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翡翠に溺れる空と雲  作者: 小屋隅 南斎


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第4話


 『レッド』のアジトに帰ってきたたまかは、『レッド』内の定例会議に参加するため会議室へとやってきた。各任務の進捗の確認や今後の方針を話し合うのが目的のもので、今回はAIも参加することになっていた。極秘事項は口に出すのを避けるという暗黙の了解ありきだが、それでもAI達、特に林檎の活躍を前にしては参加してもらう以外の選択肢はなかった。

「桜さん、体の方は大丈夫ですか」

「問題ありません。『不可侵の医師団』で検査までしてもらったのですから、ご心配には及びません」

 聳える重厚な扉を前にして、たまかは横の桜へと不安を滲ませて尋ねた。桜は涼しい顔でそう答え、たまかから扉へと視線を移した。水面と別れた後、たまかは桜を『不可侵の医師団』へと連れて行った。詳しく検査をしたが、幸いなことに内臓破裂などの損傷はなかった。まだ違和感や苦しさは残っているはずだが、当の本人はいつも通りに振舞っている。抗争で攻撃を受けることなど日常茶飯事なのだろう。具合が悪そうであれば会議を欠席してもらうことも視野に入れていたが、桜はそんなことは微塵も考えていないらしい。たまかが扉を開けるのを、今かと横で待っている。彼女の言う通り検査では問題がなかったため、本人が平気だと言うのならたまかに止めることは出来ない。たまかはドアノブに手を掛け、音を響かせて重い扉を開けた。桜とともに、会議室へと入る。たまか達で最後だったらしく、席はほとんど埋まっていた。

「……北側に窓があるはずですから、そこから閃光手榴弾を投げ入れてください。もし見つかった場合は、下の階に降りて防火扉を——」

 席に座りながらも、林檎は無線機に向かって指示を出し続けていた。たまか達が席に座ると、彼女は手短に話を終えて無線機を切った。

「……また抗争が勃発したのですか」

 たまかの険しい顔での問いに、林檎は無表情のまま頷いた。

「はい、『ブルー』と鉢合わせた者達が襲われました。つい数分前には、別件で『ラビット』との衝突があったばかりです」

「……」

 抗争の頻度が日に日に増している。快進撃を続ける『ブルー』は数多の組織を潰しており、その中には『レッド』の傘下の組織も含まれていた。傘下の組織を守るために陰で手を打とうとするものの、結局巻き込まれて引き摺り出され、『ブルー』と交戦せざるを得ない場面が増えていた。勢いづいた『ブルー』に街中で遭遇した『レッド』の者が襲われることも多くなっていて、『ブルー』は手の付けられない状態となっていた。一方『ラビット』もAIに飽きたのか、襲撃に来る頻度が一気に増えていた。他の組織のAIの強奪に力を入れ始めたらしく、個人で行動する彼女達との抗争の勃発頻度は異常な程に多くなっていた。また『グリーン』からAIを購入して力の増した中規模組織や、この混乱に乗じて隙を突こうとする組織などの襲撃も絶えない。今や抗争の報告のない時間の方が珍しいくらいである。林檎はその顔に全く感情を滲ませてはいないが、司令塔である彼女は恐らく疲弊していることだろう。たまかは悩まし気に視線を落とした。

 議長役の者が進行を担い、会議が始まった。各々近況を報告し、対策や今後の方針を話し合う。その中でも目立つのは、やはり抗争の多さだった。抗争で常に人を取られて任務が進まなかったり、また他の組織とコンタクトが取りづらい状況となっていたりすることがネックとして報告されていた。そして体を得たAIによりその強さが増し、より一層手を付けられなくなってきた『ブルー』への対策も話し合われた。『ラビット』によるAIのパーツの強奪への対抗策や、それらの陰で怪し気な動きをしている中小組織への牽制なども課題として上がった。

(うーん、課題は山積みですね……)

 それらに一つ一つ対処していこうとしても、今やどこかに向かおうとするだけで抗争に巻き込まれる始末だ。さらに相手が『ブルー』だった場合、高い確率で命の危険を伴う。『レッド』もAIの投入により策の質や経験者の同行率は上がっているとはいえ、『ブルー』のより圧倒的となった力の前では命を守って上手く逃げ出すことが精一杯だった。AIが無ければ、今頃『レッド』は連日死者が増え続け壊滅していたかもしれない。

「……たまかさん。もう襲撃せずに防御に徹し続けるのは止めませんか。このままでは『ブルー』に傘下の組織を全て殺され、少数になった『レッド』はすぐに食われてしまうかもしれません」

