第3話
『ブルー』へ戻って自分の部屋へと林檎を隠し、傘下の組織の長からの金品の受領を終え、水面は再び街へと繰り出していた。とある組織へ、殴り込みに行くためだ。先程話をした組織のリーダーによると、『レッド』の傘下であるこの組織は最近違法薬物に手を染め、我らが同胞達を薬物中毒にさせているのだという。恐らく『レッド』のリーダーがたまかへと代わり、監視の目が緩んだ隙を狙って暴れ始めたというところだろう。水面はこの組織を潰すことに決めた。『レッド』からは恨まれるかもしれないが、こちらに被害が出ている以上黙って見過ごすわけにもいかない。改心の見込みもないらしいため、遠慮は不要だ。『ブルー』の傘下の組織がやられた分、きっちり落とし前をつけさせてやらねばならない。
碧や愛湖も押収品の運搬を終え、水面についてきていた。『レッド』に応援を呼ばれる可能性も考え、水波や青空といった腕に自信がある者達も引き連れてきている。相手が『レッド』側の組織ということは小癪な知恵を働かせるやり方を得意とするはずだが、そんなのは力で押し切ればいい。これだけの戦力が揃えば充分だ。『レッド』の傘下の組織の塒へ辿り着くと、水面達は垣根を作って出入口を取り囲んだ。周りに人影は見えない。人が中にいるのかわからない程、辺りは静けさに満ちていた。
「二階が事務所らしいね。そこにいるのかな」
愛湖はそう言って、建物の上階を見上げた。横の青空も頷き、「そうだと思います。今、人が動くのが見えました」と言って愛湖へ同意した。
「よし、じゃあ早速お邪魔しちゃおう! 会ったら漏れなくパンチをお見舞いしちゃおうね☆」
「はい! アコ様の拳の威力、ぜひ奴らにも見せつけてやってください!」
にこやかに拳を握った愛湖に、青空は興奮したように囃し立てた。青空は愛湖の怪力を崇敬している所があり、彼女の華麗な戦闘を間近で見られるのが嬉しくて仕方ないようだった。
「『レッド』の傘下なんだろ? 何か罠があるかもしれない」
一方で冷静な声を響かせたのは碧だった。碧の警戒するような視線を受けて、水面は「確かにな」と言って真面目な顔で頷いた。『レッド』のように頭を使うことを得意とする組織であるならば、『ブルー』の突撃を見越して罠の一つや二つ仕掛けていてもおかしくはない。水面は集まった『ブルー』の者達へ向けて、声を張り上げた。
「お前達は一旦待機してな。先陣はあたしとアオイとアコで切るよ」
何人来ても捌き切れる力のある愛湖と水面、そして洞察力に長けている碧がいれば、何か罠があっても対処できるだろう。後陣も水波や青空といった現在の主力メンバーがいれば安心だ。完璧な采配だと思ったのだが、視界の隅で水波の顔が曇ったのが見えた。彼女は何か言いたげな顔で、静かに水面の顔を見上げていた。
「……うん? どうした?」
「いえ、その……」
水面から声を掛けると、水波は声を小さくして言い淀んだ。そのまま返事を待っていると、水波は意を決したように声を張り上げた。
「……縹様が先陣に加わるのは、危険かと思います。勿論縹様の強さは知っていますが、万が一怪我をされては大変ですから」
水面はその言葉に不服そうな顔をした。怪我をする程弱いと思われているのは心外だ。水波も水面の内心を察しているようで、言いにくそうにしながらも言葉を続けた。
「ですので、縹様の代わりにアキラ様にお任せするのがいいと思います」
「アキラ……? いいけど、なんでアキラなんだ?」
彼女も武術が好きなだけあって、動きについては申し分ない。しかしわざわざ先陣に選ぶ理由もわからず、水面は怪訝そうに訊き返した。水波はますます顔を強張らせたが、暫しの沈黙の後、大きな声で問いに答えた。
「縹様は怪我をしたら、命に関わるかもしれません。ですが、アキラ様でしたら……『グリーン』が修理をしてくれるでしょう」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。水波は顔を強張らせ、その瞳に恐れを滲ませながらも毅然と胸を張って続けた。
「罠のあるかもしれないような危険な場所に、縹様が率先して向かう必要はありません。ご自分の身を大切になさってください」
「……AIなら怪我をしてもいい、ってことか?」
水面は思わず水波の顔を睨みつけた。獲物を前にした豹のように、相手を震え上がらせる鋭い目。その双眸に捉われても、水波は逃げ出すことなく臆さずに水面を見つめ返していた。
「縹様が怪我をするよりは、ずっといい」
「よくないだろ。AIも生身も長もメンバーも関係ない、『ブルー』の者は皆家族なんだ。誰だって怪我をするようなことはあっちゃだめだ。それならより強い奴が前へ出る、それが筋だろ」
「縹様の命は、AIと違って替えが利かないのです。貴方には、AIと違って未来があるんです。大事にするべきものの優先順位を、間違えないでください」
「AIだからって危険なことを率先してやらせろっていうのか? こいつらは機械だが、思考もして感情もある。あたしを慕って、共に『ブルー』で戦っていこうって誓ってくれた奴らでもあるんだ。そいつらの思いを全部無下にして生きてる奴らだけを優先するなんて、馬鹿げてるだろ」
『ブルー』に属する者は、誰であっても大切な仲間なのだ。水面と水波は、お互い正面から睨み合った。水波と意見が衝突するなど滅多にない……いや、初めてかもしれない。最近、なぜか急に意見が合わないことが増えた。『ブルー』らしく仲間想いで情に厚い、気の合う奴だと思っていたのに。
「……そういうところは、縹様の良いお人柄だと思います。でも、あっしは……」
水波は八重歯を唇の奥に仕舞い、一度唇を噛んだ。
「……死んだ人より、今を生きることを大切にして欲しいんです」
それは、AIへの侮蔑のように聞こえた。なぜ家族のことをそこまで蔑ろに出来るのだろう。いつから水波は、こんなに冷たくなってしまったのだろう。例え機械だとしても、故人のAI達の方はきっと、水波を『家族』と認識しているはずなのに。その気持ちを吐いて捨てるような言葉を、どうして平気で口に出来るのだろう。
場には沈黙が流れた。集まった『ブルー』の少女達は、恐る恐るといったように水面の顔を窺っていた。
「……縹様」
気まずい空気を破ったのは、露だった。
「俺がアコ様とアオイ様と共に突撃します。大丈夫、怪我をするようなヘマはしません。縹様には罠とか気にせず、思う存分暴れて頂きたいんで。駄目っすか」
「……」
水面は険しい顔で口を閉ざしていたが、やがて「わかった」と渋々と口にした。露は「ありがとうございます」と一礼した後、水波の頭をポンと優しく叩いた。水波は複雑そうな顔のまま、静かに俯いていた。
「……よし。アコ、アキラ、行くぞ」
碧は拳銃を手にして顔付きを変えると、愛湖と露へ向かって言葉を投げた。二人が頷きを返すと、ガラス製の扉を叩き割り、細い階段を駆け上っていった。暫くして、上から大きな物音が響いてきた。打撃音、破壊音、短い悲鳴。物音は引切り無しに続いた。やがて、「いてっ」という露の声が奥から小さく聞こえてきた。
「怪我するようなヘマはしないんじゃなかったのか」
水面は階段の続く先を見上げ、呆れた顔を浮かべた。露は武術を研究しているだけあって強いのだが、如何せん破壊のための力というより競技的な品のある魅せる動きをする。本人は意図していないようだが、もう少し崩すことを覚えないと隙を突かれて怪我をするとずっと思ってきた。AIとして復活したのだし、改めて稽古をつけるのもいいかもしれない。とりあえず合流したら彼女を庇って行動しようと、水面は心の中でこっそりと決めた。
「……」
横の水波は、だんまりとしたままだった。何やら曇った表情で、地面と睨めっこをしたままだ。水面は上から響く音が遠くなったことを確認し、待機している『ブルー』の少女達へ「行こう」と号令をかけた。青空を始め、各々頷きを返してくれる。水波は僅かに顔をあげ、水面を見上げた。水面は小さく息を漏らすと、水波へと「行くよ」と再度優しく声を掛けた。水波は眉尻を下げ、水面をじっと見つめ返した。そして、深く頷きを返した。「はい」と返す声は、いつもの元気を僅かに取り戻したような気がする。水面は口角をあげてみせ、背を向けた。先頭を務め、割れた扉を潜ると狭い階段を駆け上がっていく。後ろからぞろぞろと数多の二枚歯の音が続いた。
組織の殲滅は、あっという間だった。水面がいるのだから当たり前ではある。手榴弾を投げられたり爆弾を仕掛けられたりはしていたが、体術には疎い者達ばかりだったようで拍子抜けする程弱かった。あっさりと壊滅させた後、武器や金、商品を押収しながら、水面はチラリと水波を盗み見た。彼女は青空と一緒に取り上げた武器の点検をしていた。戦闘中、今日はやけに水波からの視線が気になった。敵が奇襲しようとした時、敵に突っ込む時、向こうのリーダーが出てきた時、手榴弾がこちらへとんできた時。決まって水波は、水面を気にしているようだった。……最近、なにか水面の強さを信じきれなくなるようなきっかけでもあったのだろうか。水面は自身の腕を掴み、筋肉を確かめて神妙な顔をした。
(なんか弱いとこ見せたか……? 体が鈍って来たとか……いや、自分の体のことくらいあたしが一番分かってるから違うな。あたしの戦い方に、何か不安な点が? 最近弛んできたか……?)
水面は頭の中でいろいろと考えてみたが、答えは出なかった。
(ミナミがなんだか様子がおかしいのも、そのせいかもしれない)
とりあえず自分に出来ることは、トレーニングに励み戦闘面での不安要素を潰すことだろう。水面が最強であると再び示せば、きっと水波もいつものように戻ってくれる。『家族』思いな、『ブルー』の一員らしい彼女に。
(今日からしばらく、メニューを二倍に増やすか)
水面はそんなことを考えながら、白い粉の入った袋を横に積んでいったのだった。
漆黒の空には、丸い月が浮かんでいた。いつもの倍のメニューをこなした水面は、シャワーを済ませて寝る準備をしようとしていた。流石にいつもより眠気を感じる。……今日はいろいろあった。
部屋の隅に突っ立っている小さな背中を見つけて、水面は思わず足を止めた。彼女もシャワーを浴びた後で、結われていた髪は今は彼女の背中に長く垂れている。パジャマ代わりに着せた水面の服はブカブカで、全くサイズが合っていないようだった。
「……何してるの?」
水面の声に、林檎は振り返った。その顔に、感情は浮かんでいない。
「寝ようとしてただけよ」
「……寝る? ここに?」
「ええ」
水面は林檎の立つ床を見下ろした。丁度そこには置いてあるものがなく、殺風景なスペースが広がっている。
「いやいや、床で寝るな。ベッドで一緒に寝よう」
林檎の手を握り、水面はベッドへと引っ張っていった。彼女の両肩に手を乗せ、無理やりベッドに座らせる。パフンと可愛らしい音とともに座らされた林檎は、浮いた裸足をぷらぷらと揺らした。
「……ねえ、水面」
「ん?」
俯いた林檎に呼び止められ、水面も隣へ腰かけた。ギシ、とベッドが軋む音が部屋に響く。
「水面が出かけている間、ずっと部屋で考えていたの。……わたしに今出来ること」
「お前に出来ること? お前が考えた策を『レッド』に教えれば、『レッド』は無敵なんじゃないか」
「違うわ。水面のために、出来ることよ」
林檎はその表情に、僅かに呆れを滲ませた。
「あたしのため?」
「そう。拾ってもらったこと、これでも感謝しているの。水面がわたしや『レッド』を憎んでいることも、良く分かっているから。見殺しにする選択も出来たのに、あなたはここに連れてきてくれた」
抗争の中で、『レッド』や『ラビット』は『ブルー』の家族を幾度も殺し、傷つけてきた。仲間を大切に想う水面にとってそれは許す事の出来ない行為で、林檎や姫月を恨んできたことは事実だ。その怒りから、彼女達を殺そうとしていたことも。
「……」
しかし水面の心の奥では、それ以上に二人を大切に想う気持ちが残っていた。仲間を殺された時の怒りは確かに本物だが、同時に二人を求めてしまう気持ちだって本物だった。それに気付いた今は、二人を殺そうという気持ちなどない。
「それにわたしは『レッド』側の人間よ。潜入した『ブルー』の情報を『レッド』に流す可能性は充分ある……むしろ高いわ。まさに『ラビット』で同じことをしようとしていたのだから。そんな危険を承知しながら、水面はここに置いてくれた」
林檎は苦しそうな顔で俯いた。ちなみに水面はその点については全く心配していない。『ブルー』の情報をいくら抜かれようが、正面突破すれば拳でいくらでも解決できるからだ。情報を扱うことに長けた林檎や『レッド』にアドバンテージを与えてしまうことにはなるだろうが、それくらいで『ブルー』の腕力をねじ伏せることなど出来ない。水面の部屋の中で入手できる情報など限られるし、『レッド』に流されても痛くもかゆくもない。……それになんとなく、林檎は『レッド』に情報を流さないだろうという確信があった。たまかもそうだが、『レッド』の人間は線引きをしっかりとして、そこに拘る傾向がある。林檎は『レッド』の長としてここにいる訳ではない。今はただ、水面と話したい旧友としてここにいる。ならば彼女は、『レッド』の任務まがいのことはやらないだろう。
「……ねえ、水面。わたしのこと、好きにしていいわよ」
「……へ」
「あなたの拾った機械なのだから」
林檎は水面をじっと見上げた。感情の浮かばない小さな顔。水面は口を半開きにしてそれを見下ろすしか出来なかった。
「画面の奥から話しかけることしか出来なかった時とは違って、今のわたしには体がある。水面が今まで抱えた苦しみを、吐き出すことが出来るの。形が分からなくなるまで殴り殺すことだって出来るし、創で皮膚が見えなくなる程ナイフで刺すことだって出来るわ……」
林檎は視線を逸らして俯いた。人形のような顔に、影が落ちる。
「殺されることが怖くて『ラビット』から逃げてきたけれど……水面の望みが叶うのなら、殺されてもいいわ。本当よ。水面の憎しみが、少しでも紛れるのなら」
大きな双眸は、再度水面を見上げた。真っ直ぐと、強い決意とともに。
「……何でもしていいわ。あなたの所有する機械だもの」
無理をしているな、と思った。彼女は強がりなのだ。
「……」
部屋に静寂が満ちた。林檎は本気で言っているようで、じっと水面を見上げたまま視線を逸らさなかった。水面と話したいと思いつつも、林檎なりに水面との接し方に悩んでいるのかもしれない。水面の『家族』を傷つけてきた過去は変えられない。水面が自分に憎しみや怒りを抱いていることもわかっている。それをぶつけることを水面が望んでいるのなら、叶えることが自分が水面のために出来る唯一のことだと思ったのかもしれない。
(逃げ出してきた程、死ぬことが怖いくせに。お前は昔から本当、強がりだよなあ……)
たまかの素直さを見習ってほしいものだ。強い意思を込めて見上げてくる林檎へ、水面は言葉を返さずに両手を伸ばした。そのまま細い体を掴み、ベッドへ押し倒した。囲うようにしてベッドに乗った水面によって、小さな体に影がかかる。乱れた白いシーツの中、艶やかな髪が広がって紅色を散らしていた。ブカブカの服から伸びた華奢な手足は、力無く投げ出されて抵抗する様子はない。あどけなさの残る人形のような顔は、相変わらず感情を滲ませていなかった。長い睫毛に彩られた大きな瞳は、じっと水面を見上げたままだ。顔が近くなったことで、桃色の唇が小さく息を吸う動きさえも鮮明に見えた。
水面はシーツから右手を離し、宙へとあげた。林檎は体が反応しないように制御していたようだが、恐怖を堪えるように反射的に視線が下へとそらされた。水面は無言のまま、林檎の顔へと向けて手を伸ばした。林檎はきゅ、と目を瞑った。部屋には吐息の音だけが微かに漏れている。
滑らかな頬に指をそっと這わせ、小さな顔を掌で優しく包み込んだ。そしてすぐに、むに、と白いもちもちのほっぺを摘まんだ。マシュマロ……いや、搗き立ての餅のようにふんわりもっちりしている。指を離すと蕩けるように元の形状に戻り、再び摘まむとその弾力性を取り戻して無限に伸びた。ぷにぷに、もちもち。柔らかい。何度もその感触を楽しんでいると、林檎が宇宙人でも見たような顔で見上げてきていることに気が付き、水面は思わず吹き出した。
「ふふっ、変な顔」
笑いながらも林檎の頬を摘み続けていると、流石に怒ったのか小さな手が水面の手首を掴み、引き剥がそうとしてきた。非力過ぎて全く動いていなかったが、水面は頬から手を離してあげた。それでも指に残る最高の感触と先程の林檎の顔のせいで、くすくすと笑いが止まらなかった。
「……。……殺さないの」
林檎は未だに笑い続ける水面を睨みながらも、おずおずと尋ねた。水面は笑うことをなんとか止め、「うん」と軽く答えた。
「お前を殺したりなんかしないよ。憎んでもいない」
「嘘」
「ほんと。殺さなきゃ殺される状況だったって、冷静になった今ならわかるから。それに林檎も姫月も『仲間』の一人だって、気付けたんだ」
たまかに話を聞いてもらったお陰で、自分の本当の気持ちに気が付くことが出来た。
(今は殺したくないどころかさ……喪うのが怖いもの)
じっと見上げる林檎を見下ろし、水面は彼女へと抱き着いた。小さな体を包み込むと、仄かな温かさが伝わって来た。シーツの皺が、より深くなる。
「何でもしてくれるなら、抱き枕になってよ」
「……」
「あたし専属。サイズ的にも丁度いいし」
「……馬鹿にしてる?」
水面の胸の中で、くぐもった声が聞こえてきた。彼女は昔から子供扱いされることを嫌う。水面はくすりと笑みを漏らし、「してない」と腕の中へ答えた。声を落とし、静かに語り掛ける。
「林檎にしたかったことを叶えてくれるって言うならさ……これから毎日一緒に寝てよ。傍にいてほしい。沢山話したい」
「……」
「……駄目?」
それはもう、現実には叶わないはずだった願いだから。しかし日に日にその望みは胸の中で膨らんで、死んでしまった彼女を求める想いは強くなった。そんな実現不可能だった願いが、今目の前に広がっている。画面越しでもなく、手が触れられる距離に、温かさを伴って。水面の腕の中で、小さな頭が動いた。紅色の前髪の奥から、大きな瞳がじっと水面を見上げていた。小さな手が、水面の服をきゅっと掴んで握り締めた。
「駄目な訳、ないでしょう……。……わたしもずっと、望んでいたことなんだから」
(……どうしよう)
か細い声と切なげに揺れる瞳は、彼女の精一杯を示しているようだった。水面は目の前の少女への愛しさが溢れ、より強く華奢な体を抱いた。温かさが増して、彼女の存在を感じられた。
(どうしよう)
——幸せだ。
ずっとずっと望んでいた叶わないはずの未来に、漸く手が届いた気がした。彼女も水面を求めてくれて、彼女の温もりを腕の中に感じられて。彼女が本人ではないことが、どうでも良くなってしまうくらい——どうしようもなく幸せだと、そう思った。
林檎を抱いていると、他に何もいらないと思える程温かく、胸を満たす。水面は腕の中の小さな頭へと手を伸ばし、さらさらと零れる前髪を掻き分けた。露わになった滑らかな白い額へ、優しく口づけを落とした。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
昔のように言葉が返ってくるだけで、溢れんばかりに嬉しさが込み上げる。あの頃に戻ったような愛し気な視線を向けてから、水面は瞳を閉じた。大事な物を抱いているだけで、かつてないほどの心地よさに包まれ、すぐに眠りに落ちた。伝わる温かな温もりが心を満たし、自然とその寝顔は満ち足りたような笑みを浮かべていたのだった。
水面はその日、夢を見た。夜のように薄暗く、外のようだったがひどく殺風景な場所だった。目の前には、『レッド』の制服に身を包む林檎が立っていた。彼女の顔は、珍しい程怒りが滲んでいた。眉を吊り上げ、彼女は声を荒げて叫んだ。
「機械相手に謝って一人で満足しないで」
「現実を見て」
「過去に囚われてばかりでは駄目、あなたは未来を見なくちゃ」
見たことのない程、彼女は必死になって水面へと叫んでいた。自分が知る林檎ではないな、と水面は心の中で思った。なんだか林檎の姿をしただけの他人のようにも思えた。彼女はいつも冷静沈着で落ち着いていて、彼女が必死になった姿を見た記憶など、一、二回しか——。
「あなたはわたしのことなんか忘れて、前を向いて生きていかなきゃ!」
ああ、そうか。恐らく目の前の林檎は機械なのだと、水面は思い当たって腑に落ちた。きっとこれがAIなのだ。林檎そっくりに作れたとしても、やはり完璧な再現は難しいんだなと思うと、少しおかしかった。
「水面の枷になんて、なりたくない。——あれはただの機械なの、わたしじゃない!」
