子の良さに苦笑を零し、ベッドから体を離した。改めて背筋を正し、「今日はこれから手と足の切断断端形成術です。……頑張りましょう」と声を掛けた。彼女はそれにも、言葉なく静かに頷いて見せたのだった。
翌日、『レッド』は秘密裏に元スパイをアジトへ運び込み、彼女を保護した。『レッド』の領地に椛がいるのは、たまかにとってはなんだか新鮮に映った。空いていた一室のベッドに椛を横たえ、『不可侵の医師団』から借りてきた医療器具をてきぱきと配置していく。たまかが一人忙しなく動いている間、椛のベッドの周りには桜、梅、灯、茜が集っていた。彼女達は椛を『不可侵の医師団』から『レッド』へ運ぶのに協力してくれた者達だ。たまかが治療環境を整えている間、彼女達には椛の様子を見ておくように頼んでおいた。移動時は周りに悟られないよう慎重に行動していたため、漸く落ち着いて話せる時間が訪れたことになる。椛は少女達の顔を見渡し、「いや~すまないねえ」と軽い口調ながらも申し訳なさそうに礼を述べていた。
「い、椛ぁ……!」
梅はベッドへ大きく身を乗り出し、今にも泣き出しそうになりながら椛の名前を呼んだ。『不可侵の医師団』から運び込む間、声を掛けたいのをずっと堪えていたのだろう。
「おー、梅のAIだね。凄いね、そっくりだ」
椛は至近距離まで近づけられた顔にも動じず、感心したように悠々と彼女を観察していた。
「というか、髪切った? 死ぬ間際はこんな感じの髪型だったの?」
椛はその片目で梅の頭を右から左から仕切りに眺めた。ショートカットの、後ろで編み込んだハーフアップヘアー。椛は物珍しそうにしていたが、やがてその口角が嬉しそうに跳ねた。
「私とお揃いじゃん」
その言葉に、梅は照れ臭そうに顎を引いた。
「い、今する話じゃ、ないよねえ……」
「いやいや、気になるでしょ」
きっと二人が『レッド』にいた頃も、このような感じで話をしていたのだろう。涙声だった梅は、懐かしさに堪え切れなかったのかついに堰を切ったように泣き出した。たまかは手を動かしながらもその会話を耳にし、梅をどこかで見たことがあるような気がしていたことを思い出した。椛の言葉で漸く腑に落ちた。この既視感は、椛だったのだ。
「えっと、君が茜。そんで、君が灯だよね。二人共、ここまで運んでくれてありがとう」
泣いている梅の頭を包帯塗れの片手で撫でながら、椛は顔をあげて二人の顔を見渡した。たまかが財団から追われていた時に三人は面識があったはずだが、その時は椛は『ブルー』の人間として振舞っていた。『レッド』の人間として言葉を交わすのは、もしかするとこれが初めてなのかもしれない。
「『ブルー』のスパイの任務、お疲れ様でした」
茜はそう言葉を返し、労うように笑みを作った。この態度からして、恐らく椛の方がだいぶ先輩なのだろう。
「『ブルー』関連の話になった時、いつも梅ちゃんと桜ちゃんが椛ちゃんのことを信頼しているのが伝わってきていたわ。こうして話すことが出来て嬉しい。これからよろしくね」
灯も温かく歓迎し、穏やかな笑みを向ける。椛も笑みで応じた。
「……」
そんな椛を、桜は終始無言で見つめていた。熱い視線の割に、その唇はピタリと閉じられたままだ。不意に、椛の顔が彼女の方へと向いた。桜はビクリと体を強張らせていた。
「桜。……ごめんね。『ブルー』のスパイ任務、最後までやり遂げられなかった。せっかく朱宮さまに抜擢してもらったのにさ……情けない体たらくで、本当にごめん」
「……」
先程までとは違う暗い声。椛の顔には影が差していた。茶化しの一切ない真面目な謝罪は、彼女の本音を表しているように聞こえた。
「その分、全力で『レッド』に貢献して挽回していこうと思う。この体じゃあお荷物になっちゃうかもしれないけど……救われた分の働きは、ちゃんとするから。それで許してほしい」
真摯な言葉の数々に、桜は一度困ったように眉を寄せた。しかしすぐに真面目な顔を作り、重い瞼の下からじっと椛を見下ろした。
「……いいでしょう、わかりました。今回の件は、貴女の行動に非があったわけではないと理解しておりますので。さらなる活躍、期待しております」
まるで林檎を真似たような、淡々とした声だった。
(椛さんの入院中、あんなに心配してそわそわとしていたのに……素直じゃないですね)
たまかは桜の横に近づいて並びながら、隣の澄ました顔をこっそりと眺めた。大まかな医療器具や設備の配置はこれで完了である。横からのたまかの視線が気になったのか、桜は大袈裟に咳払いをしてみせた。しかし椛が無事であり、こうして『レッド』へ戻ってきたことへの喜びが、その端々から滲み出てしまっているように感じられた。
「……ねえ、梅ちゃん。椛ちゃんも移動で疲れているだろうし、今日はこの辺にしましょ。これからは一緒の建物にいるんだもの、話す機会は沢山あるわ」
泣き止まない梅へ、灯が優しく声を掛けた。梅は嗚咽を漏らしながら、小さく頷いた。
「ご、ごめん。先輩として、こんな姿見せちゃって……」
「ううん、気持ちはとてもわかるわ。こうして無事に会えて、安心したのよね」
灯は優しく梅の背中を摩った。そして密かに顔をあげ、たまかへと目配せをした。それを見て、茜も口を開く。
「……今日の死傷者数、まだ纏めてないね。二人とも、良かったら手伝ってくれない」
「分かったわ」
灯が率先して頷き、梅の泣き顔を窺う。梅は手の甲で泣きはらした目を拭い、顔をあげて姿勢を正した。
「すんっ……、そうだね。たまかさん、椛、あたし達はこれで失礼するね」
梅はそう声を掛けた後、灯と共にベッドへ背を向けた。その時、その背中を止めるように、椛の声が狭い部屋に響いた。
「ねえ、梅。……お兄さんは、元気?」
梅は色素の薄い黒髪を揺らし、椛を振り返った。お揃いの髪型の奥から覗いた彼女の顔は、酷く呆けていた。彼女からは暫く言葉が紡がれず、部屋は静けさに包まれた。
「……お兄さん? 誰の……?」
梅はぽかんとしたまま、椛へと首を傾げた。そして、困惑したように苦笑が零れる。場の視線は、梅から椛へと移っていった。
「あ、ううん。何でもないよ」
その返答に、椛はぱっと笑顔を作った。
「暫く『レッド』を離れてたから、ちょっと記憶が曖昧かも」
たははと笑いながら後頭部を掻こうとしたらしいが、彼女のボロボロの体ではそれは叶わなかった。不自然に宙に浮いた白い手は、すぐにシーツの上へと戻っていった。
「また明日ね、梅」
代わりに、椛は梅へそう声を掛けた。困惑が浮かんでいた顔に、すぐに元気が戻る。彼女は笑みと共に頷き、特に気にすることなく灯と部屋を出て行った。茜も残りのメンバーへ目配せすると、すぐにその後に続いて去っていった。……茜と灯は、この部屋に梅が近づかないように見張っていてくれるのだろう。
「……お兄さん? 一体何の話ですか?」
三人だけとなった部屋で、桜はベッドの中を見下ろして静かに尋ねた。桜にも不明な問いかけだったようだ。
「んんー……。……いやまあ、その話は一旦置いておこう」
椛は返答を濁すと、たまか達を見渡した。
「まずは『ブルー』から持ち帰った情報を先に話しておこうと思う。と言っても、収穫があったわけではないんだけどね」
「体調が大丈夫そうでしたら、お願いします」
たまかは真面目な顔付きに変えると、頷きを返した。桜も真剣な面持ちで椛を見つめている。静まり返った部屋で、椛は小さく息を吸った。
「三者会談後にたまかさんと会った時に、もう一度縹の部屋を調べてみるって言ったよね。だからあの後、『ブルー』の子を数人連れてもう一回部屋を探ってみたんだ。前回より念入りに調べてみたけど、朱宮さまがいたような証拠も、縹の死因や『グリーン』に関係するような物も、やっぱり何も見つからなかった」
「……そうなのですか」
『ブルー』で林檎が目撃されたという情報は、相変わらず水波の証言以外に何も根拠がない状態ということになる。これ程までに証拠を残すことなく林檎が『ブルー』にいられるなど、果たして有り得るのだろうか。
「ただね、個人的にはちょっと気になる点はあった」
椛の付け足した言葉に、たまかは目を丸くした。彼女は訝し気に目を細めている。
「気になる点ですか?」
「うん。小さなことなんだけど……例えば並んでいる商品カタログが抜けている月がある、とか。縹は細かいことを気にしないタイプなのに部屋が綺麗すぎる、とか。茶葉がないのにマグカップの底の汚れが茶渋に見えた、とか。穿ち過ぎって言われたらまあそうなんだけど。現に『ブルー』の子に訊いても誰も気にしてなかったしね」
「……いえ、それらは不審に思って然るべきです。なぜ『ブルー』はそれらを見逃せるのでしょう」
桜は呆れたように苦い顔を浮かべていた。
「一応それらについてちょっと追ってみたんだけど、どれも些細な違和感止まりで成果はなかった。商品カタログは抜けていた月も購入済みであったことが『ブルー』の子の証言でわかったけど、縹が誰かに貸したり捨てたりすることも普通にあったらしくて手元になくてもおかしくはないみたい。部屋が綺麗な件については、整頓されていることよりもどちらかというと埃の無さが気になったんだけど、それだけじゃなんともって感じ。髪の毛も部屋全体で一本しか落ちてなかったから掃除をしたことは確実なんだけど、気まぐれで綺麗にしただけかもしれないしね。マグカップの底の汚れは、御酢に錆びた金属を入れて作った液体をさりげなく持ち込んで検証しようと思ってたんだけど、もう一度部屋を訪れる機会がなかったから実行出来なかった。まあ茶渋と確定しても、麦茶とか注いでただけかもしれないし……茶渋があるからって紅茶好きだった朱宮さまがいた証拠にはならないし、情報としては弱かっただろうね」