 挙句の果てには、こんな意見も飛び交った。人を傷つけずに今の情勢を『レッド』が生き残れる未来が見えない、そんな者が増えているのだろう。

「攻め入るのが難しいようでしたら、せめて『ブルー』の姿を確認した場合に狙撃や爆弾を仕掛けることだけでも許可してください。交戦前にこちらから殺害することが出来れば、『レッド』の怪我人は減るでしょう」

 また別の者から同調する意見が飛び出る。たまかは苦し気に眉根を寄せた。彼女達が言うこともわかる。自身の勢力がやられる前に、こちらから殺せばその分被害は減るかもしれない。しかしそれを肯定する言葉を、たまかが口に出来る訳がない。誰も傷つかない世界は、『レッド』だけが傷つかないことを意味するのではない。たまかは苦し気な表情のまま、しかし何も返すことが出来ないでいた。広い会議室に、静寂が訪れる。

「……わたしも賛成です」

 鈴のような声が、凛と響く。会議に参加している者達は、一斉に声の主へと顔を向けた。その先は、林檎だった。紅色の艶やかな髪から覗く顔には、いつも通り感情が浮かんでいない。

(……え)

 いつも決まってたまかの意見を支持してきた彼女。しかし今回彼女が説得する相手は、たまかだった。

「このまま『ブルー』が猖獗を極めるのをそのままにすれば、『レッド』はその勢いに押し流されてしまうでしょう。死者も増えていっております、今のうちに『ブルー』に奇襲を仕掛けて力を削ぐべきかと思います」

 林檎は真っ直ぐとたまかへ視線を向け、淡々とそう主張した。動揺を押し込め、たまかは訝し気に訊き返す。

「奇襲……ですか?」

「はい、『レッド』の叡智と持ち得る情報を結集し、策を駆使して『ブルー』のAIを破壊するのです。無論『ブルー』の数を減らしておくことも必要でしょう。AIの修理が完了するまでの短い間、『ブルー』の戦力は一時的に落ちます。人は便利なものがあれば頼り切ってしまうものですから、その隙を突けば『ブルー』はAIのなかった頃のようには動けないでしょう。AIのいない時を狙って再度襲撃を仕掛ければ、『レッド』は有利に事を運ぶことが出来ます」

(『ブルー』の数を減らす、って……殺すってことですよね)

 さらりと言われた言葉に、たまかは胸を痛めた。生前、林檎は心の内にたまかと似たような想いを秘めていた。誰も傷つかない平和な世界こそが、彼女の真に望む未来だった。『ブルー』と『ラビット』との抗争で『レッド』に死人が増えるにつれて彼女は考えを変えざるを得なくなってしまったが、平和な世界への願いは消えてなくなりはしなかった。だからこそ、彼女はたまかを『レッド』の次期長に任命したのだ。しかしその秘めた願いを、たまか以外に曝け出したりはしなかったのだろう。彼女は『レッド』の長としての責任を誰よりも自覚していた。そのため目の前で座る彼女のAIに、平和な世界を望む想いはインプットされていないのかもしれない。

「『ブルー』は無限に復活する屈強な戦士を手に入れました。彼女達の勢いはとどまるところを知らず、このままでは全てを破壊尽くしてしまうでしょう。このまま袖手傍観を決め込んでいては、『レッド』の死人は増え続けるばかりです。数多の組織も滅ぼされ続け、全てを『ブルー』に支配されてしまいます。たまかさんの望む平和な未来のためには、今ここで『ブルー』を止めなければなりません。もう、そのような段階まで来ています……それはここにいる全員が認識しているのではないでしょうか」

 林檎は座る者達を含みのある目で見渡した。『ここにいる全員』、それにはたまかも含まれているのだろう。誰も口を挟まなかったため、林檎は淡々と続けた。

「これ以上『ブルー』の乱暴狼藉を許しては、『レッド』は破滅します。現時点でも『ブルー』の者と戦闘になった時点で、ほぼこちらの負けが決している状態です。その対抗策として、まずはこちらもAIを増やして手練れの人員を確保し、情報と頭脳を集結させることが急務でしょう」

 未だに口を結び続けているたまかに代わり、林檎は具体的な提案へと移った。『レッド』の面々は、元リーダーの言葉に静かに耳を傾け続けている。どの顔も林檎の言葉のメリットやデメリット、リスクなどを深く考慮しているようだが、現状を考えれば林檎の案に心が傾いているであろうことは想像に難くなかった。

「今後も『ブルー』はAIを増やすでしょうから、現状AIが誰で何人導入されているかという情報に加え、今後AIとして蘇生される方を見越すことも必要になってくるでしょう。『レッド』側で増やしたAIから情報を収集して、それを予測するのです。そして相手が復活する以上、各個撃破は意味を成しません。AI達が集まっている場所やタイミングを見計らい、大掛かりな罠を仕掛けて一気に叩くべきだと拝察いたします。今の『ブルー』を刺激すれば力でねじ伏せられるのは目に見えておりますから、『レッド』の仕業だと悟られないように行動することも必要です。ですので現地で行動する部隊はAIを中心に編成し、それらを一時的に失っても問題がないよう優秀な者をこちらに残しておくことも重要です。敵は『ブルー』だけではありませんから。そうなりますと、少なくとも現時点の二倍はAIの人員が必要となります」