耳にこびりつくような林檎の悲痛な叫びと共に、水面の意識は急浮上した。勢い良く開けた視界に広がるのは、乱れたシーツ、そして小さな紅色の頭。……林檎を拾ったことは、夢ではなかったようだ。彼女はまだ寝ているようで、水面の胸の中で丸くなっていた。そんな幸せな光景が広がっているにも拘らず、胸が苦しく、嫌に動悸が激しいのはなぜだろう。水面は違和感を振り払うように、窓の方へと顔を向けた。窓の向こうから、眩しいくらいの朝日が差し込んでいた。頭の中で時刻を予想しながら、五月蠅い鼓動を落ち着かせる。
「おはよう」
胸の中からソプラノの舌足らずな声がして、水面は驚いて顔を戻した。寝ていると思われた小さな少女は、ぱっちりと目を開けて水面を見上げていた。
「おはよう……、起こした?」
「ううん。わたし、『レッド』の長になってから、一度も熟睡したことないから」
林檎は丸めた手で目を擦ると、水面の腕から離れて起き上がった。くあ、と小さな欠伸を漏らす様は、まるで猫のようだった。
「水面は随分と朝が早いのね」
林檎は朝日の差し込む窓へと顔を向けてそう言った。
「朝は走り込みとトレーニングがあるからな」
「朝から元気ね……」
なんだか虚ろな彼女を見て、林檎は朝が弱かったことを思い出した。彼女は低血圧で、貧血気味の体質だ。水面も上体を起こすと、彼女へ覗き込むように顔を近づけた。
「どうせ隠れてるんだし、まだ寝てたらどうだ?」
「いえ、一緒に起きるわ」
林檎は気丈にそう言うと、水面を残して一足早くベッドから降りた。ペタペタと足音を言わせ、洗面台の方へと向かっていく。その小さな背中を見送り、水面は微笑みを漏らした。
(起きて林檎がいるの、不思議な感じだけど……なんか、いいな)
彼女は一人暮らしが長く、幼い頃から一人での生活が当たり前だった。そのため自分が傍にいてやれたらと、水面はずっと思っていた。こうしてお互いに誰よりも知り尽くしている相手が隣にいるのは、なんとも言葉にできない心地良さがある。
しかし突然、林檎が苦しそうに叫ぶ顔が頭を過ぎって、胸がきゅうと締め付けられた。じわじわと広がる、謎の罪悪感。混乱したまま、水面は呼吸を整えた。
(なんだ、今の。……何か悪い夢でも見てたのかな)
あまり良く覚えていないが、夢のワンシーンのフラッシュバックだったのかもしれない。水面は深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。嫌な夢のことなんて、早く忘れよう。現実では、こうして目の前に幸せが広がっているのだから。
「水面、全然お米炊いてないじゃない。朝どうするのよ」
キッチンの奥から小言が飛んできて、水面はくすくすと笑った。そして、奥へと声を張り上げて返事をする。
「じゃあ、一緒にバナナを食べよう」
「バナナ……? ああ、カリウムとビタミンB6……?」
「そうそう。詳しいことはよくわかんないけど、トレーニングにはバナナだ」
キッチンから顔だけ覗かせた林檎は、その顔に呆れを浮かべた。しかしすぐに、眉尻が下がり、優しく口角があがる。気を許したような彼女の微笑み。水面の好きな表情だ。水面も釣られて、ふにゃりと微笑んだのだった。
***
■Side W
「失礼します。たまかさん、二番道路で『ラビット』と抗争が勃発したとのことです。向かわれますか?」
中規模組織との会談が終わり『レッド』の本拠地へと帰ってきたたまかは、執務室に向かう途中で焦った様子の灯から呼び止められ、報告を受けた。帰って来たばかりだと言うのに、椅子に座る暇さえない。
「怪我人はいらっしゃいますか?」
「『レッド』側が一人、ノコギリで切られたとのことです。『ラビット』側はいません」
たまかは斜め後ろを歩いていた桜を振り向くと、持っていた書類を押し付けた。
「すみません、議事録の保管はお任せします」
「承知いたしました」
桜も慣れたもので、特に驚いた様子もなく長へと頷いた。書類が桜の手へ渡る。たまかは医療器具の詰まったサイドポーチを一撫でし、顔を強張らせた。
「現場に向かいましょう。『ラビット』側はノコギリの他に武器は所持していますか」
たまかが廊下を駆け出すと、灯もそれに続いた。
「『ラビット』側は二名で、双方ノコギリを所持しているとのことです。『レッド』側につきましても同様に二名、こちらは銃を所持しておりますが……」
「発砲しないでくださったんですね」
「はい。通信はすぐに切断されてしまったため、二人とも『ラビット』側に拉致された可能性もありま……」
二人が廊下をはしたなく走っていると、前から『レッド』の制服に身を包む少女が歩いてくるのが見えた。その顔を見て、灯は言葉を止めた。向かいの少女は、たまか達を見て驚いたような顔をしていた。色素の薄い黒髪、後ろで編まれたハーフアップヘアー。梅だ。体を得た故人のAIは、生きている人間と何ら見た目が変わらない。彼女は迫り来る二人を見て、骨のような細い脚を止めた。
「たまかさん、灯? どこかで抗争でもあった?」
彼女はきょとんとしながらも、流石の社交性を発揮して声を掛けてきた。たまかは速度を僅かに緩め、頷いてみせた。
「可能でしたら、梅さんにも来ていただいてもいいですか」
「もちろんだよ!」
梅は快活な笑みを浮かべ、二つ返事で灯の横についた。灯の表情が、微かに緩んだ。梅は灯についていた先輩だったという話から、彼女が一緒だと安心出来るのだろう。灯の様子から、梅に対する信頼が垣間見えた。
たまかは走りながら通信機を起動し、林檎へと繋いだ。『レッド』の現長はたまかだが、たまかは抗争や戦術には不慣れである。そのため司令官の役目は林檎のAIが担うことになった。たまかは治療に行くため走り回っていることも多く、そのような面からも策を練って指示を出すのは林檎に任せた方が何かと都合が良かった。最初は故人のAIに甘えているようで情けなく感じたが、林檎の泉のように湧き出る策の数々を目の当たりにして、これは彼女に任せる以外の選択肢はないと身を以って悟った。体を得て実際に目の前に佇んでいると彼女の威圧感は凄まじく、それだけで『レッド』のメンバーの顔付きが変わり、緊張感が走った。たまかが指示を出すよりも、彼女が命を告げた方がメンバーも気が引き締まるだろう。『レッド』全体の成果を考えるのなら、林檎のAIを核として据えるべきだ。たまかはそう判断し、林檎のAIに司令官の座についてもらった。もちろん重要な情報は与えてはいないが、画面越しに話していた時よりは深い情報を扱ってもらっている。たまかは林檎の力を見せつけられる度、頼もしく感じると同時にどう足掻いても彼女のようにはなれないことも痛感した。しかしこれがたまかが長になる前の『レッド』の日常だったのだろう。『レッド』の過去の光景が、たまかにも見えたような気がした。
「林檎さん、二番道路で『ラビット』との抗争が発生したため現場に向かっています。他に応援に来られそうな方はいらっしゃいますか」
『ふむ……現在西の方でも『ラビット』との抗争が発生しておりまして、さらに東では『ブルー』が暴れているため監視に人を向かわせております。……そうですね、エントランスに茜達がおりますので、共に行くとよいでしょう。茜には話をつけておきます』
通信が切れた。たまかは走りながら、眉間に皺を寄せた。
(最近、『ラビット』が暴れ放題していますね……)
AIという新しいおもちゃを手に入れたはずの『ラビット』は、飽きてしまったのか近頃急激に抗争を仕掛けてくることが増えていた。『レッド』との衝突はもちろん、『ブルー』との衝突もかなり増えているようだ。せっかく抗争が減ってきて、怪我人も少なくなってきたと希望が見えていたというのに。足を動かしながらそんなことを考えていると、林檎の言っていた通りエントランスに立つ茜の姿が見えてきた。茜と共に『レッド』のメンバーが一人、そしてAIが一人、彼女の後ろに立っているのも見えた。彼女達は走り寄るたまか達に気が付くと、駆け寄ってきた。彼女達も合流し、六人で抗争現場へと急ぐ。
(『ラビット』二人、しかもノコギリを所持ですか……。どうやって沈静化しましょう)
普段なら林檎の策に頼るが、抗争が多く林檎も忙しそうだ。たまかは走りながら、必死に頭を回転させて知恵を絞った。
(可能な限り傷をつけたくないですが、既にこちらに怪我人が出ていますもんね……。迂闊に突入すれば、逆に『レッド』側の怪我人が増える事態になってしまいます)
頭で策を練っている間に、抗争が勃発したと報告を受けた現場へと辿り着いた。建物の陰から慎重に覗いてみたが、人の姿はないようだ。銃を構えたメンバーを先頭にして姿を現してみたが、辺りにはやはり誰もいなかった。無人の道は壁も建物も荒れ果てているが、今回の抗争によるものではないらしい。中央には真っ赤な血だまりが残っていて、小さな点が向かいの建物まで続いていた。二階建てのアパートのようで、亀裂は入っているものの空き家にしては比較的綺麗に形状を保っている。どうやらこの中にいるらしい……あるいは罠か。たまかはアパートを見上げていた顔を、メンバーへと戻した。
「……罠だと思いますか?」
「カーテンが開いてるね。他の建物から中を覗いて判断出来ると思う……いや、待った」
茜は見上げながら、目を凝らした。
「今動いた。恐らく罠じゃあない」
もともと『ラビット』は罠を仕掛けるような回りくどいことをする組織ではない。人がいるのだとすれば、『ラビット』の少女と捕らわれた『レッド』の少女達は素直にこの中にいると見ていいだろう。
「ノコギリを所持しているという話でしたから、捕らえられた方々も一緒にいるとなると危害を加えられている可能性が高いです。突入を急ぎたいですね……」
「……狙撃はどう? カーテンが開いてるなら、いけると思う」
梅が後方からたまかへと尋ねる。たまかは彼女を振り返り、首を横へと振ってみせた。
「『ラビット』の方も殺さずに、事を運びたいと思っています」
梅達から返事はなかった。たまかの言葉に対し、茜が横から口を挟む。
「だけど相手はノコギリを持っていて、救出対象は捕まっている状態だ。向こうが攻撃するにはリーチに入る必要があるのを逆手にとって、突撃と同時に即発砲するのが安牌だと思う」
「……」
『レッド』の捕虜が共にいる以上、爆弾や放火、ガスの類は使えない。『レッド』お得意の罠や小細工を準備している時間もない。『レッド』の少女達の身を案じるなら、突入か狙撃の二択が妥当となる。
「そうね。この状況では、『ラビット』に傷をつけないのは難しいと思うわ」
たまかの横で、灯も茜へと同意する声をあげた。たまかは割り切れないように俯いた。今も『レッド』の少女達が甚振られているのだとしたら、一刻も早く救出しなければ命に関わる。そのためには、『ラビット』を傷つけない方法を模索している時間はない。『レッド』の怪我人の確保、つまり今すぐにでも突入することが最優先となる。彼女達の言う事は正しいが、たまかも簡単に諦めることは出来ない。
(……速やかな突入を実現しつつ、『ラビット』をなるべく傷つけないようにする方法があれば……)
茜の言う通り相手の所持している武器がわかっている今、こちらの方が距離を詰める必要がないことは大きなアドバンテージだ。ノコギリならば、切りつけるために相手にかなり近づかなくてはならない。対してこちらは銃を所持しているため、向こうのリーサル圏内に入らずとも先制が取れる。それを活かす方法があれば、あるいは。
「……」
たまかは顔をあげた。たまかの視線の先は、二人のAIだった。
「突入の先陣はお二人にお任せしても良いですか。そして……発砲の前に、出来れば『ラビット』の方からノコギリを奪ってください。突入後、こちらの方が自由に動ける猶予があるはずです」
真意を問うような視線がたまかへと集まる。その中で梅はたまかの意図を察したようで、僅かに目を細めた。
「いいよ。……あたし達なら、もし『ラビット』に切りつけられても修理出来るからね」
「……」
「うん、あたし達を有効活用できるいい案だと思うな……どう?」
梅はもう一人のAIの少女へと軽い調子で尋ねた。AIに選ばれた者は皆、生前優秀だったと聞いている。彼女も梅へ、何も言わずに頷いてみせた。
「えっと、つまり……どういうことでしょう?」
察しているはずの灯が、大きな困惑とともに全員の顔を見渡した。その視線は、最後にたまかへと向けられた。僅かに責めるような鋭さが内包されている気がした。
「……AIのお二人に突入をお任せし、『ラビット』の方々のノコギリを奪取して頂きます。こちらの方が距離を詰める必要がない分、奪うことを試みる時間や適切な判断をする余裕があるはずです。勿論難しそうであれば、その時点ですぐに発砲してください。それでもなるべくノコギリを持つ手や、近づけないようにするために足を狙うことをお願いしたいですが……」
「……『ブルー』のように肉弾戦に持ち込むということですか? 危険です。ノコギリを奪おうとした時に、こちらが切られる可能性が高いです」
「だからこそ、AIの二人を突入部隊にしたんでしょ。二人なら機械だからね、怪我をしても『グリーン』に修理してもらえる」
横からの茜の捕捉に、灯は一度口を噤んだ。そんな灯へ、たまかは真剣な表情を向ける。
「勿論、AIのお二人も怪我をしないことが最善です。それでも『ラビット』のノコギリを奪うためには、現状では誰かが近づくことが必須でしょう。……その場合、適任は……」
「それなら『ラビット』を、……」
灯はその先を濁し、口を閉じた。『『ラビット』を殺せばいい』。そう言いかけて、抑えたのだろう。
「いや、むしろAIの利点を活かしていていい案だと思うよ。その作戦でいこう。ただあんまり期待しないでね、運動神経はいい方じゃないから」
梅は気さくにそう言って笑いかけた。彼女は灯の肩へと宥めるようにぽんと手を乗せ、話を続けた。
「とりあえずライトか砂で目潰しして接近、奪うのが無理そうなら利き手を撃つ方針に切り替えるね。殺さないから安心して、あたしこれでも銃の扱いは得意なの」
梅はたまかへと胸を張った。頼もしい言葉に、たまかは僅かな申し訳なさを滲ませて頷きを返した。
「そ……それなら」
話がまとまりかけたように見えたところに、灯のくぐもった声が乱入する。
「うちが突入部隊になるわ」
「え」
「梅ちゃんより動ける自信、あるもの」
「ひどっ!?」
梅は大袈裟に仰け反った。灯らしくない言葉に驚いたのは、付き合いの深かった梅も一緒だったらしい。梅はめそめそと嘆いた。
「酷いよお、灯に動きを教えたの、あたしなのにぃ……」
「でも訓練では梅ちゃんよりスコアは良かったもの。きっと武器の奪取ならうちの方が成功率が高いと思う。……だから、梅ちゃんじゃなくてうちが突入するべきだわ」
「た、確かに成功率は高いかもしれないけど、灯じゃ奪取前と奪取後の対処が難しいでしょ? 目潰しだけじゃ、ほぼほぼ動きを封じきれないもん。だから総合的に見れば、あたしの方が適任だよ」
「動きを封じきれないのは梅ちゃんだって同じ——」
「……灯」
なおも言いかけた灯を、茜が咎めるように名を呼んで遮った。
「……」
「灯は怪我の治療に数日から数週間かかるのに対して、梅は一日や二日で修理出来る。同じ危険性を孕むなら、リスクが軽い方を取るべきでしょ」
茜の諭すような言葉に、灯は一瞬、寂しそうな顔をした。
「……灯さん」
その表情を見て、たまかは静かに灯の名を呼んだ。
「勿論、全員が無傷で終わることが一番いいです。ですが『ラビット』に傷つける意思があるのだとしたら、誰かが武器を取り上げる必要があります。……灯さんが立ち向かって怪我をしては大変ですし、それこそ取り返しのつかない大怪我に発展する可能性もあります。対して、AIの方々は死者をそっくりに模倣してはいますが、機械です。短期間で修理も可能な、作られた存在なのです。ですから灯さん達『レッド』のメンバーを怪我から守ってもらうのも、彼女達の立派な役目の一つです。AIの方々に怪我をして欲しくない気持ちも痛い程よくわかりますが、それで灯さんが怪我をしてしまっては本末転倒です」
たまかは眉尻を下げた。
「……心情的にお辛いのはわかります……それでも、ここは梅さん達を頼らせてもらえませんか。灯さんが怪我をしてしまう事態こそ、何よりも避けなければいけません」
「……」
灯は悲しそうに俯いた。しかし時間がない状況であることは、彼女も充分に理解している。灯はすぐに顔をあげ、笑みを作った。
「わかったわ、時間を無駄にしてごめんなさい。……後方支援に努めるわ。合図があり次第、突入して捕虜の救出を行うわね」
灯はそう言うと、すぐに準備に取り掛かった。茜も捕縛用の縄を取り出し、手に巻き付ける。『レッド』のメンバー達は各々自身の役割の準備を済ませ、すぐさま突入の用意を整えた。
「じゃあ、行くよ。三、二、一……」
梅は小声でカウントダウンをした後、もう一人のAIの少女とともに静かに建物へ突入していった。少女達の手には、拳銃がしっかりと握られている。そして先頭を務める梅の手には、スマートフォンも握られていた。ライト機能を使い、相手の視界を奪うのだろう。
「……駄目ね。機械だって、わかっているのだけれど」
合図を待機しているたまかの横で、灯がぼそりと零した。メリットデメリットを頭で合理的に考えられてはいるのだろうが、それに感情がついていかないのだろう。機械とはいえ大切な先輩そっくりなのだから、当然だ。
(梅さんが怪我をするところを、どうしても見たくなかったのですね)
視覚的な情報では、大切な相手が怪我をしてしまうのと何ら変わらない。そんな光景が広がるかもしれない恐怖に、彼女は抗えなかったのかもしれない。相手を大切に想う程、耐えられる訳がないのだ。
「……」
たまかは言い様のないもやもやを胸に感じていた。死者を完璧に模倣した存在が隣にいるようになれば、死者と関わりのあった人間の強い感情を呼び起こすのは目に見えていたことだ。もしAIが怪我をしたり、破壊されたり、はたまた酷い言葉を投げたりした場合、周りは本人ではないとわかっていても大きなショックを受けることになるだろう。相手が大事な人であればある程、頭で理解していても感情は強くなるはずだ。なぜAIは、死者をそっくりに模して造られたのだろう。遺された者達の想いを弄ばれているような、言い様のない不快感が胸に渦巻く。たまかは顔を曇らせたが、突入隊からの合図が入ったことによりすぐに気持ちを切り替えた。たまか達は捕虜の治療をするべく、建物の中へと駆け出していったのだった。
『ラビット』に捕まっていた『レッド』の少女は、どちらも酷い怪我を負っていた。捕まった後も痛めつけられていたらしい。救出後、たまかは応急処置を行ってすぐに彼女達を『不可侵の医師団』へと運んでいった。そして突入時に怪我を負わせてしまった『ラビット』の少女達もまた、たまかが半ば強制的に『不可侵の医師団』へと連れて行った。結局、ノコギリの奪取は失敗したらしく梅は『ラビット』の少女達の手を撃った。しかし流石は優秀と言われる腕の持ち主だけあって、大事な血管を傷つけない絶妙な位置を狙っていた。怪我も浅い部類だったが、『レッド』が傷つけてしまった手前、たまかは頑として『ラビット』の少女達の治療を申し出た。『ラビット』の少女達は『レッド』の長の顔を知らなかったらしく、『不可侵の医師団』の制服を着る少女の言う事に素直に(と言うには一悶着あったが)従った。縄でぐるぐる巻きにされた状態で『不可侵の医師団』の治療を受ける彼女達の姿に、周りはチラチラと視線を向けていた。しかしたまかは気にすることなく、最後まで責任を持って治療を行った。そして突入部隊だったAIの二人は、最終的に軽い切り傷だけで任務を終えた。梅の的確な判断と射撃技術がなければ、もっと多くの怪我人が出ていただろう。結果的に、AIに突入部隊を任せたのは正解だった。この程度の怪我ならばわざわざ『グリーン』へ修理を頼む必要もない。人工皮膚は人肌と変わらないため、人に対するのと同じようにしてたまかが二人の治療を行った。こうして今回の件で出た怪我人の対処を終えたたまかは、とっくに他の任務に赴いたメンバー達に遅れ、一人『不可侵の医師団』の建物を後にしたのだった。
『レッド』のアジトまでの道程は、一人で歩くには少し長く感じる距離だった。それとなく視線を這わせ、辺りを警戒しながら進んで行く。護衛もつけずに一人で外を歩くのは、正直自殺行為だという自覚があった。たまかに腕力はなく、また抗争にも不慣れだ。護身用の武器は持たされているものの、道中で他の組織にでも出くわせばひとたまりもないことは目に見えている。そして何より、一人で出歩いていたと知られた時の桜の反応が怖い。重い瞼の下の瞳が、じっとりと責めるように射貫いてくる様が目に浮かぶようだった。ひどく怒られるだろうし、それ以上に彼女を心配させてしまうだろう。方角さえわからない程遠くで小さく銃声が響き、たまかは体を強張らせた。普段は治療のことしか頭になく気にせず駆けまわっているのに、好戦的な『ラビット』の者達を相手にした後だからかなんだか不安に駆られていた。知らず速度を速め、たまかはアジトへ向けて進んでいった。
