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翡翠に溺れる空と雲  作者: 小屋隅 南斎


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第7話




 ***

 ■Side W




「たまか、『ブルー』が襲ってきたみたいだ。向こうは計八人、リーダーは蘇生騒動の時に前線にいた青空。場所は『レッド』のアジトにも近いから、ここまで乗り込んでくる可能性もある。任務で現場付近にいた六人が捕まり、四人は既に死亡している。残る二人も集団暴行を受けていて、殺されるのも時間の問題だ」

「なんてこと……! すぐに向かいましょう」

 報告に来た茜の言葉に、たまかはすぐさま椅子から立ち上がった。

「今日は休戦日なのに……!」

 定例会議で決められた、どの組織も戦を仕掛けない日。もう『ブルー』にとって、そんな停戦協定はなかったも同然の扱いなのだろう。いよいよ獣のように暴れるだけの段階に入ってしまっているらしい。たまかは深い悲しみに眉尻を下げながらも、素早くサイドポーチへと手を伸ばした。医療器具が詰まっていることが布越しにもわかる、大きく膨らんだ感触。きちんとポーチが腰に装着されていることを確認すると、たまかはすぐさま部屋を飛び出した。後ろから茜もついてくる。

「閃光手榴弾を多めに持っていこう、倉庫によっていくぞ。……たまかも来て。早く治療したいのは分かるけど、あんたが殺されちゃ元も子もない」

「は、はい……!」

 後ろから投げられた言葉に、たまかはもどかしい気持ちを抑えて了承を返した。廊下を駆け抜けてエレベーターに乗り込むと、一度倉庫のある階で降りる。閃光手榴弾、ピアノ線、針、麻酔薬と思われる複数のミニボトルなどを倉庫で調達し、その内一部はたまかへも渡された。茜はさらに拳銃の弾もポケットに突っ込んだ。……先程のミニボトルの中身も、毒薬が混ざっているのだろう。たまかの手前人を傷つける道具を大っぴらに持っていきはしないが、『レッド』の者達はいつでも『ブルー』に対処できるよう準備している。攻撃してはならないというたまかの命が解除されれば、すぐにでも『ブルー』の者達を殺せるように。

『『ラビット』との抗争が勃発しました。場所は……』

 茜の持つ小型無線機から、『レッド』のメンバーの報告が小さく聞こえてきた。『グリーン』への警戒が強い『レッド』では、以前から無暗にハイテク機器に頼らずに小型無線機も使用してメンバー間の連絡に役立てていた。内容によってスマートフォンやタブレットによるメッセージや電話と使い分けており、機密性や緊急性が高いものは無線機を介して報告することが多い。しかし最近は無線機での報告が多く、情勢が混沌を極めていることが窺えた。水面の一件があり、『グリーン』へ情報が洩れないようメンバーがより慎重になったのもある。無線機から聞こえていた報告が終わったかと思いきや、すぐさま別の声が新たな報告を始めた。

『『ブルー』が『レッド』の者を次々と殺し、アジトに接近しています。付近の方は離れ、アジトの位置が特定されないよう……、っ』

『おいお前、こそこそしてんな!』

 報告は荒々しい怒声に掻き消された。『ブルー』の者に見つかったようだ。無線機の向こうで鈍い殴打音、何かを引き摺るような音、二枚歯の高い音、そしてドサリという重い物が落ちる低い音が聞こえてきた。通信を切る余裕すら与えられなかったらしく、生々しい音と呻き声が全て垂れ流されていた。何度も何度も執拗に繰り返される殴打音、段々と覇気のなくなっていく呻吟。無線機の向こうで、一つの命が奪われようとしている。たまかはいてもたってもいられず、倉庫を飛び出した。準備を終えた茜も、すぐにたまかを追い駆ける。二人はエレベーターに乗り込み、一階へ向かった。扉が開く頃には、無線機の向こうは何も音を拾わなくなっていた。

「たまか」

 エレベーターから出たところで、茜がたまかを呼んだ。足を止めぬまま、後方を一瞥する。

「はい」

「向こうが本気で暴れたら、私達も全員殺されるのは目に見えてる。……傷つけずに解決するのは、もう難しいかもしれない」

 『ブルー』には圧倒的な力があり、『レッド』は今まで策と情報を駆使して彼女達に対抗してきた。林檎が長を務めていた時代、『ブルー』の者達を殺す方針に切り替えざるを得なかったのは、こちらも殺さないと皆殺しにされてしまうのが明らかだったからだ。『ブルー』が本気で暴れたら、『レッド』に成す術はない。『ブルー』を傷つけまいとしている間に、こちらが全員殺されてしまう。それを防ぐには、こちらも『ブルー』を攻撃し排除するより他にない。

「……」

 たまかは唇を噛んだ。たまかには誰かを傷つけることも、それを誰かに命令することも、決して出来はしない。それを選ぶのなら自分が犠牲になる道を選ぶほど——たまかにとって、譲れない信念だ。しかしこちらが殺さなければ、暴走する『ブルー』は『レッド』を一人残らず皆殺しにしていくだろう。今までは策と情報を駆使して『ブルー』に対抗してきたが、それが通用しない段階に入ってしまったとしたら……最悪の事態を覚悟しなければならないのかもしれない。

(……それでも……)

 たまかは廊下を駆け抜けながら、苦悶の表情を浮かべた。そしてそれを振り払うように、その目で前を見据えた。全力で駆ける足は、止まらないままだ。

(傷つける以外の方法が……あるはずなんです。それを考え抜くのが、『レッド』に私がいる意味なんです)

 エントランスに出ると、外から差し込む陽の光が二人を包み込んだ。そのままアジトを出て、敷地内を門目掛けて一直線に走っていく。見えてきた門の前には、たまかが来ることを見越して数人の少女達が待機していた。紅色の制服に身を包む少女達は、自分達の長の姿が現れたことにより表情を引き締めていた。

「たまかさん、西方約三百メートルまで『ブルー』の者達が接近しているようです。死者も増えています、治療が間に合う者はいないかと」

 集っていた者の中には、桜の姿もあった。彼女はたまかの横へとつき、並走しながら端的にそう報告をした。

「……わかりました。アジトに乗り込まれたら多大な死傷者が出るでしょう、私達で食い止めましょう。足元に糸を張って、閃光手榴弾が起爆する仕掛けを設置しましょう」

 合流した『レッド』の者達と共に、門を潜り抜けて外へと出る。桜は一度躊躇ってから、足を止めないままたまかへと口を開いた。

「……低致死性兵器を使用するより、アジトの門の近くに爆弾を仕掛けておいて全滅させるべきだと思います。加えて、アジトを目指しているのならば通る道も予測出来ますから、狙撃部隊も配置するべきかと。『ブルー』の間合いに一たび入ってしまえば、こちらは手も足も出せずに一方的に蹂躙されるだけです。たまかさんの意に反するのはわかっておりますが、早め早めに割り切って……」

 桜は道の先へと顔を向けたまま口を動かしていたが、ピタリと言葉を止めた。その視界に、薄群青色が見えたからだった。頭の中で計算していたよりも、大分早い登場だ。『レッド』の者を手当たり次第殺しながらも、有り余る体力で道中も全力で走ってきたらしい。罠を仕掛けられることを見越して、時間を与えないように対策をしていたのだろう。向こうも紅色の制服の集団を見つけると、すぐに駆けてきた。まるでスプリングボックを狩るチーターのような駿足と気迫。その先頭を務めていたのは、たまかの見知った顔だった。

(……青空さん)

 青空はその目に怒りを宿し、真っ直ぐとこちらを睨んでいた。猛スピードで迫り来る『ブルー』の集団に、たまか達は一斉に足を止めるしかなかった。見つかってしまえば、もうこちらに仕掛ける余地など残ってはいない。『ブルー』は体術に優れ、急所も熟知し、腕力も強く、攻撃を避けるしなやかさも兼ね備えている。彼女達は手の届く範囲に現れた獲物を絶対に逃しはしないのだ。獰猛な肉食獣のような、今にも食らいつきそうな瞳が迫ってくるのを見て、たまかは大きく口を開けた。

「青空さん」

 鋭く名前を呼ぶ。辺りに響いた声に、青空はピタリと足を止めた。何やら言いたげな様子のたまかを見て、突撃しようとしていた仲間達の前へ腕を真っ直ぐと伸ばして遮った。後方に手を出すなと指示を出したのだろう。『ブルー』の者達は青空の後ろで足を止め、憎らし気に『レッド』の面々を睨みつけていた。さながら檻の中のライオンだ。鋭い眼光を突き付ける青空へ、たまかは強張った顔で対峙していた。嫌な静けさの中、場の注目が白い制服へと集まる。

「『レッド』の者達を殺していると聞きました」

「そうだよ、流石に耳が早いね」

 青空は嘲笑を漏らした。腰に手を当てると、他方の手を誇らし気に広げる。その手は血に染まって真っ赤だった。今はたおやかに見える細い手は、人を殴り殺すだけの力を秘めている。

「……私は嫌いじゃないよ」

 青空はにやりと口端をあげた。突然の言葉に、たまかは意味がわからず怪訝な顔をした。

「結局全てを決めるのは暴力だ。わかりやすくていいじゃない。虚言を並べているよりよっぽどいい」

「……何の話ですか?」

「でもね、残念だけどお前達は勝てない。なぜなら弱いから。時期を見極めても、回りくどく罠を仕掛けても、全てが無意味。弱い者は強い者に食い散らかされるだけなの。まだわかんないの?」

 青空は挑発的な笑みを浮かべた。しかし弱い者への侮蔑に溢れていた表情はすぐに消え、真顔になると目の前の少女をじっと見つめた。声が落ちる。

「お前のこと、ただの弱い奴じゃないんだって思ってたけど……きっと勘違いだったんだ。やっぱり弱い奴は弱い奴、それ以上でも以下でもないね」

 その暗い声には、失望と落胆が混じっているように聞こえた。たまかは顔を強張らせたまま、気丈に声を張り上げた。

「……何の話なのかわかりませんが、これ以上『レッド』の方々を傷つけないでください」

「そっちが殺しといて黙っていろって? ちょっと抗争を舐めすぎじゃない?」

 言葉を失って固まるたまかへ、青空は視線を鋭くし、低く構えた。

「家族を殺した恨みはきっちりと晴らさせてもらうよ。勿論縹様を殺した仇もね。お前の命で償え」

 話し合いは終わりだとばかりに、青空は短く息を吸って敵を睨んだ。たまかは戸惑いを乗せて、一歩身を乗り出した。

「殺したって、一体どういう——」

 たまかの言葉は最後まで言い終わることはなかった。青空の体が消えたと思った次の瞬間には、既に彼女はたまかの横を通り過ぎていた。そのままたまかの後ろにいた少女の顎へ、青空の拳が振り上げられた。少女の頭が大きく揺れ、まるで糸の切れた操り人形のように体が躍った。カクンと後ろへ垂れる頭、白目を剝く瞳、地面へ倒れる体。たまかの横で、少女は意識を失って仰向けに崩れた。勢い良く振り下ろされた二枚歯が彼女の顔を抉るのと、銃を構えかけた桜の手を手刀が強打したのは同時だった。神経をやられ動かなくなった手、そこから落ちかけた銃を、青空の手が流れるように掠め取っていく。そのまま銃口を横へ伸ばすと、青空は相手を見ずに迷わず発砲した。大きな銃声が辺りに響く。銃口の先にいた『レッド』の少女は、眉間に穴を空けた。その手には、銃が握られていた。あと一歩が間に合わなかった少女は、夥しい量の血を垂らしながら後ろへと倒れて行った。見開いたままの瞳を見下ろし、たまかは顔を真っ青にした。上手く息が吸えなかった。

 『レッド』の少女達は、次々に銃や刃物を取り出した。この状況では、やらなければやられるだけだ。『傷つけるな』というたまかの命は、既に意味を成していない。しかし後方にいたはずの『ブルー』の者達が即座に目の前に現れ、『レッド』は武器を向けることすら出来ずにその拳の餌食になっていった。『ブルー』は体術を得意とする者達の集まりだ。近接戦闘で敵うわけがない。

「弱い奴は声をあげる時間さえ与えられない。『傷つけないでください』ってお願いすれば解決するとでも思ったの?」

 青空は健康的に引き締まった足を曲げると、垂直に高くあげた。二枚歯の先から血が滴り落ちて、下の少女を赤く汚していた。そしてその先は、再び少女の顔へと振り下ろされた。踏み抜く勢いで落とされた足の下で、骨の砕けるような鈍い音が聞こえた。短い呻き声、跳ねる体。鼻から血が垂れていき、潰れた目は酷く窪んでいた。その痛々しい顔を踏み躙って血を広げながら、青空はたまかへ嗤笑を向けた。

「どう? 仲間達が殺されて、ようやく自分の弱さに気が付けた?」

 青空は力を込め、ついに足の下を踏み潰した。血管の切れるような音が小さく聞こえ、眼球が飛び出て転がっていった。

「あんたの番もすぐだよ。たまか」

 青空は始終歪な笑みを浮かべていた。異常な昂り、狂気的な凶暴性。目の前の敵がそうさせるのか、『ブルー』の置かれた環境がそうさせるのか、はたまた人を殺した高揚感がそうさせるのか。今の彼女はまともでないように見えた。倒れた二人の少女は血だらけで、片や絶命し、片や苦痛に息も絶え絶えに喘いでいる。早く治療をと急く心のまま、たまかは足を踏み出しかけた。しかしここで下手に動くと自分も殺されるであろうことは目に見えていた。逃がさないとばかりに強い眼差しがたまかを射貫き続けている。たまかは寸でのところで思い留まった。『レッド』の者達のためにも、長が死ぬわけにはいかない。倒れた二人の惨状にどうすることも出来ないまま、たまかは目視で怪我を確認して頭の中で治療の算段を立てた。同時に、次の瞬間には自分が同じ状態になっているかもしれないという恐怖が湧き上がった。それは周りの『レッド』の少女達も同様のようだ。彼女達は息を殺して『ブルー』を窺っているが、その顔はどれも強張っていた。青空の指示一つで『ブルー』の少女達はすぐにでも目の前の相手を殺せる。武器を無力化されて目の前で睨まれている今、『レッド』の少女達に成す術はない。

 たまかの陰で、桜の手がピクリと動いた。目にも留まらぬ速さで場が動く。桜が隠し持っていたデリンジャーの銃口を青空へと向けた時には、青空の左手に握られたナイフが彼女の首へと当てられていた。桜は銃の先を伸ばしたままの体勢で凍り付き、鋭い刃先のあたった喉をごくりと鳴らした。同時に、青空の右手は銃口をたまかへと向けていた。たまかは強張った顔で、自身へ向けられた黒い穴を見つめた。隙を突いた桜の起死回生の一手は、あっけなく防がれて終わった。今やたまかの命と桜の命は、青空の手の内にある。彼女が一たび手を動かせば、二人の命は消えるのだ。しんとした静けさが満ちていた。誰も動けない。息を吸う事すら難しい程の緊張感が、辺りを支配していた。

「死ぬ前に一つ教えろ」

 引き金を引く前に、意外にも青空は言葉を投げた。彼女はその瞳に憎しみを宿し、たまかを鋭く射貫いた。

「……どうやって縹様を殺したの」

 周りの『ブルー』の少女達も『レッド』の少女達も、息を潜めて成り行きを窺っている。

「……」

 桜の喉に当てられた刃先が、彼女の柔らかい肌に僅かに埋められた。桜の顔が僅かに歪み、首に赤い線が一筋できる。咄嗟にたまかは口を開いた。

「殺していません。水面さんも、誰も」

 はっきりと声が響く。青空の憎しみに満ちた瞳に、たまかは曇りない眼で真っ直ぐと対峙した。その答えに、青空は怪訝そうに眉を顰めた。桜の喉に当てられた刃は、次の言葉を待つようにその動きを止めている。

「私は誰も殺していないんです。……何か、勘違いをしていませんか」

 誰も傷つけないことを徹底してきたたまかだからこそ、胸を張ってそう言い切ることが出来た。青空はその言葉に、白けたように不機嫌を貼り付けた。

「別に誤魔化さなくていいだろ。虚言はいらない。お前が殺す気になったこと自体は、さっきも言ったように歓迎してるんだ」

 青空は「ただ……」と小さく続けた。過去を思い出しているのか、青空の目はどこか遠くを見つめていた。

「……最強である縹様を殺した方法を知りたかったんだ。初めて会った時、私は縹様と一対一でやり合った。自分は誰よりも強いと思っていたのに、縹様には手も足も出なかった。あんなに強い縹様を殺せる奴なんて、この世に誰もいないと思ってたんだ」

 暗い表情には、寂しさや悔しさが滲んでいる気がした。他の何よりも水面が誰かの手によって殺されたことが、彼女には未だに信じられないのかもしれない。いつも活力に満ちている彼女の初めて見る沈んだ姿に、たまかの心も痛んだ。彼女の気持ちを想うなら、なおさら誤解を解かなくてはならないだろう。たまかは青空に向かって、畳み掛けるように繰り返した。

「殺していません」

 凛とした声。曇りなき大きな眼は、真実を訴えるように真っ直ぐと青空を見つめている。青空はますます不快そうに顔を曇らせた。

「だから、虚言はいらないってば」

「殺していないんです。私達は、誰も」

「……」

 青空の瞳は、氷の如く冷え切っていた。彼女の左手の筋が、僅かに浮き上がる。同じ言葉を重ねるたまかに、ついに業を煮やしたようだった。それを見て、たまかは力の限り叫んだ。腹の奥から、留めていた思いを全て吐き出すかのように。

「私も!」

 空高く響いた声に、動こうとしていた刃先が止まった。桜の首は繋がったままだ。たまかは眉尻を下げ、悲痛な面持ちを浮かべた。声を落とす。

「……私も、水面さんがどうやって死んだのか、どうして死ぬことになったのか、何もわからないんです。私は敵対組織の長で部外者、……ですが本当は私も、水面さんの無念を晴らしたいんです。真実を白日の下に晒して、少しでも彼女の力になりたいんです。水面さんの命を救えなかった私に今出来ることを……全うしたいんです」