 林檎は『レッド』の長を真っ直ぐと見つめ、目を細めた。

「『グリーン』との提携を強め、AIを大幅に増やすことが必要不可欠だと思います。『レッド』がAIに警戒心を持っていることは理解しておりますが、このままでは『ブルー』によって死者が増え続けるばかりです。たまかさんもそれは望むところではないのではありませんか」

「……」

「人を傷つけたくないという思いを持っていることも承知しておりますが、『ブルー』のAIが組織構成数の四分の一を超える前までには手を打たねばなりません。『ブルー』の増え続ける不死の戦士達を止め、向こうの数を減らさなければ、『レッド』が襲撃された時点でこちらに成す術はなくなってしまいます。もうこちらも動かねばならない状況なのです。『ブルー』に食い荒らされて『レッド』の多くが死者に変わってしまう前に、より多くの情報を集め、より多くの優秀な者を集め、それらを総動員させて一刻も早く彼女達を排除すべきです」

 静観していられる時期はとっくに過ぎたのだと、林檎は静かに目で訴えかけていた。会議室中の視線を浴び、たまかは重い口を開いた。

「……だからと言って、こちらから『ブルー』の方々を殺すのは間違っていると思います。実際に『レッド』に襲撃があったわけではありません。三者定例会議も廃止になっていませんし、水面さんは私の言葉にも耳を傾けてくれています。未来を憂いてこちらから崩しに行ってしまうのは、尚早だと思います」

「ですがこのままですと、『ブルー』は確実に制御が出来なくなります。こうしている今も『ブルー』は新たなAIを迎える準備をしています。縹がたまかさんの言葉を大人しく聞き続ける保証もありません。『レッド』に多大な死者が出てから後悔しても、遅いのですよ」

 林檎はその視線に、冷たさを滲ませた。感情を抜きにし、リスクだけを忠実に天秤に掛ける者の目だ。彼女の指摘通り、たまかの水面への信頼は何か裏打ちするものがあるわけではない。たまかが信じていたとしても、林檎や周りを説得する材料には使えないだろう。加えて、先程会った時の水面の様子がたまかの脳裏を掠めていった。たまかの前で平然と『ラビット』の者を殺し、AIを守った彼女。彼女を信じる気持ちが揺らぐことはないが、それでもたまかの胸に一抹の不安が過ってしまった。

「確かに抗争は増えていますが、『レッド』側が攻撃しない分、水面さんの目が届く範囲では『ブルー』も明確に『レッド』を狙って襲ってはいません。こちらから襲撃すれば、間違いなく『レッド』も彼女達のターゲットに加わります。今よりもその方が、死者は多く出てしまうでしょう。均衡をこちらから崩す訳にはいきません」

 たまかは胸の中のささやかな不安を振り払い、気丈に反論した。林檎はたまかの反論にも無表情のままだった。

「たまかさんの仰る状況も、結局縹の気分ありきで変わるものです。そのような不安定な環境に身を置くより、根本を排除せねば襲撃されるリスクに常に晒されることになります。今でさえ『ブルー』は一強となっているのです、これ以上の戦力増強を見過ごせば待つのは破滅のみです。その盤面が、たまかさんにも見えていないはずがありません。『レッド』諸共、心中するおつもりですか」

「……」

 林檎の最後の言葉は、淡々とした中にも熱が籠っているように感じた。これまで林檎のAIは、常にたまかを長として立ててくれていた。ここまで意見が食い違うことになったのは、これが初めてだ。初めての衝突に困惑すると同時に、彼女の手強さに不安が募る。

(林檎さんが発足させた『レッド』の壊滅の危機……現長の意思に反しても、譲れないということでしょうか)

 林檎の顔を窺うが、心の内は読めなかった。いつもならここで意見を引っ込め、たまかの意思に沿う策を練り直してくれていた。彼女らしくない振舞いだと思ったが、それほど『レッド』への思い入れが強いがゆえならば理解出来るかもしれない。彼女は、『レッド』の創設者その人なのだから。

(……)