静かな人けのない道。一人になって頭に浮かぶのは、やはり先程の突入時のやり取りだった。灯の顔、AI達の顔、茜や『レッド』のメンバーの顔。たまかの策を聞いた時の、彼女達の表情が蘇る。壊れた時のリスクが小さいAIを突入させるという判断は、『レッド』らしい合理性に沿ったものだったように思う。それが間違っていたとは思っていない。実際異を唱えたのは、灯一人だけだった。
(それでも……)
たまかはその顔に影を落とした。灯の悲痛な表情。自分は倫理的に良くない決定をしたのではないか。灯やAI達の気持ちを蔑ろにしてしまったのではないか。自分は気付かない内に、血も涙もない命を下す冷酷な人間になってしまったのではないか。立っている足場が揺らぐような、底なしの懸念と恐怖が湧き起こる。大切な人を矢面に立たされた灯の気持ちを、自分はきちんと受け止めていただろうかと省察しかけ……たまかは慌てて首を横へと振った。
(AI達は機械なのです。姿に騙されてはいけません。……あれは灯さんが大切に想っていた梅さんではないのです)
機械を生前の彼女達と同一視したら、それこそ死者達への冒涜だろう。生前に関わりのあった灯達が瓜二つの機械に面影を重ねてしまうのは、仕方のないことだ。しかしそれにたまかまで引っ張られてしまうのは、非常に良くない。たまかまで死者が蘇ったような扱いをしてしまえば……それは現実を塗り替えてしまう。人の認識は存在の在り方を決定付ける。あくまでも彼女達は機械、それを忘れてはならない。たまかは改めて、自分の胸へと強く言い聞かせた。そうしないと、一度喪われた尊い命、そして彼女達の尊厳や意思に価値がなくなってしまう。複製を許し、本人達の命が軽いものとなってしまう。それだけは……決して、あってはならない。人の命を救うために常に奔走し、人の生き死にや遺された人の悲しみを数え切れない程間近で見てきたたまかは、それらが何かに代えられるものではないと誰よりも知っている。
「あーっ! たまかちゃんだ~っ!」
静寂を破る突然の大声が降ってきて、たまかはびくりと肩を震わせた。聞き覚えのある声だった。舌足らずな声は、突き抜けに明るく心の無垢さが表れている。たまかは足を止め、ゆっくりと顔をあげた。
「……鳩さん」
道の向かいには、ぶんぶんと手を振る黒白のフリルの塊が立っていた。その小さな体は、すぐにたまかのもとへと駆け寄ってきた。キャンディのように二つ結びにされた短い金髪、長く靡く黒いレースのリボン、幼さの残る小さな顔。浮かぶ満面の笑みは、たまかとの邂逅を心から喜んでいるようだった。体を得た彼女は、たまかを命懸けで守った時そのままの姿をしていた。……まるで、生き返ったかのように。たまかは密かに息を呑んでしまった。
「こんなところでどうしたの? たまかちゃん、一人? ポポも一人なの! 一緒に遊ぼーよ!」
たまかの前までやってくると、鳩はそわそわと膨らんだスカートを揺らした。
「えへへ、たまかちゃんと会えるなんてラッキーだな。たまかちゃんとやりたいことも話したいことも、た~っくさんあるから!」
ポポはそう言って、両手を大きく広げた。袖を作る幾重にも重なるフリルが、ふわりと舞った。
(……話したいこと)
たまかの表情の変化に気付いたようで、ポポはたまかへと身を乗り出した。
「ポポ、たまかちゃんが殺されそうになった時に、一緒にいたでしょ?」
その言葉に、心臓がドクンと脈打った。忘れられない光景が、たまかの脳裏にフラッシュバックする。血をまき散らす、鳩の小さな背中。突然たまかを庇い、一瞬で散ってしまった命。
「あの時のこととか? キツキちゃんがね、たまかちゃんが気にしてたって言ってたから!」
にっこりとした目の前の笑みは、その言葉を深く理解していないように見えた。言葉通り、単純に知りたがっていたというニュアンスで受け取ったのだろう。
「それにねー、ポポはず~っとたまかちゃんと遊びたいと思ってたから、やっと叶えられることが出来て嬉しいの! 蘇生の力を使わなくてもいーよ? ポポ、たまかちゃんと遊べるならどんなことでも楽しいもん!」
にこにことした笑みで抱き着かんばかりに近づく彼女。一点も曇りのない輝く瞳を見れば、心からの言葉なのだということは明らかだった。胸へ倒れ込んでくる彼女を慌てて受け止めると、鳩はすっぽりとその中へ収まった。そして彼女は、たまかの両手をきゅっと握った。
「ぽ、鳩さん」
「あのねー、この前秘密基地を作ったの! 案内してあげる! そこで話そーよ……、あっ、美味しいものも持っていこう? たまかちゃんは何が好き? ポポはチーズケーキ!」
楽しそうに笑顔を零すと、鳩はたまかの両手を引っ張って歩き始めた。『秘密基地』に向かおうとしているらしい。たまかの返事を待たず、彼女は厚底を鳴らしてずんずんと進んでいく。るんるんとご機嫌に揺れる背中は、たまかと遊ぶのを本当に楽しみにしていたのだと伝わるには充分だった。
「ケーキが美味しいカフェを知ってるの! たまかちゃんも気に入ること間違いなしだよ。そこからぜーんぶ強奪しよう~」
跳ねた高い声はウキウキに満ち溢れていた。たまかはぴょこぴょこと上下に動く二つ結びを見下ろし、眉尻を下げた。
「鳩さん」
先程より強く名前を呼ぶ。鳩は厚底の靴を止め、たまかを振り返った。もっさりと揺れるパニエ、靡く黒色のレースリボン。そして、にこにこと純真無垢な笑顔が現れる。
「なあに、たまかちゃん。好きなケーキ、思いついた?」
「……私には、出来ません。貴方を鳩さんとしてお話することも、遊ぶことも」
たまかは暗い声色ながら、はっきりとそう告げた。拒絶の言葉に、鳩はきょとんとしてたまかを見上げた。
「どおして? 口も手足もあるのに?」
心底不思議そうな顔で、彼女は首を傾げた。その視線はたまかの桃色の唇、そして純白の制服から伸びた細い手足へと移っていく。
「……」
たまかは答えを待つ鳩を見下ろし、躊躇うように口を閉じた。生きているようにしか見えない自然な動き。短い時間ながらも共にいた時と同じ距離感、同じ言葉選びを感じる発言の数々。目の前に鳩が蘇ったかのように脳が錯覚してしまい、その先を口にすることに躊躇を感じてしまう。……しかし、言わなければならない。それがたまかを庇って死んだ鳩に対する、礼儀だから。
「貴方が、鳩さんではないからです」
たまかは強張った顔で、静かな通りに声を響かせた。鳩はその言葉の意味が分からないように、緩慢に瞬いていた。
「……ポポはポポだよ?」
「貴方は機械で、鳩さんではありません。貴方の言葉や思考は、作られたものなのです」
じっと見上げてくる視線は無垢なものだった。たまかは彼女へ、静かに説いた。
「機械として、そして新しい友達としてなら一緒に遊んでも構いません。ですがあたかも鳩さんとして彼女の死を語ったり、彼女の念願を叶えるために一緒に遊んだりしたいのならば……私は一緒にはいられません」
目の前の少女は、鳩ではないから。鳩は口元に人差し指を添え、「うーん」と唸った。
「でもたまかちゃん、ポポがたまかちゃんを庇って死んだ理由を知りたかったんだよね?」
「……っ」
「あの時なんであんな行動をしたのか、ポポがあの時、どんな気持ちだったのか」
たまかの心臓が、ドクドクと鼓動を奏でていた。
「ずっと知りたかったんだよね? ポポなら教えてあげられるよ?」
心まで見透かすように、その人工的な瞳はじっとたまかを捉えていた。
たまかを殺そうとしていたはずの鳩は、たまかが殺されそうになった瞬間、咄嗟に庇って銃弾に撃たれた。鳩はたまかの代わりに死んだのだ。あの行動がどのような意図から出たものだったのか、たまかには知る由もない。短い交流にも拘らずたまかに友情を感じていたのかもしれないし、たまかを『おもちゃ』と見ていて他に奪われることが許せなかったのかもしれないし、ただ間違って射線上に出てしまっただけかもしれない。だから死の間際、鳩がたまかに対してどのような感情を抱いていたのかは全て闇の中だ。たまかが死なずに安堵したかもしれないし、逆にたまかのせいで死ぬ羽目になったことを恨んでいたかもしれない。鳩の気持ちが全くわからない分、気付けば彼女の心理を惟てしまうようになった。答えは鳩が死んでしまった今永遠に見つかるはずもなく、解のない暗い問いは無限回廊のようだった。償いをしたいと思っても、彼女が何を望んでいるのかたまかには汲み取れない。そのため自分に出来ることは一人でも多くの命を救うことだと信じ、鳩のような犠牲者をこれ以上出さないために全力で取り組んできた。しかし、もしそれが間違っているのだとしたら。それを今、知る事が出来るのだとしたら。
「……」
彼女が意に反して死んでしまったのなら、それは自分が殺したようなものだと思ってきた。その曖昧な前提がもし真実だと確定すれば、彼女の正直な感情を受け止め、この場で謝罪することも出来る。逆にそれが事実と反すると断言されたら、たまかは鳩の気持ちに感謝し、気持ちを新たにして生きていけるだろう。どちらにしても本来ならば絶対に叶わなかったことであり、そしてずっと求めていた答えを得られる二度とないチャンスでもある。たまかは掌を握り締めた。鳩の気持ちを知りたいという思いは勿論ある。今までの出口のない苦しみから解き放たれ、答えを知って彼女へ償うことが出来るのだから。しかしたまかは鳩の手を優しく包み、腕からそっと離した。
「……それでも、その言葉は鳩さんの言葉ではありません。鳩さんは、亡くなったのですから」
どんなに完璧に模倣したAIだって、彼女の気持ちは代弁出来ない。機械は鳩本人ではない。鳩はたった一つの尊い命を散らし、ここにはいないのだから。
「ですから、貴方から鳩さんの気持ちを聞くことは出来ません」
たまかは寂し気な笑みを鳩へと向けた。ここで彼女の気持ちを聞いたとしても、それは遺された者の勝手なエゴだ。偽物の言葉で満たされようなど、死者に対して失礼だろう。
「……」
鳩は何の感情も浮かべず、じっとたまかを見上げていた。フリルに包まれた手は、たまかの手が離れたあともしばらく宙に浮かんだままだった。やがてその手は力無く下ろされ、フリルとレースにより膨らんだスカートの裾をぎゅっと握り締めた。
「……もしポポがたまかちゃんを憎んでいたとしたら、どうする」
彼女はその声を小さくし、唇を尖らせた。
「死にたくなかったのにたまかちゃんのせいで死んでたとしたら、たまかちゃんはどうする」
「……」
「ごめん、いじわる言った。……一緒に遊びたかったな」
鳩は視線を逸らし、拗ねたようにそう零した。膨らんだ頬は、彼女の心情を表しているようだった。
(今のが……本音なのでしょうか)
彼女の言葉は偽物だとわかっていても、ちくりと胸が痛んだ。鳩の姿でそう言われるとやはり堪える。鳩もそれが分かっていて『いじわる』を言ったのだろう。
「ねえ、たまかちゃん。たまかちゃんはポポのことポポじゃないって言うけどさ……」
鳩は不満気だった表情を仕舞い、真面目な顔になってそう零した。
「同じ姿で、同じ声で、同じ思考で、同じ言葉で、同じ仕草をするポポがポポじゃないって言うなら、たまかちゃんはポポのどこを見てポポだって思ってたの?」
「……」
「器が違うだけで見た目と味は同じチーズケーキが出てきたら、たまかちゃんはどっちかはチーズケーキじゃないって思うの?」
鳩のフリル塗れのお腹から、くう、と可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。
「……おなかすいた」
鳩は眉尻を下げ、静かに嘆いた。
「チーズケーキ、奪いに行くけど……本当に来ないの?」
鳩は最後の確認とでも言うかのように、チラリとたまかを見上げた。きっと彼女は、今からでもたまかに返事を撤回して欲しいのだろう。
「はい。……すみません」
申し訳なさそうにしながら、気遣うように微笑みを返す。しかしたまかは、自身の信念を決して曲げなかった。
「私にとって、器は……何よりも大事なのです。世界に一つきりの大切な器が壊れてしまったことを、無かったことにしてはならないのです」
チーズケーキが量産できるようになれば、最初に作られたチーズケーキにも、それが乗っていた皿にも、価値はなくなる。消費する側はそれでいいかもしれない。しかし初めに作った時に込められた気持ち、そして最初の器の重さと尊さを忘れてしまえば、誕生を軽んじ、人々の記憶には何も残らなくなる。それはとても悲しいことで、だからこそたまかは器を大事にし、救うことを使命として日々を生きているのだ。
「ふーん……レモンチーズケーキ、チョコチーズケーキ。ベイクドチーズケーキ、レアチーズケーキ、バスクチーズケーキ……」
まるで呪詛のように並べ立てながら、鳩はじっとりとたまかを睨んだ。食欲を掻き立てればついてきてくれるとでも思ったのかもしれない。鳩はすぐにたまかへと背を向けた。白黒のフリルが重なる背中は、少し寂しそうに見えてしまった。
厚底で靴音を響かせ、鳩はたまかのもとから走り去っていった。フリルの小さな塊が遠くなっていくのを見て、たまかの胸に僅かな罪悪感が広がる。いや、違う。たまかは振り払うように小さく首を振った。
(彼女は鳩さんではありません)
いくら完璧に模倣していたとしても、あれは鳩ではない。姿や振舞いに騙されてはいけないと、自分を律する。鳩は死んだのだから、彼女の気持ちは永遠に聞くことが出来るべきではないのだ。たまかは視線を逸らすように、空を見上げた。頭上には澄み渡る青空が広がっている。
(天国の鳩さんは……今のを見てどう思ったでしょうか)
死に際の彼女の気持ちさえわからないのだから、そんなことがわかるはずもない。
(……これでよかったのですよね。鳩さん)
たった一人の『鳩』へ、胸の中で問いかける。たまかが顔を戻すと、黒白の姿は既に道の先へ消えていた。たまかは止まっていた純白の靴を踏み出して、アジトへの帰路を再開させた。
たまかは『レッド』に戻った後、そのまま三者定例会議へと赴いた。水面、そして姫月の見慣れた顔とともに席につく。主な話題はやはりAI関連であり、その内容は先週とあまり大差はなかった。各組織の動きに目立ったものはなく、平和な世界実現に向けて中立地帯の拡大の話が進展したくらいで目ぼしい話題も特になかった。早めに会議が終わり雑談タイムに入った時、たまかはそれとなく鳩について姫月へと尋ねてみた。先程の様子から彼女のことを心配していたのだが、姫月が見かけた時には普段通りだったとのことだった。それを聞いて、たまかはほっと胸を撫で下ろした。彼女は鳩ではなく機械だと理解しつつも、元気でいてくれるならその方がいい。
「ね、ねえ。……姫月」
他組織のAIを呼び出せてしまう件を『グリーン』にも告げたことについて、たまかが話し終えた時だった。水面の若干上擦った声が、珍しく姫月の名前を呼んだ。それまで話し込んでいたたまかと姫月は、揃って水面へと顔を向けた。姫月はその様子から内心驚いているようだったが、「……何」と平静を装って訊き返していた。しかし彼女の声も上擦っている。たまかは密かに二人の顔を見渡した。水面と姫月はまだぎくしゃくとした関係が残っていて、いつも話す時は間にたまかを挟んでいた。こうして二人で改まって話をすることは、滅多にない。たまかは会場に着いた時から、水面がそわそわとした様子なのが気になっていた。地に足が付いておらずなんだか気もそぞろといった感じで、会議にも集中出来ていないように見えていた。もしかすると姫月に何か言いたいことがあって、そのことに頭が支配されていたのかもしれない。
水面は小さく唾を呑み込んだ。視線に耐えかねたのか豹のような鋭い目が逸らされ、「……あのさ」と続けられる。姫月も動揺を隠しきれないまま、その先をじっと待っていた。
「先週、言ってたじゃん。……林檎の墓参りがしたい、って」
「え? あ、うん……言ったね」
予想外の角度からの話題だったらしく、姫月は意表を突かれたような顔で曖昧に頷いていた。
「お墓参りじゃなくて、……今なら二人で、直接林檎のもとを訪れることが出来るんじゃない?」
「え?」
「ほら、林檎のAI。……『レッド』にあるだろ。三人でまた、あの頃みたいに話すことが出来るんだ……一緒に林檎に会わないか?」
水面は前のめりになって、じっと姫月の双眸を見つめた。姫月は目を丸くして、息を呑んでいた。見守っていたたまかも、陰で目を白黒させていた。
「今のあいつには、体がある。……だよな?」
チラリと視線を投げられ、たまかはぎこちなく頷いた。
「生きていた頃の姿のまま、会う事も話す事も出来るんだ。密かに『レッド』を抜け出して貰えば、人目につかないところで集まることも出来る。一緒に会いにいって、また三人で沢山話そう。……きっとあいつも、姫月に会いたがってるはずだ」
なんだかその言葉には、確信があるように聞こえた。付き合いの長かった水面には、読むことが難しい林檎の心もお見通しなのかもしれない。しかしそれは、相手が林檎本人だった時の場合だ。
「……水面さん。林檎さんのAIには、御三方の学生時代の情報はインプットされていないと思います……」
たまかはおずおずと口を挟んだ。AIの製造については一切の情報が公開されていないが、恐らく『グリーン』が戦場で得た情報をプログラミングして作っているはずだ。三人が学生時代に仲が良かったなどという極秘情報は、林檎のAIには間違いなくインプットされていないだろう。
「ですから林檎さんに会えたとしても、敵として見做されてしまうかと……」
三人の関係は、敵対組織のトップ同士。昔仲が良かったという情報が無ければ、憎き敵の頭が目の前に現れたという状況に過ぎない。下手をすれば、相手を殺そうと動くかもしれない。言いにくそうに続けたたまかに、水面は困ったように眉を寄せた。
「そ、そうかもしれないけど……。……一度仲良くなれたんだから、あの頃の記憶がなくても案外話せるかもしれないぞ? ……どう?」
水面はめげずにそう言って、姫月の顔を窺った。
「あの頃みたいに……また三人で、話したくはないか?」
「……」
姫月はリップの塗られた艶やかな唇を、ぴたりと閉じていた。その表情は苦し気で、焦がれ続けた光景を求めているのが嫌でも伝わった。しかし彼女は、緩慢に首を横に振ってみせた。長い二つの白髪の束、そして頭に乗せたミニハットが虚しく揺れていた。
「……なんで……」
それを見て、水面の顔が驚愕に染まった。その声には、絶望の色が滲んでいた。姫月も自分と同じ気持ちだと信じていたのだろう。
「ど、どうしてだ? 記憶がないから? なら——」
「……たぶんうちが林檎のAIに会ったら、歯止めが利かなくなる」
絞り出された言葉に、水面は愕然としたように固まった。
「……沢山会って沢山話したくなって、きっとAIを林檎本人のように思いこむようになっちゃうと思う。だから、会うのは避けたいんだ」
「……」
「それがいけないことだとは思わないけど……自分がそうなるのは、ちょっと怖い」
姫月も会いたい思いを必死に押しとどめての返答のようだった。誰よりも現実的な姫月は、自身の弱さと起こり得る未来を自覚し、林檎に会うことを自重したのだろう。その言葉に、水面は悲しそうに俯いた。しかしすぐに、笑みを作って顔をあげた。
「そ、そうか。わかった……」
「水面が会いに行くのは、止めないよ」
「いや、三人じゃないと意味ないからな……」
水面は苦笑を零した。落胆を隠せていないが、それでも姫月の返答をきちんと受け止めたようだった。
「……心変わりしたら、いつでも言ってくれ」
最後に水面は優しくそう付け加えた。姫月は僅かに口角をあげてみせたが、返事をすることは避けた。この回答が変わることはないと、わかっているのだろう。
水面はすぐに話題を変えた。体を得たAIが死者そのままに見えると話す彼女は、普段と同じ調子に戻ったようにたまかには見えた。先程までのそわそわとした感じも消えている。水面はずっと、姫月を林檎に会わせようとして気を張っていたようだった。水面の願いは叶わなかったが、変に引き摺っている様子はない。姫月の方も、いつもと同じように見える。二人の関係に影響は出なかったようで、たまかはほっと息をついたのだった。
***
■Side B
太陽は天辺を通り越し、爽やかな青空が広がっていた。組織を一つ潰した帰り道、『ブルー』の仲間達をぞろぞろと引き連れながら先頭を歩いていた水面は、道端に小さな女の子が蹲っているのを見つけた。彼女は一人でめそめそと泣いているようだった。
「どうした?」
水面は優しい声色で、彼女の背中へと声を掛けた。小さな女の子はしゃくり上げながら、水面達へと振り返った。涙でぐちゃぐちゃになった顔が現れる。その奥で、地面に転がった機械の残骸がいくつか見えた。
「えぐっ……うっ……壊れちゃった……」
「壊れた?」
(パソコンか何かか……?)