違和感のある水面の死に際の行動に対して、驚くほど普通の部屋。本当にその部屋に、林檎がいたのだろうか。依然として何も掴めない状況に、たまかは顔を曇らせた。
「……髪の毛がそこまで落ちていないというのは、私から見ても少し度が過ぎているように思います。水面さんに綺麗好きというイメージはありませんが……」
「うん、誰かしらが証拠隠滅に動いている匂いはちょっとするよね。それが朱宮さまの痕跡が見つかって欲しくない人間なのか、あるいは朱宮さまがいなかった状況を確定したくない人間なのかはわからないけど」
「……」
含みを持ったその言葉に、桜が発言主へと顔を向けた。
「わたくしは後者の可能性も充分にあると思っています。例えば、『ブルー』の現リーダーが朱宮さまがいたという出鱈目をでっち上げていた場合です。その際、彼女は朱宮さまが部屋に『いなかった』証拠を消す必要が出てきますから。『ブルー』に朱宮さまがいたと主張しているのは現在も彼女ただ一人です、有り得る話ではあると思います」
『ブルー』を敵視している桜がこれ以上強くその説を推さないのは、たまかが水波の嘘を一貫して否定し続けていること、そして先日感じた林檎の結論への違和感が理由なのだろう。
「確かに可能性としてはそれもあり得るんだけど、水波は嘘はついてないように思ってる」
「……たまかさんだけでなく、椛もですか?」
「うん。あの子達をずっと見てきたけど、彼女の傾向に全く合わない。万が一でっち上げだったとしても、水波はそれを信じ込まされている側だと思う」
「……」
考え込むように押し黙った桜の隣で、たまかが代わるように尋ねる。
「もし水波さんに信じ込ませている人がいた場合、証拠隠滅に動いているのもその人ということですか」
「そうなるね」
椛が抱いた些細な違和感達。それらが示すのは、証拠を消そうと陰で動いている誰かの存在だ。もし水面の部屋に誰かしらの手が入っていたのだとすれば、その人物は完璧に近い形で証拠を消すことに成功したということになる。
「縹の部屋についてはこのくらいかな。あとは、水波に朱宮さまと会った時のことを訊いてみた件を話そうか」
短い静寂のあと、椛はそう言って話題を変えた。水波に話をきいてみるというのも、以前会った時に椛が請け負ってくれていたことだ。
「さりげなくを装ったんだけど、やっぱり敏感な話題だからか露骨に警戒されちゃって、全然掘り下げられなかったんだけどね。未だに証拠が出てないから、疑われているように感じるんだと思う。話したくない、って顔に大きく書いてあった」
椛は肩を竦めた。それでも、本人から直接聞いた証言の価値は計り知れない。現在のたまか達には、決して得られない情報だからだ。
「改めて訊いた時も、縹の部屋で朱宮さまと会ったのは間違いないって言ってたよ。他の人の可能性も強く否定していたから、見間違いの線も消える。そもそも彼女は声を聞いているらしいから、見間違いは少し違和感があったんだけどね」
「え……?」
「縹が死んだ直後、小さな跡目争いがあったって以前報告したよね。その中で水波が言ってたんだ、朱宮さまに名前を呼ばれた、って。『ブルー』の幹部のほとんどがその証言を聞いてる」
「名前を……?」
呆然とするたまかの横で、桜が険しい顔で繰り返す。椛は静かに頷いて話を続けた。
「水波が言うには朱宮さまのAIは縹の部屋に隠れていたらしいから、どうして自分から存在を打ち明けるようなことをしたのかは分からない。『ブルー』の他の子からも同じ指摘をされていたけど、水波は最後まで答えられなかった」
情報を武器にする『レッド』の者ならば、敵対組織の主要な幹部達の名前を把握していてもおかしくはない。『レッド』の長だった林檎、そしてそれを模倣する機械ならば猶更だ。しかし彼女の置かれていた状況から考えると、その行動は非常に不可解だ。水波の言う通り水面が林檎を隠していたのだとすれば、わざわざ自分から水波へ見つかりにいったと言う事になる。
「それに水波の反応を見る限り、言葉を交わしたか、あるいは何かを言われたみたい。その辺りは明確に答えてくれなかったから詳細は分からないんだけど、水波の顔に出てた」
椛は尋ねた時の光景を思い出しているようで、遠い目をしていた。
「……では、本当に林檎さんが『ブルー』に……」
「うん、水波を見ている限りはそうなるね」
そこまで相手と接触していたのなら、見間違いの線は明らかにないだろう。彼女の主張を真とするのであれば、確実に林檎のAIが『ブルー』にいたということになる。同じ時刻に、『レッド』に彼女の姿があったにも拘らずである。
「……私が『ブルー』から持ち帰れた情報はこんなところ。今『ブルー』は限りなくごたついているから、情報を抜くどころじゃなくてねえ……」
三者会談の時に会った椛の疲れた顔を思い起こし、たまかは首を振った。
「充分です。実際に内部で得られた情報は、とても貴重ですから。ありがとうございます」
たまかが礼を述べると、椛は「たまかさんは優しいね」と言ってくすりと微笑んだ。それから、真面目な顔付きへと戻す。
「……で、ここからは先日『ラビット』の長の言っていた話をしようと思うんだけど。桜にももう情報は共有されてる?」
「はい。椛の情報が『ラビット』のAIから『ブルー』へ流れていた件についてですよね。情報の流出と作為的な扇動から『ラビット』の長はAIを怪しんでおり、延いては『グリーン』が縹の死に関わっていると睨んでいる、と」
「そうそう。流石『レッド』、話が早いね。飛脚に頼るような世界からリアルタイムSNSの世界に来た浦島太郎の気分だよ」
椛はそう言って茶化しながらも、満足そうに頷いた。
「『ラビット』の長が次の足がかりにしたいのは、AIにプログラミングされた情報の入手先だとも言っていたよね。膨大で正確な情報の数々をどうやって『グリーン』が入手したのかは謎のまま。だからそこを探ってみる、って」
「はい」
「それについては、たまかさんはどう考えてる?」
姫月が話していた時、傍で聞いていた椛は声が出せない状態だった。彼女も姫月の話をいろいろと頭の中で考えていたのだろう。たまかは声を落として問いに答えた。
「……そうですね。AIについては、私も気になっていたところではありました。怖い程完璧な再現性を持つAI達を作るには、戦場から得られる情報だけではとても賄いきれないはずです。しかも複数の組織に跨った方達を網羅、さらには深い交流が無ければ分からないような情報や癖まで完全にインプットされています。普通の手段では、とても集め切れるようなものではないでしょう。それだけならば、『グリーン』の惜しみない努力と捉えることも出来ましたが……姫月さんの話を考えるに、そこには何か絡繰りがあるのかもしれません。……それにAIには、プログラミングされている情報とプログラミングされていない情報が明確にあるんです。それらの違いが一体何なのかもわかっていません」
林檎のAIは、ごく限られた人間しか知らない隠された味覚の好みをインプットしていた。どこまでの情報を有し、どの情報を保持していないのか。その間には、どんな違いがあるのか。AIはそのほとんどが謎に包まれている。
「『グリーン』のAIには、不可解な点が山のようにあります。ですから姫月さんがそこを探ろうとするのは、堅実な案に思います」
「なるほど。じゃあ、たまかさんも次はそこを探ろうとしてる?」
「……そうですね。前提として、姫月さんが椛さんの情報をAIに流して検証した話は、ほぼほぼ真実だと思っています。姫月さんが水面さんの死の真相を必死に探ろうとするのは彼女の心情的に理解出来ますし、今の状況で『ブルー』に諜者の情報を流して『レッド』と戦わせるのを楽しむような人でもないと思っています。『ラビット』の長としてはむしろそうして然るべきですし、私も『レッド』の長としては『ブルー』と『レッド』を潰そうと動いたと判断するべきだとわかってはいます。ですが短い間とは言え、姫月さんと交流を深めてきた一人の人間としては、彼女がそのような行動に走るとはとても思えないのです」
姫月は愉悦をモットーとする『ラビット』の長にも拘らず、現実主義で倫理観もある人間だ。楽しい事を好む人物ではあるが、彼女自身は狂気を孕んではおらず、人情もあり仲間を大事にする。たまかが彼女に会う前は知らなかったこと、そして彼女と交流を通して知ってきた、彼女の偽りのない内面。それらは姫月の話が事実であることを示していた。今の姫月にとって何よりも得たいメリットとは、『ブルー』と『レッド』の共倒れではなく、水面の死の真相、ただそれだけのはずなのだ。
「……となると、『ラビット』のAIに流した情報が『ブルー』に渡ったという話も真実となります。その姫月さんの話を補強する根拠として、以前も『ブルー』が知りえない情報をなぜか掴んでいることがありました」
「縹のAIをうちと『ラビット』が買った、という話ですね」
桜の言葉に、たまかは頷いてみせた。