 自分でも見て見ぬ振りをしてきた、本当の気持ち。切々と吐露する声は掠れていた。たまかは小さく項垂れて、その顔に影を落とした。……部外者とか、敵だとか、情勢だとか。しがらみのせいで、身動きが取れなくなっていたけれど。水面のために動こうとする姫月や暴れる『ブルー』、独自に動く『グリーン』や憎しみを募らせる水波や青空を前にして、一人静観するしか出来なかったけれど。でも、本当は——

(沢山助けてくれた水面さんの、力になりたいです。……友達として)

 彼女の無念を晴らしたい、彼女の力になりたい。『ブルー』も『レッド』も、誰からも賛同しては貰えないのだろうけれど。たまかの胸の奥深くの願いは、気付いてみればこんなにも大きく膨らんでいる。彼女には沢山守ってもらい、沢山優しい言葉を貰い、沢山力を与えられてきた。

(私……やっぱり、水面さんの死の真相を突き止めたいです)

 『ブルー』のすべきことで、敵対長が深入りするようなことではないとわかっている。情勢的に、静観が一番であることもわかっている。それでも、水面はたまかにとって大切な友人となっていたから。彼女のためにたまかが今出来ることは、それだけだから。このまま黙って皆を見ているだけなんて、本当は嫌だ。たまかは小さく顔をあげた。依然桜の喉を捉えたままのナイフ、たまかに向けられたままの仄暗い銃口。その先にある、静かに怒りを湛えている青空の顔。たまかと、同じ気持ちを持つ少女。

(それに何より、青空さんや水波さんが、水面さんの死の真相を誤解したままでいいはずがありません。彼女達は、こんなにも深く水面さんを想っているのですから)

 たまかは顔付きを変えた。今まで押し込めてきた気持ちに向き合い、そして目の前の光景に覚悟を決める。その瞳には、強い決意が宿っていた。桃色の唇は、小さく深呼吸を挟んだ。そして、声を響かせる。自身へ向けられた銃口を、物ともせずに。

「取引を、しましょう」

 青空の左手が、ぴくりと動いた。桜の顔が反射的に強張る。しかし鋭利な刃は彼女の首を斬り落としはしなかった。場にピリピリとした嫌な緊張感が漂う。ナイフを動かす代わりに、青空の口からは呆れたように叱責が漏れた。

「口で何を言っても無駄だってば。取引がしたいのなら、力でねじ伏せてから言え」

 それが『ブルー』のやり方だ。しかしたまかは視線を逸らさないまま、決然と続けた。

「私なりの『力』は、情報なんです。もしこれ以上誰かを傷つけるとしたら、貴方達は水面さんの仇を一生取ることが出来なくなるかもしれませんよ」

 虚言など聞く気はないとでも言うかのような顔が、僅かに歪んだのが見えた。

「まだ御託を並べる気?」

「違います、取引です。私達を生かしておけば、青空さん達は水面さんの死の真相に近づくことが出来ます。ここで命を見逃してくれさえすれば、私達は自分達の潔白を証明し、『ブルー』の苦手分野を担って真相を突き止めてみせましょう。逆に今ここで殺してしまえば、『レッド』の持つ情報を永遠に失い、水面さん殺しの真犯人がいればそれを逃すことになってしまいます。……気付いてください、私達も貴方達の味方なんです」

「お前は縹様を殺しておいて、こうして口から出まかせばっかり言う。朱宮と同じだよ。『レッド』なんて信じられない」

「青空さん……まさか本当に、私が水面さんを殺したと思ってるんですか?」

 取り付く島もない青空に、たまかは眉を寄せ、唇を僅かに尖らせた。

「本当の本当にですか? 腕力は微塵もない私が、あの水面さんを?」

「……」

「強さを崇拝する貴方が? 赤子の手さえ捻る事の出来ない私が、あの無敵の水面さんに勝ったと? 本気でそう思っているのですか?」

 たまかは詰るように続けざまに言葉を浴びせた。青空はたまかを睨みながらも、それらに何も反論せずに押し黙っていた。たまかの言うことを否定できない……つまり彼女はきっと、心の奥に違和感を持っている。強さに重きを置く彼女だからこそ、たまかの指摘した疑問はどうやっても頭から抜けないはずなのだ。

「私は水面さんを殺していませんし、『ブルー』の方に危害を加えたりもしていません。私の腕っぷしでは水面さんを殺せっこないって、青空さんなら誰よりもわかっているんじゃないですか?」

「……お前が直接やり合ったわけじゃないのはわかってるから、腕力は関係ないよ。それに縹様を現場で殺したのは、お前じゃなくて……」

 青空はその先を濁したが、たまかが凛然と声を響かせて後を続けた。

「林檎さん、そう思っているのですよね。でも、違うんです。林檎さんは『レッド』にいて、水面さん殺しに関与できるはずがないんです」

 青空、周りの『ブルー』の面々、そして桜や茜をはじめとする『レッド』の面々、全ての顔が驚愕に染まった。動揺の見える『ブルー』の少女達、耳を疑うように固まる『レッド』の少女達。場の視線は、全てたまかへと集まっていた。痛い程の視線を浴びながらも、たまかは毅然として青空へと対峙していた。

「なんとでも言える……」

 青空は小さく漏らしたあと、唇を噛んだ。目の前の仇敵を睨みつける。

「隠す気がなくなったんなら都合がいい。お前が朱宮のAIを『ブルー』に寄越したんでしょ」

「いいえ。そもそも林檎さんが『ブルー』にいたという話がおかしいんです。彼女は『レッド』にいたのですから」

 青空の顔に、激しい怒りが炎のように燃え盛る。

「ミナミが嘘をついているっていうの?」

 強い語気の叫び声は辺りに木霊した。たまかは視線を落とし、真剣な顔で目を細めた。

「いえ……恐らく水波さんも本当のことを言っています。ですから、何かがおかしいんです。水面さんの死には、誰かの思惑が深く絡んでいるのかもしれません」

 青空は今にも舌打ちを零しそうな程に顔を歪めた。白々しい嘘をついていると思われたのかもしれない。たまかは表情を変えなかった。

「青空さん、先程貴方は『レッド』が『ブルー』の方を殺したと言いましたよね? それは、本当に信頼できる情報なのですか?」

 たまかの問いに、青空は眉を寄せながらも猛然と反論した。

「仲間が言ってたんだ、間違いないよ」

「でしたら、他の組織が関渉出来る余地はありませんでしたか? 私達は『ブルー』に手を出してなどいないんです」

「……仲間を疑えって言うの? ならお前達を疑うよ。『ブルー』の者なら当然ね」

 青空はそう吐き捨てた。『ブルー』は仲間を第一に考える組織だ。敵対組織の長の言うことと仲間の言うことを天秤に掛けたらどちらに傾くかなど、火を見るよりも明らかだ。

「……」

 たまかは考えるように視線を落とした。自身を捉えたままの銃口など見えていないかのように、言葉を続ける。

「別に仲間が裏切っているとは限りません。例えばメールでやり取りしているのなら、仲間のスマホがハッキングされて第三者の手によって送られた可能性もあります。もしくは電話ならば現場で他の組織の者が脅したり成りすましたりして話していた可能性もあります。『ブルー』の仲間の繋がりの強さを、利用している者がいるのかもしれません」

「そういうことが誰よりも得意なのは、お前らでしょうが」

 苦い顔をする青空へ、たまかは首を横へ振ってみせた。

「『レッド』は関与していません。だって今回は私達と衝突するように仕向けているんですよ。私達だって、自分達の首を絞めるような真似はしません」

 『ブルー』の強さをその身を以って知っているからこそ、ブラフだとしても『レッド』は『ブルー』と正面衝突するような状況は作らない。

「『ブルー』は真っ直ぐに突き進むやり方を好みますから、このような手段を取られると太刀打ちできないでしょう。『ブルー』の自慢である腕力が通用しないですからね。本来ならばこういう策を仕掛けて翻弄するやり方は、『レッド』の手口だったのでしょうけど……」

 しかしたまか達『レッド』は一切関与していない。従来の『レッド』のやり方を用いて、『ブルー』を破滅へ追い遣ろうとしている組織がいるのかもしれない。たまかは小さく息を吸い、目を細めた。

「……青空さん。『レッド』と一時休戦とはいきませんか。大丈夫です、これは取引ですから仲間を裏切ったことにはなりません。それに『ブルー』側にもメリットがある話です」

 たまかは長としての振舞いを解き、悲し気に瞳を揺らして続けた。

「せめて水面さんの死の真相がわかるまで、手を取り合うことは出来ないでしょうか。でないと……このままでは、『ブルー』は破滅に追い遣られるかもしれませんよ」

 その言葉に、青空は怒りを湛えてたまかを睨んだ。

「舐めないで。私達は誰が相手だろうと勝てる」

 これは強がりではなく、心の底からそう信じているのだろう。たまかは眉尻を下げながらも、なおも真摯に訴えた。

「そもそも今私達を殺そうとしていることが、悪意に踊らされている証拠なのです。私達は水面さんもメンバーの方も殺していません。貴方達が真に討つべき仇は、別にいるんです」

「またそれ? いい加減飽きた」

 青空はため息を漏らした。彼女は考えを変える気はないらしい。何を言っても信じては貰えないようだ。

「……」

 たまかは必死に言葉を紡いでいた口を、いよいよ閉じた。彼女に説得に耳を傾けてもらうことは、どうやっても難しいのかもしれない。

(この強情さ……何か理由があるのかもしれません)

 『ブルー』と『レッド』は因縁の関係であり、手を取り合うのが難しいことは勿論百も承知だ。ただ、青空を見ているとそれだけが原因でもないように思えた。

(ですがこのまま撃たれては、水面さんの無念を晴らすことも、青空さん達が真実に迫ることも出来なくなってしまいます。桜さんや茜さんの命もないでしょう。それは避けなければなりません)

 こうしている今も、奥の見えない暗い銃口がたまかを捉えている。引き金に掛かった指は、青空が少し力を込めればすぐに引かれてしまう。だが、たまかはここで死ぬわけにはいかないのだ。自分の気持ちに気付いた今、水面のために出来ることを果たすまでは、彼女のもとには行けない。そして桜達の尊い命も、傷つけさせるわけにはいかない。

(先程の青空さんの疑問……。彼女の中にある、小さな違和感。あれが恐らく、突破口のはずです)

 『どうやって縹様を殺したの』。彼女の苦しそうな声を反芻する。そして、たまかは唾を呑んだ。銃口の奥の少女に向かって、意を決して切り出す。

「……青空さん。引き金を引く前に、一つ訊かせてください」

 青空は銃口を突き付けたまま、何も返事をしなかった。黙ってたまかを見つめている。引き金に掛かった指は、動くことなくそのままだ。

「青空さんは、水面さんがどうやって殺されたと考えていますか?」

「……」

 彼女の目が、僅かに細められた。

「先程言っていましたよね、水面さんを殺せる人なんて誰もいないと思っていたって。私もそこが引っ掛かっているんです。あの無敵の水面さん相手に敵う人なんているとはとても思えません。ならば、水面さんはどうやって殺されたと思っていますか?」

 今のたまかには情報がほとんどない。例え『ブルー』も同じような状況だとしても、少なくとも青空の方が真相に迫っているはずだ。

「……」

 青空の顔から怒りが消え、視線が逸らされる。そこには僅かな狼狽が滲んでいる気がした。彼女の中ではたまかは水面の仇となっている。そんな相手に自分の考えを言ったところで、利用されるだけなのは目に見えているだろう。しかし彼女は問答無用で引き金を引くことなく、悩む素振りを見せた。

(やはり青空さんも……どこかおかしいと思っているんでしょうね。『レッド』が水面さんを殺したことについて)

 恐らく無意識にだが、彼女は心の奥底で疑問を感じている。彼女はたまかと関わってきて、たまかの人となりを知ってしまっているからだ。そしてたまかの腕力の弱さ、水面の強さも。だからたまかをすぐには殺さずに、こうして話を聞いている。自分でも気づかない内に、たまかから水面の死について何か糸口が掴めるかもしれないと期待してしまっているのだろう。その無意識の迷いは、たまかにとっては一縷の望みだ。たまかは彼女が口を開くのを、辛抱強く待った。この場にいる『レッド』の者達も『ブルー』の者達も、息を殺してたまか達の会話の行く末を見守っている。双方、すぐに拳を出せるように、そして引き金を引けるように構えたままだ。ボタンの掛け違いが一つあれば、ここはすぐにでも血だまりとなる。

「……生きてた頃みたいに、朱宮が頭をこねくり回して殺したんでしょ」

 長い沈黙を経て、青空は声を落としてそう答えた。その顔はまだたまかを敵と見做していることが窺えた。たまかはさらに質問を投げた。

「例え林檎さんでも、本当に水面さんを殺せると思いますか? 罠を仕掛けられたとしても、不意を突かれたとしても、水面さんならどれも避けられるのではないですか?」

 水面は銃弾さえも避けるとして有名だったのだ。そのずば抜けた危機察知能力と身体能力は、死に際にも有効だったはずだ。

「……」

 青空は黙りこくって視線を下げた。その表情は、どこか苦しそうにも見えた。

「水面さんの強さは……青空さんが誰よりも知っているのではないですか」

 たまかの言葉に、青空はぐっと唇を噛んだ。視線が泳ぐ。彼女はやはり、林檎が殺したという話に無理があると心の何処かで思ってしまっている。それは彼女が、水面の強さを真に理解しているからこそだ。

「どうでしょう。水面さんと直に戦ったことのある青空さんから見て……彼女は林檎さんの罠に陥り、不意を突かれて殺されてしまうような人物ですか?」

「…………」

 青空は眉をハの字にして、ほとほと困り果てたように視線を泳がせた。沈黙が答えを物語っているようなものだった。それでも口を開き、強情に反論する。

「でも、実際に縹様は死んでるんだ。ミナミが朱宮がやったって言ってるんだから、私はそれを信じないと」

(成程……なかなか考えを変えてもらえないのは、水波さんへの信頼からでしたか)

 たまかは二人の関係を詳しくきいたことはないが、彼女達がよく共に行動しているのを目撃している。頻繁にコンビを組んでいるイメージがあり、二人の仲はとても良さそうに見えた。それこそ、家族のように。

「林檎さんの犯行を否定したからと言って、水波さんを否定することにはなりませんよ」

 たまかは言葉尻を柔らかくした。優しく諭すように告げると、青空はふるふると頭を左右へ振った。

「今、『ブルー』は混乱していて、あいつの周りには真の家族じゃない奴らも沢山いる。私まであいつの言葉を疑い出したら、あいつは味方が一人もいないように思っちゃうかもしれない」

 小さく漏らした後、青空は再びたまかを睨みつけた。

「私は何を言われようが、ミナミの言葉を信じるよ」

 彼女の鋭い瞳からは、強い意思が窺えた。

「それに朱宮なら私達の理解を超えるのは得意じゃない。縹様は意識の外からの攻撃も、どんな罠さえも全部避けられる。そんな縹様を殺せる人物がいるなら、むしろ朱宮くらいしかいないよ。そして朱宮に指示を出せるのも一人、お前しかいない」

「……」

 林檎が水面を殺したと青空が思いこんでいる根幹には、水波への想いがある。彼女の中の違和感を見て見ぬ振りする程の、熱い想いが。……今の時点での説得は、難しそうだ。たまかはついに説得を諦め、別の角度から探ることにした。

「……では、もう一つ訊いてもいいですか。水波さんは林檎さんの仕業だと主張している他にも、『グリーン』のことも敵視していましたよね? 水波さんが何故そのように思っているのか、青空さんは知っていますか?」

「『何故』? 一目瞭然じゃない。縹様が『グリーン』の機械を壊したからだよ」

 青空は眉を吊り上げ、口早に説いた。

「縹様は理由もなく他組織のものを壊すような人じゃない。『グリーン』に敵対する意思がはっきりとあったからこそ機械を壊したんだ。殺される直前の私達への最期のメッセージを、私達は絶対に無下にするわけにはいかない」

(成程……『ブルー』の皆さんは、そのように思っているのですね)

 こちらにも強い信念が窺えた。水面を想うからこそ、彼女達は自分達の考えに固執してしまっている。勿論それが真実であれば、真っ直ぐに突っ走る彼女達に揺るぎない力を与えてくれるだろう。しかしそこに他者の悪意が紛れていた場合、彼女達は破滅へ向かってしまうことになる。自分達の尊敬する長への想いが強ければ強い程闇へ向かうことになるとは、なんたる皮肉なのだろう。……いや、そうなるよう仕向けている者がいる限り、それは誰かにとっての予定調和だ。

「『ブルー』にいた朱宮のAI、それから縹様の死に際の行動。『グリーン』と『レッド』が縹様を殺すよう動いていたのは明らかだよ。それに『ラビット』とか他の敵対組織の奴らに変な動きはなかった。そんな中でこんなにあからさまに怪しい奴らがいるんだ。口先だけで言いくるめようったって、無駄なんだから」

 語気は熱を帯びていた。彼女達も、少ない手掛かりから必死に真相に辿り着こうとしている。敬愛する、大好きな長のために。たまかはそっと口を閉じた。そんな強い想いを、たまかが簡単に覆せるわけがないのだ。たまかが言い返してこないのを見て、青空も先程までの勢いを仕舞って一度口を閉じた。

「……最強の縹様が誰かに殺されるなんて、全く想像もしていなかった」

 続いた青空の声はか細く、普段の彼女とは真逆のしおらしさに満ちていた。誰かに向けた言葉ではないらしく、彼女は視線を下げた。その瞳には、寂しさが滲んでいる気がした。

「世界一強いあの人が誰かに殺されるなんてこと、あっちゃいけなかった。だってそれは、強さが全てを決めることが否定されたってことだもん」

 青空は誰よりも強さを崇拝している。水面の死は、彼女の中の神話が崩れたことを意味しているのだろう。

「縹様は凄く優しくて、なんでも受け入れてくれて、絶対に誰にも負けなかった。ミナミもいつも横にくっついて、メキメキと強くなって、いつも幸せそうだった。『ブルー』の皆も共に力をつけて、一緒に困難を乗り越えて、いつも皆で勝利を喜んでた。……全部壊れちゃったんだ。姑息な手を使った奴に、全部奪われた」