悲しみのせいか水面達を知らないのか、『ブルー』の大将の顔を見ても彼女は全く怖がることはなかった。それどころか壊れてしまった事実を改めて思い起こしてしまったらしく、彼女はわんわんと泣き出した。水面の後ろで『ブルー』の少女達がざわめいていたが、水面は構わず少女へ近づき、一緒になってしゃがみ込んだ。ぽんぽんと頭を撫でてやる。出会った頃の林檎の歳に近い気がして、水面の胸に懐かしさが込み上げた。
「これ、なんだ?」
水面は広がる機械の残骸を見下ろし、少女へと尋ねた。少女は泣きじゃくる合間で、ぽつりぽつりと答えた。
「ぽ、ぽち……」
「ぽち?」
どうやらパソコンではないらしい。名前からして、スマートフォンやタブレットでもなさそうだ。水面の知らない機械だろうかと考えていると、少女は力強く首を縦に振った。
「そう。大切な、家族なの。犬の、ぽち……」
「犬?」
水面は地面の残骸を二度見した。飛び出すコード、割れた基板、傷ついたアクチュエータ。どう見ても機械だ。
「わんわんのロボットなの。家族なの」
少女は涙で汚れた顔で、必死に訴えた。
「わんわんの、ロボット……」
「縹様、きいたことがあります。昔、機械の犬が流行した時代があったと」
水面が困惑していると、後ろから『ブルー』の少女が助け船を出した。
「愛玩用の娯楽ロボットとして、犬そっくりに作られた機械だったようです。人々はそれをペットとして購入したとか。それのことじゃないっすかね」
「ペット用ロボット……なるほどな」
地面に広がる機械の残骸、そして少女の説明にも合致する。水面は納得したように頷いた。
「違う、家族!」
少女は威嚇するように歯を剥き出しにし、力の限り訂正してみせた。
「家族用ロボット……、なるほどな?」
「ぽちはママが赤くなって動かなくなったあとも、ず~っとネネと一緒にいてくれたの! いっつも傍にいてくれて、いっつも元気をいっぱいくれたの!」
少女は必死になって叫んだ。彼女にとって、ぽちは余程大切な存在だったのだろう。
(母親……殺されたのか)
いつも傍にいる存在がぽちだけだったのだとすれば、確かにそれは少女にとって『家族』以外の何物でもないだろう。
「ネネにはぽちしかいないの! ぽちまでいなくなったらだめ! どうしよう……!」
少女の涙は再び決壊し、わああと大声で泣き始めた。後から後から零れる大粒の涙は、止むことを知らないかのように無限に溢れてきたのだった。
「……」
地面に転がるパーツを見下ろすが、素人目に見てもかなりの損壊具合に見えた。そもそも犬と認識出来なかったところからして、かなり細かく分断されてしまっているようだ。コードはその多くが千切れており、基板も割れてしまっていて修復は困難に見える。泣き続ける少女を前に、水面は悲しそうに眉を下げた。
「……なあ」
後ろから降ってきた声は、水波のものだった。水面の横で彼女は中腰となり、少女へと目線を近づけた。彼女は極力柔らかな声になるように努めているようだった。
「あっしのところに、猫がいるんだ。海、って名前の猫。ロボットじゃなくて、本物だ。触りにくるか……?」
怖がらせないよう、水波はぽつぽつと慎重にそう尋ねた。少女は水波の顔を見上げ、涙を一度引っ込めた。きょとんとした顔は、しかしすぐにくしゃりと歪んだ。潤んだ瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ出す。
「やだ。ぽちじゃなきゃ、やだあ……!」
わんわんと泣き叫び出した少女へ、水波は苦い顔をして「そ、そうか……」と漏らした。水波は困ったように流れ落ちる涙を目で追っていた。
「元気が出ないときに膝にすりすりしてくれるのはぽちだけだもん! 何か壊してきた時に膝に乗ってしらんぷりするのはぽちだけだもん! どこまでも後をついてきてころんってお腹見せてくれるのはぽちだけだもおん……!」
少女は癇癪を起こしたように次々と声を響かせた。沢山の思い出からは、彼女とぽちの幸せな日々が垣間見えるような気がした。
(この子にとってぽちは、本当にたった一匹の家族だったんだな。……機械かどうかなんて、この子には関係ないんだ)
ぽちでなくては駄目なのだ。水面は悩まし気に俯いた。なんとか彼女の力になりたいと思った。傍にいた大切な家族を喪った悲しみを、水面はよく知っている。水面は意を決したように、少女へと顔をあげた。泣きじゃくる少女へ、口を開く。
「なあ。ぽちのこと、生き返らせてやれるかもしれない」
「……え?」
少女の口からは、蚊の鳴くような小さな声が漏れた。まん丸の目は、驚きに満ちている。
「ほ、……本当……!?」
「ああ。そういうのが得意な奴らがいるんだ。絶対とは言えないけど……頼んでみる価値はあると思う」
水面の脳裏に浮かんだのは、『グリーン』の面々だった。AIを作ったり修理をしたりしている彼女達ならば、もしかするとぽちを元通りに直せるかもしれない。少女の呆けていた顔は、みるみる晴れていった。大きな瞳に、希望が宿って輝き出す。
「ま、またぽちに会える!?」
「ああ」
「一緒にかけっこできる!? わんわん競争もできる!?」
「ああ……、……わんわん競争?」
水面の問いは、喜びでいっぱいの少女には聞こえていないようだった。すっくと立ちあがると、少女はその場でぴょんぴょんと跳ね出した。泣いたり笑ったり、子供は忙しい。
「やったあ! またぽちと遊べる!」
眩しい程の笑顔を湛え、彼女は小さな体に抱えきれない程の喜びを表していた。水面も釣られて笑みを零し、彼女に続いて立ち上がった。その頭へ、ぽんと手を乗せる。
「一週間後、ここにまた来い。いいか、それまできちんと隠れてろよ」
どこもかしこも抗争だらけで、小さな子供が身を守る術は隠れることしかない。水面の言葉に、少女は嬉しそうに頷いた。
「うん! 忘れないでねお姉ちゃん!」
「おう。しばらくぽちは預かるからな」
「ほら行った行った」と言って帰すと、少女はぶんぶんと手を振って駆けて行った。スキップをする背中は嬉しさが溢れていて、彼女の期待に応えてあげたいという思いが膨れ上がった。水面は地面に広がった残骸を見下ろすと、再びしゃがんで一つ一つ拾い始めた。『グリーン』に持ち込む時に、欠けたパーツがあっては修理がさらに難しくなる。拾い零さぬように慎重に集めていると、隣で一緒になってしゃがみ込む影があった。顔をあげると、水波が地面へと手を伸ばしていた。
「手伝います」
彼女は浅く一礼すると、水面と同じ様にパーツを拾い出した。それに続いて、後ろに突っ立っていた『ブルー』の少女達も続々と散らばったパーツを拾い始めた。皆で集めれば、すぐに終わるだろう。
「縹様」
再び水波に名前を呼ばれ、水面は水波へと顔を向けた。彼女は八重歯を覗かせながら、真面目な顔で切り出した。
「もし修理が上手くいかなかったときのために……、ペットショップに話をつけておきましょうか?」
「うん?」
「勿論、動物達や飼育員に手は出しません」
「いや……、なんでペットショップに?」
二人はお互いに疑問を浮かべた顔で見つめ合った。水波は戸惑いを乗せて、視線を逸らした。
「いえ……、余計なお世話でしたでしょうか。……本物の犬を家族として迎えたら、彼女の機嫌が直るかと思ったのです。猫では駄目なようでしたので」
水面は水波の真剣な顔を不思議そうに眺めた。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「あいつにはぽちじゃなきゃ駄目なんだと思う。例え本物の犬でも、その溝を埋めることなんて出来ない」
「そうなのですか。……差し出がましいことをしました」
「いや、そんなことはないよ」
水面は口角をあげてみせた。しゅんとしたように見える水波へ、優しく声を掛ける。
「なんかお前、最近元気がないみたいだけど……何か悩んでることがあったら言えよ?」
「え」
最近、なんだか水波の様子がおかしい。意見が合わなくなることが増え、どこか空回りしているような気がする。心細そうに見えるというか、不安そうに視線を向けてくることが多くなったのも気掛かりだ。丁度いい機会だと思い心配していたことを伝えると、水波は目を丸くして、呆けたように水面を見つめた。
「ん……違ったか?」
「いえ……その、あっしも同じことを縹様に思っていたもんで……」
「同じこと?」
「はい。最近縹様の様子がおかしい、と」
二人はきょとんとして見つめ合った。お互いに相手に違和感を覚えていたらしい。水面は苦笑を漏らした。
「そんなことはないぞ。それが原因なら、誤解だから元気だせ」
励ますようにバシンと背中を叩くと、彼女の小柄な体は前へとつんのめった。水波はなんとか踏ん張り、一、二歩前進したところで足を止めた。
「はい」
水波はいくらか安堵したような表情で声を張った。良い返事だ。水波を心配していたのは杞憂だったのだと、水面も一緒になって微笑んだ。そうこうしている内に、パーツのほとんどが拾われていたようだ。回収はあっという間に終わった。『ブルー』のメンバー達から拾い集めた欠片を受け取り、水面はそれらを大事に抱えた。最後に水波からもパーツを受け取る。彼女の顔からは不安が消えているように見えて、水面もほっと心を和らげたのだった。
『グリーン』へパーツを持ち込むことを決めた水面は、AIを通じてそのことを『グリーン』へと伝えた。ビデオ通話を繋ぎ「今から行くから」と画面越しに言い放ったところ、殴り込みと勘違いした『グリーン』は慌てふためき大混乱を極め、水面は大変な思いをすることになった。なんとか宥めて事情を説明すると、一先ず機械の残骸を受け取ってくれるとのことだった。修理が出来るかは、実物を見てみないとなんとも言えないらしい。近いうちに取りに行くという申し出を断り、水面は自ら『グリーン』へ赴いてパーツを渡すことにした。少しでも早く持っていった方が、修理に割ける時間が増えてぽちが復活する可能性も高くなるだろう。善は急げ、水面はビデオ通話を終え立ち上がったその足で、そのまま『グリーン』へと向かうことにしたのだった。
聞いた『グリーン』のアジトの場所は、『ブルー』のアジトから距離があった。『ブルー』の縄張り外であることはわかっていたが、『レッド』や『ラビット』の息も掛かっていない狭い区域にちゃっかりと収まっているようだ。パーツを詰め込んだトートバッグを握り、水面は一人廊下を歩いて行った。これから殴り込みに行く予定の組織はどこも強いという噂を聞かない連中ばかりだし、水面が暫く『ブルー』を留守にしても余裕だろう。御使いなど他の者に任せる程の事でもないし、体を動かすのにも丁度いい。水面は特に面倒臭がる様子もなく、軽やかな足取りで『ブルー』のアジトを後にした。
青空の下、水面は大通りを小走りで進んでいった。比較的往来が盛んな中心街を抜け、緑の増えてきた通りをさらに突き進む。そして人通りのない街はずれまでやってくると、水面は足を止めた。目の前には二股道が広がっていた。水面は見慣れた道の方へと顔を向けた。普段使っている道は目的地まで僅かに遠回りになるが、『ブルー』に好意的、もしくは傘下の者達が多く集っている場所を通る。疎らに建っている家の住人は全員知っているし、道中の建物を拠点とする組織や店は全て『ブルー』に協力的だ。そのためこの道を使うついでに彼女達と顔を合わせ、様子を見るのが習慣となっていた。水面は見慣れた道から、緑の広がる小道の方へと顔を向けた。もう片方の道は、長らく足を踏み入れていなかった。川沿いを通る道で、『グリーン』の拠点へはこちらの方が僅かに近道となる。こちらは、学生時代によく使っていた道だった。普段使う道と比べると緑が多く補装は不十分で建物もほとんどないが、だからこそ人の手が入っていない自然の長閑さが感じられた。水面はこの道を通るのが好きだった。しかし『ブルー』が『ラビット』と決別したその日から、一度たりとも通ることはしなかった。いや、通る事が出来なかったのだ。この道には、学生時代の三人の思い出が詰まり過ぎていた。足を踏み入れようとする度に、隣に二人がいない現実を突き付けられ、足が竦んで動けなくなった。学校からの帰り道や三人で出かける時は、いつもこの道を使っていた。放課後の夕焼けを背に、水面も林檎も姫月も笑顔でセーラー服を靡かせていた。噂のパンケーキを食べに行く時も、ウィンドウショッピングに行く時も、室内プールに遊びに行く時も、『不可侵の医師団』に急ぐ時も。いつも三人一緒にこの道を通っていた。一人きりで通るにはあまりにも長すぎて、道の向こうを見据えるだけで胸が苦しくなった。捨てなければいけない過去、そして思い出の中の彼女達を殺さなければいけないという焦燥感。それらを直視するのが苦しくて、水面はずっと別の道を使い続けてきた。この思い出の道が、どこかの抗争のせいでなくなってしまえばいいとさえ思ってきた。
(……今なら、通れる気がする)
姫月と毎週顔を合わせて会話をするようになり、そして家にはにかみを向けてくれる林檎がいる今ならば。水面は唾を呑み込むと、そろそろと足を一歩踏み出した。自他共に最強と認める少女の、小さな小さな一歩だった。一歩、二歩。ゆっくりとゆっくりと、慎重に歩いて行く。辺りの景色はあの頃と全く変わっておらず、視界に映る木々が風に揺れてさわさわと音を立てていた。遠くの半壊して屋根の崩れている建物も、当時のままだった。コンクリートに覆われていない凸凹道も、吸い込む風さえも昔と同じ様に思える。なんだか心が軽くなった気がして、水面は歩を速めた。二枚歯を踏み締め、辺りを懐かしむように眺めながら、久しぶりの景色の中を歩いて行く。
(この辺りにツツジが生えていて……三人で蜜を吸って帰ったっけ)
花は付けていなかったが、葉が多く茂っている低木が道沿いにいくつも続いていた。明るい緑は陽の光に鮮やかに艶めいている。昔は季節になると、一面が桃色の花で覆われていた。甘い香りに誘われた水面がツツジの蜜は美味しいと教え、好奇心旺盛な姫月が早速花を摘み、林檎がツツジの中には毒のある種類もあると一度止めた。真面目な顔を近づけツツジの花をよく観察した林檎は、毒のある種類ではないと太鼓判を押してくれた。その後は、仲良く三人で口元に桃色の花を咲かせ合った。お嬢様で野草など口に入れたことがなかった姫月の輝く瞳、知識としては知っていても初めて味わう味に興味津々な林檎の顔、二人の反応を楽しみながら味わう蜜の味は最高に美味しかった。二人の未知に出会う瞬間を導けることが嬉しくて、もっともっと沢山の感動に出会わせてやりたいと思った。三人が眩しい程の笑顔になったのは、きっとツツジの蜜の美味しさのお陰だけではなかったように思う。大好きな三人で同じことに興じ、美味しいと共有する時間が幸せ過ぎたのだ。蜜を楽しんだ後は、より美味しく花を食べる方法を考え始めた姫月の奇想天外なレシピに、苦い顔で駄目だしをする林檎がおかしくて笑い飛ばしたことまで覚えている。後日本当に別種の花びらを使った料理を食べさせられて、その味に渋い顔をしたのを笑われたのも昨日のことのように思い出せる。仕返しがしたかったのに、結局果たせず仕舞いで別れてしまった。
低木に沿って歩いていると、反対側に芝生が広がっているのが見えてきた。風に気持ち良さそうに揺れている、青々とした一面の緑。緩やかな傾斜となっていて、川の向こうが一望できる。遠くまで澄み渡る青空の下、高く昇った太陽が穏やかに流れる川の水と鮮やかに広がる緑を燦々と照らしている。辺りには大きな建物もなく、見渡す限り自然に囲まれた解放的な景色が広がっていた。思わず深呼吸をしたくなるような場所だ。何もないところだが、ここは水面のお気に入りの場所の一つだった。時にはトレーニングのため足を運び、時には喧嘩のためにここへやってきた。中途半端に手を出してくる先輩を呼び出したり、先輩達にここを指定して呼び出されることもあった。そんな馴染みの深い場所だったため、水面が二人にも紹介したのだ。それからは、帰り道に何度もここによって時間を潰した。近くの店で買ったドーナツを一緒に頬張ったり、芝生に座り込んで他愛もない話をしたり。テスト前にここで勉強を教えてもらったこともあったし、姫月が持って来た花火で遊んだこともあった。三人で草の香りに包まれていると、のんびりとした時間が流れていって心地よかった。もともとお気に入りの場所が、三人で訪れるようになってからもっともっと好きになった。珍しい天体現象が観測できるかもしれないと、珍しく林檎に連れられてやってきたこともある。しかし近くで抗争が勃発し、派手な爆発が連続するせいで星の光が掻き消されてしまって結局よく見えずに終わった。夜道をいじけたような顔で帰る林檎をからかった後、姫月が家に招いて家庭用プラネタリウムを部屋に映してくれた。林檎は天井を指差しながら様々な星座を教えてくれたが、水面は眠気に抗えず途中で寝てしまった。起きた時には姫月にマジックで顔に落書きをされていて、落とすのが大変だったことを覚えている。
水面はさらに道を進んでいった。自然に囲まれた台地は、風が澄んでいて空気が美味しかった。川の向こうには、『ブルー』の縄張りから外れた街並みが遠く見える。水面は袂とプリーツスカートをはためかせながら、二枚歯の音を響かせた。明るい瑠璃色のインナーカラーとともに、セミロングの紺色の髪が風に靡いてサラサラと流れていた。
砂利道の途中に無造作に転がる、他より大振りの石。昔と同じ、轍に隠れるような絶妙な位置に埋まったままだ。あれに林檎が足を引っ掻けて、いつしか転んだことがあった。大きく擦り向けた膝からは血が垂れて痛そうだったが、林檎は泣くのを堪えて全く痛がる様子を見せなかった。水面の家に寄って姫月と水面で消毒して薬を塗り、大きな絆創膏を貼ってやった。最後まで我慢しきった彼女の、唇をきつく結んだ顔が健気で可愛かったことを覚えている。
路傍の木々から少し距離を置き、通行人を見守るように生えている常緑広葉樹が見えてきた。この木も昔と同じ場所のままだ。しかし以前見た時より枝葉が伸び、幹が太くなった気がする。久しぶりの再会に、水面は木の下で足を止めた。昔姫月が、この木の枝にゲームセンターの戦利品を詰めた袋を括りつけたことがあった。中身は大きなぬいぐるみや菓子で、ゲームセンターで用意されていたポップな絵柄のビニール袋に入れ、太い枝に結わえてぶら下げておいたらしい。その日は丁度父が家に帰ってくる日だったらしく、家に持って帰ろうとしていた姫月は急に父の反応が怖くなり、その場にあったこの木を緊急の置き場として利用したそうだ。翌日、三人でここを通った時には、袋は穴だらけ、中のぬいぐるみは一部が千切れ、お菓子は食べ荒されている酷い有様だった。そして枝の下に、怪我をした小鳥が横たわっていた。抗争の流れ弾に当たったか爆発に巻き込まれたか、血を流して弱っているようだった。姫月のお菓子を食べたのも、どうやらこの鳥だったようだ。姫月はその鳥を保護し、林檎の助言のもと三人で出来る限りの治療を行った。今の時代動物病院など存在しないし、『不可侵の医師団』で治療をしてくれるとも思えなかった。その後三人の治療の甲斐あって、小鳥は無事に回復した。元気になった鳥を、姫月は再びこの木の枝に放してやった。飛び立つ鳥を嬉しそうに、そして羨ましそうにいつまでも見送っていた姫月の横顔も、水面の大切な思い出の一つだ。
一歩進むごとに見覚えのある景色が広がり、大切な懐かしい思い出が無限に蘇った。昔この道を通っていた頃は、それらすべてが日常で当たり前だった。一度壊れてしまった今思い返すと、なんて幸せだったのだろうか。水面は自嘲するように薄く笑みを浮かべた。
辺りを見渡しながらさらに進んでいると、遠くで陽を反射する深緑色の生地が見えた。見覚えのある色だ。深く傾いた裾から覗く、眩しい白い素足。宙に垂れる精巧な金細工のチェーン。肩から零れて広がる若緑色の透き通るレース布。前屈みとなっていた上体が起き上がり、はだけた健康的な肩とそこから伸びた先のブレスレットが目を引きつけた。あれは『グリーン』の制服だ。水面は道を逸れ、少女へと近づいていった。二枚歯の音に気が付いたのか、『グリーン』の少女は水面へと振り返った。萌黄色の毛玉のような巻き毛の塊が二つ、彼女の胸元で元気に跳ねた。
「お……おやおや! 『ブルー』の大将様じゃありませんか!」
少女は浮かべてしまったバツが悪い顔を隠すように、笑みを貼り付けた。彼女は『ブルー』に『商品』の営業をしにくる少女だった。
「やよゐ、って言ったっけ」
「おや、覚えて頂けているとは光栄です」
彼女は朗らかに笑うと、水面の持つトートバッグへと視線を下ろした。
「もしかして、それが例のパーツですか?」