 たまかは感情の滲まない顔を悲し気に見つめた。勿論、林檎の意見も正しいことは理解している。『ブルー』が一強になっているのは事実であり、本格的に手が付けられなくなる前に対策を打ってリスクを摘み取ることは、一つの手だ。しかし自分達が襲われる前に他の組織を襲うというのは、たまかの理想からすれば論外である。自ら『誰も傷つかない世界』を破綻させにいき、保身のために多くの命を奪うのは愚行でしかない。たまか達が攻撃をしていないからこそ『ブルー』のターゲットから漏れていることも歴とした事実であり、今後『ブルー』と正面衝突するとなれば今以上に死者が出る可能性だってある。これ以上死者を出さないという観点から見れば、『ブルー』を襲撃せずに刺激するのを避けることも充分一つの手であろう。

 林檎にとって現長との対立も辞さない程の主張だとしても、これはたまかにも譲れない部分だ。一時も逸らされない、全てを見透かすような瞳に射貫かれながら、たまかも一歩も引くことなく強く見つめ返した。

「現状『ブルー』の方と鉢合わせる、もしくは傘下の方を助けているのがバレる、『ブルー』と抗争になるのはこの二つのパターンです。こちらから襲撃して明確に『ブルー』を傷つければ、『ブルー』も『レッド』に容赦なく襲撃を仕掛けるようになることは明らかです。それらに対策が必要なのはわかりますが、襲撃は悪手だと思います」

「それは力をつけた『ブルー』を刺激しないようにして放置し、危機が過ぎ去るのをただ待つということでしょうか。『ブルー』は今もAIという戦力を増やし続けているのです、大規模な襲撃の起きていない今の内にこちらから仕掛けることは必須でしょう。今の我々にはそれを可能にする、AIという切り札があるのです。目に見えている切り札を捨て、事態が過ぎ去るのを指を銜えて待つことは意味を成しません」

 両者とも一歩も引かずに言い合う様子を見て、会議に参加している者達は俄かに焦りを滲ませ始めた。最悪このまま折り合いがつかず、決裂してしまうかもしれない。その場合、一体どちらにつくのが適切なのだろうか。前長と現長の対立を、『レッド』の者達は固唾を呑んで見守っていた。しかしその中で、勇敢にも口を挟んだ者がいた。

「……朱宮さまの意見が正しいと思います」

 真面目な声が、会議室に響いた。たまかが驚いて顔を向けると、重い瞼の下の瞳と目が合った。おかっぱの黒髪を揺らした桜は、たまかをじっと見据えていた。

「たまかさんが人を傷つけたくないお気持ちは理解しておりますが、その段階は疾うに過ぎていると思います。『ブルー』はいよいよ手が付けられなくなってきておりますし、縹側は殺しに躊躇はありません。今『ブルー』の戦力を削がなければ、近いうちに襲撃を受け壊滅と同義である程の死者が出るのは目に見えているのではないでしょうか」

 「そして何より」と続け、桜は林檎へと顔を向けた。熱い視線を、真っ直ぐと彼女へ注ぐ。

「……朱宮さまはメリットとデメリット、そしてリスクを完璧に測れるお方です。その朱宮さまがこれだけ強く主張していらっしゃるのですから、現時点での最善な行動は見えているも同然でしょう。それだけ『レッド』は危機的状況にあるということですし、わたくしもそれを肌で感じております」

 日々増える抗争、怪我人や死者の報告。たまかだって、それは理解している。

「それに朱宮さまの言う通り、今の我々にはAIという強力な武器が存在します。朱宮さまの存在、数多の経験豊富な優秀な者達、そして本来得られなかったはずの情報。『グリーン』と協力関係を結んでそれらをより強化すれば、今の『ブルー』を落とすことも可能でしょう。みすみす逃すのは、愚策かと思います」

 『グリーン』へ人一倍警戒心を持っていたはずの彼女。しかし林檎達を日々隣で見てきて、彼女の中で考えが変わったのだろう。AI達の働きは、充分すぎる程にそれに見合うものだった。桜は林檎から視線を逸らし、再度たまかへと顔を向けた。

「それとも……たまかさんは、朱宮さまのお考えが間違っているとお思いなのですか?」

 その語気は鋭かった。強く訴えるような表情に、たまかは膝の上で拳を握った。

(違います。この林檎さんは、林檎さんではありません。……AIです)

 林檎と同じ思考をし、同じ言葉を放つAI。しかし本来の彼女は平和な世界を望んでいた。もしここに林檎が座っていたとしたら、果たしてAIと同じ言葉を投げただろうか。どうしてもたまかには、そうは思えなかった。

「そ、そういう訳では……ありません。林檎さんの仰ることも、理解しています」

 桜の難詰に対し、弱々しくそう返さざるを得なかった。確かに林檎の意見が間違っているとは、たまかも思っていない。それでも気を持ち直すように、たまかは顔をあげた。

「それでも、『ブルー』を襲撃することは絶対に避けたいのです。戦争を避けるためにこちらから戦争を仕掛けるなど、あってはなりません。この意見を曲げることは、ないです」