「はい。孤立していた『ブルー』が知るはずのない情報、しかも虚偽の情報を、なぜか彼女達は確信を持ってそう信じ込んでいました。水面さんのAIの売買に関わった『グリーン』、『レッド』、『ラビット』はどこも『ブルー』が目の敵にしている組織ですから、そこから情報を得たとは思えません。他の組織を脅して聞いたのだとしても、それなら『二組織が断った』という事実の情報を持っているはずです。中小組織にそこで嘘をつくメリットはありませんからね。そもそも『ブルー』は情報に疎い組織のはずですから、虚偽以前にそのような情報を掴んでいること自体が不自然でした。それらを鑑みると、誰かが作為的に『ブルー』に情報を流せる説の信憑性は高いです」
「『ブルー』が『仲間が『レッド』に殺された』と言って報復に来た時もありましたね。こちらはたまかさんから『他の組織の人間を無闇に傷つけてはいけない』とお触れが出ていますから、それに逆らうような組織員はいません。にも拘わらず、『ブルー』側は『レッド』に『ブルー』の者が殺されたと強く主張していました。『ブルー』側の作り話と考えることも出来ますが、今の話から見るとそれもデマを流されていたのかもしれません」
「そうですね。これらから導き出されるのは、姫月さんが嘘をついている可能性は限りなく低いということです。姫月さんの知らない情報も含まれているでしょうし、偶然が重なったにしては出来過ぎています。そして姫月さんの言うことが全て真実だとすれば、私達も彼女と同じ結論に辿り着きます。『AI、そして『グリーン』は怪しい』。ここまでの話が真実味を帯びている以上、AIが扇動していたと言う姫月さんの話も本当でしょう。そうなると、AIは確実に抗争に絡むような動きをしています。それは開発者である『グリーン』の仕組んでいることに違いありません。そして『グリーン』が怪しい以上、謎に包まれているAIを解明していくことが真相に迫る手掛かりとなるでしょう。……AIの一番の不可解な点は、プログラミングされた完璧な情報の数々です。姫月さんと同じく、探っていくのならそこになると思います。私達も、姫月さんとは別の角度から追っていきましょう」
「……おっけー。私も賛成だよ」
たまかの言葉に、椛はにやりと笑みを浮かべて頷いた。彼女も大体同じ意見のようだ。たまかの横の桜も同じようで、反対する素振りは見せなかった。
「AIの扇動……」
彼女は二人に同調する代わりに、ぽつりと小さく言葉を漏らした。桜の視線が、一度部屋の隅へと逸らされる。思い当たることがあったように、彼女は慎重に切り出した。
「そういえば……AIは完璧に死者を模しているはずなのに、その死者らしくない素振りをすることがありました。人の手で作られているため、仕方がない部分だと思っていましたが……今思えば、扇動の一部だったのかもしれません」
桜はおかっぱの黒髪を揺らし、横のたまかへと顔を向けた。
「梅が『グリーン』を助けて『ブルー』を攻め入るよう進言していましたよね? あれは梅の性格を考えると、違和感を覚えていたのです。彼女は合理主義の上極端に憶病で慎重ですから、あの時点で『グリーン』につくようリーダーを説得するような子ではありません。灯と別れることを怖がったと思えばその行動もおかしいと断じることは出来ませんが、一方で扇動と言われればそのように見えるのも事実です」
もしたまかが梅の意見を受け入れて『グリーン』の味方となっていれば、現時点の情勢も大分変わっていたかもしれない。
「……」
たまかは険しい顔で口を結んだ。身近となったAIは、水面下で情勢を変えようと暗躍していたことになる。『レッド』は最初からAIを警戒して渡す情報を制限していたが、その対応をしていなければ今頃どのようになっていたかわからない。たまかは背筋が寒くなるのを感じた。
「うーん、それだけで断言はできないけど、きな臭くはあるね」
椛は小さく口を窄めたあと、切り替えるように今後の動きについて話し始めた。
「それじゃあ、完璧に近い個人情報をどのように得ているのか、ってところが『グリーン』を探る糸口って感じかな。それで言うと、得ている情報と得ていない情報、つまりAIにインプットされている情報とされていない情報の違いが鍵になる気がするね。そこから『グリーン』が情報を入手する方法が推測できるんじゃないかな」
椛の言葉に、たまかは真剣な顔で頷いた。『レッド』が進むべき道が、見えてきた気がする。しかしその横の顔は、なんだか釈然としない様子だった。
「……インプットされている情報とされていない情報、ですか。正直、AIにインプットされていない情報には心当たりはありませんでした。わたくしにはAIはほぼほぼ完璧に映っておりましたので。違和感がある時はありましたが……それが情報の欠落によるものだとは思っていませんでした」
桜は訝し気にそう零すと、たまかへと問うように顔を向けた。
「具体的に、そのインプットされている情報とされていない情報というのはどのようなものなのでしょう?」
「……え、っと……」
たまかは思わず苦笑いを浮かべ、視線をそらしてしまった。たまかの気が付いた該当情報は林檎が甘い物が好きである、そして彼女は他の長達と学生時代仲が良かったという、ごく限られた人間しか知らない情報だ。
(甘い物好きだったという情報は教えてしまっても大丈夫でしょうか? 桜さんならもしかすると既に知っているかもしれませんし……いやでも、林檎さんが秘密にしていたのなら私がバラして良いものなのでしょうか……)
命に重きを置くからこそ、死者の意向はなるべく尊重したい。ちなみに後者の他の長達との関係については、何が何でも口にすることは出来ない。組織間の関係を根源から揺るがすだけでなく、桜がショック死するかもしれない。どう答えようかと必死に頭を動かしていると、ベッドの上の怪我人が口を挟んだ。
「それで言うと、さっき私が梅に訊いたことがまさにそうだよ」
助け舟を出してくれたらしい。桜の視線が椛へと移り、たまかは密かに胸を撫で下ろした。
「訊いたこと? お兄さん、って奴ですか?」
「そう。実は梅って、お兄さんがいるんだ」
生前付き合いのなかったたまかには初耳の情報だった。そうなんですね、と軽く相槌を打つたまかの横で、梅との付き合いが長いはずの桜は、なぜかたまか以上に驚愕していた。
「……え、待ってください。そうなのですか? そんなこと、梅からは一度も聞いたことがありません」
「……え?」
たまかは桜と椛の顔を交互に見渡した。家族構成の情報で、ここまで意見が食い違うことがあるのだろうか。しかし桜の反応も想定内だったようで、椛は平然としたまま話を進めた。
「うん。たぶん梅にお兄さんがいることは、私と朱宮さましか知らないと思う。……梅、病気のお兄さんがいたの。梅からはそう聞いてる」
「そう……なのですか」
桜は呆けたまま頷いた。自分に秘密を持たれていたことが、少し悲しそうにも見えた。
「で、では……梅にお兄さんがいたとして、先程のAIは心当たりがないようでしたから、その情報はインプットされていなかったということですよね? つまり『グリーン』の情報源は朱宮さまや椛ではなく、かつ極限られた人間しか知らない情報は『グリーン』に渡っていない。そして渡していない情報があるということは、梅本人が自ら『グリーン』に情報を渡したことも否定出来る……ということでよろしいでしょうか」
桜はそうまとめると、たまかと椛の顔を窺った。
(ですが、ごく限られた人間しか知らない情報にも、渡っている情報があるんですよね……)
林檎の味の好みの情報は、ごく一部の人間しか知らないはずだった。しかしその情報は、林檎のAIにインプットされていることがわかっている。眉間に皺を寄せたたまかの代わりに、椛が桜へ同意した。
「うん、そうだね。……でもそれは、梅の言葉を信じるなら、って前提が必要ではあるんだけどね」
静かに続いた言葉に、桜は怪訝な表情を浮かべた。
「……と、言うと?」
「私は梅からお兄さんの話を聞いたけど、実際に会ったことはないの」
横の桜と同様に、たまかも目をパチパチと瞬いた。
「梅は病気のお兄さんを治すために必死に頑張ってた。薬代を稼ぐために規程まで破っていたし、医学書を読み漁ったり、お兄さんの病気を治す手掛かりを見つけるために、二人で沢山ノートを探したりもした」
椛は小さく顔を伏せた。
「でも……誰もお兄さんの姿は見ていない」
一瞬、部屋がしんと冷たくなった。
「梅の家に行く機会なんてなかったから、当たり前なんだけどね。梅のお兄さんの姿は、梅一人しか見ていないんだ。つまり……」
「……兄の存在は梅の出任せ、もしくは既に死亡したのを認識していない可能性があるということですか」
桜の引き継いだ言葉に、椛は力無く頷いた。
「うん。存在、生死、梅のお兄さんについては全てがブラックボックスなの」
誰も目撃しておらず、そして兄の存在を主張しているのも梅ただ一人。例えば梅の家には梅一人の姿しか存在しない、もしくはそこにあるのが白骨遺体だったとしたら。兄の存在を認識していなかった、AIの方が正しいということになる。
「もしもお兄さんが存在していない上で、梅が私や朱宮さまに嘘をついていたことを『グリーン』が知らなかった場合、AIの梅は本人以上に正確な存在になる。本人との乖離は出て来るけど、『グリーン』が得られなかった情報、と言うと少し齟齬が出てくるんだよね」
その場合、『グリーン』は取りこぼしなく完璧に情報を得ていた、ということになる。インプットされていない情報など存在しなかった、ということだ。『グリーン』を探る前提が誤っていたことになり、確たる証拠として提示するには弱くなる。