「ああ、そうだ。『グリーン』に持っていく途中なんだ」
「それならあたいが受け取りましょう! 修理が得意な者に渡しておきますよ!」
やよゐの申し出に甘えることにし、水面は彼女へトートバッグを預けた。用事が完了して気が緩んだからか、なんだか違和感を覚えて辺りを見渡した。草木が生い茂っているばかりで、周りには何もなかった。
「お前はここで何をしてたんだ?」
「えっ」
やよゐは流れる冷や汗が見えるかの如く笑みを強張らせて視線を逸らした。困ったように眉を八の字にしたあと、頬をぽりぽりと掻きだす。
「ま、まあ……別に知られても問題はないか。実は、AIが一台行方知れずでして……」
今度は水面が冷や汗を流す番だった。心当たりがあり過ぎた。そういえばこの先にある脇道は、逃げていた林檎と出会った道へ繋がっていることを思い出した。
「ふ、ふーん……?」
「まさか逃げ出すとは……誤算でした。体を得た唯一の欠点だったかもしれません。なぜ汎用AIがそんな思考をしたのか、なぜこんなに上手く逃げられてしまったのかは謎なのですがね。GPS信号もどうしてか無効になっていて……時間を見つけてこうして探してまわっているのです」
やよゐは疲れたような顔でため息を漏らした。それからはっとしたように取り繕うと、慌てて水面へ顔を近づけた。
「グ、『グリーン』のAIは完璧ですからね!? これは不祥事などではありませんし、『ブルー』に提供させて頂いている方達にも何っら問題はありません! 悪いのは『ラビット』なんです! あたいらはなんにもしていないんです! 本当なんです!」
彼女は水面へと顔を真っ青にして必死に訴えた。実際、林檎が勝手にAIをインストールし、『ラビット』が勝手に逃しただけで、『グリーン』には一ミリも落ち度はない。口には出さないが、真実を知る水面は内心で密かに同情した。やよゐも不憫である。
「『ブルー』ならお前を責めずに、一緒になって探してやる仲間が沢山いるぞ?」
「……それは勧誘ですか? あたいにリアル格闘は無理ですよ、格ゲーなら無双できますが……。それにボスも優しいですし。責められたりなんてしていません」
林檎の脱走のせいで被害を被った人間はいなかったようだ。片棒を担いでいる水面は、陰で胸を撫で下ろした。『グリーン』の内部事情はよく知らないが、大将はメンバーにひどく優しいらしい。他の組織ならば足の一本くらいはなくなっていそうだ。
「縹様は迷子のAI、見ておられませんか?」
「お前らの作ったAIは、人間そっくりだからな。目撃しても気が付かないと思うが」
「ああ、確かにそうですね。う~ん……」
やよゐは悩まし気に唸った。ここで外見の特徴などを言わないのを見るに、やはり行方知れずのAIとは林檎のことで確定だろう。まさか『レッド』の長の外見をしたAIを逃がしましたとは口が裂けても言えないはずだ。『レッド』に知られたら、泡を吹いて倒れられる。
「……はあ。まあ中身は汎用AIですし、問題ないでしょう。これで捜索は打ち切りますか」
やよゐは顔をあげ、誰にともなく言い放った。そして遠い目を彼方へと向ける。
「あたい、充分頑張って探しました。GPS信号のこともありますから、大方どこかで壊れてしまったのでしょう」
彼女はやり切ったように一人頷いた。水面としては有難い決断だ。林檎のAIを追う者がいなくなったとなれば、あとは『ブルー』のメンバーの目だけ気にしていればよい。大分匿いやすくなったはずだ。
「新しいあたいのクエストは、このパーツを元通りに修復できるよう走り回ることですね」
やよゐは意気込んで、自身の掴むトートバッグを見下ろした。
「ああ、頼んだ」
「お任せください!」
やよゐは胸を張り、ぽんと叩いてみせた。頼もしい返事である。話がついたところで、やよゐは頭の中のスケジュール帳を開くように視線を上へと一度逸らした。
「次にお会いするのは、明日ですかね。先日お話させて頂いた件、お返事を聞きにお伺いしようと思っていたんです」
「先日話した件? ……ああ、武器の在庫管理システムって奴か?」
『ブルー』のアジトへメンテナンスにやってきたやよゐが、意気揚々と他の商品の提案をしていたことを思い起こす。
「そうです! あとは金銭管理システムですね。どちらも『ブルー』が戦闘に集中出来るような、管理のお手間を最小限に出来る超便利アイテム達です」
やよゐはにこにこと誇らしげに説明した。水面は空になった手を広げ、彼女の期待していたであろう返答を告げた。
「それならもう購入を決めたよ。アオイ達もその方が助かるって言ってたし、あたしも体を動かす以外のことはなるべくやらないで済ませたいしな。『グリーン』の技術がそれを解決してくれるって言うんなら、金を出し惜しみはしない」
実際、提示されたものは『ブルー』からしてみても待望の機能だった。『ブルー』は事務作業を得意とするようなタイプの者はあまりおらず、机に齧りついている暇があったら敵の組織に殴り込みに行きたがる連中ばかりである。入ったばかりの新参者や戦績の振るわない者に押し付けることがほとんどで、数が合わないこともざらだった。その辺りの作業をシステムがやってくれて、尚且つ正確なカウントが期待できるとあれば、『ブルー』が断る理由もない。
「本当ですか!? でしたら明日は商品を持ってお伺いしますね! 初期設定と操作説明をさせて頂きます!」
やよゐはほくほくと嬉しそうに体をくねらせた。水面はアジトに残してきた碧達を頭に思い浮かべながら、口角をあげた。
「お前らの腕については、AIが証明しているからな。他の商品についても、期待してる」
「ありがとうございます! その期待以上の成果をお約束致しましょう!」
やよゐは元気な声を響かせ、高らかに宣言してみせた。自身の組織の商品によほど自信があるようだ。その返答に、水面も満足そうに口を閉じた。AIに続いて、良い取引が期待できそうだ。
「では、あたいはこれで失礼します! また明日、お会い致しましょう!」
「ああ」
遠くなる『グリーン』の営業担当の背中を見送ったあと、一人残された水面は来た道を戻り始めた。
(AIだけでも一気に世界が変わったけど……今後はさらに便利になるんだな)
武器や金の管理の手間が省ければ、それだけ戦闘に人員が確保できる。それに金はともかくとしても、武器は正確な記録があればいろいろと動きに幅が出てくる。怪我を負っている者へ武器の貸出をすることも出来るし、他の部隊を気にせずに多めに持ち出すことも出来るようになる。導入後をあれこれと想像すると、夢は広がるばかりだ。人をわくわくさせることが出来るのも、『グリーン』が誇るデジタル技術の力なのだろう。
最近は『グリーン』のAIのお陰で戦力が格段に上がり絶好調だが、システムの導入で今後はより多角的な戦力の増強が可能となりそうだ。全ては『グリーン』の技術のお陰である。
(この追い風を物にしないとな。良くない噂をきく組織はほとんど潰したが、この勢いのまま残りも全部潰してしまおう)
紺色の髪が、さらさらと風に流れた。水面は機嫌よく、遠くに見える街並みを眺めた。
(共に戦う最強の仲間が戻ってきて、敵になった大切な人とも一緒にいられて、襲撃も全部上手くいって……)
万事すべてが順調だ。実現するはずのなかった光景が広がって、切望していた未来を迎えられた。なんて奇跡だろう。『グリーン』との協力がなければ、水面は今この道を歩けてはいなかった。水面の踏み出した二枚歯の横を、小さな蛙がぴょんと跳ねていった。
(さてと、今夜は宴会だっけ。あたしも酒買って帰ってやるか。……そんで夜は何かつまみでもくすねて、部屋に持っていってやろうかな)
まだ高い位置にある太陽を見上げ、水面は目を細めた。心地よい風が吹き抜けて、周りの緑と長い袖を揺らしていったのだった。
その夜、手強かった組織を潰したお祝いと故人のAI達の遅い歓迎会を兼ねて、『ブルー』のアジトの一室で祝賀会が開催された。『ブルー』ではよく酒の席が開かれる。皆仲間と騒ぐのが好きなのだ。今の時代法も機能していないため、未成年飲酒を咎めるような者もいない。賑やかな部屋の中、水面も用意された酒を気分よく呷っていた。水面のいる席は他の者達とは少し離れていて、全体をよく見渡せた。『ブルー』の家族達が楽しそうに酒を飲み、笑って話しているのを見ていると、水面までいい気分になって酒が一層美味しく感じられた。
「縹様! 新しいもの、お持ちしました~」
酒の席ではいつも水面のもとへ代わる代わる『ブルー』のメンバーがやってきて、酒を注いだり話し相手になったりしてくれる。そうしろと命令した覚えも強制したりもしないが、好意は素直に受け取ることにしている。にこやかに追加の酒を持ってやってきた椛に、水面は「助かる」と声を掛けてそれらを受け取った。帰っていく椛とすれ違うように、碧がやってきて軽く手を振った。
「よう、飲んでる?」
「主役がこんなところいていいのか?」
「主役はどちらかと言えばミナモでしょ……私は人の相手は苦手なんだ。ミナモといた方が落ち着く」
碧はやつれた顔で水面の正面の席へ腰かけ、手に持っていたグラスを置いた。中身は酒ではなく、麦茶のようだった。
「皆お前達の帰還を祝ってるっていうのに、そんな顔してちゃ不安がられるぞ」
「別に、戻ってきただけだろ。そんなに大袈裟にしなくたっていい……。それに祝ってるのはでかい組織潰したからでしょ。ミナモがほとんど蹴散らしたんだから、私らよりミナモが祝われるべきだ」
相変わらず欲がないと言うか、控えめだ。水面は昔と変わらない碧に、懐かしさが込み上げた。
「二人して何話してんのー?」
大声が割って入って、水面は顔をあげた。狼のように逆立つ白髪、そして締まりのない上機嫌な顔が現れた。
「大分飲んでるみたいだな」
「だってー、皆がアコ様アコ様って注いでくれるんだもん。まあアコ大活躍だったし、当然だけどさ~?」
真っ赤な顔で、愛湖は満更でもなさそうに鼻を高くした。皆から頼られること、そして『ブルー』でまた暴れられることが心底嬉しいらしい。彼女は定位置と言わんばかりに、碧の横へと流れるように腰を下ろした。握られた缶は開けられたばかりのようで、たっぷりと入った中身が零れそうになっていた。
二人が目の前にいる、見慣れた懐かしい光景が広がった。もう二度と見られないと思っていた、奇跡の光景だ。上機嫌の愛湖が何事かを笑顔で提案し、横の碧がそれを軽く窘めている。『ブルー』を立ち上げる前から見てきた、気の知れた仲間達。穏やかに流れる、心地よい時間。さらに同じ空間には、笑顔で騒ぐ大切な家族達。明るい笑い声が響く中、目の前の二人が楽しそうに水面へと話し掛ける。水面は相槌を打ちながら、酒を口に運んだ。……この上なく、美味しく感じた。
壊滅させた組織の話、そして愛湖や水面の活躍の話から転じて、二人は学生時代の話をし始めた。二人は同学年だったため、共通して知る教師や学生の顔も多い。水面も興味深く聞いていたが、水面が学校一の不良だったという話になり、逃げるように顔を背けた。別に不良だった訳ではない、毎日喧嘩を申し込まれていただけだ。興が乗ったように続ける二人の会話をおざなりに聞き流し、水面は頬杖をついた。酒を喉に流しながら、ふと辺りを見渡す。薄群青色に身を包んだ少女達が、各々楽しそうに酒を飲んでいる光景が広がっていた。懐かしい顔のAIもそれに溶け込み、周りとともに談笑している。組織を壊滅させ悪をまた一つ消し去り、そして家族が再び戻ってきたことを、皆心から喜んでいた。
家族達を順に眺めていると、遠くで飲んでいる水波と青空が視界に入った。水面は敵の気配を察知するために、普段から耳をよく使う。距離は近くはないが、水面の耳は自然と二人の会話を拾っていた。
「ミナミ、いいの? アオイ様とかアコ様のところ行かなくて」
障子に背をもたれて腰を下ろす青空が、縁側で胡坐をかいて外を眺める水波へと声をかけていた。
「あっしはさっき注いできた」
「そうじゃなくて、いろいろためになる話きけそうじゃん。アコ様なんて、随分長い事縹様の傍で戦ってきたんだしさ」
青空は手の中の缶を傾け、ごくごくと喉を鳴らした。水波は手にした缶をくるくると揺らすだけで、口に運ぼうとはしなかった。水波の視線が下がる。
「そうだが……。それは存在しない記憶だろ」
青空の口から、缶が離れた。曇った表情の水波へと視線を向ける。水波は缶を揺らしながら言葉を続けた。
「あれはAIであって、本物のアコ様じゃない。勿論アコ様から縹様の話が聞けたら嬉しいが……AIから聞こうとは思わない」
水波は缶を口へ持っていき、豪快に呷った。青空は眉を寄せ、それを不服そうに眺めていた。
「何言ってんの? あれはアコ様だし、本人に聞くのと同じでしょ。縹様もそう言ってたじゃん」
水波は缶を離すと、正絹の袖で口元を拭った。青空と見つめ合う。
「そうか?」
「そうだよ。縹様の言うことを疑うの? それにアコ様達の戦いぶり、ミナミも見たでしょ。あれは完全にご本人たちの戦い方だった。あの強さ、アコ様達以外の何者でもないよ。私には敵わないし、きっとミナミだって勝てっこない」
本人と見做すかの基準が強さなのは、いかにも青空らしい。興奮して捲し立てる青空に、水波は苦笑を浮かべた。
「アコ様の一撃、ミナミも見たでしょ? 重心の移動がすごく綺麗だし、ひねりも下半身の使い方も無駄がなくて、軌道が真っ直ぐで重くてさ。何よりあの拳の勢い! 殴り一つで敵を即死させる怪力は、縹様にも劣らないよ。また間近で見られて本当に最高!」
青空は上機嫌で再び酒を呷った。水波は、自身の持つ缶を見下ろした。
「そうだな。でも、あっしは……縹様のことは、縹様の口から聞きたいんだ。AIからではなくて」
青空は空になった缶を横に置くと、窺うようにして水波を見つめた。
「ミナミはさ、死んだ方々と同じ強さなのに、AIをやけに嫌うよね? なんで? 縹様はあんなに喜んでるのに」
「嫌っている訳ではないんだが……」
理解出来ないというような青空へ、水波は困ったように視線を泳がせた。言葉を探すように、慎重に口を開く。
「あっしは、大切な人を亡くした経験がないからな。だからかもしれない」
缶の中で揺れる液体を眺めながら、水波はぽつりと吐き出した。
「会いたかった人との再会は嬉しいが、AIに対してそれ以上の感情はない。正直機械より、生きている縹様のことの方が大事だ」
群青色のショートカットヘアーが下がり、その顔に影が差す。
「……少し、怖いんだ。故人の方のAIを大切になさってばかりで、縹様がご自分を顧みないことが。……縹様を喪う怖さを忘れている、皆が」
死んでも故人のAIが本人と同じ様に迎え入れられるのならば、人の命の重さなど価値を持たなくなる。
「あっしにとって、一番失いたくないのは縹様なんだ。それなのに……」
水波はその先の言葉を飲み込むように唇を噛んだ。彼女は目を閉じ、首を横に振ってみせた。
「……悪い。酔いがまわっているかもしれない……」
水波は缶を持っていない手で、頭を支えた。その丸まった背中は、いつもより小さく見えた。青空は気にした素振りもなく、サイドテールを跳ねて僅かに頭を揺らした。
「別に縹様に告げ口しようとは思わないけどさ……あんまり変なこと考えない方がいいよ。そんな暇あったら、強くなるために鍛えた方がいい」
青空は袖を捲り、自身の腕を掴んだ。鍛えられた筋肉を確認するように、緩く揉む。
「縹様がAIを家族として迎え入れる、って言ってるんだから、私達はそれに従うだけ。逆らいたいなら、鍛えて縹様を倒すだけ。単純明快、ミナミが落ち込んでる意味がわかんない」
「別に逆らいたいわけじゃあない……」
水波は手を離して顔をあげると、じっとりとした視線を青空へと向けた。そして飲みかけの缶を置くと、群青色の頭をわしゃわしゃと掻いた。
「あっしは捨てられたところを縹様に拾われたから、実質縹様が家族みたいなもんだ。あっしにとって一番大切なのは縹様なんだ。この命は縹様へ恩を返すために捧げるつもりだったし、一生ついていくと心に決めている。大事なたった一人の家族が、本来いないはずの人に夢中になって現実が見えなくなるのを、止めないわけがないだろう……」
「いやそれ、思いっきり縹様の意思に反してるじゃん」
「るせえ!」
間髪入れずに水波の拳が青空の頬にめり込んだ。手加減されていたとはいえ、青空の体は殴られた衝撃で床を嘗めるように転がされた。這うようにして起き上がり、青空は赤くなった頬に手をあてた。「いってえ……」と小さく呻き声が漏れる。
「あっしは縹様が心配なだけだ」
水波は拳を引っ込め、倒れた青空の背中へ毅然と言葉を投げた。青空は恨めし気な顔で水波を振り返った。
「そんだけ言っといて? ミナミじゃなかったら今頃ドラム缶に入れて沈められてるよ、っと」
青空は上体を起こし、立ち上がりがけに水波へ素早く蹴りを入れた。短いスカートから伸びる健康的な長い脚が、目にも留まらぬ速さで水波の腹を狙って繰り出される。水波は体を大きく反らしてそれを避けると、そのまま前回りで床を転がった。すぐに起き上がって体勢を整え、さらなる攻撃に備える。しかし追撃はなく、青空は空振りした脚を引っ込めただけだった。
「チッ」
青空は舌打ちを零し、悔し気に水波を睨んだ。水波は不敵な笑みを浮かべた。口から小さく八重歯が覗いている。
「予備動作が冗長だな。まだ速く出来るだろ」
「酔ってて上手く重心を置けない」
「じゃあ酔拳をしろ」
「無茶言うなよお……」
青空は不服そうな顔で嘆いたあと、その場に胡坐をかいて座り直した。不貞腐れたような顔の青空に続き、水波も楽座で座った。二人は言葉もなく、ぼんやりと夜空を見上げた。雲が多いのか、月の姿は隠れ星もあまり見えない。暫くそうしていると、二人は落ち着きを取り戻したようだった。
「もっと飲んだ方がいいよ。そうしたらミナミも変なこと考え無くなる」
「……そうだな」
「一升瓶持ってきてあげる。うんと辛いやつ」
青空は水波を一瞥すると、立ち上がった。酒を取りに行くため、賑わう部屋の中へと戻っていく。水波はその背中へ、譫言のように小さく遅い返事を返した。
「じゃあ、付き合えよ……」
「酔拳披露してくれるなら考えてやるよ」
その言葉は遠く、青空はさっさと部屋の奥へと消えてしまった。一人残された水波は、再び夜空を見上げた。火照りを冷ますように、振袖から伸びた腕を額へと当てる。彼女は誰かを脳裏に思い描くように、遠い目をしていた。
その一部始終を眺めていた水面は、愛湖から名前を呼ばれて我に返った。愛湖の話を聞き流してしまっていたらしく、彼女は頬を膨らませていた。水面は謝りながら、彼女に新しく酒の缶を差し出した。愛湖は酒を受け取ると、表情を戻してステイオンタブを引っ張る。機嫌が直った彼女が酒に口をつける様子を眺めながらも、水面の頭は別のことで支配されていた。
——本来いないはずの人に夢中になって、現実が見えていない。
水波の言葉が頭から消えず、心を蝕んだ。心臓が嫌な音を立て、胸が締め付けられるように苦しかった。
(違う)
愛湖の話に適当に相槌を打ちながら、水面は心の中で全力で叫んだ。
(違う。こいつらは、『本来いないはずの人』なんかじゃない)
彼女達は、『いる』のだ。水面達の、目の前に。これが他ならぬ事実であり現実だ。愛湖、碧、露……大切な家族達。彼女達を否定したら、この奇跡のような幸せな日々まで幻だと言っているようなものだ。家族を踏み躙る行為であるし、生きている人間達すらも奈落に突き落とすような酷い妄言である。
(ミナミは一体何を言っているんだ)
水面は言い様の無い嫌悪感と恐怖に、堪らず酒の缶へ手を伸ばした。まだ多く残っていた中身を、一気に呷る。愛湖はその飲みっぷりを囃し立て、碧は驚いたように目を丸くしていた。
(こうして目の前で『生きて』いるのに)
機械であろうが関係ない。大切な仲間であり家族である彼女達を、どうして否定するのだろう。水面は空いた缶を雑に横に放ると、新たな缶を乱暴に掴んで開けた。
——本来いないはずの人に夢中になって、現実が見えていない。
水波の言葉が頭をぐるぐるとまわった。違う。目の前にいる。大切な、大好きな人達が。自分の意思で行動し、自分の言葉で伝えてくれる生命体が。
「……」
部屋に隠れている少女の姿が、脳裏に過った。やっとの思いで掴んだ、あの頃の幸せな日々。胸に抱えきれない程に膨れ上がった渇望が、もう二度と叶わないと思った奇跡が、目の前で微笑む度に泣きそうになる。それを全て泡沫だと言われるのは、底の見えない穴に飛び込むような恐怖があった。この日々は間違っているのだろうか。背筋が寒くなる。違う。彼女の言葉も、彼女の笑みも、全て存在している。本物なのだ。胸に広がる暗澹を振り払うように、水面は酒を喉の奥へと勢い良く流し込んだ。