 たまかははっきりとそう告げた。その言葉に、桜はその目を鋭くした。

「現時点での『レッド』の死者や怪我人だって、こちらから先に攻撃して始末していればもっと数は減っていたはずです。たまかさんは人を傷つけないという方針を取っていますが、敵を傷つけずに味方の怪我人を増やすことに本当に意味はあるのですか」

 その言葉は、まるで棘のようにたまかの心に深く刺さった。

「朱宮さまの提案された『グリーン』との提携の強化、そして『ブルー』への襲撃はそれらを根本から解決するものだと思います。我々『レッド』の傷つく人を減らし、仇成す者を排除する。それこそ、本来の組織の在り方なのではないですか。朱宮さまは、たまかさんの指揮する今の『レッド』の現状を遠巻きに批判し、改善されようと提案されたのだと思います。わたくしはそれを無下にするようなことはあってはならないと思っております。彼女はこの『レッド』を作り、支えてきたお方なのですから」

 桜は言葉の端々に感情を滲ませて、強く熱弁した。強い想いを滲ませる目を見れば、『ここにいるのはAIであって、本人ではない』と言うことは出来なかった。生前と同じ思考、同じ言葉、同じ仕草、同じ振舞い。桜にとっては、目の前の彼女も林檎本人と同じくらい大切なのだろう。

「……」

 たまかは顔を曇らせ、小さく俯いた。確かに、怪我を負ってしまった『レッド』のメンバーが先に相手を殺していれば、その怪我を負うことはなかった可能性はある。現実に起こっていない以上、その可能性を否定することは出来ない。しかしだからといって、『攻撃してくるかもしれない』という理由で先に相手を殺すことが正しいとは、たまかにはどうしても思えなかった。リスク管理という点で言えば正しいのだろうが、命にはそれ以上の重みと価値があると思うのだ。

「……では、こうしませんか」

 黙りこくってしまったたまかを見かねたのか、手を差し伸べるように林檎が声を響かせた。

「『ブルー』への襲撃は、一旦保留と致しましょう。そうも言ってはいられない状況ですが、そこは現リーダーの意見を尊重します。ですがこちらの戦力を補強することは、防御という点においても充分意味があります。AIを増やして『グリーン』との提携を強め、可能であるならば『グリーン』と協力関係を結ぶべきかと思います。来たる日に向けて、『レッド』は備えを強化するのです」

 つまり、林檎とたまかの主張の折衷案ということだろう。たまかの一番のネックは『ブルー』を殺すことであり、AIを増やすことや『グリーン』との関係を強化すること自体に対してはそれほど抵抗はない。そして『ブルー』を襲撃出来るように準備を整えるよう動いておけば、林檎の案を通すことになった際に即座に実行出来る。両者の妥協点の落としどころを的確に捉えている案だ。

「また、命の危険を感じた際は攻撃を許可しているとはいえ、その基準も緩めるべきだと思います。今や『ブルー』と遭遇すれば襲われるのは避けられない状況であり、『ラビット』も殺意が高くなっております。敵の姿を確認し交戦が避けられない状況であれば、その時点で殺すことを許可すべきだと思います。情勢的に、これは必要な変更です」

 常に正しい林檎にここまで強く言われては、たまかも折れない訳にはいかなかった。それに林檎の折衷案は、『レッド』の怪我人を減らすことに繋がるものでもある。たまかは慎重に頷いてみせた。

「……わかりました。攻撃を許可する基準を変更します。そして、『グリーン』へ関係の強化を持ち掛けに行きましょう。明日、私が『グリーン』へ足を運びます」

 会議室に張り詰めていた空気が、和らいだ気がした。『レッド』の面々は最悪の事態を回避したことにほっとしている様子だった。桜は真面目な顔のまま当たり前だというようにたまかの決断を見守り、林檎はその顔に久方ぶりに微笑みを貼り付けた。

「『レッド』の長として、良い選択だと思います」

 たまかの決断を歓迎するように、上品で完璧な笑みが視界の中で花開く。たまかはそれを、なんとも言えない表情で見つめるしかなかった。

 その後、会議は大きな諍いなく終了した。とりあえずは来たるべき時に備えて現状維持となるが、攻撃を仕掛ける基準が変わっただけでも大きな変化があったと言えよう。席を立って任務に戻っていく組織員達を眺めながら、たまかは大きく息を吐き出した。どっとした疲れが体を襲っていた。そしてたまかは、ちらりと林檎を覗き見た。彼女も周囲の者と同様席を立ち、すぐに無線機を取り出していた。間を空けずに入ることになるであろう報告に備え、彼女は足早に会議室を去っていった。その紅色の小さな背中を、たまかはぼんやりと目で追っていた。

(林檎さんが私と意見を違えることがあるなんて、考えてもいませんでした)