「でもね、私は梅を信じてる。お兄さんは梅の治療の甲斐あって、懸命に生きていたって」
椛は遠くを見つめ、明るい表情でそう言った。その視線は柔らかい。
「あの子はお兄さんのためならなんでもやってた。毎日家にいるお兄さんのことを想って、病気が治ることを健気に信じて頑張り続けてた。あの子の想いは本物だった」
「……」
身近な人が亡くなってしまい、現実を受け入れ切れずに死者が生きているように錯覚してしまう事例は、たまかも目にしたことがある。強い精神的負担から身を守るために現実を拒絶する、心の防衛本能だ。梅も該当していたならば、意思に反して兄の死を認識出来ていなかった、もしくは一人きりの現実に耐え切れずに無意識に架空の兄の存在を作り出してしまった可能性はある。しかし実際に彼女と接してきた椛は、その可能性を考えつつも彼女を信じる選択をしたようだ。合理的な考えをする『レッド』のメンバーにしては珍しい結論である。それ程梅の必死の想いは、椛の心を打っていたのかもしれない。
「……椛が断言するなら、そうなのでしょう」
そして桜もまた、『レッド』らしからぬ同意を示した。
「一応梅の家を特定して中を調べてみますが……何かが残っていることは期待できないと思います。ですからここは、梅と椛を信じるしかありません。梅の兄はいた前提で話を進めましょう」
桜の重い瞼の下の瞳が、怪我人を映す。
「……貴女の洞察力は、信頼できると思っていますので」
にこりともせずに放たれた言葉に、椛は目を丸くしていた。やがてその顔が、ぱあと明るく晴れる。
「ええ~、そうだったの? 嫌だなー、じゃあいつも褒めてよ~」
「……ほら、すぐ調子に乗るから言いたくなかったんですよ」
桜は緩み切った顔をじっとりと睨み、つんけんとしてそう言った。しかし桜が椛の洞察力を買っているのは本当なのだろう。となると、桜が認める程その能力は信頼できるということだ。たまかも頷いてみせた。
「そうですね、私もその前提で話を進めることに同意します。つまり『グリーン』は梅さんの声や姿だけでなく、思考のパターン、口癖、仕草の情報を全て得ていたのに、『お兄さんがいた』という情報は集めることが出来ていなかったということです。さらに林檎さん、椛さん、梅さん本人は『グリーン』側の人間でないことが確定します」
たまかの言葉に、綻ばせていた表情を戻して椛が続ける。
「そうだね、あとは『グリーン』が情報を手作業で一つ一つインプットしていたことも確定になる。外付けの情報だからこそ、漏れている情報があるんだ」
死者が蘇ったのだから本人が持っている情報を知っているのは当たり前だという『グリーン』の言い分は、これで完全に崩れることになる。
「そうですね。仕草の情報が得られる程身近で、かつ兄の情報を得られる程には深い関係にいなかった辺りから情報を得ているはずです。……となると、必然的に『レッド』内部の者が絡んでいる可能性が高いですね」
桜が苦い顔をする。『レッド』内に、裏切り者がいるということだ。
「いろんな組織に跨って情報を得ているから、同じ感じの情報提供者が各組織に潜んでいるのかもしれないね」
「となると、『グリーン』は人数も少ないですし、スパイを送るようなノウハウもないでしょうから……もともと組織にいた人間を買収、あるいは脅迫したと考えた方が良さそうですね」
桜の言葉に、たまかが悩まし気に顔をあげる。
「人が情報源とは限らないかもしれません。例えば各組織の監視カメラの情報を抜き取れば、組織の人間の姿や声、仕草や癖のデータは得られると思います。一方で梅さんのお兄さんの話を監視カメラのない部屋で行っていた場合、その情報だけが得られなくても違和感はありません」
椛は過去を辿るように視線を天井へと向けた。隅には一台の小型カメラが設置されている。
「うーん、普通に監視カメラのある部屋でもお兄さんの話はしてたから違うかも。図書室とか、物置とか……」
「『レッド』の館内の監視カメラは、セキュリティの観点から声は拾わないものを使用しています。会話を聞きたい場合は、別で盗聴器を仕掛けますしね。ですので少なくとも『レッド』のAIに関しては、監視カメラの情報だけで完璧なAIを作ることは不可能です」
「……」
つまり、必ず『レッド』の人間が『グリーン』に関与していることになる。たまかは顔を曇らせた。桜達は流石にその辺りの割り切りは早いようで、悲しむたまかの横で既に次の行動を計画していた。
「では、『グリーン』が外部の人間と接触した痕跡を追うのと同時に、『レッド』の者達に不審な点がなかったかも調べていきましょう。また、他の組織で『グリーン』に接触した者がいれば、そこから糸口が掴めないかも探る必要がありますね」
梅のようなことが他の組織でも同様に起こっていたとすると、他組織の完璧なAIを作るのにもその組織の誰かが『グリーン』と繋がって情報を渡していたということになる。そちらからも何か手掛かりが得られるかもしれない。
「他組織を探るのは、少し難航しそうですが」
桜は不服そうにそう続けた。AIを買っていた他組織となると『ブルー』や『ラビット』が真っ先に思い浮かぶが、どちらも敵対組織である『レッド』に情報を渡すとは思えなかった。桜の言葉に、たまかはやる気に満ちた顔をあげた。
「私が他組織の方から情報を探ってみます」
「……え」
桜はたまげたように声をあげた後、思い切り渋い顔を向けた。
「たまかさんがですか? どうやってですか?」
「他組織に足を運んで、直接聞いてみようと思います」
「……長自らが危ない場所に赴こうとしないでください。そこは他の者にお任せを」
「ですが、他の方は敵対組織の人間として強く警戒されてしまうでしょう。その点私は各組織に顔を知る方々がいますから、他の方よりは話を聞いてもらえる確率が高くなると思います」
たまかは始終真剣な顔で説いたのだが、桜は呆れた顔を浮かべ、椛は楽しそうな笑みを浮かべていた。
「やっぱりたまかさんは面白いねえ。ねえ桜、全部たまかさんの言う通りだよ。少しでも確率があがるなら、たまかさんに任せた方がいいと思う。どうせ他の人が訊きに行ったって門前払いを食らうだけだし、かと言って盗聴器じゃあ『グリーン』に接触した可能性のある人間の話なんて絶対自然に出て来ないし」
椛は軽い調子で桜へと問いかけた。『レッド』へのガードが堅い今、密かに探れる情報には限りがある。桜は渋々といったようにため息を漏らした。
「では、たまかさんにお願いしましょう。……護衛にわたくし達をつけるか、もしくは防弾チョッキなどの対策を必ずしていってくださいね」
「はい、気を付けます」
たまかは深く頷いた。自分が敵対組織の長だという自覚はある、まさに敵地に赴くのだから命が危険に晒されることも理解している。桜の言う通り、警戒は必要だろう。
「では、この方向性で引き続き探っていきましょう」
たまかはそう言って話を締めた。これで『レッド』の次の動きが決まった。二人もたまかへと力強く頷きを返してくれた。
水面の死の真相の足掛かりである、不審なAIと怪しい『グリーン』。謎だらけだった彼女達に、ついにメスを入れる時が訪れた。姫月の旧友を真似た冷酷な一手、そして椛が持ち帰ってくれた情報。全てがこの大きな事件の真相へ導く大切な道標となり、たまか達の行く先を照らしてくれている気がする。たまかは前を見据え、やる気に満ちた顔を引き締めた。少しずつ、前進している。最後まで諦めたりはしない。水面のように真っ直ぐに突っ走っていくのだ。必ずその先に、道が続いていると信じて。
翌日、久方ぶりに『不可侵の医師団』の建物に寄ることなく朝一に『レッド』へやってきたたまかは、執務室の前に立つ桜の姿を見つけた。たまかの姿に気付いて駆け寄ってきた桜は、なんだか覇気がなく精彩に欠けていた。たまかのもとへ来るなり、そわそわとしたように口を開く。どうやらたまかが来るのを待っていたらしい。
「おはようございます。今少し、よろしいですか」
「おはようございます。どうされましたか?」
たまかは執務室の扉を開けると、中に桜を通した。林檎はいないようだ。たまかは医療バッグを下ろし、桜へと振り返った。彼女は椅子に座ることなく、扉を背にして突っ立ったままだった。桜は顔を曇らせたまま、その場で話し始めた。
「昨夜、見回りをしている時に激しい悲鳴を聞きまして。……椛の部屋からだったんです」
「え」
「敵襲ではなかったのですが、悪夢に魘されておりまして。起こしたのですが半狂乱の状態で、わたくしのことも認識出来ず……」
(PTSDの症状ですね……)
拷問された時の記憶が蘇るのだろう。たまかも顔を暗くした。
「『やめて』と叫び続けていて、心電図モニターや点滴台も全て倒してしまって。わたくしの声も聞こえておらず、夢から覚めた後も上手く現実を認識出来ていないようでした」
桜は淡々と報告しようとしているらしいが、その顔にはありありと悲しみが浮かんでいた。……あれだけの傷を負う程に苦しめられたのだから、忘れられなくて当たり前なのだ。
「暴れ続けた後に漸く『レッド』にいることを認識出来たらしく、椛はわたくしに謝罪を述べました。それから、気を抜くとすぐに拷問された時の記憶が蘇ること、寝ると必ず悪夢でその光景を見ること、だからずっと眠らないようにしていたことを話してくれました。ただ流石に一睡もしない日が続いて限界が来てしまったようで、昨晩ついに眠ってしまい悪夢に魘されていたようです。そのあとは椛が眠らないよう、ずっと話をして一晩を過ごしていたのですが……」