「ミナモ?」
急激に酒のペースが速くなった水面を心配するように、碧は不安そうに名前を呼んだ。水面は笑みを作ると、眉を下げた。
「いや、なんでもない。なんか難しいこと考えちゃいそうになってさ。……そういうときは、酒を飲むに限るよな」
愛湖がその言葉に、元気よく同意した。
「そうそう、よくわかんないことなんか考えたって無駄無駄! お酒飲んで忘れよ!」
愛湖は自身の持つ缶を水面の缶に寄せると、軽く小突いた。改めて乾杯を終えると、愛湖は缶を口元へ戻し美味しそうに飲み出した。それを見た水面も、豪快に缶を傾けた。
「いやー、美味いね。やっぱ皆と飲むからかな! サイコー!」
上機嫌な愛湖の声はよく響いた。彼女の底抜けの明るさは、傍にいるだけで元気を貰える。水面も少し肩の力を抜いた。そうだ、嫌な考えは酒を飲んで全部流してしまおう。再び缶に口をつけると、すぐにまた空になってしまった。
(またアオイやアコ達と飲めるんだから、嫌なことは忘れてちゃんと楽しまないとな)
鼓動が速いのは、きっと酒のせいだ。新たな酒を手に取った後、水面は愛湖達へと昼間にあった犬のロボットの話を振った。二人は他愛もない話を、自然体できいてくれていた。何気ない日常の一コマだ。話をし、また話をきいている間、ふと水波の言葉が脳裏に蘇り、胸を刺した。その度に水面は酒を口へ流し込んだのだった。
ひどく酔っていた。頭がぐらぐらして、視界はピントが合わず、真っ直ぐ進むことすらできなかった。頭はぼんやりとして、体はふらふらとして言う事を聞かない。酒にかなり強い水面がここまでの状態になったのは、今までにも片手で数える程しかない。壁に手を添え、水面は這うように自室へと進んでいた。……ここまで飲んでしまったのは、水波の話をきいてしまったからだろう。彼女の言葉が何度も蘇ってしまい、何も考えたくなかった。頭が何かを思考しそうになる度、浴びるように酒を流し込んだ。水波の言葉を深く考えようとすればするほど、言い様のない恐怖が胸を支配した。それから逃がれるように空の缶を何十本と作り、ふわふわとした心地に身を委ねた。結果、気付けばまともに歩くことすらできなくなっていた。それでもなんとか『ブルー』の面々の前では誤魔化した。人の目がなくなった今、水面は夜の廊下を一人、今にも倒れそうになりながら亀のように歩んでいた。
やっとのことで辿り着き、自室の扉を開ける。中へ入ると、殴るように乱暴に鍵を閉めた。頭が重い。……早く眠りたい。二枚歯の履物を履き捨て、そのまま寝室目掛けて千鳥足で進んでいく。奥から顔を出した林檎が、驚いたように目をまんまるにしていた。ぼやけた視界の中で、彼女の姿を見つけて自然と心が和らいだ。声を掛けるのも億劫で、水面はふらふらと寝室へ向けて歩き続けた。林檎が何か言っていたような気がするが、ぼんやりとした頭では処理しきれずに何一つ返事をすることが出来なかった。林檎の横をすれ違いざまに、その細い腕を掴む。一度倒れそうになりつつ、林檎を引っ張って寝室まで歩いて行った。ベッドまでなんとかやってくると、連れてきた華奢な体ごと倒れ込んだ。白いシーツに体を滑らせ、林檎の小さな体を両手で抱き締めた。伝わる温かさは、確かに彼女が存在することを感じられた。安心する香りに包まれ、水面は目を閉じると大きく息を吸い込んだ。林檎も胸の中の水面の頭を優しく抱き返してくれた。
「……林檎」
「ん? ……話せなくなったのかと思ったじゃない」
切なげに名前を呼ぶと、耳元でソプラノの声が返ってきた。それがひどく心地よかった。閉じた瞼の裏、暗闇の中で、何も考えられないまま再び口を開く。
「林檎」
「なに」
「……ふふ」
微笑みが零れた。返事が返ってくる。それだけでひどく気分がよかった。上から小さな吐息が耳を擽って、水面は瞼を薄く開いた。目の前に、白く滑らかな肌が広がっていた。サイズの合っていない服のせいで、大きくはだけている首回り。肉付きがないせいで骨が浮き出た、華奢で薄い体。透き通るような柔肌は、まるで絹のようだ。……なんだか美味しそうだ、と思った。ぼんやりとした頭は、何も考えられなかった。だから欲望のままに、その首へ顔を近づけた。白雪のような肌から良い香りがして、吐息が漏れた。そのまま舌を出し、目の前の首筋に這わせた。口に広がるミルクのような甘さ、滑らかな舌触り。伝わる生命の温かさ。頭上の吐息が震えた。
(……美味しい)
首の付け根まで降りてくると、もっと味わいたいという欲求が膨らんだ。舌に感じる甘さが耽溺させて、他のことは何も考えられなかった。白く無垢な首元に、水面は自身の歯をそっと突き立てた。
「ん……っ」
歯が食い込む柔らかな感触、舌に押し寄せる濃厚さ。美味しい。唇を這わせて、音を立てて吸った。口いっぱいに広がる甘さに陶然として、頭がクラクラとした。もっと、もっと味わいたいと思った。
「水面……っ、酔い過ぎよ。……わたしは獲物のガゼルじゃないわ……っ」
頭を掴まれ、引き剥がすように引っ張られた。だが林檎の弱い力ではびくともしていない。水面は噛み付いていた首元から口を離し、ぼんやりと林檎を見上げた。そして、ふにゃりと笑みを漏らす。
「ふふ、……確かにお前、小鹿そっくりだもんな」
「ガゼルと鹿は違うわよ……、ってそこじゃなくて。……お腹がすいているのなら、ちゃんとした食べ物を食べてよ。人体って不味いらしいわよ」
林檎はぐいと水面の体を押しのけるようにして、自身の体を後ろへ離した。ベッドの反対側から抜けると、裸足を床へ付けて着地する。何処からか発掘してきたらしい水面のスリッパを履くと、ペタペタと言わせて林檎はキッチンへと歩いていった。声だけが、寝室にいる水面のもとまで届く。
「何か用意してあげるから。確かこの前、水面がアイスを買ってきてたわよね……?」
水面は一度シーツに顔を埋めた後、俯せになったままキッチンの方へ重い頭を傾けた。林檎の背中を目で追おうとしたものの、複視となってピントが合わなかった。別にお腹が空いているわけじゃないんだけどな、と心の中で密かに思う。相変わらず頭の中はぼんやりと霞がかっていた。しかし考え事をする冷静さを、少しは取り戻せてきた気がする。
「……アイス、あたしはいい」
「え?」
「買ってきたアイス、お前用だから」
水面は体を回して仰向けになると、額へ腕を当てた。冷たくて心地よい。
「苺味。だから、あたしには甘すぎて合わない」
キッチンからは返事は返ってこなかった。水面は不思議に思い、腕をずらしてキッチンの方へと顔を向けた。相変わらず、視界がぼんやりとしてよく見えなかった。
「……今度からは苺味じゃなくて、二人で食べられるものを買ってきてよ」
キッチンの方から、小さな声がぽつりと聞こえてきた。子供の拗ねたような声に、水面は自然と口元を緩めた。
「じゃあ、そうする」
こんな些細な会話がどうしようもなく嬉しくて、胸を満たす。
「ねえ、もしかすると水面も美味しく感じるかもしれないわよ? 一緒に食べてみない?」
冷凍庫を開ける音が聞こえてきて、紅色の小さな頭がキッチンから顔を覗かせた。
「少なくともわたしよりは美味しいわ。ほら、早く」
「……持ってきてくれ」
「ベッドに落としたら大変でしょ。テーブルまで来て」
引き出しを開けるような音、ぺたぺたというスリッパの音、椅子を引く音。奥から聞こえてくる音は、どれも水面が来ることを疑っていない。水面は小さく呻いた後、重い体をのっそりと起こした。這うようにしてベッドを出て、大きく左右に振られながらテーブルへと向かう。林檎は先に椅子にちょこんと座り、水面を待っていた。林檎の向かいに腰かけると、林檎は手元のカップアイスの蓋を剥がした。
「甘いか味見して」
テーブルに肘をついてぐわんぐわんと揺れる頭を押さえながら、水面は林檎へとそう言葉を投げた。その言葉に林檎はスプーンで桃色のアイスを掬うと、自身の口元へと運んだ。小さな口がスプーンの先を包み込み、ぷっくりとした唇から柄が抜かれるのを水面は静かに目で追っていた。空になった壺が現れ、林檎はもぐもぐと口を動かした。途端にその表情が晴れる。
「美味しいわ。そんなに甘くはないわよ」
林檎は一口分欠けたアイスを見下ろした。そして、寂し気な笑みを漏らした。
「アイスなんて何時ぶりかしら。それこそ水面と姫月と食べに行ったのが、最後だったかも。……懐かしいわね」
「……え、あれから一度も食べてなかったのか?」
水面は頭を押さえたまま、驚いたように林檎を見上げた。ぼんやりしていた頭がまた少し晴れた気がした。林檎は甘いものが好きで、アイスも好物だったはずだ。三人で食べにいったのは学校に通っていた頃で、水面がまだ『ブルー』を発足すらしていなかった時期だ。
「もしかして、アイス苦手になってた?」
「違うわ、アイスはとても好き。でも……少し、子供っぽいじゃない」
林檎は自嘲するように苦笑を零し、スプーンの先をアイスへと押し込んだ。水面は小さく首を捻る。
「血も涙もないような冷酷なリーダーには、不釣り合いだと思わない?」
「そうか? あたしは『ブルー』の長になった後も、バクバク食べてたけど……」
「水面はそれでいいのよ。だって『ブルー』の人達は水面の強さを崇拝していて、アイスを食べたからってその強さは変わらないもの」
スプーンが動くと、窪みの中に桃色のアイスがくるくると丸まっていった。
「でも、『レッド』は違うの。『レッド』の人達は、長への尊敬と畏怖で従っていた。アイスを好んで食べるような長だって知ったら、怖いとはならないじゃない? それはわたしの場合、忠誠心に直結するの。だから常に敬服され、恐れ慄かれるような人物でいる必要があったわ。その人物像に合わないような行動は、一切排除するように努めていたの。アイスもその一環ってだけ」
重い頭を支えるのに限界が来たかのように、水面はテーブルへ腕を組んで枕にすると、その上へと落ちるように突っ伏した。そして正面の人形のような顔の少女を、間からそろりと見上げた。
(お前は『レッド』の長になって、沢山のものを失ったんだな)
彼女は完璧に物事を熟すが故に、普通なら達せない域にまで足を踏み入れてしまった。もともとの自分を捨て去り、理想の長を完璧に演じ切る程に。その代償に、彼女は多くのものを失ってきたのだろう。それを止めてやれる人間は、彼女の周りにはいなかった。その時には、敵対組織の長になっていたからだ。水面は悲痛な表情を隠すように、腕の中に顔を埋めた。同時に、スプーンがアイスを乗せてカップから持ち上げられた。水面に向かって伸ばされる。
「ほら、水面。あーん」
その言葉に渋々と顔をあげ、腕から頭を離す。差し出されたスプーンへ向けて身を乗り出し、大きく口を開けた。程なくして、スプーンの先が水面の口の中へと入れられた。パク、と食いつくと、口の中に冷たさが広がった。頭も同時に冷え、酔いが冷めていく気がした。スプーンが抜かれ、水面は味わうように口を動かした。そして舌に広がる苺の強烈な甘さに、思わず目を見開く。
「甘……っ」
「ふふ」
苦い顔を隠せず、責めるように林檎へ視線を向ける。すると目の前の顔は、悪戯っぽく笑みを浮かべた。猫のように細められた瞳、愉し気に上がった口角。
「美しい顔が台無しね?」
林檎はくすくすと満足気に笑みを零した。水面は言葉を詰まらせた後、甘さの残る口を尖らせた。じっとりと睨む。
「わかってて食べさせたな?」
「これでちょっとは酔いが醒めた?」
全く反省する気の無さそうな返答に、水面は不貞腐れたように頬杖をついた。
「醒めたよ。お前、昔から性格悪いよな」
「人を食べようとした人に言われたくないわ」
どうやら仕返しのつもりだったらしい。水面は何も言い返せなくなって、口を閉じた。……静寂。それから、堪え切れずに吹き出すように笑みを漏らした。林檎が笑みを零したのも同時だった。二人は向かい合って、一緒になって笑い合った。なんだかくだらない小競り合いが、ひどくおかしく思えた。『ブルー』の長の立場である今、こんな風に言い合える人はほとんどいない。懐かしい感覚だった。まるで、あの頃に戻ったようだと思った。
「水面」
一頻り穏やかに笑い合った後、優しい声に名前を呼ばれて顔をあげた。林檎は愛し気に目を細め、水面を真っ直ぐと見上げていた。きっと自分も同じ眼差しを向けているのだろうなと水面は思った。お互い目の前にあるものがどれだけ大切で、どれだけ得難いものかを知っている。それが瞳に全て表れているように思った。
「あのね」
林檎は視線を下げた。何やら言いたいことがあるような表情だったが、彼女はそれを口にするのを躊躇っているようだった。僅かに辛そうに眉を寄せたあと、すぐに表情を戻して顔をあげる。
「……今から言うことを、よく聞いて。……たまかさんと姫月に気を付けて欲しい」
静かな部屋に、声色を落とした林檎の声だけがはっきりと響いた。藪から棒の発言に、水面の頭から酒の心地よさがどんどんと抜けていく。
「……何、突然」
「なんだか怖くなって。こんな取るに足らない無益な日々が、終わりを告げてしまったらって……」
林檎は自嘲するように笑みを漏らした。それから、水面を真っ直ぐと見つめた。大きな瞳には強い決意が宿っていて、その視線は鋭い。
「わたしは『レッド』側の人間よ。だから『レッド』に不利益を被らせるような情報を、あなたには流せない。でも……旧友として、水面の身を守るために力になることは出来る」
テーブルの上に置かれたアイスは、その桃色の身を柔らかくふやけさせ始めていた。宙に浮いたままのスプーンの先は、淡く照り返して光を反射している。
「碧さんが殺された時、水面の協力要請を断ったこと……ずっと、後悔していたの。今度こそあなたの力になれるのなら、わたしは水面を守りたい」
水面はその強い眼差し、そして自身を見上げる小さな頭を戸惑ったように見下ろしていた。彼女も自分と同じ様な想いを抱いていたなんて、考えたこともなかった。黙ったままの水面の代わりに、林檎は言葉を続けた。
「ずっと考えていたのよ。今の『ブルー』は、『グリーン』の商品の影響で強くなりすぎている。このままでは『ブルー』が三組織の均衡を壊し、一強になるだろうって。でもそれを、たまかさんや姫月が黙って見ているはずがないの。近いうちに、必ず対策をしてくるわ。……もし『ブルー』の勢いを止められないとすれば、少々過激な手も使ってくるでしょう。それは水面、あなたの身の危険を意味するわ」
林檎の語り掛けるような声は落ち着いているように聞こえたが、水面は言葉の端々に滲み出る熱を感じとった。
「たまかさんや姫月が水面の命を奪うとまでは考えたくない。けれど、戦況的にはもう最善手がそうだと見えている段階まで来ているわ。今後さらに『ブルー』がAIを増やしたとなれば、『ブルー』は無限に復活する猛獣達の魔窟になってしまうもの。手が付けられなくなるのは目に見えているのだから、その前にどうにかAIを増やすことを止めようとするでしょう」
「AIを増やすことを、止める?」
「一番わかりやすい手は、AI推進派を殺すことね。『ブルー』の決定権を持っていてAIに肯定的な人間を排除すれば、『ブルー』の戦力がこれ以上大きくなることを防ぐことが出来る。……つまりあなたよ、水面」
水面はパチパチと目を瞬いた。回らない頭で、必死に林檎の言葉を咀嚼しようと努める。しかし酔っていない時でさえ頭を使わない水面にとっては、そう簡単に話についていくことは出来なそうだった。最近は『グリーン』の商品のお陰で追い風が吹いているなと水面が呑気に思っている間に、林檎は先の未来のことまで見通して水面の身を案じていたらしい。昔からそうだった。林檎は常に頭を使い、未来を読み、その時出来る最善手を考える。心配になるくらい考え、考え、考え抜くのだ。
「わたしに出来ることは、あなたに策を授けることくらい」
林檎はその声から凛とした強さを消し、声量を小さくしてそう言った。淡々としていた口調に、感情が混じる。
「もちろん信じなくてもいいわ。わたしは敵側の人間だから。『レッド』の陰謀の可能性だって充分あるもの、疑うのは当然。……それでも、きいてほしい。聞き捨てる選択をしてもいいから」
林檎は再度声色を落とし、その顔から表情を消した。淡々とした口調、それは『レッド』の長だった時の彼女の姿なのだろう。
「まず『レッド』。たまかさんが長の今、たまかさん自身は水面の命を奪うことを考えてはいないでしょう。ただ状況の洞察に一番長けているのは『レッド』だから、『ブルー』を止めることには意欲的なはずよ。彼女の性格からして、まずは水面に対話で説得を試みるはず。あなたにAIを放棄するように訴えてくるでしょう。たまかさんが不自然に水面やAIを否定してきたら警戒すること。向こうは既にあなたをコントロールしようと動き始めているということだわ」
静かな薄暗い部屋に、林檎の声だけが響いていた。
「ただ、たまかさんはこういうことには不慣れ。場数も踏んでいないし、苦手分野に思える。だからたまかさんに流されることも、その兆候を見落とすこともないでしょう。たまかさんが仕掛けてきた際には、たまかさんではなくその周りに目を光らせて。たまかさんはあなたの命を奪う気はなくても、周りは違うわ。あなたをどうするつもりなのかは、周りの行動に自ずと出るはずよ」
林檎は小さく息を吸って、話を続けた。
「次に『ラビット』。『レッド』のような指令系統が存在していない分、姫月は裏から手を回して『ラビット』の子達を誘導するでしょう。『ラビット』は生身の人間よりAIを優先的に襲って、その数を減らそうとするはずよ。復活するのだから一見無意味な行動に見えるけれど、だからこそ『レッド』はやらないのが明確な手だから、『ラビット』が担う価値はある。復活にも『グリーン』が修理する時間は必要だし、その間になるべくAIの数を減らして抗争のアドバンテージを取ろうとするのは堅実なやり方ね。『レッド』と手を組んでその隙を叩けば、猛獣だらけの『ブルー』を陥落させることも出来るかもしれないもの」
淡々とした声は、淀みなく紡がれて途切れることはない。一点を見つめる林檎の瞳は、未来を見通しているかのように険しかった。
「けれど、『ラビット』の真の目的は別にあると思う。恐らく『ブルー』のAIを奪って、自分達のものにしようとしてくるはずよ。汎用AIでは満足できない『ラビット』の者達は、他の組織のおもちゃを全部奪って自分達のおもちゃにしたがるでしょう。それに『ブルー』のAIを奪ってしまえば修理の機会を与えずに廃棄出来るから、姫月にとってもその方が都合がいい。連れ去ろうとしたりパーツを盗んだりしようとしてくるでしょうから、注意して交戦すること。特に怪我を負った場合は、早めに撤退するべきよ。『ブルー』は戦闘面で無敵と言えど、『ラビット』は解体したり掠めたりするのが得意、……んぐっ」
小さな手から掠め取ったスプーンに柔らかくなったアイスを乗せ、やにわに林檎の口へと突っ込んだ。止めどなく続いていた言葉が止み静かになると、水面は林檎の口からスプーンを抜いた。林檎は戸惑ったような表情をしていたが、口の中に食べ物がある状態で話すなどはしたないことは出来ないらしく、そのまますごすごと閉じた口を動かしていた。
「わかったよ、気にかけておく。だからこれ以上はもういいから」
水面は溶けたアイスを再度掬い、林檎の前へとスプーンの先を掲げた。小さな喉がこくんと上下したあと、林檎は不服そうに眉を寄せた。
「……乱暴すぎるわ。話を止めたいならそう言って、……ちょっと」
桃色の唇に、同じ色のアイスを押し付ける。林檎は口を開いて渋々と受け入れた。
「お前があたしのこと気にかけてくれたのは嬉しいけど、もう充分だよ。あとは美味しいアイスを食べて、楽しいことでも考えな」
スプーンを引き抜くと、林檎は不満そうに水面を睨みながらも大人しく口を動かしていた。林檎を黙らせる新たな方法を会得してしまったかもしれない。水面は意地の悪い笑みを浮かべ、睨みながらも反撃できない林檎をによによと見下ろした。
「美味い?」
「……。美味しいけど」
優しい声色で尋ねると、嚥下を終えた林檎は拗ねたようにそう言った。再びアイスを掬おうとする水面へ、「自分で食べられるわ」と言って林檎が横からスプーンを取り上げた。
「とにかく。あなたの周りには敵がいて、着々と準備をしているということは肝に銘じておくのよ。安易に騙されたらいけないわ」
柔らかく液状になりかけているアイスを掬うスプーンを目で追いながら、水面は両腕を枕にして右頬をくっつけた。横向きになった世界で、アイスのカップからスプーンが上がっていくのをぼんやりと見上げる。スプーンの壺から、ポタリと桃色の雫が垂れていった。