 銃身を握る手に、力が込められた。

「もうどうしたらいいのかわかんないけど、家族を守らなきゃってことだけはわかるよ。だから『グリーン』も『レッド』も、この手で、この力で復讐してやるの。弱い奴は無力なんだって、思い知らせてやらなきゃ」

 強さが全てを決める世界を、取り戻すために。そして水面の仇を彼女の流儀で取り、遺された水波達と支え合って前へ進むために。『ブルー』はただ暴れているだけではないのかもしれない。その想いが強すぎて、自分達でも制御が出来なくなってきているのだ。

「……」

 彼女達も、暗闇の中を必死に藻掻いているのだろう。ならばたまかが出来ることは、彼女達へ正しい道を灯してやることだ。たまかは結んでいた口を開いた。

「青空さん。私達の言葉が信じられないことはわかりました……それでも、『レッド』が『ブルー』の方を殺したという情報が本当かどうか、確認してから殺しても遅くはないと思います。青空さん達の強さがあれば、殺すのを別の機会にすることくらい、造作もないのではないですか」

 青空はその言葉に、下げていた視線をたまかへと戻した。

「……別に私達にとってそこは重要じゃないから確認なんていらない。もし『レッド』が『ブルー』に手を出したという情報が嘘だったとしても、事実だったって後からでっち上げるだけだよ。抗争って、そういうものでしょ。例え今回の話が事実じゃなかったとしても、縹様を殺した罪はあるんだから」

 青空の言葉にたまかは悲し気に眉を下げた後、その口を静かに閉じた。たまかの言葉は、ついに彼女の心に届くことはなかった。……あとは引き金を引かれて、終わりだ。

(こんな結末……水面さんだって、望んでいないはずなのに)

 たまかの説得は失敗に終わった。たまかは青空の顔から、ずっと見て見ぬ振りをし続けていた銃口へと視線を向けた。思わず顔が強張る。小さな黒い穴を見つめていると、今更ながらに恐怖心が湧き起こった。青空に撃たれて、すぐにこの命は尽きる。……観念してそう認識した途端、最後にどうしてもやりたいことが顔を覗かせ、直ちに強い意思となり頭を埋め尽くした。逡巡を巡らせたあと、やはりこのままでは死ねないと意を決する。

「……あの」

「まだ何かあるの?」

 おずおずと口を開くと、青空は呆れたように応じた。諦めが悪いとは思われているようだが、すぐに銃弾が飛んでくる気配はなかった。そんな青空へ、たまかは真面目な顔ではっきりと告げた。声を響かせる。

「診させてください」

「……あ?」

「倒れている方を、診させてください」

 たまかは真っ直ぐと訴えた。凛とした声に、視界の隅で桜や茜が僅かに苦い顔をしたような気がした。青空は眉間に皺を寄せたまま、口を半開きにしていた。そして、ゆっくりとその視線を下へと下げた。たまかの足元では、先程青空に顔を抉られた少女が横たわったままだった。応急処置を受けることもなく、血を流したまま放置されている。たまかは心の片隅でずっと彼女を案じていた。このままたまかが殺されてしまえば、彼女が『不可侵の医師団』に連れられて治療を受けるまで長い時間を要することになる。可能性は低いが、今ならばまだ治療が間に合うかもしれない。希望があるのならば、彼女の治療をしないまま死ぬことなど出来ない。たまかは青空の顔を、揺るぎない瞳でじっと窺い続けた。

「……」

 倒れた少女とたまかへ交互に視線を向けた青空は、なんだか力が抜けたようにため息を漏らした。

「命乞いかと思えば……お前、確か初めて会った時もそんな感じだったな……」

 彼女は渋い顔でそう漏らした。以前たまかが『ブルー』に連れ去られそうになった時、『ブルー』に殺されて倒れていた少女を診させて欲しいと水面にお願いしたことがあった。その時のことを思い出しているのだろう。たまかとしては当時も今も当然の言葉を口にしただけなのだが、彼女はたまかを見つめて小さく肩を竦めた。

「お前はずっと変わらないな」

 その表情から、恐らく褒められてはいないのであろうことが窺えた。対するたまかは真剣な表情を崩さず、青空の答えをじっと待っていた。

「……」

 青空は自分が放ったはずの言葉に、小さく眉を跳ね上げた。何か思うところがあったのか、そのまま黙り込む。眉を寄せた顔は、何かを真剣に考えているようだった。それを見つめるたまかは、青空の許可を今か今かと待っていた。倒れている少女が怪我を負ってから大分時間が経ってしまっている。正直、青空と話している最中もずっと彼女のことが気掛かりでならなかった。彼女は重傷である、なるべく早く治療に取り掛かりたい。それに桜や茜達『レッド』のメンバーをここから逃す方法も考えなくてはならない。怪我人の風前の灯と化した命、そして大事な仲間達の命を、死んでしまう前にどうしても救いたい。

 青空の結ばれた口は、いつまでも開くことはなかった。彼女はたまかを一心に見つめ、頭の中で何やら考えているようだった。やがて返事を口にする代わりに、たまかを捉えて離さなかった銃口が、ついに下へと逸れた。そのまま銃が下ろされる。たまかはそれをぽかんとして見つめていた。桜の首に当てられたナイフはそのままだが、そちらもすぐに切り落とすような動きはなかった。

「……」

 青空は、真っ直ぐとたまかへと視線を向けていた。その瞳は力強く、曇りのない澄んだものだった。

「……『レッド』の奴らは、動くな。少しでも動けば、たまかを殺す」

 青空は周りの者達へ声を張り上げたあと、桜の首から刃先を離した。一直線に伸びた赤を首に残し、桜は小さく息を漏らした。武器を持った両手を下げ切った青空は、たまかを見下ろして目を細めた。重い口を開く。

「お前は縹様を一度救った」

 たまかは未だ状況が掴めないまま、呆けたように青空を見上げていた。そんなたまかを瞳に映し、青空は毅然として声を響かせた。

「その後『レッド』の状況が変わったり、他の組織から買収されたりした可能性は充分ある。それでも——」

 青空は厳かに続けた。

「『ブルー』は受けた恩には報いる」

 広がる青い空の下、静けさが辺りを包んだ。青空は仲間達へと視線を流した。

「ここは一度撤退しよう。……『レッド』が仲間に手を出したという情報が本当なのか、確認するぞ」

 『ブルー』の少女達は、突然の方針転換に動揺しているようだった。そしてそれは『レッド』の面々やたまかも同じだ。たまかは緩慢に瞬きをし、彼女の顔を窺った。青空の横顔には、今や怒りは浮かんでいなかった。——彼女の中の違和感が、きっと無視できない大きさまで膨れ上がった。ここで殺す判断を、覆す程に。理由は恐らくたまかの死に際の発言だろう。彼女はたまかの人となりを知っていて、それが未だ変わっていないことに気が付いた。自分の命よりも、他人の命を優先する人間。たまかの根底にある信念が揺るがない限り、たまかに誰かを殺すことなど決して出来はしない。たまかは誰かを傷つけたり出来るような人間ではないと、彼女はたまかと接してきて身を以って知っている。たまかが水面を殺した人物だと断定するには、どうしても無視できない齟齬が出てきたのだ。気付いた違和感と水波を信じる気持ちとの板挟みとなって、彼女は無意識に結論を先送りしたのだろう。つまり、この場は見逃すことに決めたのだ。青空はたまかへ視線を戻すと、怒りを込めて睨み付けた。

「借りを返しただけだ、勘違いするなよ。縹様の流儀に従ったまでだ。さっきお前が自分で言っていたように、私達はお前達をいつでも殺せるんだから」

 たまかは青空の言葉を理解するにつれ、顔を明るく晴らした。嬉しそうに目尻を下げる。

「……ありがとうございます。わかっています、『取引に応じてくださった』んですよね」

「そんなんじゃない」

 たまかの言葉を即座に否定し、青空は忌々しそうに吐き捨てた。しかし下げた武器はそのままだ。

 青空は仲間達へと、「行くぞ」と号令をかけた。『ブルー』の少女達はその顔に戸惑いや不服さを滲ませつつも、彼女の言葉に従って引き揚げていった。去り際に青空は『レッド』の少女達、そしてたまかへ向けて鋭い眼光を放った。憎しみの籠った、殺気立つ瞳。彼女の言う通り、『レッド』を信じて見逃したというわけではないのだろう。たまかが林檎のAIを使って水面を殺したという話を信じきれない以上に、きっと水波のことを信じたい気持ちが強いのだ。青空は二枚歯を響かせ、瞬時に姿を消してこの場を去った。気付けば小さくなっていた背中は、『ブルー』の少女達と合流しすぐに遠くなっていった。通りの向こうに薄群青色は消え、けたたましい音も過ぎ去った。この場には紅色の制服のみが残されたのだった。

 たまかは即座に怪我をして倒れている少女の容態を確認し始めた。怪我の目視、そして呼吸の確認。

「桜さん、首の傷は後程診ますね」

 手首を取って脈拍を診ながら、横に立っている桜へ言葉を投げた。「いえ……」という曖昧な返事に、容態の確認に必死になっていたたまかは思わず顔をあげた。桜は苦い顔を貼り付けていた。困惑の混じった視線は、しゃがんだたまかを真っ直ぐと見下ろしている。

「これくらいの傷、自分で……」

「いけません。治療しますので、少々お待ちください」

 言葉を遮り有無を言わせずに念を押すと、たまかは怪我をした少女の確認へとすぐに戻った。その丸まった背中を見下ろしながら、桜はやはり呆れた顔で、小さくため息を漏らした。

「……全てが理解出来ませんでした。恩があるからと敵をここで見逃す『ブルー』も、自分の窮地に他の人間の治療を懇願するリーダーも」

 ほとほと困り果てた顔で口を動かしながらも、桜は倒れているもう一人の少女の死亡確認を始めていた。周りの少女達は、万が一敵が戻ってきた時に備えて警戒を強めている。

「根拠がないまま話を進める『ブルー』も、敵対組織の力になりたい、味方だと言う貴女も……なにもかもが無茶苦茶でした」

 桜は手際よく確認を進めながら、意味が分からないという表情を滲ませていた。

「ですが……ここに立っている者達は、『ブルー』と対峙して無事に終わりました。……たまかさんはいつもそうです。理屈では説明できないのに、なぜか良い結果へと導いている」

 桜は確認を終えてたまかを振り返った。たまかは顔を曇らせていて、力無く首を横に振った。

「そんなことはありません。……亡くなられていました。私は守る事が出来なかった」

 たまかの下で横たわる少女は、眼球の消えた窪みから血管が覗く凄惨な顔のまま息をすることはなかった。桜もその顔に影を落とし、自身の確認した少女を一瞥した。

「こちらも死亡を確認いたしました。……死亡者計二名です」

 たまかは今にも泣きそうな顔で、膝の上の拳をきゅっと握った。桜は言葉尻を柔らかくして、おずおずと声をかけた。

「むしろ『ブルー』と正面から対峙して、死亡者が二名で済んだことの方が奇跡ですよ。たまかさんは充分に責任を果たしたと思います」

 これは単なる励ましではなく、事実だ。しかしたまかにはその言葉は全く響いておらず、暗い顔のまま肩を落としていた。死者を悼むような静寂が満ちた。

「……犠牲者を……」

 やがてたまかは俯いた下で、ぽつりとか細い声を漏らした。

「これ以上、出してはいけません」

 顔をあげたたまかは、悲しみを振り払って前を向いていた。たまかはいつだって心を折ることなく、前へと進む。いつも隣で見ている桜は、たまかのそんなところも知っている。

「お二人に報いるためにも、これ以上死者を出さないようにしなければなりません。こうしてはいられません、動かなければ」

「そうですね」

 桜は真面目な顔で頷いてみせた。そして決意に満ちた表情を見つめ、自身の長の名前を呼んだ。

「先程の話は、本気なのでしょうか。縹の死の真実を突き止める、というのは」

 その言葉に、たまかは一瞬悪い事が露呈した時のような顔をした。

「そして……朱宮さまが『ブルー』にいた、という話は」

 場の視線が、全てたまかへと注がれていた。たまかは唇を小さく噛んだあと、ゆっくりと頷いた。

「……全て本当です。まず、林檎さんの件についてですが……『ブルー』の新しいリーダーとなった水波さんが、『ブルー』で林檎さんを目撃したと主張しているらしいのです」

「十中八九出鱈目だろうな」

 横から茜がぼそりと口を挟む。しかしたまかは首を横へ振ってみせた。

「いえ……私は水波さんが嘘をついているとは考えていません。ですが一方で、林檎さんのAIが『レッド』を長時間離れていないことは皆さんが証言しています。ですから、この話には何か裏があると思っています」

 それから、ちらりと桜の顔を窺ってから続ける。

「それも含めて……私は水面さんの死について、真相を探りたいと思っています。勿論一筋縄ではいかないでしょう。情報も足りないですし、『ブルー』が提供してくれるとも思えません。かえって怪しい動きをしていると目を付けられるでしょうし、『グリーン』や『ラビット』からは『レッド』が『ブルー』側についたようにみえてしまうかもしれません。敵を増やし、真実に辿り着ける可能性もごく僅かです。……それでも」

 たまかは拳を握り締めた。

「それでも……水面さんの命を救えなかった私に今出来ることは、水面さんの死を究明することだけです。私は水面さんのために、そして『ブルー』の皆さんのために……真実を突き止めたいと思っています。それが私の本心です」

 『レッド』の長として悪手も悪手であることはたまかにもわかっている。今『レッド』が行動を起こせば、確実に『ブルー』や『グリーン』を刺激する。情報も非常に少なく、真実に辿りつけずに時間や労力を無駄にして終わるであろうことも目に見えている。現状は静観の構えを見せるのが正しいのだろう。……それでも、間違った方向に突き進む青空や水波をこれ以上見ていられなかった。彼女達の大きな想いが、水面のために実を結んでほしいと思ってしまった。たまかも彼女達と交流を深め、彼女達の想いがどれほど大きいかを知っているから。そしてたまかも、水面に対して同じ気持ちを秘めているから。友人と呼ぶには、あまりにも立場が邪魔をするが……それでも、一人だけじっとしているばかりではいられないのだ。水面だって、きっとあの世でそう願っている。

「……」

 桜と茜は、どちらからともなく顔を見合わせた。二人の視線は、すぐに自分達の長へと戻っていった。桜が真面目な顔のまま口を開く。彼女の発言は薄々予想出来ていたが、たまかは固唾を呑んでそれを見つめていた。

「『レッド』を襲撃させるように『ブルー』を扇動した者達がいる可能性があるのなら……わたくし達も真実を探った方がよろしいでしょう。そのような組織があるのならば落とし前をつけさせるべきですし、また縹の死に何か裏があるのならば、『ブルー』と敵対する上で利用できる情報として探っておくべきだと思います」

 桜の口から発せられた言葉は、予想に反してたまかの望みを否定するものではなかった。桜の返事に顔を晴らしていくたまかとは対照的に、桜はその表情を苦いものに変えた。

「何より……こうなったらたまかさんは止まらないじゃないですか」

 どちらかというとこちらが本音のようだった。しかし彼女はたまかを止めることなく、その強い想いに応えてくれるようだった。言っても聞かないというのもあるのだろうが、彼女の言うように『レッド』にもメリットがあることを加味した上での結論なのだろう。例えそれがリスクと労力に釣り合わないとしても、合理的判断をする『レッド』の面々に提示出来る最低限のメリットは用意できると判断したらしい。

「あ、ありがとうございます」

 桜も茜も『レッド』のメンバーも、今は静観して潜むのが最善手だとわかっているだろう。敵対組織に与するのに準じるような行為にも拘らず、彼女達は咎めることなく協力してくれるようだった。たまかへの理解と歩み寄りは、今までの『レッド』ならば決して選択しない決断を実現させた。たまかは平和の世界へ一歩近づいた気がして、胸に温かなものが満ちるのを感じた。

「それに、朱宮さまを利用するなんて許せませんからね」

 桜は唇を尖らせてそう続けたあと、茜へと顔を向けた。茜も「全くだ」と同調して不満そうに肩を竦めてみせた。二人の林檎への不変なる忠誠心が垣間見えた。

「ちなみに……この件はAI達には口外しない方がよろしいですか? ……そのために朱宮さまの件を誰にも告げていなかったのですよね?」

 桜はたまかへと淡々とした声で尋ねた。流石、既に意図を汲んでいる。たまかは深い頷きを返した。

「はい。林檎さんを疑っているわけではありませんが……『グリーン』に情報が渡ってしまうのを避けたいのです。極力内密に進めていきたいと思っています」

「承知いたしました。その警戒は然るべきものだと思います」

 桜は真面目な顔で頷いた。たまかも気を引き締めて、声を響かせる。

「『レッド』に帰ったら、会議を開きましょう。皆で……水面さんの死について、真相を探るんです」

 AIの力を借りることなく、人の手で。敵対組織である『ブルー』の前長のために、『レッド』はその頭脳を使うのだ。

(水面さんのために……全力を尽くします)

 彼女の命を救えなかったからこそ、せめて彼女の無念を晴らしたい。たまかは自分の気持ちに、漸く正直になることを決めた。暗闇を精一杯藻掻く青空や水波の顔。たまかの願いについてきてくれる桜や茜の顔、アジトで帰りを待ってくれている灯の顔。親友を喪っても立場上悲しみを表に出せない姫月の顔。そしてもう二度と会うことは叶わない、水面の顔。脳裏に次々と浮かんだ顔、そして彼女達の想いを胸に、たまかは決意を表すように拳を握り締めた。