 たまかは常に正しい行動を取れるような完璧な人間ではない。そのためこのような日が来るのは必然のことではあったが、たまかの胸には小さな違和感が燻っていた。たまかを『レッド』の長へ任命したのは林檎であり、たまかが『誰も傷つかない世界』を実現させるのを信じたからこそ彼女は『レッド』を託したはずだった。林檎の思考を完璧に模しているのならば、『誰も傷つかない世界』を目指して動くたまかの行動に突然異を唱えるのは異様に映る。しかし桜の言うように、『レッド』の危機に対するたまかの行動に不甲斐なさを感じたのだとしたら。彼女が作り育ててきた『レッド』という組織を、たまかが破滅に追い遣っていると感じ口を出さざるを得なかったのだとすれば。彼女の方針転換を咎めることなど、たまかに出来はしない。

「たまかさん」

 突然名前を呼ばれ、たまかは肩を跳ねた。動揺しながら顔をあげると、目の前には桜が立っていた。近づいてきたことに全く気付いていなかった。席に座ったままのたまかを、彼女は真面目な顔で見下ろしていた。

「今回は現状維持という結論になりましたが、朱宮さまの案を実行することも一考をお願いいたします」

「案、というのは……『ブルー』を襲撃するというものですか?」

「はい」

 桜は躊躇うことなく肯定した。たまかは僅かに眉根を寄せた。

「たまかさんもお気づきでしょう、朱宮さまは今までたまかさんの意見を尊重してきておりました。その朱宮さまが異を唱える程、現状が芳しくないということです。わたくしから見ても、『ブルー』がこれ以上力をつけるのを黙って見ているなど、破滅に向かっているようなものとしか思えません」

 たまかとは違って、『レッド』に属する者達は抗争に長け、知識を有している。林檎や桜がここまで言うのならば、確かに彼女達が正しいのかもしれない。『ブルー』の者達を襲撃しないことはたまかにとって譲れない信念であり、そして林檎に誓った理想の世界を叶えることにも繋がる。だがそのせいで、たまかが一身に背負う事になった『レッド』を破滅させてしまうのだとすれば。『レッド』の長として、それは本当に正しいことなのだろうか。そんな不安がたまかの心を蝕み、確固たる決断が僅かに揺らぎ始める。

「たまかさん、貴女は『レッド』のリーダーです。設立者である朱宮さまから任命されて跡を継いだ、ただ一つの大切な席に座っている状態です。ですが、もしこのまま朱宮さまの意見を無下になさるおつもりなのでしたら」

 重い瞼の下の瞳は、じっとたまかを射貫いていた。

「わたくしは朱宮さまにつくでしょう」

 きっと桜も、林檎がAIであり機械であることくらい充分理解している。その上で同じ思考、同じ言葉、同じ仕草、同じ表情をする彼女の意思を無下にすることなど、決して許すことは出来ないのだろう。世界一尊敬し、憧れであり、大切であった人がまるで隣に戻ってきたような日々。それを繰り返していれば、自然と重ねてしまうのは当たり前だ。

「よくお考えください。貴女にとって大切なのは、『レッド』なのか、『ブルー』を始めとする有象無象なのか」

 その真剣な強い眼差しを見れば、林檎のらしくない発言や彼女がAIであることなど、些細な問題であるように感じられた。




 ***




 翌日、たまかは『グリーン』のアジトである古いビルへと足を運んでいた。小ぢんまりとした建物は完全に周りに溶け込んでおり、『レッド』の掴んだ情報が無ければ組織のアジトであるとは判別出来なかっただろう。自動ドア越しにエントランスを覗くと、端に置かれた観葉植物、無人の小さなカウンター、そして奥に設置されたセキュリティゲートが見えた。しかし純白の靴は、なかなか中へ踏み出されることはなかった。たまかは気の進まないように、小さくため息を漏らした。

(『ブルー』への襲撃……そんなものはしたくありませんし、AIへの警戒を解いたわけでもありません。目的の見えない『グリーン』との協力関係なんて、それこそどうなるかわかったものではありませんが……)

 脳裏に過るのは、昨日の会議室での出来事。そして、桜の強い眼差しだ。

『もしこのまま朱宮さまの意見を無下になさるおつもりなのでしたら、わたくしは朱宮さまにつくでしょう』

 桜の語気の強い言葉が反芻される。たまかは顔を曇らせた。

(……提案を飲まない訳にもいきません。桜さん達が『レッド』を大事に想い、現状を危惧する気持ちもわかりますから)