桜の顔色が冴えないのは寝不足のためだったのだろう。桜は眉尻を下げ、昨晩の様子を思い返したように肩を落とした。
「言いたく無さそうでしたが、傷跡を見て過呼吸になったり、縄や椅子を見て震えが止まらなくなってしまったりもするようです。拷問抵抗訓練やレクチャーを受けてもなお、拷問のフラッシュバックに悩む者は多いですが……どうすれば症状を緩和させることが出来るのか、医療従事者としての見解を頂きたく……」
桜は切り揃えられた前髪の奥にその双眸を仕舞い、深く項垂れた。隠そうとしているが、彼女は椛のことを心から心配しているのだろう。たまかは落ち着かせるように、中立的な視点を心掛けて語り掛けた。
「そうですね、悪夢を見るからといって眠らないのは悪手だと思います。『不可侵の医師団』にいた時は『ブルー』の襲撃を警戒していたのもあると思いますが、ここは味方ばかりで安全な場所ですから、睡眠薬などを使って深く眠る薬物療法を適用していくのが良いと思います。もし昨晩のような状況に遭遇した時は、グラウンディングが大事です……現在地や時刻、自分達の存在、そして安全であることを伝えて、現実へ引き戻すのです。あとは目に見える物、触っている物、呼吸などに意識を向けてあげてください。……長期的には心理療法を用いて、少しずつ心の傷を癒していくしかありません。決して簡単には消えてくれないでしょうけれど……それでも出来る限りのことをするしかありません」
たまかは医療バッグを下ろして空になった掌を見下ろした。この五本の指のどれかに刃物が入れられ、切り落とされる感覚を想像する。そしてそれは椛が受けた拷問のほんの一部に過ぎない。そんな苦痛を何度も何度も、指も爪も腕も足も目も口も顔も腹も胸も、きっと何時間にも渡って受けてきた。泣き叫んでも誰も止めてはくれなかった。意識が飛ぶような痛みが繰り返された。もう二度と元の体には戻れなくなった。彼女のまさに悪夢以上に惨い一時は、たまか達が想像するに余りある。
「……ですが、桜さんに打ち明けられたことは安心材料にもなったと思います。無理矢理当時のことは訊き出さないようにしつつ、なるべく傍にいてあげるようにしてください。きっとそれが、椛さんにとっては安心出来る時間となります」
たまかの言葉に、桜は張り詰めていた顔を緩めた。
「……はい。そうしてみます……」
伏せられていた顔が、漸く上がる。その表情から不安な様子が和らいだかと思えば、今度は途端に焦りに染まった。
「その、彼女は『ブルー』の貴重な情報を持ち帰ってくれましたし……拷問に屈せず、『レッド』の情報を漏らさなかった功労人です。それに何より、あのような状態では怪我以上に今後の任務に差し障りがあります。ですから『レッド』の一メンバーとして、早く万全な状態に戻ってもらわなくてはなりません。それが『レッド』のためなのです」
何処へ向けてなのかよく分からないが、彼女は言い訳をするようにそう主張した。たまかは「そ、そうですね」と答えながら、勢いに負けて頷いた。たまかは『レッド』のメリットよりも仲間の無事を重視する人間なのだから、そのような言い分は不要なのに、と心の内で思う。しかし合理性を重視するこの『レッド』にいる以上、きっと必要な理屈なのだろう。
「では、私も椛さんの様子を見てきます。ガーゼも変えなければなりませんし、昨日の手術痕も気になります」
たまかは桜へと、安心させるように笑みを向けた。
「桜さんはぜひ、仮眠を取ってきてください。その間、椛さんの傍には私がいますから」
たまかの言葉に、桜は素直に頷いた。一礼して、部屋を出て行く。たまかも一度置いた医療バッグを再び持ち上げると、椛の部屋へと向かうために執務室を去っていったのだった。
「おはよう、たまかさん」
椛の部屋へ入ると、彼女はいつも通りににこやかにたまかを出迎えた。包帯に隠れていない瞳が細められるのを見て、たまかも笑みを返した。
「おはようございます」
「もう桜から聞いた? あれから『レッド』で『グリーン』に接触した人間を探ってみたんだけどね、どうもその探り方じゃあ痕跡が見つからなかったみたい。だから視点を変えて、『AIとなった故人に近かった人間』を探るやり方に変えたみたいなんだけど——」
椛の様子を尋ねるために来たのだが、そのまま任務の話になってしまった。たまかは耳を傾けながら、ベッドの傍へと静かに近づいた。サイドチェアを用意しようとして、先程の桜の話を思い出す。そのまま立っていることにし、たまかは医療バッグを横へと置いた。
「『グリーン』と関わりがある人間は相変わらず見つからなかったんだけど、ある仮説が出て来て。たまにいる足抜けした人間や行方不明者、謎の死を遂げた者達の内の誰かが、『グリーン』と繋がりがあったんじゃないか、って」
「……そういう方々は組織では珍しくないイメージなのですが、違うのですか?」
「いや、どの組織でもよくあることだよ。『レッド』は他の組織に比べたら少ない印象だけどね。情報伝達がしっかりしているから一人一人の行動をメンバーが把握しているし、足抜けしたら地獄までも執拗に追って抹殺するよう徹底していたからね」
さらりと怖いことを言う。情報を武器にしている『レッド』だからこそ、情報の宝庫であるメンバーの管理は厳格にしていたということなのだろう。
「この仮説が浮かんだのはね、不自然にお金を得ているような様子があった子がいたからなんだ。突然貴重なものを買った子とか、毎日のおやつが目に見えて豪華になった子とかね。その子達も『レッド』の人間として慎重に隠していたみたいだけど、お金に困らなくなったらやっぱり周囲から見てわかっちゃうものみたい。で、その大金を手にした疑いのある子達は、実は全員行方不明か死体になって見つかってる」
「……」
「だから金払いが良くなったことに気付いた周囲も、すぐに忘れていっちゃったみたいなんだよね」
たまかは『グリーン』の少女達の顔を思い起こしていた。抗争とは無縁で、平和を望み、人を傷つけない少女達。そのように、たまかが思っていた少女達。
「『レッド』の追跡力を以ってしても、どこから大金が流れたのか、その子達がどこに行き、誰に殺されたのか、何もわかっていなかった。まあそれ自体は珍しいことでもないし、当人が『レッド』から既に消えてるから、どれも深入りせずに終わったみたい。行方不明者を追跡してもいないから、朱宮さまは死亡したと見越していたんだろうし、実際その後の情報が何もないから死んでいることはほぼ確実。で、その消えた彼女達こそが『グリーン』に情報を渡し、見返りに大金を手にしていたのかもしれないって話になったんだ」
「なるほど……」
「でも容疑者が全員行方不明か死んでいる状態だから、『レッド』から『グリーン』への手掛かりは途切れちゃった感じだよ。茜が深く追ってくれてるけど、あまり期待しない方がいいかもって言ってた。灯も梅の周りにいた人達を中心に必死に追っているけど、厳しいだろうね」
『レッド』の追跡能力を以ってしても難しいとなれば、もう『レッド』と『グリーン』の繋がりは残っていないと見ていいだろう。しかし一晩でこれだけ探って結果を示せるのは、流石は『レッド』である。たまかが『不可侵の医師団』の個人寮に戻って寝ている間に、『レッド』内の情報追跡は粗方済んでしまった。
「では、他の組織と『グリーン』の繋がりを追う方に懸けた方が良さそうですね。『レッド』と同じようなことが他組織でも起こっていたとすれば、そちらはまだ何か痕跡が残っているかもしれません」
そしてそれは、たまかが請け負っている任務である。『レッド』のメンバーも他組織を探ってはいるが、情報を得られる可能性は限りなく低い。『グリーン』の痕跡を見つけられるかは、たまかの動きに懸かっている。
「……そうだね。繋がりを追うなら、特に最初期に作られたAIの周囲に着目するといいかもしれない。その頃はまだ警戒は最低限のものだっただろうし、ノウハウも少なかったはずだ」
「わかりました」
「それと、それで言うなら私も提供できる情報がある。『ブルー』にいたからね」
椛は淡く笑みを浮かべてみせた。
「『ブルー』からも足抜けする奴とか行方不明者、謎の死体となって見つかる者はかなり出てた。『レッド』の比じゃないくらい多かったよ。その辺りの管理が結構雑だったからね」
スパイが長期間潜っていられる程である。仲間意識が強く人情味に溢れる『ブルー』は、無暗な詮索は良しとはしない風土だったのかもしれない。
「で、今月頭にも葵羽と美雨って子達が足抜けしてるんだけど、確か先日、水波が二人を見たってぼやいてた気がする。水波が見ているなら、もしかすると青空も見ているかもしれない。二人に大金を得たような痕跡があったわけじゃないけど、二人は常日頃から節約傾向にあって、私も何度も飲み物やおやつをご馳走したことがあった。だからお金が魅力的に映る子達であることは間違いないと思う。『グリーン』の情報提供者である可能性もゼロじゃないから、良かったら頭に入れておいて」
「アオバさんと、ミウさんですね。……わかりました」
たまかは真剣な面持ちで頷いてみせた。
「私が水波達に会ったら、今度こそ確実に殺されるだろうからねえ……たまかさんから訊いてもらうしかないや」