 『レッド』の少女達は、犠牲となった仲間を運んでアジトへ帰っていった。その顔は悲しみに沈んでおらず、どの顔も壁に立ち向かう強い意志に溢れていたのだった。




 ***




 長の帰還した『レッド』では、臨時の会議が開かれた。AIの参加は認められず、一部の幹部だけの極秘のものとして開催された。そこでたまかは『レッド』の面々へと情報を共有し、水面の死の真相を探っていくことを宣言した。「『レッド』を壊滅させるように『ブルー』を扇動した者達がいる可能性」、そして「『ブルー』と敵対していく上で弱点になり得る重要な情報」。桜の説明したこれらのメリットにより、『レッド』の少女達は反対する声をあげなかった。『レッド』の長として、勿論たまかもそれらを重要̪視してはいる。しかしたまかのこの宣言は、偏に水面のために出来ることをしたいという想いでなされたものだ。『レッド』の少女達はそれに気付いているのかいないのか、誰もそこには触れずに話を進めていった。合理主義の彼女達は、『レッド』と敵対する組織に関する情報が増えるという利益以外のことにはあまり頓着しないのだろう。

 反対とはいかないまでも、現状は静観が最善手だろうという認識は全員持っているようだった。それでもたまかの方針に従ったのは、水面の死の件に林檎の名前が出てきたからなのだろう。自分達の前リーダーの、完全無欠なAI。生前と同じ口調、仕草、思考、発言をする機械。きっと全員心のどこかに、『グリーンのAIは怪しい』という疑惑が芽生えていた。故人と再びいられる喜び、計り知れない利益に掻き消されていた現実に、ついに向き合わなければならない時が来た。『レッド』の面々は、そう悟ったのだろう。合理主義な彼女達は、たまかの強い意思の宿る瞳に心揺らいだわけではないのだろうから。




 たまかは停めた車の助手席から降りて、扉を閉めた。運転席からは桜が出てきて、同じく扉を閉める。二人は辺りを警戒した後、奥に見える建物へと顔を向けた。緑豊かな長閑な景色の中で、寂れた建物がぽつんと立っている。先日見た光景と同じだった。

「あの建物が縹の死体があった場所ですか」

「はい」

 桜の厳かな声に、たまかも顔を険しくして頷いた。水面の死体が発見されてから大分経っているせいか、辺りに薄群青色の制服姿は見当たらなかった。仮に『ブルー』の者に見つかってしまえば、間違いなく追い出されるだろう。それは避けたい。二人は車を離れると、草木に忍びながらこそこそと建物へと近づいていった。建物の近くにも人影はなく、たまか達の他には誰もいないようだった。二人は身を隠すのをやめたが、その後も警戒を怠らず、建物の入り口へと慎重に歩みを進めていった。

「それにしても、辺鄙なところですね。こんなところに、本当に縹が一人で来たのでしょうか」

 桜は辺りをぐるりと見渡した。近くには森林が広がっていて、他の建物は一切見当たらない。人の手が入っていないこの場所は、『ブルー』の縄張りからはかなりの距離がある。

「水面さんの死体がここで発見されましたし、監視カメラの映像に映っていた部屋もこの建物のものでした。彼女がここへ来たことは間違いないと思います」

 二人は破壊されたままの自動ドアを潜って中へと入った。二人とも小柄なため、剥き出しのガラスの破片に気を付けながらもすんなりと通ることが出来た。建物の中へ入った二人は暫し耳を澄ませたが、室外機か電気設備か何かの小さな稼働音以外は何も聞こえなかった。桜はわざと大きく音を鳴らして地面を蹴った。やはり奥から物音はしなかった。中にも人はいないようだ。

「この自動ドア……」

 桜は自身が潜ってきたドアを振り返り、歪に割れている縁を見渡した。

「縹が侵入する際に破壊したのでしょうか。確かこの建物の所有者は『グリーン』でしたよね」

「そうですね、状況的に水面さんは不法侵入したと考えるべきでしょう。その後『グリーン』の機械を壊していますから」

 二人は無人の受付カウンターを通り過ぎ、扉の並んだ廊下を進んで行った。

「……水面さんは、一体どうやってこんな場所に『グリーン』の機械があることを知ったのでしょう」

 たまかの疑問に、桜は辺りへ警戒する視線を向けながら答えた。

「縹が死んでいる結果から見ると、誰かに誘き寄せられた可能性もありますね。そうでなければ、『グリーン』の者を縛りあげて暴力を振るい、口を割らせたとかでしょうか」

 一面真っ白の階段室に入り、たまかを先頭にして二人は階段を上がっていった。

「そもそも縹がなぜ『グリーン』の機械を壊したのかがわからないと、その辺りもよくわかりませんね」

「……そうですね。水面さんはAIに賛成派で、『グリーン』とも良好な関係を築いていました。突然『グリーン』の機械を破壊するなんて、何かがあったとしか考えられないのですが……やはり情報が足りません」

 二人は三階で階段室を出て、狭い廊下へ足を踏み出した。たまかの頭に、水面の死体を見つけた時の光景がフラッシュバックした。たまかは暗い顔で小さく首を振り、奥の部屋へと進んで行った。桜もそれに続く。記憶の中で青空が立っていた位置まで来て、たまかは扉の方へとぎこちなく顔を向けた。破壊された電子セキュリティロック。開け放たれた扉。奥に見える大きく拉げた巨大な機械。デスク、キャビネット、ラック……。水面の死体は、別の場所に運ばれたようで既に消えていた。

「……」

 たまかは沈痛な面持ちで、思わず瞳を伏せた。今はなくても、ここに横たわっていた凄惨な表情の死体が脳裏で蘇った。

(ですが……何か一つでも情報を持ち帰らねばなりません)

 それが彼女のために出来る、唯一のことだから。たまかは伏せた瞳を、そろそろと開いた。血が飛び散っているわけでもないため、何も知らない人が見れば何の変哲も無いただのオフィススペースだと感じるだろう。死体があったことの方がまるで嘘のような平凡な光景が、たまかの視界に広がっていた。

「セキュリティロックも縹によって壊されていますね。……ここに縹の死体が?」

 後ろの桜から声が掛かる。たまかは頷いて部屋へと足を踏み入れた。

「はい、この部屋に倒れていました。恐らくあれが『グリーン』の投稿に使われていた監視カメラです」

 たまかは天井の隅に取り付けられた監視カメラを見上げた。桜も後ろで同じ様に見上げる。

「映像では、水面さんはこの機械を壊していたようでしたね」

 たまかは鎮座する大きな機械へ近寄った。実際に前に立つと、その存在感に圧巻される。たまかと変わらない大きさに見えた。黒い筐体は大きく拉げていて、素人目にももう動くことは難しそうだった。

「監視カメラの映像と『グリーン』の説明によると、水面さんが一人で機械を壊していたところ、不活性ガス消火設備が作動して倒れてしまったとのことでした」

「不活性ガス、消火設備……」

 桜が天井を見上げる。たまかも続いて大きく仰いだ。

「あれですかね」

 二人の視線の先には、円型の小型機械が二つ設置されていた。噴射ヘッドのようで、そこから伸びた配管が壁に沿って部屋の外まで続いている。

「そうですね。恐らく二酸化炭素が使われていたのだと思います。死体の状況とも乖離はありません」

「成程……この大きな筐体がサーバー機器だとすると、消火設備に不活性ガスを使用するのに何ら違和感はありませんね」

 桜は拉げた黒い筐体へと視線を向けた。精密機器を水損や汚損させることなく消火できるため、サーバールームには普通水や泡を使わない不活性ガス消火設備が設置される。

「ですが映像では、水面さんが逃げる様子がなかったのが気になっています。二酸化炭素を使用しているのなら、ガスの噴出の前にしつこく警報が鳴るはずです。万が一の事故や誤作動があっては、死人が出てしまいますから。それなのに、煙が満ちるまで水面さんは機械に向かったままでした」

 『グリーン』の投稿に添えられていた映像を思い起こしながら、たまかは眉間に皺を寄せた。

「警報が耳に入っていても、機械の破壊を優先したい理由があったのかもしれません。もしくは何等かの原因があって警報が作動しなかったか、でしょうか」

 桜はそう言うと、再度天井を見上げた。消火設備、そして埋め込まれているスピーカーに視線を向けた後、何かを探るように部屋を見渡した。

「この部屋には消火設備の緊急停止ボタンがないようですね。ここはサーバールームではなく、もともとはただのオフィススペースのように見えますから、その方が自然ではありますが……」

「そもそもオフィススペースに見えるこの部屋に、不活性ガスの消火設備がある方がおかしいのかもしれないですね。大事な機器をここに置く時に、『グリーン』が突貫工事で消火設備を導入したのかもしれません。その際に警報が鳴るはずのスピーカーに不具合が発生していた、という可能性はあります」

 法の機能していない今、取り締まるような者も点検するような者もいない。杜撰な状態で放置されていた可能性は充分ある。

 監視カメラの映像を脳内で再生しながら、たまかは開け放たれた扉へと顔を向けた。

「水面さんは何処からかこの建物の場所を聞き付け、ドアやロックを壊して一人で侵入」

 横に聳える壊れた機械へと顔を向ける。

「そして機械を壊していたところショートして火花が散り、消火設備が作動」

 内巻きの髪先を揺らし、天井を見上げる。

「本来鳴るはずの警報は鳴らず、水面さんは二酸化炭素の噴出による窒息死で倒れてしまった……」

「部屋の状況を見る限り、監視カメラの情報と一致していますね」

 後ろで同じく天井を見上げていたらしい桜の声が響く。たまかは天井から顔を戻すと、機械へと視線を向けた。

 たまかは拉げた大きな機械へと顔を近づけた。何かが仕掛けられていたような痕跡は見当たらない。たまかは機械に詳しくはないが、ごく普通の精密機械に見えた。視線の先、そして足元にも、ケーブルが無数に伸びている。その内の何本かは切断され、被覆も破れていた。水面が機械を壊した時に、千切ったのかもしれない。一際太いケーブルが伸びているのを目で追うと、先についたプラグはコンセントから抜かれていた。その形状は一般的なものとは異なっている。どうやら高電圧用のもののようだ。

「……気になっていることは、もう一つあるんです」

 機械を隅々まで睨みながら、たまかはそう続けた。後ろの桜は、たまかの話に耳を傾けながら水面の死体が横たわっていた床へと視線を這わせていた。辺りには血だまりも、罠が仕掛けられていたような跡もない。

「水面さんの死に顔が……とても凄惨で……。……私は沢山の人の死に顔を見てきましたが、あんな表情は滅多に見ません……」

 声色が暗くなる。たまかは彼女の顔を脳裏に蘇らせ、耐えられないとばかりに悲し気に眉を寄せた。彼女の最期を想像し、胸が締め付けられるような痛みが襲う。

「滅多に見ない……? たまかさんは先程、『グリーン』の説明と死体の状況に相違はないと仰っていましたよね? 窒息死は珍しいものではないでしょう」

 桜は一歩横へずれ、床を見渡しながら後ろのたまかへ声を投げた。たまかは機械へ視線を向けたまま、苦し気に肩を落とした。

「そうなんですが、今まで亡くなられた窒息死の患者さんとは表情が違っていて……。顔色や唇にチアノーゼが出ているようでしたから、『グリーン』の説明がある前から窒息死の可能性が高いとは思っていました。ただ水面さんを見ることが出来たのは一瞬なので、詳しく診ることが出来ていないのも事実です。溢血点の確認や、死斑の確認が出来ればよかったのですが……」

 ……死斑。たまかはそこではたと動きを止めた。後ろの桜を振り返り、顔を強張らせる。

「……いえ、待ってください。確か一瞬だけ見えた、水面さんの足……」

 小柄な背中が用心深く調べている床、そこに横たわっていた死体を思い起こす。

「……何か、痕があったような。ですが死斑とも違いました。赤紫色というよりは明るめの赤、中央は灰白色。どちらかといえば火傷に近いような……」

 さらにその形状も特徴的だった。あれは死斑ではない。数え切れない程死斑を見てきたたまかだからこそ、断言出来る。

「……」

 たまかは険しい顔で、床の一点を見つめた。彼女の足が投げ出されていた場所。今は床が広がるばかりだ。

「抗争中に負った傷の可能性もあります。ですがもしあれが死に際に出来た傷だとしたら、窒息死でそんな傷が出来るはずは……」

 たまかが現場に駆け付けて水面の死体を見ていなければ、見逃していた痕跡だった。死人に口はない、されど死体程死に際を物語るものはない。違和感、そして小さな矛盾。たまかはごくりと唾を呑み込んだ。

「……『グリーン』の映像は……本当に真実を映しているのでしょうか?」

 その言葉に、床を調べていた桜が弾かれたように顔をあげた。丸まっていた背中が伸びる。

「ですが朱宮さま……」

「へ」

「……、……あ」

 言いかけていた言葉がぴたりと止まる。顔をあげた桜と振り返ったままのたまかは、お互いに言葉を失って見つめ合った。ぽかんとした顔が二つ、静寂の中相対していた。

「あっ……、あっ?」

 呆然としていた姿から一転、桜は素っ頓狂な声をあげた。明らかに狼狽えている。視線が荒振り、口がパクパクと動く。それから、思い切り眉が寄った。数秒前をなかったことにしたいという切実な思いが透けていた。潤み出す瞳は、今にも泣き出しそうだった。

「いやっ、これはっ、……信じられない……!」

 愕然とした声。見たことのない程の動揺とともに、彼女は忌々しそうに歯軋りをした。

「まさか他の人と朱宮さまを間違うとは……! あってはならない失態、朱宮さまに対しての冒涜。もう腹を切るしかない……!」

「な、何を言っているんですか……?」

 自分への怒りからなのか恥ずかしさからなのか、桜は顔を赤くし肩を震わせていた。たまかは「落ち着いてください」と宥めるように声を掛けた。彼女は自分のしたことが信じられないように思い詰めていて、本当に切腹を始めそうな気迫があった。素で間違えたらしい。

(……珍しいですね。桜さんに林檎さんに間違われて呼ばれるなんて、初めてです……)

 ぷるぷると震える桜を落ち着かせながら、たまかは内心驚いていた。彼女が凡ミスをやらかすことも珍しいし、またその内容もさらに珍しい。

「呼び間違いなんて誰にでもありますよ。桜さんは林檎さんといる時間が長かったですし、口をついて出てしまうのも自然なことだと思います」

 穏やかにフォローを入れると、今にも泣きそうだった怒り顔が少し緩んだ。

「いえっ、今のは、その……。……呼び間違えてしまい、すみませんでした」

 落ち着きを取り戻してきた桜は、へこんだように肩を落とした。

「こんなこと、絶対あってはならないのですが……。……少し弛んでいるのかもしれません」

 気落ちした声で、桜はしゅんとしてそう言った。呼び間違えることくらい、たまかだって経験がある。ありきたりでよくある軽い失敗だ。しかし彼女にとってはあるまじき行為だったようで、まるで取返しのつかないことをしたように深刻に思いつめているのが窺えた。そんな真面目な桜へ、たまかは軽く両手を振ってみせた。

「そんなことないと思います。『ブルー』の件に意識がいっていただけだと思いますよ」

「いえ、……」

 もにょもにょと桜の口が言いにくそうに動く。

「なんだか、その……朱宮さまが、お傍にいる気がしてしまって」

「……え?」

(傍に……?)

 たまかはぱちくりと瞬いた。恥ずかしさを隠す言い訳にしては、彼女の顔は真摯に反省している最中のように見えた。

「……桜さんは最近林檎さんのAIと一緒にいることが多いですから、それでですかね?」

「そう、かもしれません……」

 曖昧な返事が返ってくる。しかし逸れた視線は、どちらかというと否定を表しているように見えた。桜はもじもじと体を縮めていたが、やがて耐えかねたのかこほんと咳払いを挟んだ。

「……申し訳ございません、話の腰を折ってしまいました」

 無理矢理話の軌道が戻された。決まりが悪い顔は、今の出来事を無かったことにしようとしているようだ。合理主義、品行方正、頭脳明晰に見えて、実際の彼女は意外と人間臭さの塊である。桜と共にいるようになって知った彼女の内面が、ここでも覗いているようだった。桜は床の確認を終えて立ち上がると、まだ少しそわそわとしながらもたまかの元へと近寄った。

「『グリーン』の監視カメラの映像が真実ではないかもしれない、という話でしたでしょうか」

 いつもの真面目な声が戻ってくる。たまかは遅れて頷きを返した。

「ええと、そうでしたね」

 誤魔化したい桜の意図を汲み、たまかも頭を切り替える。同時に引っかかりを感じた桜の回答も頭から霧散した。

「勿論映像が偽の可能性はありますが……少ない情報そのものを疑い始めると、いよいよ推理材料がなくなってしまいますよ。たまかさん」

 たまかの横に並んだ桜は、隣へ怪訝な顔を向けた。最後にわざとらしく付け足されたたまかへの呼びかけからは、彼女が先程の失態を内心ではまだ引き摺っていることが窺えた。

「はい、本来であれば映像が動かぬ証拠だということはわかっています。ですが死体についていた傷が死に際についたものである場合、監視カメラの映像とは合致しないことになります」

「たまかさんの見た縹の足の傷は無関係の抗争で出来たものかもしれませんよ。その場合、『グリーン』の映像とも辻褄が合います」

「勿論その可能性もあります。ただ、水面さんは最近、抗争現場で姿を目撃される頻度が減っていました。怪我を負う機会も当然減っていたはずです」

 何故なのかはわからない。彼女は喧嘩好きな戦闘狂の一面を持っていたはずだ。しかし水面の不参加で『ブルー』の勝利が変わるようなことはなかった。体を得たAI達により、『ブルー』には充分すぎる程の戦力があったためだ。だからこそ水面も参加する頻度を減らしたのかもしれない。

「それに水面さんはいつも『怪我なんてしない』と豪語していました。私は他者の怪我には敏感ですが、本人の言う通り水面さんが傷を負っている姿を最近は見ていません。少なくとも最後に会った時には足の傷はなかったはずです」