「誰が敵で、誰が味方なのか。よく見極めるのよ、水面。……わたしも含めてね」
小さな口へとスプーンの先が入れられる。
「でないと、あなたは優しすぎるから」
スプーンの先が抜かれて、小さく艶やかな唇が閉じられる。その言葉を最後に、部屋は夜の静けさを取り戻した。テーブルに紺色の髪をオーロラのように零しながら、水面は咀嚼を続ける林檎をじっと見上げていた。常に獲物を狙うように研ぎ澄まされている鋭い目は、今は鳴りを潜めてぼんやりと機械の旧友を映していた。
——誰が敵で、誰が味方なのか。
古い友人、そして新しい友人の顔が脳裏に浮かんだ。水面は重くなってきた瞼に逆らえず、ゆっくりと視界を閉じた。酒による心地よい眠気が全身を包む。
——あなたは優しすぎるから。
沈んでいく意識の中、舌足らずな声が頭に響いて余韻を残していった。誰が裏切るのか、誰が敵なのかはわからない。人の心の奥底まで覗くことは出来ないし、人はあっけなく他人を騙す。しかし誰が味方なのかは、自ずと見えているような気がした。
後日。水面は一人、人通りのない脇道で足を止めた。辺りには壊れた空き家や拉げたガードレール、穴の空いた雨除けの上屋くらいしかない寂れた景色が広がっていた。水面は人影を探して辺りを見渡した。目当ての小さな姿はない。水面の手には、トートバッグが提げられていた。
(時間、指定しておけばよかったな)
雑なところが出てしまった。水面は小さくため息を漏らすと、一週間前に泣いている背中がいた場所へと立った。少女に返すと約束した手前、ここで彼女が現れるまでひたすらに待つしかない。腕を組もうとして、トートバッグを提げていて出来ないことに気が付く。揺らしてしまったことが気になったのか、バッグは激しく左右に振れて一頻り暴れた。水面はトートバッグを宙へ掲げ、中へと語り掛けた。
「もう少しで家族に会えるんだ。気持ちはわかるが、大人しくしててくれ」
水面の言葉が通じたわけではないだろうが、トートバッグの揺れは止み、大人しくなった。水面は静かになったトートバッグを地面へ下ろすと、両手を組んで伸びをした。伸ばした先の空は厚い雲が覆っていて、太陽を隠している。雨が降る前に受け渡しが出来るといいなと思いながら、水面はトートバッグを見下ろした。
『グリーン』の修理は、成功した。『ぽち』は破片の寄せ集めだったのが嘘のように、犬の形になって帰って来た。頭を傾げ、円らな瞳を向け、尻尾を振る様はまるで生きているようだ。しかし『グリーン』製のAIと違い、ぽちのボディは機械感のある金属製で出来ていた。『グリーン』によると、壊れる前の形状をなるべく再現して修理したらしい。鈍色に光る体、部品が剥き出しの関節、動く度に鳴る駆動音。犬の形を模してはいるが、一目見ただけで機械と分かるようなデザインだ。トートバッグに入れられたぽちは、今は大人しく座っているらしい。さっきまで暴れていたのが嘘のようだ。バッグ越しでも少女との思い出の地に来たことを察しているのかもしれない。
(ぽちもあの子に会えるのがきっと楽しみなんだろうな)
水面はくすりと笑みを漏らした。『グリーン』に修理を依頼して、本当に良かったと思う。無数の細かい残骸からここまで完璧に直すには、きっと相当な困難と努力があったのだろう。この国でも『グリーン』にしか成せないような偉業だ。家族の女の子との再会に『グリーン』の者達も立ち会わせてやればよかったと、水面は今更ながらに連れて来なかったことを悔いた。
昼前から待ち始め、昼が過ぎ、陽が傾き、空の色が変わってきた。水面は立ちっぱなしにも飽き、しゃがみ込んだり、ぽちを膝の上に乗せたり、その場でスクワットをしたりして女の子を待ち続けた。何時間経っても、ぽちの家族は現れなかった。いよいよ暗くなりだした空を見上げ、水面は眉尻を下げた。
(家族と会うのをあんなに切望していたのにな。今日が一週間後だって気が付いていないのか……?)
女の子の身近に時間や日付を確認出来る物がなかった場合、一応有り得る事態だ。家族がぽちだけで一人きりならば、空き家を転々として暮らしていた可能性もある。その場合、身の回りの物資はあまり期待できない。
(あるいは機械のことなんてもう……いや、よそう)
水面は思い浮かんだ考えを追い払うように首を振った。……きっと日付を間違えているだけだ。水面はトートバッグのファスナーを摘まむと、ゆっくりと開けていった。お座りしていた犬型のロボットの頭が顔を出す。
「悪い、これ以上は一緒に待ってやれないんだ」
暗くなった空は、夕刻を告げている。流石に水面もこれ以上『ブルー』を留守にすることは出来ない。ぽちは水面の言葉に、首を傾げてみせた。駆動音が鳴る。
「お前は女の子が来るのをここで待ってやってくれ。たぶん明日になったらここに……」
言葉を掛けながらトートバッグから出してやると、ぽちは元気よく鳴いて水面の言葉を遮った。そして尻尾をこれでもかと振りながら、水面のもとから勢い良く駆け出していった。
「あ、おい」
まるで目的地があるかのように、一直線に駆けていく。そのスピードは動物特有の素早さで、すぐに見失ってしまいそうだった。水面は困ったように鈍色に光る背中を目で追い掛けていたが、すぐに後に続くように二枚歯を鳴らした。あまり遠い場所に行かれても、女の子が見つけることが出来なくなってしまうだろう。連れ戻そうと、猛スピードで駆けるぽちを追い駆けていった。水面は足が速いため、すぐにその距離は縮まっていく。一匹と一人は全力で寂れた道を走っていった。
やがて、ぽちはある倒壊した空き家の前で足を止めた。水面も追いつき、その後ろへと立つ。水面は息を切らすこともなく、そのままぽちを持ち上げようと中腰になって手を伸ばした。金属のボディに触れる直前、ぽちはするりと水面の手から逃れた。そして瓦礫の奥へと進んでいってしまった。水面は頭を掻き、ぽちに続いて積み上がった木材を踏みつけた。これらは家の柱だったのだろう。割れたスレート屋根を避けながら、水面は瓦礫の山を進んで行った。
「ぽち」
山になっている石材と木材の間にぽちの背中が見え、水面は名前を呼んだ。ぽちは尻尾を千切れるのではないかという程元気よく振っていた。ご機嫌である。水面の声が聞こえているのかも怪しい。水面はため息を漏らして障子の組子を跨いで近づくと、ぽちを抱こうと手を伸ばした。しかしぽちの視線の先を目で追う内に、その手は宙で止まってしまった。
ぽちの見つめる先にあったのは、倒れた女の子の死体だった。裂けた服から覗く腹には大きな傷跡があり、床一面の血は既に黒くなっていた。青白い肌、息をすることのない口。一週間前に泣いていた顔と同じだった。ぽちはやっと見つけた家族との再会を喜ぶように、彼女の前で尻尾を振り続けていた。
「……」
水面は小さな死体から目が離すことが出来ず、手を伸ばしかけたまま固まっていた。死体の状態からして、恐らくどこかの抗争に巻き込まれて殺されたのだろう。死んでから一日経っているかどうかというところだ。ぽちは死体に近寄ると、袖の端を銜えて引っ張った。二人でいる時、いつもこうして意思表示していたのかもしれない。しかし動かない少女はロボットに運べない程重くなっていた。全く動かない女の子に、ぽちは口を離して一声鳴いた。声が返ってこないことが不思議なようで、ぽちは首を傾げていた。水面はそれを見て、ゆっくりとぽちと死体へと近づいた。寂しそうな背中に手を伸ばす。
「ぽち。……この子は修理出来ないんだ」
ぽちの頭を撫でると、金属の滑らかな感触が冷たく伝わった。
「でもきっと、この子は最後までお前を待ってたよ」
淡い笑みを向けてやるが、ぽちの視線は死体から逸らされることはなかった。水面は女の子の死体へ哀悼の意を込めた視線を向けたあと、中腰を解いて背筋を伸ばした。そしてその場に動かないままのぽちを見下ろす。
「ぽち、お前はこれから自由だ。家族の傍にずっといてもいいし、また壊れないようにどこかに身を隠してもいい」
女の子の家族を勝手に連れて行くのもどうかと思い、水面はぽちへとそう別れを告げた。きっと一緒にいたいはずだと思った。女の子も、ぽちも。
水面は死体とロボットに背を向けた。二枚歯を響かせ、瓦礫の山を越えていく。障子、瓦礫、屋根、木材、数多のものを踏み越えて、倒壊した家から出る。背後から寂し気な鳴き声が小さく聞こえてきて、水面は家の中を振り返った。ぽちは死体の横で丸くなり、有機ELの瞳を閉じていた。家族が寝ていると思い、一緒になって寝ようとしたのかもしれない。水面はその光景を、ぼんやりと眺めた。
(ぽちは修理の叶わない家族がもう一度動くと思って、これから永遠ともいえる時を一人で生き続けるんだな)
ぽちは『グリーン』の作った精巧なAIではない。だから、そこにはぽちの意思や思考は存在していないのかもしれない。それはなんだか、せめてもの救いのように思えた。
(でもきっと、お前が無事に直ったことをあの子は天国で喜んでいると思う)
例え機械でも、彼女達は家族なのだから。
——本来いないはずの人に夢中になって、現実が見えていない。
水波の冷たい言葉が脳裏に蘇る。しかし眼前に広がる寄り添い合う機械と死体の光景は、決して幻なんかではない。女の子とぽちが家族であることは、水面には目の前に存在する現実に違いないように見えた。
(例えぽちに意思や感情や思考が存在しなくても、女の子は家族だと信じて愛していた。ぽちが機械だとしても、女の子の中の感情や絆は本物だ。だからあたしは、こいつらは『家族』だと思う)
死体と共に眠るロボットへ、水面は「無事でな」と小さく言葉を投げた。ぽちは頭を僅かにあげたあと、すぐに体勢を戻した。水面は今度こそ背を向け、倒壊した家に家族達を置いて去っていった。
女の子は死んでしまった。けれど大事な大事な家族が無事でいてくれたから、きっと幸せだったはずだ。水面は今にも降りそうな空模様を見上げながら、そんなことを考えた。
***
■Side W
「あっ、たまかちゃんだー」
「わ~、偶然だねっ! 遊びに来てくれたの?」
息を切らせて駆け付けたたまかは、場違いな歓迎の声を受けた。後ろに控えた桜や『レッド』のメンバー達も、怪訝な顔をしているに違いない。たまかは息を整えながら、見知った顔を見渡した。
「……虹さん、方舟さん」
『ラビット』が『レッド』の者を捕まえて暴れている、という報告が入ったのはつい先刻のことだった。たまかはその場にいた桜と二名の『レッド』の少女達とともに、報告にあった現場へと駆け付けてきて今に至る。……最近、『ラビット』が暴れているという連絡が前にも増して引切り無しに入るようになった。AIによって戦力の増した『ブルー』も好き放題に暴れ回っているが、直接的に『レッド』を襲っている件数は実は『ラビット』の方が多い。『ブルー』程戦闘が得意でない上に集団行動をしないのがまだ救いだが、『ラビット』による『レッド』の怪我人は日に日に増えていたのだった。
「……これは……」
たまかは目の前に広がる光景に、顔を顰めた。虹の持つ少女の体は、チェーンソーで真っ二つに切られていた。血みどろだが紅色の制服を着ていることから、死体は『レッド』に所属する者だったことが窺えた。露出して長く飛び出た腸、地面に撒き散る血や白い液体、てかてかとした表面が顔を出している臓器。地面に捨てられた下半身は、太ももから下が切断されている。くっついている足の方は、指が一本しか残っていない。たまかの後ろで、『レッド』の少女達は顔を強張らせていた。
「えへへ、見てよたまかちゃん!」
黒白の制服を血で汚した虹は、にっこりと満面の笑みを浮かべた。まるで巨大魚を釣った子供のように、動かぬ上半身を見せつける。ボサボサに乱れた頭がカクンと揺れ、繋がった腸が引っ張られて下半身の中からずるりと落ちそうになっていた。
「本物そっくりでしょ! すごくない!?」
虹はきゃっきゃと楽しそうにそう言った。その横で方舟も別の少女の体に抱き着きながら、にこにことしている。方舟の腕の中の少女はまだ意識はあるようだったが、酷く虚ろになっていた。腕には捨てられている錐で開けたらしい小さな穴がいくつか出来ていて、それぞれ生花が一本挿してあった。白い花びらが美しい大輪の花が腕にいくつも咲き、茎は肌の下へと埋もれている。血が垂れているが痛がっている様子はない。さらに焦点の定まらない目を見るに、何か飲まされているようだった。
「本物……って、どういうことですか?」
たまかはその惨状に眉を寄せながら、小さく尋ねた。すると横から、たまかにだけ聞こえるように桜が小声で口を挟んだ。
「捕らわれている二人は、AIの者達です。……人体の作りが、人間そっくりという意味合いなのでしょう」
「AI……」
たまかは桜に言われて、『グリーン』が連れてきたAIの中に二人の姿があったことを思い出した。体を得たAIは、見た目だけでは機械かどうか判別がつかない。実際目の前にある死体も、AIと言われなければわからない程に精巧に人の体を模していた。臓器や血管、骨、腸に至る細部まで、本物と区別がつかない。たまかは死体から虹へと顔を向けた。
「もしかして……この方達がAIとわかった上で、こんなことを?」
「そうだよ! AIならたまかちゃんも、生きている人間より怒んないでくれるかなーって?」
こてりと可愛らしく首を傾げ、虹はぺろりと舌を出した。彼女の右手はチェーンソーのハンドルを握っていて、静止している刃には血や肉片が付着していて可愛さを相殺していた。
「……AIだからと言って、傷つけていいという訳では……」
たまかは血みどろの死体に目を向け、顔を曇らせた。先日『レッド』のメンバーが怪我をするのを防ぐためAIに突入してもらったが、それとはまた話が違ってくる。腹の中身をぶちまけた姿に、たまかは胸を痛めた。
「こんだけバラしても復活出来るって、革命的だよね?」
虹は歪な笑みを浮かべた。
「ねー、たまかちゃん。『これ』、頂戴? 修理すればまだ遊べるもんね?」
虹は動かなくなった死体を一瞥し、揚々と尋ねた。その横で、方舟もたまかへと無邪気な顔を向けた。
「この子も欲しいな! も~っと可愛くアレンジしてあげるの!」
にっこりと花咲くような笑顔で、方舟は抱き締めた少女へと頬擦りをした。腕の中の少女は、相変わらず反応を見せなかった。
「他の組織の制服を着た汎用AIってやつより、この子達の方が何倍も素敵だから!」
「そうそう、やっぱ反応が違うっていうか。記憶や経験があるのとないのとじゃ、悲鳴が全然違うもん。だから『ラビット』の子達はみ~んな、他の組織のAIが欲しくなって争奪戦になってるんだよ」
……『ラビット』との抗争が増えている理由の一端が垣間見えた気がした。たまかは顔を強張らせたまま、重い口を開いた。
「……いけません。AIだからといって、『レッド』の方をこうして傷つけることは許容できません。診させていただけませんか」
「ええー?」
虹と方舟は口を尖らせた。不服そうにたまかに抗議を始める。
「こんなに楽しいおもちゃ、独り占めするのはずるいよ~」
「そうだよ! また新しく作ればいいんじゃないかな?」
「……」
二人は『おもちゃ』を手放す気はないようだった。『また新しく作ればいい』。そう、AIならそれが現実に出来てしまう。だからこそ二人は、AIを傷つけたとしてもたまかも悲しまないと思ったのかもしれない。……どんどんと、命が軽んじられていっている。たまかは沈痛な面持ちで、首を横に振った。
「『レッド』の方を殺そうというのなら、私も『レッド』の長として止めなければなりません。……すみません」
拗ねたように見つめる友達の顔を見渡した後、たまかは短く息を吸った。その顔付きが変わる。たまかはそっと右手をあげた。
それを見た桜が、瞬時に後ろで動いた。彼女は小型の催涙スプレーを虹達へ向けていた。虹や方舟もそれに気付き、すぐにチェーンソーやナイフを向けようとしたが一歩遅かった。ノズルから噴射された橙色の濃い霧が、身を乗り出した『ラビット』の二人を包み込む。見知った顔に会って油断していたらしい二人は、もろにそれを浴びたようだった。二人は仲良く咳き込むと、目を強く瞑りながら煙を厭うように両手を振ってよろけた。みるみる内に二人の閉じた目から涙が溢れていく。たまかは軽く顔を守っていた右手をおろすと、すぐさま方舟から放たれた少女のもとへと駆け寄った。同じく駆け寄ってきていた桜とともに担ぎ上げる。もう一人の既に死体となったAIには、後ろに控えていた『レッド』の少女達が駆け寄っていた。
「……OCガスですので、擦らないように注意してください。大量の冷水で洗い流してくださいね」
立ち去る前に、たまかは目の開けられない二人へそう声をかけた。二人は目の痛みを堪え切れないようで、地団駄を踏みながらその場で駆けまわって大騒ぎをしていた。たまかの言葉が耳に届いていたのかは分からない。それでも彼女達の痛みが長引かないよう願い、自然と声を掛けてしまっていた。たまかは『レッド』の少女達の視線に頷きを返し、その場を後にした。OCガスならば自然由来の成分のため、後遺症などが残る可能性は極めて低い。目の痛みはしばらく続いてしまうだろうが、虹と方舟の体に傷が残ったりはしないだろう。……催涙スプレーを使用する案は、林檎が提案したものだった。たまかの顔見知りの者達だと事前に見抜き、彼女達がある程度油断することも見越してこの手段を推したのだろう。使用する際に隙が生まれ、また効果も他のものに比べれば強くはないが、その分使用対象者に傷を負わせるリスクは限りなく低い。たまかの要望に最も適した鎮圧手段を提示してくれたようだった。『レッド』の者に惨い事をすればどうなるか、二人にとってはお灸代わりとなったかもしれない。
たまか達は『レッド』の縄張りへと二人のAIを運び込んだ。近くにあった空き家に入ると、怪我人を回復体位で寝かせ、たまかはすぐに応急処置を始めた。メンバーの一人は外で敵を警戒し、桜は中に敵がいないか簡単に確認してまわった。残ったメンバーは、もう一人のAIが既に死亡していることを隣で改めて確認していた。
「呼吸はありますが、反応はないままですね」
たまかは容態の確認をした後、腕の怪我の止血に当たった。彼女の腕の中から抜いた花は、その茎のほとんどを血で真っ赤に染め上げていた。
応急処置を終えると、死亡を確認したAIは『グリーン』へ、怪我を負ったAIは『不可侵の医師団』へとそれぞれ送り届けることになった。道中は無線で林檎に安全な道へ誘導してもらい、敵を避けて目的地へ辿り着くことが出来た。『不可侵の医師団』と『グリーン』へそれぞれ送り届けた後、『レッド』の二人の少女達は別の任務へと合流するため別れることとなった。桜と二人になったたまかは、『レッド』のアジトへ帰るため、共に帰路を歩き始めたのだった。
『レッド』の縄張りの近くまで戻って来た時、大きな怒鳴り声がたまかの耳に届いた。その荒々しい声は怒気に満ち、只事ではないことは明らかだった。声のした方へと顔を向けると、横で桜も同じように視線を向けているのが見えた。
「……抗争が勃発したようですね。怪我人がいるかもしれません。いきましょう」
堪らず駆け出したたまかの背中に、遅れて桜が続く。二人は声のした方へと全力で走っていった。突き当たりを曲がると、四人の少女達が睨み合っている光景が現れた。片や黒白のフリルの塊が二名、片や薄群青色に太い帯を巻いた者が二名、それぞれ火花を散らして対峙していた。薄群青色の奥の少女が、駆け付けてきた白色と紅色へと顔を向ける。それは、たまかの見知った顔だった。
(……水面さん)
長身の先の美しい顔は、驚いたようにたまかを見つめていた。しかしすぐに『ブルー』の仲間の怒声が響き、そちらへと意識が持っていかれる。
「訳の分からないいちゃもんつけやがって! 喧嘩を売ってきたってことでいいんだよなあ?」
『ラビット』の少女達へ身を乗り出し、眼を飛ばす『ブルー』の少女。こちらはたまかの知っている顔ではなかった。彼女は怒りに眉を吊り上げ、目の前のフリル達を睨みつけていた。今すぐにでも手や足が出そうな剣呑な雰囲気だ。
「何言ってんの! 盗んでおいてよく言うよ!」
ぷんすかと怒る『ラビット』の少女は腰に両手をあて、『ブルー』の気迫に負けずに同じ様に小柄な身を乗り出していた。カチューシャをつけたショートカットを揺らし、彼女はふんと鼻を鳴らした。
「『ラビット』のお金をごっそり奪ったの、あんたたちでしょ! キャプテンは優しいから気にしてないけど、あちし達はそんな優しくなんてないよ!」
彼女もたまかの知る人間ではなかった。『ブルー』の少女のような気迫はないが、かなり頭に来ている様子である。
(お金……?)