椛は苦い顔をして、水波と青空の顔を思い浮かべているようだった。……二人からも、拷問を受けたりしたのだろうか。そんな考えが頭を過ったが、たまかの口から訊くことは憚られた。視線だけが包帯だらけの体に向けられる。
「……ではお話はこのくらいにして、体の状態を診ましょう。昨日の手術の痕は痛みませんでしたか」
たまかはそう言って、横に置いた医療バッグのジッパーを開けた。医療器具の準備を始める。
「平気だよー、流石『不可侵の医師団』だねえ」
にこにことした返答に、たまかは彼女を一瞥した。
「……桜さんから聞きました。悪夢に悩まされているそうですね」
「……あ」
椛の笑みが引っ込み、ばつが悪そうに苦いものに変わる。
「……。桜に知られただけでも落ち込んだのにさー、たまかさんにまで言っちゃったの……?」
たまかはしょんぼりとした言葉に手を止め、椛へと顔をあげた。
「私は『レッド』の長以前に、椛さんの担当医師のようなものですから。それに落ち込むようなことではありません。強い精神的衝撃によって侵入症状が起こるのは極一般的なことで、椛さんのせいではありませんよ」
「でも、これでも一応拷問抵抗のレクチャーは受けた人間だし、二人よりも年上だし、これ以上情けない姿を晒したくなかったのに……」
唇を尖らせる椛を見るに、どうやら本気で凹んでいるようだった。
「……椛さん、おいくつなんですか」
「十八」
「……そこまで大きく変わらないと思いますけど……」
たまかの正直な感想にも、椛は口を尖らせ続けたままだった。自身や器具の消毒を終え、たまかが怪我人の体を覆った包帯を取っていると、椛がぽつりと小さく漏らした。
「……やっぱり一度、拷問抵抗の実践訓練を受けるべきだったのかも」
たまかは心電図モニターを一瞥したあと、包帯を剥がす手を再開させた。
「……椛さんは、潜入前に実践訓練は受けなかったのですか?」
「そう、レクチャーだけだった。担当した朱宮さまの意向でね」
部屋の外から、小鳥の囀りが聞こえてきていた。部屋の中は二人の声以外に響くものはない。窓の外には、朝の清々しい空が広がっていた。
「勿論、私が可哀想だったからって理由でないことは分かってる。推測するなら、私が組織の人間になって日が浅かったから耐えられる可能性が低かったこと、『ブルー』のスパイになったとしても拷問される未来に確実性はなかったこと、私がトラウマで使い物にならなくなるリスクの方が大きかったこと……そんなところだったんだと思う。実践訓練はメリットよりもデメリットの方が高いって判断したってことだね。その上で……朱宮さまは、誰かに拷問出来るような子じゃなかったと思う」
「……」
「いや、実際は拷問もしてはいたんだけどね。『レッド』の長として必要になる場面は多々あったし、彼女はちゃんとその責務を全うしてた。でもやっぱり、本当は辛かったんだと思う。彼女は優しい子だったから」
その声は懐かしむように柔らかいものだった。
「その分レクチャーは丁寧だったよ。長直々にってだけでも類を見ない事だったと思う。カバーストーリーの構築を手伝ってもらったり、ディソシエーションのコツを伝授してもらったり、時間の感覚を維持するとっておきの方法を教えてもらったり。拷問される中で情報を秘匿するのに重要なのは、とにかく自白を可能な限り遅らせること。だから小出しにする方法とか、虚偽の情報を上手く混ぜる方法も教えてもらった。……でも結局、苦痛を和らげる手段なんか存在しない。拷問抵抗って、痛みに耐え続ける中でいかに正気を保っていられるかって訓練なんだよね。だから痛いものは痛い。あの時も言ったもん、『いやこんなん小細工で誤魔化せないでしょ』って」
「り、林檎さんにですか?」
「そうそう。でも朱宮さまは『できます』って言い切ってた。そりゃあ朱宮ちゃんなら出来るだろうけど、私には無理だよ……って当時は思ってた。でも『レッド』のために骨をうずめる覚悟だったから、出来ないなりに頑張ろうってちゃんと真面目に聞いてたんだ。拷問を切り抜けられたのは、そのレクチャーのお陰。だから実践訓練もしていれば、こんな無様な姿を晒すことなく完璧にやり過ごせていたかもしれないって思っちゃうんだ。朱宮さまからはやろうとしなかっただろうから、私から無理にでもお願いしなくちゃいけなかった。朱宮さまの想定以上に、自分の精神力が弱いって気付くべきだったの」
「先程も言いましたが、トラウマのフラッシュバックはその人が悪い訳でも弱い訳でもありません。人間として、自然な現象なのです」
包帯やガーゼが取れ、皮膚移植の手術の名残が現れた。スポンジ、全体を覆う透明な密閉フィルム、そこから伸びるチューブ……たまかは手始めにフィルムを剥がし始めた。フィルムの除去が終わると、患部に当てたスポンジを取る。手術前は、ここに火傷が広がっていた。恐らく高温のアイロンを何度も執拗にあてられていた場所だ。白い肌に二百度の底面が押し付けられ、煙をあげながら皮膚が熱に侵されていく。……そんなの、訓練を受けたからといって耐えられるわけがない。たまかは悲痛な表情を隠せないまま消毒をし、新しいスポンジを患部へと当てた。
「はあ、もっと上手く切り抜けるべきだったのに……上手くいかないね」
椛は腹に包帯を巻くたまかを眺めながら、ため息を零した。
「もう無駄だから全部言うけど、一人だとあの時の記憶ばっかり蘇って体が震えちゃうの。上手く息が吸えなくなったり、突然叫んだりしちゃう。心の中では怒りの気持ちの方が強いんだよ、錐を目玉に刺してきた奴も、指をドスで切り落としてきた奴も、足にコンクリート積んでた奴も、みんなみーんな顔知ってるからさ。こっちがスパイだったとは言え、何してくれてんだって怒ってる。でも体はそれに反して怯えてばっかり。なんでだろうね」
椛は可能な限りの動きで肩を竦めた。そして、視線を窓の外へと向ける。
「私……このまま『レッド』のお荷物になっちゃうのかな。嫌だなあ」
遠くを見つめながら呟かれた言葉は、普段の彼女からは想像もつかない程に寂しそうな声をしていた。たまかは柔らかな微笑みと共に、緩やかに首を横へと振った。
「こうして生きてくださっているだけで、お荷物なんかではありませんよ。少なくとも私は、こうして『レッド』で椛さんと話す事が出来て、嬉しいです」
穏やかな声で、心に届くように祈りながら語り掛ける。包帯を巻き終わり、NPWTの機器の表示を確認した後、たまかはそっと顔をあげた。
「……そっか。ありがとう」
椛の微笑みが視界に現れた。体はボロボロでも、たまかが命を繋ぎ止めることに成功した、尊い命。
「じゃあ私も頑張らないとね。義足で歩けるくらいにはならないと。あとは片目で距離を掴めるようになるのも大事かな、じゃないと射撃なんか出来ないから」
まだその声に力は戻っていなかったが、彼女は前向きにそう言った。聞き捨てならない言葉に、たまかは遠慮がちながらも口を挟む。
「リハビリは大事ですけど、敵を傷つけるためにするものではありません。例えば……えっと。……手と手を取り合う『ブルー』と『レッド』の皆さんの顔を見るため、とかどうでしょう」
椛の顔をそろそろと窺う。椛は不意を突かれたように固まったあと、軽やかに笑い飛ばした。
「そうだね、それは見ものだね。あの子達がどんな顔するのかは、興味あるかも」
たまかはほっと胸を撫で下ろした。彼女にとって『ブルー』の人間は敵であり、大切な人を奪い、そして自身に惨い仕打ちをした憎き相手にもなった。しかし彼女は、『ブルー』の少女達を殺して復讐することに執着してはいない。やはり復讐の連鎖が呪いであることをよくわかっているのだろう。怒っていると言っている通り、勿論『ブルー』への恨みはあるはずだ。彼女はそれだけのことをされた。しかし今の彼女は周りが見えずに我を忘れるようなこともなく、冷静に頭を使うことが出来ている。きっとそれは、彼女が帰ることの出来た『レッド』という居場所のお陰なのだろう。
静かな部屋に、二人の穏やかな笑い声が重なった。窓から朝の光が差し込み、ベッドの隅を白く照らしている。外で小鳥が一羽、空へと飛び立っていったのだった。
たまかは椛の治療を終えると、『グリーン』への情報提供者を探るべく、『レッド』のアジトを後にした。向かうは『ラビット』のアジトである。姫月とはあのような別れ方をしてしまったが、『ブルー』よりは『ラビット』のメンバーの方が情報を話してくれる可能性は残っているはずだ。まずは少しでも可能性のある方へ赴いてみようと、期待を込めてこちらを選択したのだった。すっかり見慣れた『ラビット』のアジトの敷地の前までやってくると、たまかはきょろきょろと辺りを見渡した。遠くの街路樹に吊られている首吊り死体、路上に広がる血溜まり、道端に転がる千切れた腕。相変わらずの様相だ。しかしいつもは楽しく遊んでいるはずの、黒白のフリルの塊の姿はどこにもなかった。
(皆さんは何処に行ったのでしょう)
青々とした葉をつける落葉樹のところまでやってきて、死体を下ろす。死亡を確認した後、たまかは黙祷を捧げた。そしてアジトの門の前へと戻り、今一度辺りを見渡した。人けもなく、笑い声も響いていない『ラビット』は大層珍しかった。無人の門の前で、たまかは困ったように立ち尽くした。
(AIに扇動され、他の組織に抗争を仕掛けることが増えていたと姫月さんは言っていました。まさか『ラビット』のほとんどの方が襲撃しに行ってしまったのでしょうか……)