 たまか程他の人の体を常に気にしている人間はいないだろう。短いプリーツスカートからすらりと伸びた長い脚。引き締まった彼女の健康的な脚は、三者会談で座っている際には組まれていることが多かった。絡めて乗せられたことによりよく見えたその肌には、傷は一つもなかった。死体にあったような傷が広がっていれば、たまかは絶対に治療しようとしただろうし、記憶に残っているはずだ。

「たまかさんが会った後で負った傷の可能性もあるとは思いますが……。ただわたくしは縹についてたまかさん程詳しいわけではありません。紙面に記された情報は認識していても、実際に縹と会話をすることが多かったのは、たまかさんだけですから。そのたまかさんがそこまで言うのなら……死因に関係している説も、有り得るのでしょうか。となると、監視カメラの映像と齟齬が……」

 『レッド』の中で積極的に水面と接していたのは、たまかだけだ。そして死体を見たのもたまか、そして付き添っていた茜だけである。桜は悩まし気に唸った。

「それに……」

 たまかはぽつりと呟いた。たまかの頭には、三者会談の時、AIについて嬉しそうに話していた水面の姿が過っていた。

「……」

(もし映像が真実だとしたら……やっぱり、水面さんの行動が不可解過ぎます)

 黙り込んでしまったたまかから何かを感じ取ったのか、桜は視線を前へと戻して慎重に考え込んだ。

「確かに、映像の改竄は『グリーン』の得意とするところであるようには見えます。ですから映像が百パーセント正しいとも言い切れないでしょう。ですがその場合は、『グリーン』は『ブルー』へ明確な敵意があるということになりますよ」

 たまかは桜へ向かって頷いてみせた。

「そうですね。『グリーン』は『ブルー』に一方的に殴り込まれた被害者だと言われていますから、本来ならば『グリーン』が映像に手を加える理由はありません。ですが『ブルー』側は『グリーン』からも水面下で攻撃を受けている、と捉えているようです。そちらの主張がもし本当であれば、『ブルー』を陥れる一環として映像に細工をしていることも充分考えられます」

「それは『ブルー』のでっち上げた言い分だと思いますが……」

 桜はやはり敵対組織である『ブルー』の言うことは信じられないらしく、苦い顔をした。しかし、たまかにはそうは思えない。水面の行動も、『ブルー』の主張も、そして水波の感情も。交流があり彼女達をよく知るたまかには、全てを簡単に切り捨てることが出来ないのだ。そんなたまかの揺るぎない表情を、桜はちらりと一瞥した。

「……まあ、そうですね。『ブルー』に敵意を持つ何かしらの組織の思惑が絡んでいるかもしれない以上、確かに全てを疑ってかかるべきなのかもしれません」

 渋々といった口調からは、『ブルー』の主張について正と置くことへの抵抗が見て取れた。しかし彼女はたまかの言うことは信頼に値すると感じているらしく、最終的にはたまかへと頷いてみせたのだった。

「監視カメラの映像は、一旦白紙に戻して考えてみましょうか。……死体を見ているたまかさんの違和感は、きっと見過ごしていいものではないのでしょうから」

 顔を見合わせた桜へ、たまかは頷きを返した。それを確認した桜の顔はすぐに前へと戻り、難しい表情へと変わったのだった。

「うーん、まっさらな状態で考えるとなるとなお難しいですが……」

 監視カメラの映像を考慮しないとすると、ただでさえ少なかった情報がさらに減ってしまう。今立っている部屋の状況、そしてたまかの一瞬だけ見た死体の様子。頼れるのは、己の目と記憶だけとなる。

「手掛かりはたまかさんの気になっている足の傷でしょうか」

 桜は天井を見上げた。視線の先で、円型の小型機械が彼女を静かに見下ろしている。

「何者かが縹を縛ってこの部屋へ運び込み、縹の足を巻き込んで火を起こし消火設備を作動させたという線はどうでしょう。足の火傷は二酸化炭素で満たす為の細工の痕、死因は窒息死です」

「この部屋にいたのが水面さんだけではなかった、という線ですね。有り得ると思います」

 たまかは後ろへと振り返り、水面の死体が横たわっていた場所へと視線を下ろした。

「ただ、犯人は窒息死を避けるために火の出る仕掛けを残して部屋を出る必要がありますが、床には何の痕跡も残っていないんですよね」

 床には焦げたような跡はどこにもなかった。傷一つない綺麗な状態が広がっている。

「床を焦がさずに足だけ焼くことが出来たとしても、仕掛けは必ずこの場に残ってしまうことになります。ですがそのようなものも見当たりません。水面さんの第一発見者である『ブルー』の方が、該当するようなものを拾っていたら話は別ですが……」

 『ブルー』の者達は『レッド』を敵視しているため、彼女達に話を聞くことは出来ない。たまかはその先を濁し、口を閉じた。

「やはり情報が足りませんね……」

 推理を否定も肯定も出来ないことになる。桜は苦い顔を浮かべた。死体の検分も出来ない、聞き込みも出来ない。たまか達が新たに得られる情報は、今いる発見場所の情報のみだ。

「もう少し部屋を探ってみましょうか。もし縹の他にも人がいたとすれば、何か痕跡が残っているかもしれません」

 桜はめげずにそう言って、部屋を見渡した。一つでも多く情報を集めようと、彼女は視線を這わせた。床や壁には目立った傷はない。壁際に置かれた巨大な空調機、並んだキャビネット、そしてラックへと順に視線が移る。重い瞼の奥の瞳は、そこで動きを止めた。

「たまかさん。あそこのデッドスペース……不自然に見えませんか」

 桜はそう言って、ラックと壁の間の何も置かれていない空間を指差した。キャビネットが置ける程の広さはないが、デスクトップパソコン一台くらいならば置けそうだ。確かに物を置いていないと空間が目立つが、しかし隙間に余裕を持たせる配置にも見える微妙なラインだった。もし何か不自然な痕跡でもあれば、確かに怪しいのかもしれない。桜は床の広がるばかりの隙間へ近寄ると、何か残っていないかとじっと見下ろした。今は僅かでも情報が必要である、疑ってかかるくらいが丁度良いだろう。たまかも顔を真剣なものに変え、その空いたスペースを見据えながら一歩を踏み出そうとして……体がつんのめり、思わず目を見張った。

「わ、わ……ぶべっ」

 足が上がらないと思ったのも束の間、視界が目まぐるしく回った。気付けば思い切り床に額を打ち付けていた。どさりという激しい音に、床と睨めっこをしていた桜は慌ててたまかを振り返った。派手に転んでいる自身の長の姿を視界に捉え、桜は一瞬呆けた。すぐさまはっとしたように、彼女はたまかへと駆け寄ってきた。

「だ……大丈夫ですか?」

「うぅ……」

 たまかは涙目になりながら、赤くなった額を摩った。そして上体を起こしながら、自身の足を確認する。機械から無数に伸びたケーブルの内の一本に、純白の靴の先を引っ掛けてしまっていた。

「コードに足を引っ掛けて、転んでしまったようです……」

「なるほど。罠などではなくて安心しました」

 情けなく嘆くと、桜は安堵したようにそう言った。『レッド』の長を殺すために何か仕掛けられていた可能性を考えたのだろう。「立てますか」と言って、桜は手を差し出した。それを掴み、たまかはよろよろと立ち上がった。自身の体を見下ろす。幸い、打ち付けた膝や額は擦り剥けてはいないようだった。

(うう、私ももう少し運動神経を身に着けた方がいいのかもしれません……)

 少なくとも、『レッド』の組織員に長の無様な姿を見せないくらいには。たまかは痛みを堪えながら、涙でぼやけた視界を瞬いて鮮明にした。桜の調べていた壁際へと顔を向ける。

「情けない所を見せてすみません。どうですか、何か跡はありましたか……」

 気落ちした声色を隠せないまま桜に尋ね、慎重に足を踏み出した。今度は足を引っ掛けることはなかった。

「……床に円形状に薄く跡が残っていました。ここには何かが置かれていたようです」

「ふむ……円形ですか」

 重要なものかは分からないが、以前はこのスペースに何かが置いてあったようだ。たまかと桜はその前に立つと、揃って床を見下ろした。何が置かれていたかは、想像もつかなかった。

「水面さんと、関係があるのでしょうか」

「わかりませんね。一つの情報として頭の中に入れておきましょう」

 桜はそう言って顔をあげると、横のラックへと振り向いた。ルーターやハブ、ケーブルの類が乗せられていて、その一部は千切れている。ラックの隣にはコンセントが覗いていた。

「特に変わったところはないようですね」

 桜はラックの前を通り過ぎ、キャビネットの前で足を止めた。引き戸を開こうとすると、鍵が掛かっているようで扉はびくともしなかった。桜は早々に諦め、今度は巨大な機械の横にあるデスクへと近寄った。たまかもそれに続き、桜の横に並んだ。デスクの上にはデスクトップパソコンよりも一回り小さな機械が乗っていて、目を引いた。

「UPSですね。サーバーを安全かつ安定して稼働させるために必要な機器です」

 桜の発言からして、不自然な点はないようだ。桜とたまかの視線は、その横に置かれたボールペンと黄ばんだメモ帳へと移った。

「ここは随分と使われていなかったようですね」

 たまかは劣化したメモ帳を見下ろしながらそう零した。そしてボールペンを手に取ると、ノックボタンを押した。黄ばんだ紙面へ走らせてみたが、インクは乾いていて何も書けなかった。

「そうですね。益々縹がこの場所を知った理由が不明ですが……そもそも『グリーン』も、どうしてこんな建物に機械を置いたのでしょう」

「空調設備が丁度あったから……ですかね?」

 二人は顔を上げ、壁際の巨大な機械へと視線を向けた。稼働音が続いていることからして、この部屋の快適な室内温度と湿度はこの空調機のお陰のようだ。

「確かに、この空調機は高性能のもののようですね。他と違って手入れもされて綺麗ですし、きちんと稼働しています」

 唸るような低音を聞きながら、二人は暫くその巨体を見上げていた。やがて二人は視線を下げ、同時にお互いへと振り向いた。

「……こんなところでしょうか。縹以外の人間の痕跡はありませんね」

「そうですね。水面さんの死因が特定出来るようなものもありませんでした……」

 手掛かりを見つけられず、たまかは気落ちした声を漏らした。その横で、桜は改めて部屋を見渡した。たまかも同じ様に室内へと顔を向ける。何の変哲もないオフィススペース。ここで人が死んだとは思えない程に普通で平凡な光景。

「……」

 たまかの視線は、中央の拉げた黒い筐体へと向かっていった。

「水面さんがこの機械を壊したのだとして……、この機械は一体何なのでしょうか」

 桜もたまかの視線を追い、大きな直方体へと顔を向ける。

「これはサーバー機器だと思います。リモートバックアップサーバーなどを考えれば、普段人の立ち入らない場所や遠隔地に置くこと自体には然程違和感はないと思います」

「この機械を壊さなければいけない理由が、水面さんにはあったということですよね。……つまりそちらの方に違和感がある、ということになるのでしょうか」

 変形することを免れた部分では、滑らかな側面が照明を淡く反射している。

「この機械がここにあること自体は普通だとして、この機械が壊れた場合に齎される状況はどのようなものだったのでしょう」

「『グリーン』がこのサーバーをどのように使用していたかによると思いますが……例えばバックアップ目的のものならば、壊してもあまり意味はないように見えます。この機械だけ壊したとしても、複製元のデータは残っていることになりますから。なので『グリーン』への嫌がらせにしても、同じく効果は薄いですね」

 桜は渋い顔で、「そこまで縹が考えていたかという疑問は残りますが……」と付け加えた。

「水面さんがなぜこの機械を壊そうとしたのかは闇の中ですが……この機械の用途は、『グリーン』の皆さんが知っているはずです。そこに水面さんの行動理由の糸口が見つかるかもしれません」

「そうですね、『グリーン』を探るか、もしくは直接訊き出しましょう。『グリーン』にとっても知られては困るような情報ではないはずですし、基本的に被害者である彼女達は情報を出し惜しみする理由はないはずです」

 二人は真剣な表情を見合わせ、頷き合った。そして、桜は見収めるように最後に部屋を軽く見渡した。

「帰りましょうか。この部屋から得られた情報はごく僅かですが、それでも我々の武器になるはずです」

 桜はそう言って、たまかを振り返った。たまかは桜の視線を受け止めたが、諦め切れない想いが滲んだ顔は下がっていった。しかしこれ以上ここに留まったとしても、新たな情報は期待できないだろう。それはたまかもわかっている。桜を先頭に、二人は開け放たれたままの扉へと向かっていった。二人は扉を潜り、部屋を出て死体発見現場へと別れを告げた。破壊されたセキュリティロックは、二人が通り過ぎるのを静かに見守っていた。

「……待ってください」

 階段室へ進もうとしていた桜は、後ろからの声に足を止めた。紅色のグラデーションが広がるスカートが、ふわりと膨らむ。桜が振り返ると、たまかは狭い廊下の奥へと顔を向けていた。その白い小さな背中に、桜は首を傾げた。

「どうかしましたか?」

「消火剤のボンベ室も確認していきませんか? 私達が見ても素人目ではわからないかもしれませんが……何か細工がされていないかだけでも、確認出来ると思います」

 噴出ヘッドに繋がった配管は、部屋の外へと繋がっているようだった。恐らくその先の部屋には、消火剤である二酸化炭素を詰めたボンベが置かれているはずだ。

「それに、水面さんが誰かと一緒だったとすれば、犯人が他の部屋に証拠を隠しているかもしれません。他の部屋も確認してみましょう」

 被せるように続け、たまかは廊下の奥を見据えていた顔を桜へと向けた。振り返った顔は、揺るぎない決意を滲ませている。曇りない目は祈るように真っ直ぐと桜へと向けられていた。このまま帰る前に、水面のために出来る事は全てやっておきたいと思った。情報を一つでも多く持ち帰り、真相に辿り着くために。

「……」

 桜は振り向いたままだった体勢を解き、たまかへと向き合った。強い意思と想いを宿す瞳を見つめ、桜は軽く肩を竦めてみせた。

「……こうなったたまかさんは止められませんからね」

 短い間だが、桜は誰よりも傍でたまかを見てきた。たまかの強情さを知っている桜は、慣れたようにそう言った。そして階段室に背を向けたまま足を踏み出した。たまかの前へやってくると、黒髪を揺らして静かに立ち止まる。

「承知いたしました、御供致します」

 諦めきれないたまかの意思を、彼女は汲んでくれたようだった。たまかは部下としてではなく、戦友として桜へ笑顔を零した。

「ありがとうございます。見落としがないようにしたいんです、些細な情報でもいいので持ち帰りましょう。諦めません!」

 たまかはそう声を張り上げた後、気合十分に桜へと背を向けた。そのまま廊下の奥へと勇んで進んで行く。真っ白な背中を見つめる桜は、どこか優し気な苦笑を浮かべた。そしてすぐに足を踏み出し、自身の長へとついていった。

 廊下を進むと、奥まった先に扉が見えてきた。ここが水面の死体が発見された部屋の隣の部屋だろう。先頭のたまかはそちらへ曲がり、桜もその後をついていく。閉じた扉の前に立った二人の視線は、自然と横についている小型機械へと吸い寄せられた。電子セキュリティロックが掛かっているようだ。

「……入ることは難しいようですね」

 桜の言葉に、意気込んでいたたまかは目に見えて肩を落とした。しかしめげることなく、ロックが掛かったままの小型機械へと顔を近づける。

「このセキュリティロックは生きていますね。ICカードの類を翳すタイプのようです」

 小さくランプが点灯しているのをまじまじと見て、たまかはそう零した。顔を離すと、扉へと振り向く。隣の部屋では開け放たれていたため特に気に留めなかったが、扉は中央に細長くガラスが埋め込まれたデザインをしていた。オフィスビルでよく使われているタイプのドアだ。透明ガラスの部分からは、部屋の奥を覗くことが出来た。会議室などでは使われているか外から簡易的にチェックが出来るため、業務の円滑化に一役買っていたのだろう。たまかは顔を貼り付けんばかりに身を乗り出し、ドア越しに部屋の中を覗いてみた。

(基本的には……隣の部屋と同じに見えますね)

 先程いた部屋と瓜二つの光景が広がっていた。部屋の大きさ、窓のない壁、内装、置かれている物、どれも大差ない。もともとオフィススペースだったと考えれば、同じ部屋がいくつか続いていても違和感はない。

「あれ、でも……なんだか細々としたところが違いますね……」

「? どうされました?」

 扉のガラス部分は人間一人分の幅もなく、隣で待機している桜からは部屋の中が見えない。たまかは扉に貼り付いて中を覗きながら、怪訝な顔で桜へ答えた。

「隣の部屋と、いくつか違う部分があるのが気になりまして」

「違う部分ですか?」

「例えば、こちらの部屋は床にカーペットが敷かれています」

 床と同じ色のカーペットが、何枚かに分けて敷かれていた。一枚でないのは、少女の力では空調機や巨大な機械を無闇に動かせず、下に敷けないためなのだろう。大きさも床からはみ出しており、少々雑に敷かれている。

「カーペット、ですか。あんまりオフィススペースで求められるバリエーションではないような気がしますが……まあ、そういう部屋もあるでしょう」

 桜は隣で淡々とそう答えた。確かに決定的な違和感というわけではない。

「あとは……この部屋には消火器が置かれていますね」

「……消火器ですか?」

 たまかは一際目立つ鮮明な色に目を留めた。ラック越しに、ラックと壁の間に置かれているのが見えていた。

「あ……丁度、隣の部屋の不自然な空間があった場所です。桜さんの言う通り、あそこはもともと物を置くためにスペースを空けていたのですね」

「……残っていた円形の跡……。だとすると、隣の部屋にももともとは消火器が置かれていたのではないでしょうか」

 鋭さの増した桜の声を聞きながら、たまかは眉間に皺を寄せた。

「あれ、でも隣の部屋には既に消火設備が導入されていますよね? ……だから消火器を撤去したのでしょうか」

「ちなみにこちらの部屋の天井には消火設備はありますか?」

 桜の問いに、たまかは扉越しに天井へと視線をあげた。

「……ありますね。隣と全く同じ、円形の小型機械です」

「……なぜこちらにだけ消火器が設置されているんでしょう。そもそも消火設備があるのなら消火器を置く必要性は薄いはずです。……たまかさん、消火器の種類はどのようなものですか? 遠目でも消火器のボディを見れば、ある程度分かるはずです」