 それは目的の読めない『グリーン』や得体の知れないAIを怪しむ以上に優先しなければならないことだ。『グリーン』への警戒から桜達の提案を突っぱねれば、それこそ『レッド』は内部崩壊してしまうだろう。今は警戒心に一旦目を瞑ってでも、『グリーン』との関係強化を目指すべきだ。『グリーン』の目的が見えないからといって悪いことを企んでいるとは限らないし、AIの有用性は実際に肌で感じている。そもそも今になってまだ『グリーン』を怪しむ気持ちがあるのは、実はたまかくらいのものなのかもしれない。

(AIを増やしたり強化したりすることが、誰かを傷つける訳ではありません。襲撃をするためではなく、自衛に力を入れるためだと思えば……)

 そう自分に言い聞かせながら、たまかは足を踏み出した。これも『レッド』の怪我人を減らすためだと思えば、AIの増台も悪くはない。たまかは顔をあげ、背筋を伸ばした。建物の中へと入り、壁に設置してあるインターホンへと向かう。たまかは小さく深呼吸を挟み、ボタンを押した。

『はいはーい、ようこそ、たまかさん!』

 スピーカーから聞こえてきたのは、聞き慣れた声だった。明るくハキハキとした声、これは『グリーン』の営業担当、やよゐのものだ。昨日『グリーン』への訪問を決めてから、たまかはすぐにやよゐへと連絡を取っていた。訪問の約束を取り付けた際、『グリーン』との関係を強化したいという申し出を受けてやよゐは非常に喜んでいた。スピーカーから聞こえる声にも、待ち侘びたと言わんばかりの嬉しさが滲んでいた。

『少しお待ちくださいね!』

 その言葉にその場でしばらく待っていると、すぐにセキュリティゲートの向こうから深緑色に身を包んだ少女が姿を現した。布から覗く白い肩の先をぶんぶんと振り、首の両脇から下がる萌黄色の二つの大きな束を揺らしている。満面の笑みで現れたやよゐは、セキュリティゲートにカードを翳すとたまかの元へと駆け寄ってきた。

「ご足労頂きありがとうございます。AIの増台と提携の強化をお考えだとか?」

 わくわくと跳ねた声色に、たまかは苦笑を返すことしか出来なかった。

「はい。少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」

「もちろんですよ、いくらでもお話いたします! いやー嬉しいです、『レッド』にも『グリーン』のAIの良さがしっかりと伝わったってことですよね」

 ほくほくと嬉しそうに体を跳ねたあと、やよゐは奥へとたまかを案内した。たまかはやよゐの後ろへついていきながら、あたりをこっそりと盗み見た。建物は年季が入っているが隅々まで清掃が行き届いており、監視カメラや照明などは最新式のものが使われているようだった。『レッド』の建物のように広々として豪華絢爛といった様相ではないが、これはこれで『グリーン』らしさの垣間見える実用性に特化したアジトだ。狭い通路を進むと、すぐにエレベーターホールが見えてきた。一台だけのエレベーターは、既に到着しているようだった。エレベーターに乗り込むと同時に、息つく暇もなく話し続けていたやよゐが、「あ!」と明るい声をあげた。何かを思いついたという顔だった。

「たまかさん、お話の前に……せっかくいらしてくださったのですから、良ければ少し最新技術を体験してみませんか?」

 予想外の申し出に、たまかは思わず隣の顔を見上げた。やよゐはにこにこと嬉しそうで、善意からの提案であることが窺えた。

「最新技術……ですか?」

「はい! 『グリーン』の技術は、AIだけではないんですよ」

 その笑顔は輝いていて、期待に満ちていた。彼女は『レッド』やたまかがハイテクを認めたと思っており、それが心から嬉しくて仕方がないようだった。以前彼女は、最先端技術の素晴らしさを世の中に広め、そしてその価値に気が付いて貰いたいと言っていた。その言葉は本心だったのだろう。たまかや『レッド』が『グリーン』を認め、その技術に興味を持ち始めたと考えたやよゐは、その技術の素晴らしさをもっとたまかに知って欲しいと思ったらしい。その純真な煌めきを前にして、『グリーン』やAIを怪しんでいたたまかは思わず罪悪感に苛まれた。

「では……ぜひ、お願いします」

「ええ、ええ! お任せください!」

 ばつが悪い顔を隠して承諾すると、やよゐは嬉しそうに胸を叩いた。やよゐが上機嫌でボタンを押下すると、エレベーターは上昇を始めた。狭いかごに揺られると、すぐに目的の階に到着したようだった。やよゐに続いて降り、狭い通路を進んで行く。やよゐは見えてきた扉を開け、中へとたまかを導いた。室内は殺風景で、白い壁紙にフローリング、机と椅子が置かれているだけだった。そのため、机の上に置かれた数台の機器が目を引いた。やよゐはその中の一つを手に取り、たまかへと差し出した。それはVRゴーグルのようだった。