だとしたら異常な光景だと言わざるを得ない。抗争に興味がなく、常に楽しいことを求める『ラビット』の少女達にあるまじき行動だ。
(どうしましょう、虹さん達から話を聞きたかったのですが、ここにはいないようですね……)
アジトにくれば会えると思っていたため、当てが外れてしまった。
(他に彼女達が行きそうな場所を考えてみましょう。姫月さんにツムギさんを見張るように頼まれていた虹さんは、きっとAIの不審さを察しているはずですから、素直に扇動されているとは思えません)
他組織のアジト以外で、虹や方舟の行きそうな場所。たまかは頭を捻った。彼女達と会うのはいつも『ラビット』の敷地内で、彼女達がよく行く場所も他組織の『おもちゃ』が集うような場所しか聞いたことがない。
(……あ)
それでも絞り出していると、辛うじて一つ思い当たった場所があった。唯一、アジト外で彼女達と遊びに行ったことのある場所だった。
(いるかわかりませんが……駄目元です。行ってみましょう)
たまかは踵を返し、人けのない『ラビット』のアジトを後にした。頭に思い浮かんだ場所へと、純白の靴を迷うことなく進めていく。
カランカラン、と高い鈴の音が頭上から聞こえてきた。たまかは開けたドアをそっと閉め、ゆっくりと中を見渡した。白を基調としたナチュラルコンセプトのおしゃれな店内、並ぶウッドテーブル。その奥の一つに、腰かける黒白の少女達の姿があった。大きなパニエは椅子に収まりきっておらず、フリルとレースを零しながら外へとはみ出している。フリルとリボンに塗れたヘッドドレスとボンネットの二つの頭は、カフェにおいてもよく目立っていた。向かい合って座り合う少女達の間には背の高いパフェが二つ置かれており、丁度スプーンで掬ったクリームと苺が相手の口へ入れられるところだった。方舟の口がパクリとスプーンを覆うのと同時に、頬杖をついてスプーンを差し出していた虹は来客に気付いて目を丸くした。
「たまかちゃんだ!」
「ほへ?」
虹が大きなスカートをゆさりと揺らして立ち上がる。方舟も入口の方へと振り返り、その口をもぐもぐと動かした。虹はぱたぱたとたまかのもとまで駆け寄ると、いたずらっぽく笑いかけた。
「なになに、たまかちゃんもパフェ食べにきたのー?」
「ええー、シェアしよーよ!」
座ったままの方舟も嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。ドアの前に突っ立ったままだったたまかの手を引き、虹は二人の座っていた席までたまかを連れて来た。通り過ぎるテーブルはどれも無人だ。虹は隣の席から椅子を拝借してくると、二人の間へと追加した。店内は虹と方舟しかいないため、注意する者も困る者もいない。虹はたまかの手を引っ張って、その椅子へと腰掛けさせた。されるがままに用意された席へ座る。
「あっ、それとももしかして奢ってくれる? やだなー、またご馳走してくれるなんて!」
虹はご機嫌に体を揺らした。そう、このカフェは以前、たまかが二人にパフェをご馳走した場所だった。方舟のリクエストであるいちごパフェ、そして虹のリクエストであるチョコバナナパフェの両方がメニューにある貴重なお店だ。ここは内装がおしゃれな上にメニューも充実しており、さらにはパフェも絶品だった。姫月も含めて四人でやってきて、また来たいねと言い合っていたことを門の前でふと思い出したのだ。
(しかし、本当にここにいるとは……)
たまたまパフェが食べたくなったのか、はたまた四人で来てから案外お気に入りでよく来ていたりするのだろうか。なんにせよ、無事に会う事が出来て良かった。
目の前の二つの顔は、期待に目を輝かせてたまかの返事を待っている。たまかは苦笑を漏らした。
「いえ、すみません。今はあまり手持ちがないので、次回ということで……」
「えー、残念。じゃあナナ達のパフェ一緒に食べよーよ!」
「うんうん、皆で食べた方が美味しいもんね!」
早速二人は自身の前に聳えるパフェのてっぺんを掬うと、同時にたまかへと突き出してきた。たまかは二つのスプーンの先を交互に見比べたあと、困ったように笑みを浮かべた。
「ナナが先! ほらたまかちゃん、あーん!」
虹の差し出したスプーンには、いちごとクリームがたっぷりとのっていた。たまかは遠慮がちにそれを口に入れた。……美味しい。四人で食べた時も思ったが、ここのパフェはたまかが知る中で一番だ。拘り抜かれた食材、新鮮な果実、見た目だけではない上品な美味しさがある。
「美味しい? 美味しい?」
「はい、美味しいです……」
ほくほくと幸せそうに頬張っていると、虹はそれを見て満足そうにしていた。たまかが飲み込むのを見計らったかのように、逆側からスプーンが差し出される。見ればクリームとチョコバナナが乗っていた。
「今日はお互いの好きな物を交換して食べているんですか?」
「そうそう。味変、って奴!」
虹が得意気に答える。二人は変わらず仲がいいようで、たまかは内心ほっとした。その関係はそう単純なものではないのかもしれないが、それでも一緒に好きなものを食べに行ける距離感を保っていられるのは、きっといい兆候だ。たまかはそんなことを考えながら、再びもぐもぐと口を動かした。方舟の食べさせてくれたチョコバナナパフェも、頬が落ちるくらいに美味だった。
「それで……、たまかちゃんはパフェを食べに来たんじゃないんだよね? もしかして、ボク達に何か用だったの?」
大きく斜めに切られたチョコレート色の髪を揺らして、方舟が首を傾げる。色素の薄い瞳に見つめられ、たまかは頷いてみせた。
「はい、そうなんです。実は……」
「わかっちゃった! たまかちゃん、死体をくれに来たんでしょ?」
虹がにやにやとたまかの言葉を遮る。正解を確信している顔に、たまかは目を丸くした。
「死体? なぜですか……?」
「キャプテンが前に『レッド』の死体が出るかもうんたらかんたらーって言ってたから! それをナナ達にくれるのかと思って!」
「……いえ、違います。彼女は死体になってなどいないので……」
恐らく椛のことだろう。たまかは乾いた笑みを漏らした。残念がる虹に代わって、今度は方舟が元気よく答える。
「あっ、わかった! 『グリーン』とか『ブルー』の子のお造りを作ってほしいんでしょ!」
「わー、絶対それだ! だからパフェも買わないんだ! お腹すかせておきたいんだ!」
きゃあきゃあと声を響かせ合い、今度こそ正解に辿り着いたとばかりに二人は笑い合った。
「ナナちゃんチェーンソーを新しくしたんだよ! よく切れるから最高に美しくしてあげられると思うな~」
「やっぱ見た目が綺麗じゃないと食欲わかないもんね! 大腿骨も余裕で切れちゃうんだよー?」
たまかは段々と笑みを引き攣らせた。目の前に素敵なパフェがあるのに、食欲がどんどんと失せていく。盛り上がる二人を前に、たまかは緩く首を振ってみせた。
「いえ、実はお二人に訊きたいことがありまして……」
「……訊きたい事?」
方舟も虹も、その言葉にきょとんとした顔で目を瞬かせた。二人にとっては予想外だったらしい。
「はい。……その前に確認したいのですが、今日は鳩さんやツムギさんは一緒ではないのですか?」
たまかは改めてこっそりと店内を見渡した。虹と方舟以外に人影はなく、二台のAI達の姿はない。虹はパフェを掬って口に運びながら、軽い調子で「うん」と答えた。
「ポポとツムギちゃんはねー、なんか『レッド』に手足のないおもちゃを作りに行くんだって。何度も誘われたんだけど、気分じゃなかったからノアと抜けてきたの」
「……それでカフェに……」
「ポポちゃんがおもちゃの親指を切って食べさせててね、それを見てたらボクも苺が食べたくなっちゃって。だから来たんだよ、ね?」
方舟が可愛らしく虹に同意を求めたが、虹は同調せずに苦い顔を浮かべただけだった。
「それはノアだけでしょ? ナナはついてきただけ」
「……お二人は、最近鳩さん達とは一緒に遊ばないのですか?」
「まあね。『レッド』に遊びに行くより、もっと楽しいことがあるから」
「もっと楽しいこと……?」
たまかが首を傾げる横で、虹はにやりと口角をあげる。彼女はとっておきを披露するように声を張り上げた。
「AIだよ! 『ラビット』には他組織のAIもあるから、そいつらと『遊ぶ』の! 皆他の組織に遊びに行っているから、ナナ達が独占状態でさー」
るんるんとテーブルの下で足を揺らす虹に、方舟も楽しそうに笑みを浮かべる。
「AIの子達は現実の子達と違ってお話相手になってくれるのがいいんだ! 指を全部切り落としてどの指が一番痛かったか教えてもらったり、いろんなものを食べてもらってどれが一番美味しいかとか、飲み込めるかとか訊いてみたり! あとはたーっくさん質問したりお話したりして、その子の生活をより豊かにするの!」
「そうそう。毎日ジュースを飲む奴には、血を飲むように変えて健康にしたり。朝のジョギングを欠かさない奴には、毎朝自分の足の指の骨を折るように変えて体を柔らかくしたりー? みーんな何も疑問に思わずにやってて面白いの! 今日もね、鎖に繋いだ奴をアジトに待たせてるんだ~」
「うん、ボク達のわんちゃんなんだよ! 『ご主人様』って呼んですっごく懐いてくれてるんだ! とってもかわいいの!」
「……」
AIの尊厳を破壊したり変な知識を入れて遊んだりしていることは、以前姫月も言っていた。今の二人の興味は、真っ直ぐとそれらに向いているらしい。たまかは複雑な表情を浮かべたが、生身の人間が傷つくよりはいい……の、かもしれない。