「ボディの色は、上半分がグリーン、下半分がレッド……ガスですね。色からして、恐らく二酸化炭素消火器です」

「……天井に設置されているものと、同じですね」

 たまかは呆けたように奥の天井を見上げた。二つの噴射ヘッドと思しき小型機械。埋め込まれたスピーカー。たまかの顔が強張る。

「……。あれって本当に……不活性ガス消火設備なのでしょうか?」

 沈黙が訪れた。答えは、建物の所有者である『グリーン』にしかわからない。

「たまかさん、他に何か違うところはありませんか」

 静寂を破った桜の声に急き立てられ、たまかは再度扉越しに部屋を見渡した。空調機、消火器、ラック、キャビネット、サーバー機器、そしてデスク。

「こちらにもサーバー機器がありますが、無傷です。こちらは水面さんが壊していませんから、そのまま稼働しているのでしょうね。……あれ」

「どうしました?」

 声を漏らしたたまかへ、桜がすかさず問いかける。

「この部屋には……メモ帳がないです」

「メモ帳?」

「ボールペンはあるのですが、書きつける物がありません」

 たまかの言葉に、桜は黙り込んだ。それが果たして重要な違和感なのか、量り兼ねているようだった。

「劣化していましたから、普通に捨てた可能性もありますが……それならボールペンも捨てるのではないかと思います。インク、切れていましたから」

「たまかさんの見ている部屋のボールペンは、まだ使えるのかもしれませんよ」

 たまかはそのまま口を閉じた。確かに桜の言葉にも一理ある。部屋に入れない限り、確かめることは不可能だ。

「他は……扉越しに見る限りは、同じように見えますね」

 たまかは漸く扉から顔を離した。そして真剣な表情を桜へと向ける。

「他の部屋も覗きながら、ボンベ室を確認してみましょう。二酸化炭素が詰められているか確認するんです」

 新たな違和感、得られた小さな情報。些細なものでも、引っかかったものがあれば早急に確かめるべきだ。今のたまか達の得られる情報は限られている。その一つ一つを武器として活かさなければならない。桜も長と同じ表情で、静かに頷いてみせた。

 こうして、たまかと桜は建物中の部屋を確認していった。どれもセキュリティロックが掛かっており、死体を発見した部屋以外は入ることが出来なかった。扉越しに全ての部屋を確認したが、二酸化炭素の詰まった緑色のガスボンベの姿を見ることは最後までなかったのだった。




 『レッド』の本拠地に帰ってきたたまかと桜は、アジトの館内へと足を踏み入れた。水面の死体が発見された『グリーン』の建物、そこへ実際に足を運んで得られた小さな情報の数々。二人は頭の中で様々なことを考察しており、お互いに無言のまま廊下を歩んでいた。

「……たまかさん」

 そんな静寂を破ったのは、後ろからの名を呼ぶ声だった。桜の真面目な声に、得られた情報を振り返っていたたまかは足を止めた。後ろへと振り返ると、桜の真剣な顔が現れた。彼女は意を決するように、口を開いた。

「……朱宮さまに訊いてみるのはどうでしょう」

「え?」

 豪華絢爛な内装に囲まれた煌びやかな廊下の中央に立つのは、白と紅の二人だけだった。たまかは呆けて目の前の硬い顔を見つめた。

「朱宮さまならば、きっとこれらの情報から縹の死の真相に辿り着けると思います。あのお方は、天才ですから」

 桜は熱意を込めてたまかへと訴えた。たまかは予想外の言葉に、彼女を映す瞳をパチパチと瞬いた。そんなたまかへ、桜は熱を帯びた言葉を続けた。

「勿論、『グリーン』に知られない方がいいような情報は伏せた上で、です。それでも朱宮さまならば、これだけの情報からでも縹の死の真相を突き止めてみせるでしょう」

 桜の顔が下を向く。その瞳は柔らかく細められていた。

「……わたくしはあの方のお傍でずっとあの方を見ておりました。朱宮さまは膨大な知識を有し、奇想天外な発想をし、全ての結果を網羅した思考をなさっておりました。どんな難題に突き当たっても、どんな困難に囚われても、朱宮さまはいつもいとも簡単に脱してみせました。あの方にわからないことなどないのではないかと、わたくしは本気で思っておりました。それほど朱宮さまは、いつも『レッド』を正しく導いてくださっていたのです」

 桜はこれまでの道程に思いを馳せるように遠い目をしていた。林檎を誰よりも傍で見てきた桜には、彼女がそのように映っていたのだろう。学生時代から林檎を知る姫月も、林檎の頭脳を心から信頼していた。たまかも彼女と過ごした短い時間の中で、その聡明さに何度も触れてきた。桜の言葉に嘘偽りがないであろうことは、たまかにも容易に想像がついた。

「ですから……わたくし達には難しくとも、朱宮さまならばすぐに解決に導いてくださるでしょう。あのお方のお力を借りませんか」

 今の限られた情報からでは、たまかや桜では真相に辿り着くことは難しい。しかし林檎ならば、今ある情報だけでも真相に辿り着けるかもしれない。林檎を尊敬している桜だからこそ、林檎の頭脳を信じて頼るという結論に至ったのだろう。

「……」

 たまかは桜の強い眼差しを浴びながら、考えるように視線を下げた。林檎の頭脳ならば、もしかすると不可能を可能に出来るかもしれない。誰よりも林檎を見てきた桜が、そう確信を持っている。桜の提案は合理的に考えれば最善策であり、そして真相を探る最短ルートでもあるのだろう。

(水面さんの死の真実を逃すくらいなら……)

 『レッド』の叡智の核とも言える彼女に頼るのも、一つの選択肢なのかもしれない。桜の言う通り、『グリーン』に与えたくない情報を伏せるよう注意すれば問題もない。

「たまか、桜」

 悩むたまか、そして答えを待つ桜に、遠くから声が掛けられた。二人が振り向くと、その先には可愛らしく跳ねた珊瑚朱色の三つ編みが揺れていた。

「茜さん。どうされましたか」

 茜はたまか達を見つけると、人けのない廊下を小走りで駆け寄って来た。近づく顔は険しかった。

「縹の死体の第一発見者、それから適当な『ブルー』の奴へ聞き込みに行った二名だけど、拒否されて『ブルー』に殺された。予想出来たことだけどね」

「……」

「やっぱり『ブルー』の奴らから穏便に情報を聞き出すなんて、到底無理だ。ちなみに殺された二人はAIだけど、『グリーン』への再申請はどうする?」

「……保留でお願いします」

 茜は「了解」、と短く答えた。答えは予想出来ていたのだろう。今はどの組織も信用出来ず、誰が味方で誰が敵かもはっきりしていない。『グリーン』に頼るのは避けた方がいい。

「『ブルー』の奴を罠にかけて拷問でもすりゃ口を割るかもしれないけど、そっちは?」

「いえ……勿論、そのようなことは出来ません」

 茜の提案に、たまかは静かに首を振って見せた。誰かを傷つけてまで得なければならないものなど、この世にない。となれば、やはりこれ以上新しい情報を入手することは非常に厳しい。たまかの顔に影が差した。

(『ブルー』の方からの証言は絶望的、今ある手札はごく僅か……)

 今ある情報だけで水面の死の真相に辿り着くのは、恐らくたまかには無理だ。犯人も殺した手段も、そして本当に殺人かさえ、たまかにはまだ何も確証がない。

「……」

 それを可能にする頭脳があるのならば、頼るのが賢明な選択だ。それに姫月も、林檎に意見を訊いてみることを推奨していたことを思い起こす。

「……桜さん」

 たまかは桜へと声を掛けた。桜はおかっぱを揺らして茜からたまかへと顔を向けた。

「林檎さんに、きいてみましょう。林檎さんならば、これだけの情報から……本当に真実を紐解いてしまうかもしれません」

 たまかの決断を聞いた桜は、力強く口角をあげた。賢明な選択ですと言わんばかりに、深く頷く。

「……朱宮さまに?」

 茜がたまかと桜の顔を交互に見て、虚を衝かれたように尋ねた。

「はい。勿論『グリーン』に渡さない方が良さそうな情報は省いた上でですが、水面さんの件を林檎さんに相談してみようかと思いまして」

 たまか達よりもさらに情報が限られることになるが……それでも林檎なら、もしかすると。

「成程ね。確かに真相を探るなら、朱宮さまの頭脳は必須かもしれない」

 茜も桜と同意見のようで、当たり前だと言うように頷いた。『レッド』の組織員達は林檎の手腕をずっと見てきたからこそ、彼女の頭脳に莫大な信頼を寄せている。

「朱宮さまに訊けるのなら、縹の死についてはほぼ解明出来たも同然でしょ。……こう考えると、『グリーン』のAIってとんでもないな」

 茜は苦い顔でそう零した。『グリーン』のAIがなければ、たまか達は少ない情報の前に膝をつくことしか出来なかったかもしれない。『グリーン』の技術は失われた聡慧な輝きを蘇らせ、不可能だった未来を可能にすることさえ出来る。

「桜さん。林檎さんのところへ行きましょう」

「はい。今の時間ならば、執務室にいらっしゃるはずです」

 たまかと桜は頷き合い、茜に別れを告げて足早に廊下を進んでいった。死体発見現場でたまか達が手に入れた数少ない銃弾を、林檎ならば精確に撃つことが出来るだろう。いよいよ水面の死の真相に、対面することが出来るのだ。たまかはごくりと唾を呑み込んだ。全知全能の機械が、皮肉にも敵対長の無念を晴らす、その時が近づいていた。水面に貢献出来る喜び、『グリーン』の機械に頼る疚しさ、そして真実を知る恐怖。様々な感情を胸に、たまかはエレベーターへと乗り込んだのだった。




「事故ですね」

 淡泊な声は、きっぱりと言い切った。部屋に小さく響いた言葉に、デスクの前に立ったたまかも桜も目を見開いて動きを止めた。二人の視線の先、デスクの奥に座る小さな少女は、紅色の艶やかな髪を揺らして二人の顔を見渡した。その顔に、感情は浮かんでいない。

「監視カメラの映像は正真正銘本物でしょう。まず、『グリーン』には細工をするメリットがございません。『グリーン』が何処かの組織と繋がったり、取引をしたりした痕跡は見つからなかったと仰っていましたよね。でしたらネット上での活動が主である『グリーン』が縹の死の真相を捻じ曲げたとしても、彼女達にとって何の得にもなりません。『ラビット』のような愉悦を好むタイプにも見えませんし、『グリーン』が縹殺しに関わる理由がないのです。『ブルー』は『グリーン』からも攻撃を受けたと主張しているようですが、客観的な証拠は全くありません。侵略者側の言い分を当てにすること程、愚かなことはありません。恐らく『グリーン』が抵抗したのを、過剰な表現で誇張しているのでしょう」

 たまかが何か言いたげなのを察し、林檎は先んじて口を開いて言葉を続けた。

「『グリーン』に巨額の金が流れたという情報があるとのことですが、『レッド』の情報収集能力を以ってしても不正な出所を追えないということは、後ろめたい取引の可能性は極めて低いと思います。『グリーン』はAIの商売が軌道に乗っておりましたから、恐らく新規顧客の獲得にでも成功したのでしょう。『グリーン』がお金を手にする状況に、違和感や不自然さは感じられません」

 林檎は淡々と述べ、耳を傾けるたまかと桜を見上げながらさらに続けた。

「監視カメラの映像が真となりますと、たまかさん達が探ってきてくださった現場の状況も合わせまして、事故以外に考えられないと思います。『グリーン』の映像解析の結果通り、消火設備による窒息死と考えるのが穏当でしょう。縹が『グリーン』の機械を破壊して火花が散ったことにより消火設備が作動、サーバールームゆえに設置されていた二酸化炭素ガスが噴射して縹は窒息、そして死亡した。たまかさんが縹の死体から感じたという違和感につきましても、この流れで説明をつけることが出来ます」

 抑揚のない厳かな声が響く。淀みなく流れる川の水のように、彼女の小さな口からするすると言葉が紡がれていった。

「一つ一つ、順に参りましょう。まず縹が機械を壊したこと、これはたまかさん達が実際に拉げた機械や千切れたケーブルを見ているため間違いはないでしょう。縹は腕力に長けておりますし、縹の死体の全体をたまかさんは確認できていませんから、道具を併用していた可能性も高いです。映像通り殴ったり引き千切ったりしたのだとして、サーバー機器は高電圧の精密機械ですから、ショートしてアーク放電が起こったことにも違和感はありません。縹の足の火傷は、この時のものでしょう。次に消火設備についてですが、二酸化炭素ガスによる不活性化ガス消火設備が導入されていたことについては、当然の備えのように見えます。『グリーン』にとって大事な機械を水浸しでスクラップにはしたくないでしょう。同時にその設置がある程度杜撰だったことも予想出来ます。今の時代、どの組織も法に則ってなどいませんからね。噴出前の警告音は鳴らなかったと見るのが妥当だと思います。そのため縹はガスの噴出に気が付けず、逃げ遅れた。そのまま窒息で死亡したのでしょう」

 林檎はたまかの顔を見上げ、僅かにその目を細めた。

「そして消火器の件ですが、部屋に設置した大掛かりなものとは別に小回りの利く持ち運び用のものを設置していても特に違和感はありません。勿論既に消火設備が導入されていますから、消火器がないとしてもこちらも違和感はないでしょう。金銭的余裕がなく消火器の数を全部屋分用意出来なかったり、既に過去の火災で何本か使用していたりなど、理由もいろいろと考えられます。ですから縹が壊した機械の部屋にたまたま無かったのだとしても、今回の件には無関係のように思えますね。また、二酸化炭素のガスボンベ室を見つけられなかった件も不自然には思いません。恐らく、ボンベ室は地下に設置されていたのだと思います」

「地下……ですか?」

「はい。たまかさん達は、地下は確認していないのですよね?」

 たまかと桜は一度顔を見合わせた。

「そうですね、というより地下があるとは思っていませんでした」

「ボンベ室は普段から立ち入るような場所ではないですし、ボンベで場所も取ります。そう考えますと、ボンベ室を地下に設置するのは理にかなっているのです。それにいくら杜撰だったと言っても、『グリーン』もボンベ室の出入り口に標識を設置するくらいは行っているはずです。標識を貼るだけならば手軽で労力もいらないですが、その割に注意喚起としては非常に効果的ですから。たまかさん達が標識を見かけていないのだとすれば、自ずとたまかさん達が見て回った場所にボンベ室はなかったということになります。地下でしたら倉庫が中心でしょうから、案内板などには載せないでしょうし、階段室からも降りられない構造になっていてもおかしくはありません。たまかさん達が確認出来なかった部屋、つまり地下室にボンベが設置されていたと考えるべきです」

 林檎は人差し指を一本天へ向けて立てた。

「二酸化炭素以外の消火剤を用いていた線はほぼないと思っております。『グリーン』は小規模組織で資金繰りにも余裕があるわけではありません。対してサーバー機器は非常に高価です。『グリーン』にとって大事な機械を設置する時に、消火剤に注意を払わないとは思えないのです。『グリーン』はデジタル機器についても知り尽くしているプロの集団ですから、知識がなかったとも考えられません」

 『グリーン』は機械にとって不活性化ガス消火設備が重要であることを理解していた。そのため自分達の資産を守るために当然二酸化炭素ガスの消化設備を導入したはずだ。しかしたまか達はボンベ室を発見出来なかった。ならばたまか達の探していない、地下に存在していたということになる。

「そして最後に、縹の死体の表情について。たまかさんでもあまり目にしないような、凄惨な形相をしていたとのことですが……つまり死ぬ間際、顔の筋肉を動かした状態で絶命した、ということですよね。死に際に極度の筋肉の緊張が起こっており、即時性硬直でその表情で固定された。それは死因によるものではなくて、感情によるものなのではないかと推察いたします」

「……感情ですか?」

「はい。縹は死の直前まで機械を壊し続けていたことが監視カメラに写っております。忍び込んで壊す程の憎しみを機械に対して抱えていたのだとすれば、壊していた時の形相も凄まじいものだったでしょう。特に縹を始めとする『ブルー』の者達は感情に忠実ですから、機械への怒りや憎しみが溢れた表情は、筋収縮に使うATPを消費し尽くしてしまう程の激しいものだったのでしょう。それほどの表情を浮かべたまま息絶える人間など滅多におりません……そのためにたまかさんも見たことのないような死に顔となってしまったのではないでしょうか」

「……」

 たまかは考え込むように静かに視線を下げた。

(死に際も機械に対して深い憎しみを顕わにし続けていたのだとすれば……確かに見たことのないような死に顔になるのかもしれません。監視カメラの映像では、噴出されたガスによって画面が見えなくなる直前まで、水面さんが機械を壊し続けている様子が写っていました。もしガスで満ちる中でも手を止めなかったのであれば、その表情も……)

 黙り込んでしまったたまかの返事を待たず、林檎は再び口を開いた。

「ちなみに……『ブルー』の者を『レッド』が殺したという誤った情報が『ブルー』に広まっていた件についてですが、『ブルー』の出任せの一つだと思っています」

 たまかは下げていた視線を、感情の浮かばない顔へと戻した。

「嘘をついていたっていうことですか?」

「はい。ご存じの通り、『ブルー』は小細工を好まない集団ではあります。ですが彼女達は、ある知性を手にしていました」

「知性?」

「AIです。勿論『グリーン』と敵対している今は、もう使用してはいないでしょう。ですが『ブルー』はこれまでAIに肯定的で、どの組織よりもAIを駆使した抗争をしておりました。まだAIが『ブルー』にいた頃に、何等かの知恵や彼女達にないやり方を得ていたとしても何もおかしくはありません」