両者の只ならぬ雰囲気に、たまかは思わず困惑と共に足を止めた。とりあえずこの場の者は全員怪我はしていないようだ。抗争に発展しないよう祈りながら、たまかは息を潜めて成り行きを見守った。
「お前らの金なんか知らねえよ! そう言うお前らこそ、『ブルー』の武器を掻っ攫っていきやがったくせによ!」
「『ブルー』の武器なんてつまんないもの、『ラビット』が持ってく訳ないでしょお! ねえ!?」
小柄な少女は横の仲間へと同意を求めるように顔を向けた。同じ黒白のフリルとレースに身を包んだ少女は、その垂らしたブラウンのセミロングを振ってこくこくと頷いた。
「そ、そうだよ。それよりお金を持っていった分は、ここで払ってくれるんだよね……?」
「あぁ!?」
『ブルー』の少女は凄みを利かせて詰め寄った。『ラビット』の小柄の少女はそれに負けじと睨み返し、セミロングの少女は身を縮めて恐々と相手の顔を窺った。
「もちろんお金じゃなくて、あんたの体でいいよ! 『ラビット』は今、あんたみたいなのを求めてるんだから!」
小柄な少女は怯むことなく堂々と胸を張った。その言葉に、『ブルー』の少女は思い切り眉を寄せる。
「何言ってんだ?」
「他の組織の『おもちゃ』が欲しいってコト!」
『ラビット』の少女はにんまりと忍び笑いを浮かべた。先程虹と方舟が、『ラビット』の少女達は他組織のAIを欲しがっていると言っていたのを思い出す。どうやら目の前のこの『ブルー』の少女は、AIらしい。そして『ラビット』の少女達は、それがわかっていて喧嘩を売ったようだった。
「え……」
『ラビット』の少女の言葉に目に見えて動揺したのは、なぜか水面だった。AIの少女の陰で、水面は警戒を強めるように『ラビット』の少女達へと険しい眼差しを向けた。
「というわけで! あんたを頂戴!」
『ラビット』の少女の明るく張り上げられた声に、隣で仲間の少女が顔付きを変える。手にしたサバイバルナイフを構え、『ブルー』の少女目掛けて突撃した。彼女はフリルを靡かせながら素早くナイフで突いたが、『ブルー』の者が接近戦で遅れをとるはずもない。袂を舞わせて軽々と迫った腕を止めると、そのままナイフを持つ手首を捻り上げた。当然腕力も『ブルー』の少女の方が上で、『ラビット』の少女の手はあっけなく捩じ切られて骨が外れてしまったようだった。苦痛の声を噛み殺す『ラビット』の少女は、しかし逃げようとはしなかった。まるでそれが予想出来ていたかのようだった。そしてその奥で、カチューシャをつけた小柄な少女が『ブルー』の少女へ向けて何かを投げつけたのが見えた。宙を舞うのは、ピンの外れた小型爆弾。それは仲間もろとも『ブルー』の少女の命を奪おうとしていた。
「——!」
手榴弾にたまかが気付いた時には、既に場の者達は動いていた。桜は自身の長を守ろうと、たまかを思い切り後ろへ引っ張っていた。同時に盾になるため爆弾に背を向けて間に入り、たまかを伏せさせて自身の胸の中へと匿った。一方サバイバルナイフを持った少女は、手首を捻じるために密着していた『ブルー』の少女を抱くように捕らえていた。爆弾の着弾する場所に固定し、彼女を逃げられなくしようとしているらしい。そして爆弾を投げた少女も、あろうことか自身が投げた先へと突っ込んでいた。彼女も仲間と共に『ブルー』の者を留めようとしたらしい。まるで最初から自分達が死ぬことありきで計画を立てていたようだ。もしくはその方が『楽しい』と思って即興で動いたのかもしれない。どちらにせよ、『ラビット』の二人は『ブルー』の者とともに心中するつもりのようだった。『ブルー』の少女は二人掛かりで襲われているにも拘らず、冷静に対処していた。抱き着くように掴まれていた体をその場で回転させ、相手の腕の内側へ入り込むと脱臼させた腕を掴んだ。その腕を捻じ曲げると同時に、迫っていたもう一人の少女へと強く踏み出す。顎を狙って曲げた肘を突き上げ、体を回転させた勢いを乗せてなぎ倒すように蹴りを入れた。その一つ一つが重く、『ラビット』の少女は避けきることが出来なかった。サバイバルナイフを持った少女を掴んだままだった片手も強く捻り、腕も脱臼させて突き飛ばす。『ブルー』の少女は完全に拘束から逃れることに成功したが、爆弾は彼女の体へと差し迫っていた。彼女はすぐにその足で力強く地面を蹴った。爆弾から少しでも距離を稼ごうと、体を低くして背を向ける。その鍛えられた脚力を使って全速力で逃げようとした時、その先から彼女の腕を引っ張る者がいた。紺色の髪を靡かせた、水面だった。水面は掴んだ少女を引き寄せ、そのまま全力で投げ飛ばすように押し出した。その先には電柱が一本立っていて、彼女は狙ってその場所に家族を送ったようだった。水面は間を置かず、その場に取り残された『ラビット』の少女の脱臼した腕を掴んでいた。そのまま地面を蹴り、爆弾から距離を稼ぐ。『ラビット』の少女は動く方の腕で水面の手を引き剥がそうとしたようだったが、水面はあっけなくその手を掴んで止めていた。そして背負うようにして肩越しに引っ張り上げながら、スライディングさながらに地面へと伏せた。腕を引っ張られたままの『ラビット』の少女が、水面の体の上に倒れ込む。手榴弾が『ラビット』の少女の手を離れてから、ここまで僅か五秒ほどの出来事だった。直後爆発が起こり、轟音、揺れ、爆風が一気にこの場を支配した。土煙が辺りを包み込む。
それらが止むと、たまかは焦りとともに顔をあげて振り返った。真っ先に桜の様子を確認する。目の前の顔も丁度目を開けてたまかを見下ろしたところで、たまかの無事を見て胸を撫で下ろしているようだった。桜も無事なようだ。たまかは素早く周りに視線を向けた。どうやら使われた手榴弾はお手製のものだったようで、それほど威力が強いものではなかったようだ。それでも直撃した『ラビット』の少女は破片をズタズタに浴び、血に塗れて倒れていた。遠目でも息をしていないことがわかる。彼女は死んでいるようだった。たまかは不安とともに水面の姿を探した。爆弾の着地点から少し離れたところで伏せている、重なった少女達をすぐに発見する。上に伸びる黒白のフリルの塊は、もう一人の『ラビット』の少女同様に体中に破片が刺さっていた。荒く呼吸を繰り返す口から、血が垂れている。内臓もやられているようだ。しかしお手製手榴弾の威力の調整によるお陰で、命は繋ぎ止めたようだった。その下から這うようにして出た水面は、すぐに立ち上がった。制服は所々破けているが、大きな怪我は負っていないようでたまかはほっと安堵した。すぐさま水面が向かった先は、電柱のもとだった。電柱の奥に回り込んでいた『ブルー』の少女は、その奥で体を起こした。電柱を盾にして助かったらしい。それを確認し、水面は強張っていた表情を緩めていた。残された『ラビット』の少女は伏せたまま動けないらしく、呼吸をするのに必死なようだった。全員の確認を終えて攻撃してくる者がいないことを確認すると、たまかは改めて桜の体を確かめた。上体を乗り出して覗き込み、爆発に面していた背中を目視で確認する。破片が刺さっている様子や血が出た痕跡はなく、爆風によるものか砂で僅かに汚れている程度だった。
「大丈夫ですか」
たまかは顔を戻し、改めて桜へと尋ねた。桜は真面目な顔で、「はい」と頷いてみせた。詳しい検査は後程『不可侵の医師団』で受けてもらうとして、とりあえずは大事ないようだ。その答えに安心し、たまかはよろめきながら立ち上がった。上手く立ち回っていたとはいえ、爆弾へ自ら突っ込んだ水面の体が心配だった。見ただけでは怪我は無さそうだったが、爆弾の場合内蔵破裂などの可能性もある。『ブルー』のメンバーを助けるためだったのだろうが、水面でなければ普通に死んでいてもおかしくない行動だった。まずは彼女の無事を一言確認し、そしてすぐにでも倒れている『ラビット』の少女の治療を開始しなければならない。水面に声を掛けようとたまかが顔をあげたのと、水面が取り上げたサバイバルナイフで『ラビット』の少女の胸を突き刺したのはほぼ同時だった。たまかは一瞬、目の前の光景に言葉を失った。引き抜かれた刃は大量の血を連れて、辺りを汚していた。的確に急所を刺している——倒れている少女は荒かった呼吸を止めていた。
「……」
水面はそれを見下ろし、手にしたナイフを投げ捨てた。短く息を吐き出し、再び電柱のもとへと戻っていく。壊れた人形のような黒白が二体、場に取り残されていた。
「怪我はないか」
「は、はい」
水面は『ブルー』の少女へ優しく声を掛けたあと、手を差し伸べた。『ブルー』の少女はそれを掴み、支えにして立ち上がった。
「……あと二人くらいは余裕で殺せますよ」
立ち上がった少女はたまか達へ顔を向け、にやりと口元を歪めた。それに反応するように、たまかの横で桜が即座に銃に手を掛けた。いつもはここで制止の声が入れられるのに、今日はなかなか聞こえてこない。
「……水面さん?」
たまかはぎこちなく名前を呼んだ。なんだか水面の様子がいつもと違うような気がしてならなかった。そもそも普段の水面なら、いくら仲間想いとはいえ爆弾に突っ込んで仲間を助け出したりはしないだろう。『ブルー』の少女達は戦闘に長けており、実際先程も水面の手を借りなくても彼女は爆弾から逃げ果せられていたように見えた。『ブルー』のメンバーの強さを理解している水面なら、それもわかっていたはずだ。その上で彼女は身を挺して『ブルー』のAIを庇った。なんだか、らしくない。
「水面さん……『ラビット』の方々は満身創痍でしたから、殺さずとも身動きは取れなかったかと……」
たまかは胸を刺されて死んだ少女を一瞥した。水面はたまかが人を傷つけることを酷く嫌っていることを理解している。そしてたまかのその思いを汲み、尊重してくれていた。しかし今回、彼女は躊躇うことなくたまかの前で『ラビット』の少女を殺した。
「……」
水面はじっとたまかを見つめていた。出方を慎重に窺うような視線は、あるはずのない警戒心が向けられているように感じられた。
「『ラビット』の奴らを生かしておいたら、たぶんこいつは連れ去られてた」
水面は立てた親指で横の『ブルー』の少女を示した。
「『ブルー』にとって、AIは家族だからな。守ろうとくらいするさ」
水面はたまかを一時も逸らさずに見つめたまま、言い含めるようにそう説いた。
「たまかならわかるだろ? 誰かを傷つけるのを嫌うじゃないか」
水面は薄く笑みを作った。いつもの彼女の朗らかな笑みとは全く違う。彼女から少し距離を離したところでは、胸から血を流して事切れている『ラビット』の少女が倒れている。
「こいつを奪われないためには、殺すことは必要だったよ」
「……」
先刻、虹と方舟にAIが連れ去られていた現場をたまかは目撃している。水面の言うように、『ラビット』の少女達は隙を見て『ブルー』のAIを奪うことを目論んでいたことも充分有り得る。その芽を摘むために、水面は少女を殺したらしい。しかしそれでも、普段の水面であればたまかの前で殺しなどしないはずだった。彼女は圧倒的な強さを誇っており、その強さは相手の生死に関係なく勝利を収める力がある。しかし今回は、問答無用で相手を殺している。たまかは眉を寄せた。たまかの反応が見えていないように、水面は荒れた周囲を一瞥した。
「爆発の煙で視界が奪われる時を狙ってたんだと思う。『ラビット』が二人掛かりで近づいたのは、きっとそのためだ」
「……だから水面さんまで乱入を? 身を挺して守るなんて、危険すぎます」
「あたしは怪我なんてしないからね」
自分の運動能力への、絶対の自信。水面は言い切ると、たまかへと余裕のある笑みを向けた。『ラビット』が『家族』を奪うのを防ぐために、爆弾の投げられた場所へ自ら入っていき、『ブルー』のAIを『ラビット』の手の届かないところまで逃がす。水面でなければ大怪我をしていそうな行動である。
「……水面さん」
たまかは改めて彼女の名前を呼んだ。その顔は険しい。
「水面さんが仲間のことを家族のように想っているのはわかっています。それはAIに対しても同じだということも。……ですが、AIは機械です。水面さんや『ラビット』の方々とは、命の重みが違うのです」
「……」
「もちろんAIの方を守ることも大事です。ですがそのために水面さんが危険に身を投じるのは、やはり間違っていると思います。……水面さんのことが、心配なのです」
例え身体能力が卓越していたとしても、このようなことを繰り返せば万が一のこともあり得る。たまかは憂うように眉尻を下げた。その正面で、水面は眉をぴくりと跳ね上げた。その瞳の奥に見えていた警戒が、一気に強まる。
「……間違っている?」
「はい。AIの方々のために、水面さんが怪我をしてしまう事態はあってはなりません。……水面さんは以前、AIの皆さんが機械だということをきちんと認識していると仰っていましたよね。それでも、少し身を入れ過ぎているように見えると言いますか……心を許し過ぎているといいますか。今日の水面さんは、なんだか過保護に見えるのです。少し距離を取ることも、視野に入れてはどうでしょう……」
たまかは言葉を選びながらも、なんとか気持ちを伝えた。目の前の少女が普段ならしないような選択を取り続けているのは、きっとAIへの執着のせいだ。奪われるかもしれないという強い警戒心が、彼女を変えてしまっている。いつもの水面に戻って欲しいという気持ち、そして単純に水面の安全を心配する気持ち。それらを乗せて、水面の顔をおずおずと窺った。
「……」
たまかの言葉を受けて、水面はなぜか鋭い視線を向けていた。まるで敵だと確信したような、そんな瞳だった。そんな目で見られたのは、初めてだ。たまかはそれを見て、思わず狼狽えた。水面を想った言葉のつもりだったが、言い過ぎただろうか。さらに言葉を重ねようとしたが、『ブルー』のAIが口を開く方が早かった。
「ごちゃごちゃうるせえっ!」
怒鳴り声とともに、横から『ブルー』の少女の拳が飛んできた。——速い。認識した時には、既にたまかの眼前へ重い一撃が迫っていた。最近の『ブルー』は飛ぶ鳥を落とす勢いで数多の組織を壊滅させているが、それは体を得たAIという不死の戦士の功績が大きい。屈強揃いの『ブルー』の中でも特に抜きん出ている者がAIとして選定されているはずで、一人一人の強さは今の『ブルー』の破竹の勢いに証明されている。目の前のAIも例外ではなく、彼女の予備動作は最小限で気付かない程だったのに、その拳の重さと軌道、スピードはたまかの急所を精確に捉えた凄まじいものだった。たまかは思わず息を呑んだ。視界の隅で、水面がAIの行動に小さく口を開け、目で拳を追っているのが見えた。例え今から彼女がその拳を止めようとしても、間に合わないだろう。たまかは反射的に強く目を瞑った。同時に至近距離から、耳を劈くような発砲音が鳴り響いた。
独特の匂いが鼻に舞い込むのを感じながら、たまかは目を薄く開いた。痛みや衝撃はやってこなかった。開けたばかりの視界で何かが大きく動く。たまかが目を見開くと、『ブルー』の少女は桜へと襲い掛かっていた。硝煙を燻らせる銃を一度引っ込め、『ブルー』の少女の伸ばした手を躱すと桜は再び拳銃を構えた。再度発砲音が鳴り響く。しかし『ブルー』の少女は大きく頭を振ってそれを避けており、再度桜へと拳を振り上げた。『ブルー』の者と戦闘になっては、相手に勝ち目などない。それは桜も理解しているだろう。桜は瞬時に照準の先を変えた——その先は『ブルー』の大将、水面だった。間を置かずに三度目の発砲音が鳴り響く。水面はそれをあっけなく躱したが、桜へ迫っていた手はその軌道を変えていた。桜はそれを狙って水面に発砲したらしい。『ブルー』の少女の手の先は、桜の拳銃だった。桜の抵抗も難無く突破され、拳銃を掴んで捻り上げた。桜も想定した訓練は積んできたようで、腕を引いて体に密着させ、それを阻止しようとした。重心を下げて体を捻ろうとするが、『ブルー』の少女もそれを見越していた。銃を掴んだまま、不意を突いて桜の鳩尾へ膝蹴りを食らわせた。桜の小柄な体はくの字に曲がり、勢いを殺せずに大きく跳ねた。四度目の銃声が鳴ったが、『ブルー』の少女の体に傷はつかなかった。桜はその場に崩れ落ちた。膝をついて咳き込む彼女へ、透かさず『ブルー』の少女の追撃が迫る。
「そこまでだ」
凛とした声が響くのと同時に、『ブルー』の少女はぴたりと動きを止めた。桜の眼球を寸分狂いなく狙っていた足が宙に残され、静かに下ろされた。制止の声をあげたのは、水面だった。
「流石に長達をここで始末すると、大ごとになる。……『レッド』の考えは知れたから、もういい」
水面はそう言って、あからさまに警戒する視線を桜へと向けた。四つん這いで伏す彼女の頭を見下ろし、鋭く目を細める。水面は何かを確信したように、その眼差しへ怒りを込めていた。
「桜さん……っ!」
たまかは桜へと駆け寄ると、しゃがみ込んで彼女を覗き込んだ。桜は地面へ膝をついたまま咳き込み、荒い息を吐き出していた。苦しそうな様子からして、内臓破裂の可能性もある。たまかは桜の体を支え、その場に横たえようとした。しかし『ブルー』への警戒を解かない桜は、体勢を維持したまま水面達を鋭い目で見上げていた。
水面はたまか達へと背を向けた。『ブルー』のAIの少女も、桜とたまかを見下ろして鼻を鳴らすと離れていった。『ブルー』の少女は水面を追い掛け、そのまま二人は悠々と歩いてその場を去っていった。二つの御太鼓が揺れる後ろ姿を、たまかは悲しそうに見送るしか出来なかった。何かがいつもと違うが、上手く言語化することが出来ない。AIと並ぶ水面の背中は、すぐに小さくなっていったのだった。
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