「たまかちゃんにも見せてあげようか? 足を捥いでおいてるから、自分では動けなくて来てもらうしかないんだけどね。『ブルー』の奴だけど、たまかちゃんのことをご主人様って呼ばせることも出来るよ?」
「……そんなこと、出来るんですか? 他組織の汎用AIにも、意思はありますよね?」
「出来るよ! 質問攻めにしたり、前提の認識を変えさせたり、ちょっとコツがいるんだけどね!」
怪訝な顔での問いに、虹は自信満々に言い切った。その得意気な様子を見るに、発言は本当なのだろう。
「ボク達沢山皆と遊んだもんね! 上手くお願いすれば、その場で死んでもらうことだって出来るんだよ!」
方舟はにこにこと楽しそうにそう言った。それだけ様々な汎用AIと遊んできたということらしい。『ラビット』の少女達が揃って夢中になるわけである、彼女達は随分なおもちゃを手に入れてしまったようだ。
「な、なるほど。そんな風にお二人はアジトに残ってAI達と遊んでいるんですね……」
「うん。で、なんかポポ達に知られちゃまずいことでもあるの?」
パフェを頬張りながら、虹はレモン色の髪を揺らして首を傾げた。たまかは声を潜めて、ついに本題を切り出す。
「……実は、お二人に訊きたかったのは、『グリーン』のことなのです」
「『グリーン』?」
方舟が繰り返した言葉に、たまかは真剣な顔で頷いてみせた。
「死人を完璧に再現するだけの情報を、どこから手に入れているのかを追っています。お二人は『グリーン』に接触した人物や、『ラビット』の情報を流した方に心当たりはありませんか」
たまかの続けた言葉に、二人は揃って顔を見合わせた。やがてその二つの視線はたまかへと戻り、もぐもぐと間の抜けた口の動きが再開された。
「……『ラビット』の情報なんて、『グリーン』には筒抜けだと思うけど」
「うん、別に秘密にもしてないし、皆訊かれたら普通に答えると思うな」
「……」
肩透かしを食らってしまったが、しかし二人の言うことも事実だった。『ラビット』は抗争に重きを置かない分情報は厳格に管理されておらず、楽しいことがあれば他の組織にだって容易く情報を漏らすだろう。実際に所属する二人が言うのだから、きっとそのイメージ通りなのだ。突然『グリーン』に話し掛けられても、身近で死んだ人の話くらい抵抗なく告げるのだろう。
「では、『グリーン』と接触した方を見かけたりしませんでしたか? あるいは大金を手に入れたと噂のある方でも構いません」
「……うーん、『ラビット』は基本的に他の子との繋がりが薄いからなあ。見たことも聞いたこともないかも」
「うん、ボクも知らないなあ」
「皆他人に興味ないもんね」
『ラビット』は自由奔放な者達の集まりである分、個人行動が主な組織である。『グリーン』と接触した人間がいたり大金を手にした人間がいたりしても、周りは誰も気が付かないのかもしれない。
(お二人とも情報を提供してくださるのには協力的ですが……肝心の情報の方がなかったみたいですね)
『ラビット』での情報収集は、手掛かりなしに終わってしまった。たまかは密かに肩を落とした。
「話してくださって、ありがとうございます。ちなみに、『グリーン』のことで何か知っていることはありませんか?」
「『グリーン』? うーん……すごいAIを提供してるってことくらい?」
「あとはシヲリちゃんが優しいってことくらい!」
残り少なくなったパフェをかき混ぜながらの方舟の発言に、たまかは目を点にした。
「え……、しをりさんと会ったことがあるんですか?」
「うん、AIの足がなくなっちゃったときに直しに来てくれたの。他のメンバーは忙しくて来られなかったからって。おまけでお菓子もくれたんだよ」
方舟の話の合間に、虹がいちごジャムとバニラアイスをスプーンに乗せてたまかへと差し出す。たまかは遠慮して、笑みを浮かべたまま首を横へ振った。
「ずっとにこにこしてたし、AIへのボクの要望にもその場で全部応えてくれたの!」
「ナナ達『ラビット』の子を見たら気味悪がる奴がほとんどだから、珍しいよね。流石びじねすぱーとなー? ってやつ?」
虹はパクリとスプーンに食いつき、けらけらと笑った。先日のしをりの物腰柔らかな対応を思い起こす。方舟の話す光景は、たまかにも容易に想像がつくような気がした。
「そうなのですね……」
結局、『グリーン』の怪しいところは特になかったようだ。たまかは質問を変えることにした。
「では、水面さんのことで何か知っていることはありませんか?」
「ミナモ? うーんと……『ブルー』の死んだキャプテンってこと?」
「はい。水面さんが死んだ日に、どこかで目撃したりはしていませんか」
虹は首を横に振ってから、方舟へと顔を向けた。方舟も同じ様に、首を横へと何度も振った。
「そうですか……」
「最近、『ブルー』の大将はあんまり見かけなくなってたんだよね。前は大きな抗争現場に行ったら、必ずと言っていいほど見かけたのに」
それは『レッド』で報告されていた情報と同じだった。喧嘩好きで最前線で活躍することの多かった水面の姿が、なぜか最近めっきり減ったとのことだった。虹の話からすると、『ラビット』との抗争に精を出していたというわけでもないらしい。
「あー、いや? ちょっと待って?」
パフェをつついていた虹の手が、不意に止まった。彼女は訝しむような顔で、じっと底に残ったクランブルとクリームを睨んでいる。
「……見かけたかも。死んだ日じゃないかもだけど」
「え?」
たまかはほとんど空になったグラス越しに、虹へと顔を向けた。彼女は薄れた記憶を辿るように難しい顔をしていた。思い掛けない情報に、たまかはテーブルへ身を乗り出す。
「どこかと抗争していたとかですか? 相手はわかりますか?」
「ううん、そんなんじゃなくて……一人だったよ。どっかの建物に入る背中を見ただけ……でも『ブルー』の大将って確信があるわけでもないかな……よく知らないし」
虹は長いスプーンの先を天へ向けて、行儀悪く揺らした。
「ほら、『ブルー』の大将ってさ、インナーカラー入れてるじゃん。あれめっちゃ可愛いなって思ってて、ナナも染めたいなーって思ってたから印象に残ってたんだよね。ツムギちゃんがファッションとか好きだから、その影響で」
長く垂れるレモン色の髪を見せるように、その頭を傾ける。
「だから靡いた髪に明るい青のインナーカラーが混じってるのを見て、あっあれ『ブルー』の大将じゃんって思ったんだ。まあそれだけだったんだけど。おっかないから関わり合いになりたくなかったし、近くに用事があるわけでもなかったし、確かすぐに移動しちゃった」
「そ……その建物がどこだったかは覚えていますか?」
「え? いや、全然……ポポといろんなところ散歩してた時だったかなあ、だから覚えてないや」
初めて聞く目撃情報だ。たまかは険しい顔で、テーブルの木目へと視線を下げた。
(死に際以外にも、水面さんが一人で行動している時があったのですね)
基本的に仲間と共に行動する『ブルー』では、あまり見ない光景のはずだ。仲間に知られたくない何かがあったか、あるいは呼び出されたりでもしたのだろうか。
(建物……そこに何か用事でもあったのでしょうか)
しかし虹に訊いても、これ以上思い出してはもらえなさそうだ。むしろ記憶が曖昧な人物を見かけたという些事を思い出しただけでも凄いことである。たまかは満足そうに笑みを浮かべた。
「……ありがとうございます。とても……貴重な情報でした」
「え……こんなのが? たまかちゃんも『レッド』の人間だねぇ……」
虹は理解出来ないというように肩を竦めたあと、グラスに残った最後の一口を頬張った。
「ねえねえ、たまかちゃん。それじゃあ、ボクからも一つ訊いてもいい?」
反対側からの声に、たまかは驚いて方舟を振り返った。彼女のグラスは既に空で、残ったチョコレートが模様を描くように側面に貼り付いていた。
「最近、キツキちゃんが元気がないような気がしてて……たまかちゃんは何か知ってる?」
突然の問いに、たまかは困ったように口を閉じた。方舟は天真爛漫なようでいて、こういうところは人一倍鋭い。たまかとの間にあったことは知らなくとも、姫月の様子がいつもと違うことに気付いていたのだろう。気まずそうに逸らされた視線を見て、方舟は頭上のボンネットの位置を直しながら言葉を続けた。
「なんか寂しそうっていうか。……たまかちゃんからも何か声を掛けてくれると嬉しいな」
穏やかな声に、たまかはおずおずと頷いた。色素の薄い、淡く美しい瞳が細められる。彼女はたまかの不安を包み込むように、優しく微笑みを浮かべてみせた。
「はーっ、ごちそうさまでした! 美味しかった☆」
空のグラスがテーブルに二つ並んでいた。虹は満足そうにフリルとレースの膨らみを撫で、お腹をぱふぱふと叩いた。方舟もにこやかに両手を合わせた。
「たまかちゃんが聞き込みしてるのって、新しい遊びなの?」
虹は隅に置いてあった紙ナプキンを一枚取って、雑に口を拭いながら尋ねた。たまかはその顔を真剣なものに変えて、厳めしく答えた。
「いいえ、……水面さんの死の真相を探っているんです」
「ふーん、じゃあ探偵ごっこしてるんだ?」
方舟が「楽しそうだね!」と笑い掛ける。たまかは曖昧な笑みを浮かべて返答に窮したあと、「パフェ、ご馳走様でした」と礼を述べたのだった。