「……」

「彼女達は我々を襲う大義名分を手に入れたふりをしたということです。つまりどこかの組織が『ブルー』を嗾けたわけではなく、『ブルー』の戦略なのではないかと予想しております」

 監視カメラの映像は真、水面の死は事故、そして『ブルー』に嘘を吹き込んだ組織もない。

「縹が『グリーン』を襲撃したものの事故で死に、遺された『ブルー』は『グリーン』と『レッド』の仕業だと決めつけて暴れ放題……つまり全て『ブルー』が好き勝手しているだけ、ということでしょうか」

 桜が『ブルー』への呆れを滲ませて尋ねる。林檎は感情を出さないまま頷いた。

「そうです。今の時点でどの組織が得をしているかを考えれば自ずと見えてきます。『ブルー』は駆使していたAIを捨てましたが、彼女達は今もなお勝ち続けて様々な組織を潰しておりますから、戦力として痛手はありません。それに対して『レッド』や『ラビット』は、AIという新しい武器やおもちゃに頼る部分が大きくなっておりました。『ブルー』にとって、二つの敵対組織へAIという戦力を提供する『グリーン』は邪魔に映っていたことでしょう。『グリーン』を潰すことが出来れば、他の二組織を弱体化させられます。それを狙っていたのでしょう。さらに『ブルー』は数多の組織から金と武器を巻き上げており、物資も潤沢になっているはずです。現状、一番利を得ているのが『ブルー』なのです」

 林檎はたまか達から視線を下げ、話を続けた。

「一方で『ブルー』以外の組織はどこも苦境に立たされておりますから、現状を仕組んだ組織があるとは考えにくいのです。特に『グリーン』は上客を失い、抗争経験がない組織にも拘らず連日『ブルー』に追い回されております。縹がいない状況を作り出したとしても、彼女達はそれを利用して動けるような者達ではありません。そして彼女達は、それを誰よりも自覚しているはずです。ですからメリットのない縹殺しに、『グリーン』が関わる理由はないでしょう。また『ラビット』につきましては、AIをとても気に入っていましたから、『グリーン』が虐げられている今の状況を作り出そうとはしないでしょう。少なくとも桜卯の方針には沿わないはずです。AIの供給が途絶えてしまうかもしれませんし、『グリーン』が壊滅してしまえばAIは二度と手に入らなくなってしまいますから。縹を殺し、『レッド』と『ブルー』を衝突させて一番利があるように見えるのが『ラビット』ではありますが、縹の死後、『ラビット』は目立った行動を起こしてはいません。積極的に暴れていると言っても『ブルー』に比べれば大したことはないですし、また彼女達は『グリーン』を守らなければならない盤面であるはずなのに『グリーン』に協力しようともしていません。おもちゃ、そして戦力であるAIを死守しようとする動きがない以上、『ブルー』を壊滅しようとしている動きにはとても見えません。縹殺しを計画したり『レッド』と衝突させようと画策したりしているにしては、『ラビット』自体の動きが鈍すぎるように思います。ですので『ラビット』の仕組んだことでもないでしょう。『グリーン』と『ラビット』以外の数多の組織達も同様に、どこも『ブルー』と善戦している組織はありませんから、縹殺しを企てたとは思えません。万が一そのような組織があるとしても、『ブルー』にあっけなく虐殺され物資を奪われているわけですから、警戒に足る実力があるようには思えません。その説は切り捨てるべきだと思われます」

 林檎は再びたまかと桜を見上げた。感情のない表情、そして淡々とした口調。

「以上により……縹の死は事故だったという結論に至りました。たまかさん達の集めてくださった情報のお陰で、真実を照らすことが出来たこと、とても嬉しく思います」

 小さな顔に上品で完璧な微笑みが浮かぶ。

「説明を省いた他の根拠もまだまだあります。納得出来ないようであれば、別の角度からの話もお聞きになりますか?」

 たまかは慌てて首を横へと振った。

「いえ……、充分です。……水面さんを誰かが殺した可能性は……ないということですよね?」

 ぎこちなくおずおずと、それでも強く念を押すようにたまかは尋ねた。その険しい声での問いに、林檎はあっさりと頷いてみせた。

「そうですね、限りなくゼロに近いと思われます。監視カメラの動かぬ証拠がある上、縹と対峙して殺せる技量を持ち合わせているような者が浮上していないことも大きいです。各組織の立ち回り、現在の情勢、そしてたまかさん達が集めてきてくださった現場の手掛かり。全てが縹の死は事故だったと指し示しております。逆にどこかの組織の陰謀であったり縹を殺害した人間がいたりしたとなると、辻褄の合わない点が多々出てきます。現実的ではないでしょう」

 その答えに、たまかは口を結び、俯いた。その顔に不安が滲んでいることに気付き、機械は完璧な微笑みを向けてみせた。その声色は優しかった。

「……たまかさん。あなたは『ブルー』の善性を信じすぎているように見受けられます。勿論それはたまかさんの美点でもあるでしょう。しかしながら『ブルー』は敵対組織、あなたの怨敵です。そして向こうの方々にとっても、あなたは仇敵なのです。この関係である以上、彼女達の偽りのない言葉や心を期待してはなりません。あなたが力になりたいと思っても、彼女達に利用されるだけなのです。つまりあなたが重きを置くべきは『ブルー』の詐言ではなく、客観的な証拠です。純真無垢な白さを持つたまかさんには酷かもしれませんが、さすればあなたにも自ずと真実が見えてくるでしょう」

 優雅で上品な微笑みは、たまかを励ましているように見えた。たまかもぎこちなく笑みを作り、「はい」と短く答えた。その返答に、林檎は安心したように頷いた。

「縹の死が事故だったのなら、『レッド』の立ち回りについても今後の方針が見えてきましたね。動くのでしたら、早めがよろしいかと思います」

 そこで林檎は一度言葉を区切った。

「……たまかさんの心の整理がついてからで構いませんが」

 彼女はそう付け足し、再び安心させるように微笑んだ。合理的な集団である『レッド』の前長とは思えない程の気遣いだった。機械になっても、彼女は優しい。たまかは小さく頷いてみせた。

 その言葉を最後に、たまかと桜は執務室を後にした。扉の奥に、華奢な体が消えていく。真紅のカーペットを歩きながら、たまかは口を結んで先程の林檎の言葉を何度も想起させていた。

(水面さんの死は、事故……)

 林檎はきっぱりとそう言い切った。林檎の説明に違和感はなかったし、むしろしっかりとした根拠に基づいていることが窺える筋道の立った推理だったように感じられた。たまかの疑問に一つ一つ丁寧に答えてくれた彼女の説明には、恣意的な歪みや不自然な点もなかった。彼女の明晰な頭脳に導かれた結論は……たまかには崩す事が出来ない程、きっと正しい。

(それでも……)

 たまかより比較にならない程に聡明な彼女の導き出した結論は、たまかが必死に絞り出す推理よりもよほど信頼できるだろう。それを理解しているのに、たまかの顔は依然晴れないままだった。

 水波の射殺さんばかりの怒りが宿る瞳。青空の混乱と狼狽が滲む取り乱しよう。憔悴が覗く椛の笑み。生前の水面の優しさと真っ直ぐさ。様々な顔がたまかの頭に浮かんでは消えていく。……あれらは全て、本当に嘘だったのだろうか?

「……」

 きっと、林檎の推理は正しい。彼女の結論に疑問を持ったり、否定をしたりしているわけではない。彼女は、現時点で一番信用出来る解答を導き出した。……それでも。

(私……諦め切れません)

 どうしても『ブルー』の面々が嘘をついているようには思えないのだ。彼女達の感情が偽りだとも思えない。それに『怪我なんてしない』と言っていた最強の水面が、ただの事故で本当に死亡するのだろうか。理屈では結論が出ているはずなのに、たまかの中の感情がそれを許してはくれなかった。合理性を重んじる『レッド』の長として、あるまじき姿なのはわかっている。それでもこの結論を甘んじて受け入れることは、『ブルー』の面々と接してきたたまかには出来なかった。たまかは廊下の途中で、純白の靴を止めた。カーペットと靴ばかりが映っていた視界があがり、煌びやかな照明によって視界が眩しく白で染まる。

「……桜さん」

 たまかは後ろをついてきていた桜の名を呼んだ。凛とした声に、後ろからの足音も止む。たまかが背後を振り返ると、いつもの真面目な顔が現れた。重い瞼から覗く瞳は、じっとたまかを見つめていた。

「私……引き続き水面さんの死の件を追おうと思います。例え事故だったのだとしても……真実が確定するまでは、もっと情報を集めたいんです」

 林檎の結論に真っ向から反する動きだ。事故ならば嗅ぎ回っても時間の無駄にしかならない。今度こそ、桜はもうたまかに力を貸してはくれないだろう。

「今は『グリーン』の味方にも『ブルー』の敵にもなることは出来ません。勿論、林檎さんの説明が間違っているとは断言できません。それでも……」

 たまかはぐっと拳を握り締めた。一度唇を強く噛みしめる。

「『ブルー』の皆さんに偽りの心があるとは、どうしても思えないんです」

 事故と考えれば、全ての辻褄が合う。しかしたまかにはどうしても、『ブルー』の面々の言葉に説明のつかない違和感が残るように思うのだ。たまかにそれを無視することは出来ない。

「……」

 桜は真面目な顔を崩さず、じっと正面のたまかを見つめていた。林檎の推理を否定する言葉、そして合理性の欠片もない主張に、いよいよ怒鳴られるのではないかとたまかは内心で身構えていた。そしてその怒りは最もであることもたまかには分かっている。ほぼ確実に正しいと分かっている推理、さらには彼女が崇拝する相手の言葉を否定し、敵対組織の者達を信じて行動をすると宣言したのだ。桜からすれば、理解出来ないどころではないだろう。もしかすると、『レッド』の長を引きずり降ろされるかもしれない。それ程までに、桜の意見とは真逆を行き、到底許せるような発言ではないことは明らかだった。

「……」

 たまかは唾を呑み込んだ。それでも譲れないのだ。事故死で説明のつかないもやもやが残るのだとすれば……最後まで真実を追及するのを諦めたくない。それが、水面の——友人のためだから。決意を宿す瞳で、桜へと無言で訴える。

「……分かりました」

 廊下に彼女の荒げた声は響かなかった。桜は小さく口を開き、冷静な顔のまま、ぽつりとそう漏らしたのだった。その真面目な表情はたまかの宣言を否定することもなく、嫌悪感を顕わにすることもしていなかった。たまかは予想外の反応に、思わず呆けて口を半開きにした。

「たまかさんは、朱宮さまの結論を間違っているとは断言できないと言いましたよね。ですが違和感は残る、と」

 なおも静かに続いた言葉には、怒りは全く滲んでいなかった。それどころか何かを探るような、慎重さと真剣さを帯びたものだった。

「……わたくしもなのです」

 目の前の真面目な顔は、眉間に皺を寄せた。

「わたくしも、その……。……こんなことを言うのは、大変不敬なのですが……」

 桜は視線を逸らし、もごもごと口をまごつかせた。言葉にするのを躊躇うように、声が一度萎んで消える。執務室を出てからずっと静かだったのは、桜もたまかと同じようにいろいろと引っかかることがあったからなのかもしれない。

「……違和感があるのです」

「違和感、ですか?」

「はい。勿論たまかさんの言うような、『ブルー』の者達の様子に、というわけではありません。むしろあの者達は平気で嘘をつく者達だと思っております。……ですが……」

 彼女は眉を下げた。なおも躊躇っていた言葉を、小さな声で振り絞る。

「その、朱宮さまの考え方に……違和感を覚えたのです」

「林檎さんの、考え方?」

 たまかの言葉に桜はまるで詰め寄られたかの如く萎縮して体を縮めたが、やがてこくりと小さく頷いた。

「生前の朱宮さまは、いついかなる時も、完璧な結論を導き出しておりました。全てのピースがカッチリと嵌り合うような、疑問点が一つも出ず、誰しもが得心がいくような……その結論以外に考えられないと状況、証拠、人物全てが示しているような、そんな結論です。ゆえに彼女の結論はいつも正しく、そして必ず真実と同じ形をしておりました。ですが……」

 桜は声を落とし、逸らしたままの目を僅かに細めた。

「今回の朱宮さまは、いつもと異なる気がしたのです。たまかさんが疑問を持つような『ブルー』の者達の行動を、『敵対組織の者達だから』という理由だけで見て見ぬ振りをしております。……いつもの彼女でしたら、些細な違和感も見逃さず、必ずや結論を下す前に考慮にいれ深く検討を重ねることでしょう。朱宮さまは情報の大切さを理解しておりますから、どんな情報すらも無視せずにピースの一つとして丁重に扱うはずです。ですが今回は、たまかさんが違和感を持つ程の綻びがあるにも拘らず、彼女はそれらを切り捨てて強引に結論を出しているように見受けられるのです。……こんな朱宮さまは初めて見ました」

 桜はその表情に悲しさを滲ませていた。たまかには、林檎はいつも通りに映っていた。その結論も叡智の結晶が導き出した、大きな違和感のないものに見えていた。しかしずっと彼女の傍で彼女を見てきた桜には、そうは映らなかったようだ。

「今回の朱宮さまの結論は、どうも彼女らしくありません。……彼女はAIですから、生前の朱宮さまを完全再現出来ていないのかもしれませんね」

 桜はそう推論を述べたあと、視線をたまかへと戻した。重い瞼の奥から、真っ直ぐとした真面目な視線がたまかへと向けられる。

「事故死という結論に納得がいかないのでしたら……わたくしはたまかさんを止めることは致しません。たまかさんが納得いくまで調べ尽くした後で、『レッド』の行動を決めましょう。それまで、『レッド』は貴女を待ちます」

 毅然とした声、そして目の前の真面目な表情。大理石に反射した照明の光が、彼女を照らし出していた。

「ただ、事故死という点に関しましては、情報を集めても覆ることは難しいだろうと思っております。朱宮さまの考え方が不審だったとはいえ、その推理自体は筋道立っているように感じられました。たまかさんにとっては違和感が残ったかもしれませんが、事故死という結論自体にはわたくしは同意見です。わたくしが不審に思っているのは、『たまかさんが違和感を持つところのある結論だった』という一点だけですから。結論が変わらないとしても真相を追うとたまかさんが言うのであれば、わたくしは止めません。今の『レッド』の長は貴女なのですから、貴女の信念に従って進んで下さい。……そしてそれを、朱宮さまもきっと望んでおられるのです」

 桜は誰かを思い出すように、遠い目をした。最後の言葉の意味は分からなかったが、たまかはその顔に微笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、桜さん」

 結論の変わらない、無駄な足掻きかもしれないけれど。それでも、『ブルー』の少女達の感情をなかったことにして結論を下すことは、たまかには出来ない。この件はきっと、まだまだ解決に至ってなどいないのだ。

(水面さんのために……全力を尽くします)

 まだまだ諦め切れない。事故死なら事故死で、確実な証拠が手に入って納得出来る時が来たら信じればいい。林檎の結論は一つの判断材料に留め、今はより多くの情報を収集するべきだ。この状況で新たな情報を得ることは難しいかもしれないが、違和感のあるまま林檎の結論を受け入れて足を止めるわけにはいかない。たまかのそんな心中が透けていたのか、桜はすべて察するかのように長の顔をじっと覗き込んでいた。

「早速、茜さんと灯さんに『グリーン』を中心に情報収集にあたってもらうようお願いしに行こうと思います」

 既に『レッド』は『グリーン』の情報を探ってはいるが、死体発見現場の新たな情報、そして林檎の推理によって、別の角度から切り込むことが可能になるかもしれない。そしてそのような大切な役割を任せられるとすれば、たまかのよく知る二人が適任だろう。たまかは熱意の滲む瞳を前へと向けた。その曇りない眼は、未来へ立ち向かう無垢な輝きに満ちていた。たまかは桜へ背を向けると、廊下をはしたなく走り出した。純白の靴で深紅のカーペットを蹴り、その背中はあっという間に遠くなる。一人廊下に残された桜は、そっと後ろを振り返った。廊下の奥の執務室の扉は、ここからでは見えない。

「……これで良かったんですよね」

 今頃執務室でデスクに向かっているであろう、そして本来ならばこの世にいないはずの人へ、こっそりと尋ねる。答えのないまま、桜は静かに顔を戻した。やる気に満ち溢れた白い背中が廊下の奥へ行ってしまったことに気が付き、彼女は緩慢に足を踏み出して後を追ったのだった。




 ***




 水面の死体発見現場を調べた数日後。特に大きな情報が入ることもないまま、たまかは引き続き水面の件を追っていた。『グリーン』、『ラビット』、そしてそれ以外の中小組織。相変わらずどの組織も他の組織の様子を窺いながら水面下で事を運んでいるようだった。また『ブルー』の方にも大きな変化はなく、怒涛の勢いで他の組織を潰し、暴れ回っているようだった。日に日に増える死傷者、そして目に見えて消えていく多くの組織達。『ブルー』の縄張りはどこも荒れ果て、倒壊した家屋や瓦礫の山、転がった死体達が重なったまま放置されている有様だった。『不可侵の医師団』も『ブルー』の暴れ振りによって限界状態で、『グリーン』のデジタル化の力を借りてもなお、現場は逼迫していた。救護が追いつかず、たまかも『不可侵の医師団』へ戻って治療に加わるようになった。しかしそれも、『ブルー』の猛攻の前では付け焼き刃に過ぎないようだった。

 日が頂を通り過ぎ、窓の外の青空が色を変える準備を始める頃。執務室には、前長と現長の二人の姿があった。デスクに向かって報告書に目を通す林檎、そしてサイドチェアに座って『不可侵の医師団』の医療用品の詰まったバッグの中を漁るたまか。二人は会話もなく、それぞれの作業に集中していた。たまかは頭の中の点検リストの最後の項目を思い浮かべながら、バッグの中から手を抜いた。掌にはメッシュのサージカルテープが握られている。厚みで残量を確認し、切り口を確認したあと、たまかは手に持ったテープをバッグの中へと戻した。これで簡易点検は終了だ。バッグのジッパーを閉めていると、奥から書類を捲る音が聞こえてきた。

 たまかが椅子から立ち上がろうとした時、扉が激しい勢いで三回ノックされた。品行方正な『レッド』のアジトではあまり聞かない乱暴な音。恐らく急を要する案件だ。たまかは透かさず返事を返した。すぐさま扉が開かれ、奥から現れたのは灯だった。彼女は息を切らして、血相を変えて部屋へと入った。水面が死んだと報告を受けた時の記憶と重なり、たまかの顔は無意識に強張った。

「大変です、『ブルー』に潜入諜報員の存在が知られました」

 灯はたまかと林檎へ叫ぶように報告した。たまかは最悪の知らせに愕然とした。懸念していたことが、現実になってしまった。思わず息を呑む。

「い、椛さんは無事なんですか……!?」

「倉庫に監禁されて酷い拷問を受けているようです。……助け出しますよね?」

「当たり前です、急ぎましょう」

「……たまかさんならそう言うと思っていました」

 灯は呼吸を整えながらも、その表情に僅かに安堵を滲ませた。敵に存在のバレたスパイに価値などない。合理的に考えるのならば、敵組織へ乗り込むリスクを避けてここで見捨てる選択を取るのだろう。しかしたまかの答えは決まっている。点検を終えたばかりの医療用品の詰まったバッグを抱え、たまかは素早く立ち上がった。

「潜入諜報員……なるほど。『レッド』は不自然な程『ブルー』内部の情報を握っておりましたから、薄々感づいてはおりましたが……椛がそうだったのですね」

 部屋の奥から納得するような呟きが聞こえてきて、たまかははっとした。デスクの奥を振り返ると、林檎はその顎に手を当て、何やら勘案しているようだった。動揺しているたまかと違い、彼女はいつもと同じように冷静沈着なままだった。

(林檎さん……椛さんがスパイだと知らなかったんですね)

 『グリーン』には知りようもない『レッド』の極秘情報のため、インプットされていなくて当然ではある。しかし彼女は甘いものが好きという情報は持っている。両者の違いは、一体何なのだろうか。しかし深く考察する前に、たまかはすぐに疑問を頭から追い出した。今はそんなことを考えている暇はない。すぐさま灯へと顔の向きを戻す。

「今の暴走している『ブルー』で拷問なんて、最悪死亡の可能性もあります。すぐに『ブルー』のアジトへ行きましょう」

 焦りを堪え切れないまま叫ぶと、たまかは言い終わらない内に足を踏み出した。

「たまかさん」

 呼び止めるように凛と響いた声に、たまかは部屋を出て行こうとしていた足を止めた。林檎へと振り返る。彼女はデスクの奥に座ったまま、じっとたまかを見上げていた。

「攻撃的になっている『ブルー』のアジトへ侵入して捕虜を救出するなど、余りにも無謀です。少なくとも武力行使に出る必要があると思います。でなければ、救出に向かった者達も皆殺しにされて終わりでしょう」

「……」

 逸る心と焦りで支配された体は、今すぐにも『ブルー』のアジトへ乗り込もうとそわそわとしている。しかし林檎の言う通り、無策で救出へ向かっても『ブルー』に殺されるだけだ。たまかは焦燥感を呑み込み、落ち着けるように一度短く深呼吸をした。

「捕らえられている倉庫を特定し、周囲や中にいる者の人数が少ない時を狙って全員狙撃で殺すべきです。敵のアジト内ですから人の目は多く、また援軍も無限にいます。あちらを傷つけずにいれば、こちらが殺されるだけです」

 林檎の言葉に、たまかは現実を突き付けられたような心地がした。林檎の危惧は正しいだろう。今の『ブルー』は暴れ振りに拍車が掛かっていて、まるで獣のように手が付けられない状態となっている。『レッド』の者が侵入していることが知られれば、問答無用で見つかり次第殺されるだろう。敵地で誰も傷つけずに倉庫まで侵入するなど、至難の業だ。

(ですが、椛さんの救出も一刻を争います……)

 どんなことをされているのかは知らないが、仲間意識の強い『ブルー』は裏切り行為には一段と敏感だ。拷問が生温いものではないことくらい想像に難くない。たまかはぐっと唇を噛んだ。ずっと貫き通してきた信念を、ついに曲げなければいけない時がきたのだろうか。

(……それでもやっぱり、『ブルー』の方を傷つけるわけにはいきません。誰も殺さず、倉庫に囚われている椛さんを連れ出す方法……)

 取り乱した頭をなんとか鎮め、必死に策を考える。場所が『ブルー』の本拠地であることが非常に厄介だ。会社時代にあったという動物園、その肉食獣の檻の中へ自ら入りに行くようなものである。

(確実なのは林檎さんの言う通り、倉庫の周囲や中にいる方達を殺して密かに椛さんを救出する方法……。倉庫の場所にも依りますが、狙撃の音や死体にさえ気づかれなければ、敵のアジト内であってもバレるリスクは低いでしょう。……ですがそのような方法は取れません。誰も傷つけないとすると、倉庫の周囲や中にいる人達に知られることなく倉庫に侵入することが必要です。ですが人払いでどこかへ注目を集めるのはアジトですと難しいですし、催涙弾を用いたとしても有効範囲外から援軍がすぐに駆け付けるでしょう。見つからないことが難しいようであれば意識を失わせることが必要になってきますが……)

 たまかは顔をあげると、灯へと顔を向けた。

「……梅さんを呼んできていただけませんか。彼女に同行してもらいましょう」

「梅ちゃんですか……? わかりました」

 灯は一瞬呆けた後、すぐさまこくこくと頷いた。

「麻酔銃を使用しましょう。狙撃に長けている梅さんならば、通常の銃と大きく使い勝手が異なる麻酔銃でも上手く命中させることが出来るでしょう。投薬量は、私が責任をもって調整します」

 麻酔銃の薬液の適正量は、専門家であっても判断が難しい。目標となる人物の体格などでも変わってくる。この役割は、『不可侵の医師団』に所属するたまかにしか務まらないだろう。灯が部屋を出ていく前に、デスクの奥から懸念するような声があがる。

「麻酔銃ですと命中してから効果が現れるまで数分かかります。その時間は個人によってバラつきがあるでしょうから、意識を失うところを近くの者に見られて警戒されてしまう危険性があります。効果が現れるまでに他の人と交代されるかもしれませんし、そうなれば再び麻酔を撃ち直さなければなりません。するとさらに潜む時間を要し、気付かれやすくなる可能性が高まります。また、建物の中にいる者に対しては狙撃を実行することは極めて難しいです。外にいる者達とは別の方法で麻酔を打つ必要が出てくるでしょう」

 林檎は冷静にたまかの案のリスクを分析し、淡々と指摘した。そして、たまかを見上げて付け加える。

「……ですので、わたしがたまかさんの策に一捻り加えましょう。大丈夫です、なるべく無傷で済ませるように努めます。勿論その分失敗するリスクも高まりますが……そこはたまかさんが現地で調整してくださいませ。あなたならば、きっと上手くいくでしょう」

 林檎は僅かに口角をあげた。心強い言葉に、たまかは深く頷いてみせた。「うち、梅ちゃんを呼んでくるわ」と言い残し、灯が慌ただしく部屋を出て行く。残ったたまかは林檎から数多の策を授かった。その間も頭にあるのは、最後に会った椛のにこやかな笑みなのだった。




 『ブルー』の倉庫はいくつもあり、椛が捕らわれていたのはその中でも最も広いもののようだった。比較的新しく建てられたようで、錆や剥がれの無い小綺麗な外観だった。窓も扉も閉め切られ、中の様子を確認することは出来ない。梅が撃った麻酔銃によって倉庫の周りで見張りをしていた者達が眠ったことを確認すると、『レッド』の者達は速やかに各自の配置についた。そして『ブルー』の制服に身を包んだ茜が、倉庫へと近づいて扉の前で足を止めた。耳につけたイヤホンから、短い合図が鳴る。同時に、メンバーの一人が倉庫内の照明を落とした。茜はスタングレネードのピンを抜き、扉を僅かに開けて中へと素早く投げ入れた。即座に扉が閉められる。扉越しに地響きのような重い音が鳴り、同時に扉が大きく揺れた。独特な匂いが立ち込める中、茜は改めて扉を乱暴に開いた。内部の照明がつけられ、彼女の薄群青色の背中が漏れる光を遮った。倉庫内を確認した茜は外へと振り返り、待機していた仲間達へ合図を送った。それを見たたまかは、周りの者達とともに倉庫へ向かって駆け出した。『ブルー』の者が来たらすぐに見つかって殺されてしまう。急いで事を運ばなければならない。

 たまかは躊躇なく茜の開けた扉から中へと駆け込んだ。梁の骨組みが剥き出しになった天井、コーティングされた滑らかな床。この倉庫は武器を保管するためのものだったらしく、奥にはガンケースやダンボールが山になって積まれていた。更には銃や刃物、そして銃弾のケースなどが無造作に転がっている。それらを背景にして、手前には『ブルー』の制服を着た三人の少女達が倒れ込んでいた。彼女達は平衡感覚を失って立てないらしく、また目と耳も機能していないようだった。そして、彼女達の中央には一脚の椅子に縛られた少女が座らされていた。縄できつく繋ぎ止められた体は、だらりと前へ垂れ下がって今にも倒れそうだった。俯いた頭は微動だにせず、乱れたアイボリーのウェーブヘアーは彼女の顔を隠している。薄群青色の制服は血で真っ赤に染まり、まるで『レッド』の制服のようだった。所々破られており、覗く肌はどこも痛々しい程に色が変わっていた。椅子の周りの床には夥しい量の血が溜まっていて、まるで小さな湖のようだった。項垂れた顔の奥からぽたりと血が滴り落ち、たまかは血の気が引いたまま思わず彼女へ駆け寄った。

「椛さん!」

 あまり大きな音を立ててはいけない状況であることも忘れ、彼女の名前を必死に叫ぶ。床に転がった血塗れのペンチ、赤黒いトンカチ、投げ出されたアイロン、雑に重なったレンガブロック、横向きに捨てられたバケツ。それらの合間を縫って純白の靴が跳ね、やがて椅子の前で立ち止まった。

「椛さん」

 たまかは震える声で再び呼びかけた。彼女は項垂れたまま、全く反応することはなかった。

(……意識がありません)

 彼女の前まで来たことにより、その体についた傷の凄惨さが露わになった。破れた制服の下の肌は火傷で広く爛れ、後ろで縛られた両手はほとんどの爪が抜かれ血塗れとなっていた。切れた袖から覗く腕は曲がる角度が不自然で、大きな紫色の痣が肌色を覆い隠す程に広がっていた。短いスカートから伸びる右脚の先は潰れており、変色している。左脚も切り傷や縛った跡、火傷だらけで、その先の指は五本ではなくなっていた。たまかは思わず悲痛に顔を歪めた。その後感情を堪えるように歯を食いしばり、彼女を縛る縄を折り畳みナイフで切り出した。彼女に顔を近づけると、噎せ返るような血の匂いが立ち込めていた。

 軽い音を立てて縄が切れた。前へ傾いた彼女の体を、たまかは小柄な体で慌てて支えた。重力に沿って垂れさがった体には、全く力が入っていない。灯と梅が用意してくれていた簡易担架へ横たえようと、たまかは背中側に回り込んで腕の下へと手を通した。持ち上げようと抱き着くと、目の前の彼女の頭が僅かに動いた……ような気がした。

「……たま、……さん?」

 掠れたか細い声。今にも消えそうな声に、たまかは弾かれたように呼び掛けた。

「椛さん? 意識が戻ったんですか? 喋らないでくださ……」

「聞……、て」

 途切れ途切れの声が、震える僅かな呼吸とともに吐き出される。たまかは後ろから必死に彼女の口へと耳を近づけた。

「わた……、バレ……ない」

「……え?」

「気付……、おか……し、……」

 声が完全に途切れた。慌てて彼女の口元を確認すると、鮮血が溢れて顎を流れていった。乾いた唇は、もう動かない。たまかはより頭を傾け、咄嗟に彼女の顔を覗き込んだ。その閉じた瞼の奥から、夥しい量の血が流れた痕がこびりついていた。血塗れの目の上には大きな青痣が広がって腫れ上がっている。頬にも無数の紫の痣が出来ていて、切れて腫れた唇からは今もなお鮮血が垂れている。目も唇も全く動かないことからして、再び意識を手放したようだった。

(失明しているのかもしれません。この血の量……恐らく歯も抜かれていますね)

 一刻も早く『不可侵の医師団』に連れていかなくてはまずい。たまかは顔を強張らせた。覗き込んでいた顔を戻すと、両脇の下から通した腕に力を籠める。いつも『不可侵の医師団』で行っている掛け声とともに、彼女の体を速やかに錆びた椅子から浮かせた。

(こんな状況なのに……椛さんは最後まで『レッド』に情報を伝えようとしていました)

 担架へ移動させながら、先程の椛の言葉を思い起こす。『レッド』は合理主義な人間の集まりであり、一人一人の命に重きを置かず、情報こそを至上として、何が何でも自分の組織へ成果を持ち帰ろうとする。情報は、命よりも重い。意識を失うその時まで、彼女は正真正銘『レッド』の人間だった。

「このまま『不可侵の医師団』へ向かいます。急ぎましょう」

 たまかの言葉に、茜と灯が担架を持ちあげた。銃を手にした梅が扉の外を確認し、素早く出て行った。担架を持った二人、そしてたまかを始めとした『レッド』の面々が、その後についていく。幸いアジトにいる他の『ブルー』の者達は『レッド』の侵入に気が付いていないようで、援軍が到着する気配はなかった。『ラビット』との抗争が近くで勃発したというデマを流したお陰なのか、先程のスタングレネードの音に反応して見に来る者もいない。倉庫の中に三人の倒れ込んだ少女達を残し、『レッド』の面々は足早にその場を去った。あとは目撃されることなくアジトの敷地を脱出するだけだ。倉庫の位置は他の建物とは離れていて、辺りに人の姿はない。侵入してきた裏手の門目指して、靴音を消して駆け出そうとした……その時。

「待て……っ!」

 突然の声に、たまかはびくりと肩を跳ね上げた。担架に横たわる体の怪我の具合を確認していた顔は、すぐに声の主を探すように辺りを見渡した。すると、倉庫の前で倒れていたはずの二人の見張りの少女の内一人が、這い上がるように上体を起こしていた。『レッド』の少女達を見上げる顔は、憎しみで染まっている。

「お前ら……、よくも……」

 呂律が回っておらず、その声も覇気がない。まだ麻酔が完全に抜けていないようだ。仲間を呼べる程叫ぶことが出来る状態ではないのだろう。たまかはそのまま足を踏み出し、彼女を放置して逃げようとした。しかし『ブルー』の少女の手がホルスターから銃を抜いたのを視界の隅に捉え、思わず息を呑む。麻酔で完全な状態でないはずなのに、その動きは素早かった。

(まずいです……!)

 撃ち殺される。たまかは顔を青くした。しかし彼女の銃から弾丸が発砲されることはなかった。その前にポップコーンの跳ねたような軽い音が鳴り、そして彼女の頭から血が噴き出て動かなくなったからだ。

「……!」

 たまかはその光景によろめきそうになるのを、辛うじて踏ん張った。血の気が引いた顔で、彼女の頭から零れ落ちていく鮮やかな血を瞳に映す。つい先ほどまで生きて睨んでいた『ブルー』の少女。その死体は、地面に伏せて再び起き上がることはなかった。

「たまかさん。……ごめんね。こんな状況じゃ、撃たないと殺されちゃうよ」

 硝煙の昇る銃を下げたのは、梅だった。梅は真剣な表情で、じっとたまかを見つめていた。彼女の銃にはサプレッサーを取り付けてあるため、『ブルー』の応援が来る様子はなかった。『レッド』側は担架を持って反撃出来ない二人に加え、無防備な長の姿もある。麻酔が抜けていないにも拘らず『ブルー』の少女の動きは機敏であったし、撃たなければもしかすると彼女に何人か殺されていたかもしれない。梅はこの一瞬で頭の中で全て計算し、そして咄嗟に照準を合わせたにも拘らず精確に敵の頭を打ち抜いた。『レッド』が彼女の腕を買っていたのが、たまかにも理解出来た気がした。

「……。『ブルー』を脱しましょう」

 たまかは悲し気に死体を一瞥した後、梅へと顔を向けた。

「……助けてくださって、ありがとう、ございます」

 彼女が行動しなければ、たまか達は死んでいたかもしれない。例えその行動がたまかの許せないものであったとしても……彼女は命を救ってくれた恩人だ。梅もたまかの心情を察し、小さく頷いただけだった。彼女はすぐに表情を引き締めると、先陣を切って走り出した。担架を持った茜と灯もそれに続き、その後をたまかが追った。残りの『レッド』のメンバー達もその後ろに続く。裏門が見えてきた頃、たまかは最後に一度だけ倉庫の方を振り返った。俯せで寝たままの少女、そして血で濡れた死体が倒れているのが遠目に見えた。

「……」

 哀悼の意を表すように視線を向けたあと、たまかは裏門へと顔を戻した。曇った顔が俯く。

(麻酔の量……こんなにすぐに起き上がるはずはなかったのですが……)

 椛を助け出したい一心が先行して、手元が狂ったのだろうか。もしくはもともと麻酔の適正量をはかるのは非常に難しいため、調整が上手くいかなかったのかもしれない。だとすれば自分のミスであり、それが原因で『ブルー』の少女を一人殺すことになってしまった。たまかは悲し気に眉を下げた。項垂れた視線の先は、自然と担架に横たわる血塗れの体を映した。肌の色が見えない程の傷と殴打痕、そして夥しい血の痕跡と折れ曲がった四肢と指。一体彼女はどれだけの間拷問を受け続けていたのだろう。たまかはくしゃりと顔を歪め、思わず潤んできた瞳をぎゅっと瞑った。




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