「ではたまかさん、こちらを装着してみて頂けませんか。あと、手にはこちらを」

 やよゐはさらに拳銃を差し出してきた。しかし実銃とは異なるようで、銃身には何やら部品が取り付けられていた。たまかは言われた通りにVRゴーグルを頭へ装着してみた。想像していたよりも大分軽く、装着しているのを忘れてしまいそうなくらいだった。目を開けてみると、視界が一変していた。『グリーン』のアジトの部屋にいたはずが、広がる景色は外のものだった。頭上に広がる空、遠くに見える山々、木々に川、続く砂利道。その風景はリアルのものと寸分違わず、まるでその場でワープした気分だった。吸い込む空気すら、美味しく感じる。

「たまかさん、遠くの的が見えますか?」

 やよゐの通る声が聞こえてきて、たまかはそちらへと振り向いた。しかし空と木々、砂利が広がるばかりで、彼女の姿は見えない。VRだったことを思い出し、たまかは顔を戻した。辺りを見渡すと、やよゐの言う的はすぐに見つかった。数メートル先に、マンターゲットが立てられていた。人型の板の中心に、円がいくつも描かれている。たまかは頷いてみせた。ゴーグルはずれることなく、頭にぴったりとフィットしたままだった。

「では、手にした銃を構えて撃ってみてください。風速ゼロメートルに設定してありますので、風は考慮しなくて大丈夫ですよ」

 たまかは狼狽えながらも、言われた通りに銃を構えてみた。しかしたまかは戦闘面はからっきしであり、射撃訓練も数回しか経験がない。前線で活躍するような立場でもないため、銃はほんの少し齧った程度の技術しかない。それでもたまかは当てるつもりで両腕を真っ直ぐと伸ばし、銃口の位置を調整した。桜に教わった射撃訓練の様子を脳内で思い起こしながら、拳銃越しに的を見据える。視界に広がるのはVRの画面のはずなのに、たまかの伸ばした拳銃の位置が寸分違わず反映されている。実際の視界となんら変わらない感覚だった。たまかは意を決して引き金を引いた。明らかに作り物とわかる銃声が耳に届き、遠くの的の隅に小さな穴が空いた。拳銃から硝煙が立ち上る。本来するはずの独特な匂いは、いつまでも鼻に舞い込むことはなかった。

(は、外してしまいました……)

 的に空いた穴は、幾重にも描かれた円から大分逸れている。『レッド』の長として他の組織員に情けない姿を晒してしまった。小さくもじもじとしているたまかに気付いているのかいないのか、後ろからやよゐの明るい声が響いた。

「どうです、実際に撃った感覚とほとんど違わないでしょう? これは射撃訓練をよりリアルな環境で行うためのVRシミュレータなんです。これの凄い所は、射撃のリアル感だけではなく、風速や天候を設定できるところなんです。例えば……」

 やよゐの言葉が途切れて不思議に思っていると、視界に何か落ちてきた。思わず顔を上げると、一面に曇り空が広がっていた。雲の間から、ポタポタと雨が落ちてきている。次第にその量は増えていき、ザーザーという音が聞こえてきそうな程に視界が雨で埋め尽くされた。

「雨に設定してみました。たまかさん、銃を構えてみてください」

 言われた通りに銃を構えようとして、たまかは首を傾げた。

「……さっきより少しだけ重いですね」

「そうなんです! 風速や天候によって、銃の重さや振動、そして的への当たり方が全て細かく変わるんです。もちろん場所の設定を変更したり、的の遠さを調整したりも出来ますよ。リアルさを追及しながら、これが屋内で出来てしまうんです。他の組織の襲撃を気にせずに訓練が出来ますし、場所も取りません!」

 確かにこれは、非常に実用的である。組織に入ったばかりの者の訓練や、怪我を負った者のリハビリに活用出来そうだ。たまかは後ろを振り向いて、見えない相手へ口を開いた。

「これは『グリーン』が開発したのですか?」

「そうなんです! イヤホンや連動する機械を取り付ければ、より没入感が増しますよ。他にも『グリーン』が開発したものは山ほどありまして、そうですねー……、こちらはどうでしょう」

 ぱっと映像が切り替わった。野外の光景が見えていたのに、今広がっているのは室内の景色だ。……たまかが実際にいる『グリーン』の部屋だった。VRの映像を切ったようだ。やよゐの姿もきちんと映っている。やよゐを視界に映して待っていると、突然やよゐの横に重なってウィンドウのようなものがポップアップした。明るい水色の囲いの中に、猛スピードで次々と文字が現れる。動揺しながらもそれらを読むと、そこには彼女の名前が記載されていた。読み進めると、性別、年齢、所属、彼女の基本情報が全て書かれていた。

「これは何でしょう? 視界内の人物の情報が見えるみたいですが……」

「その通りです!」

 やよゐは嬉々として頷いた。情報の書かれたウィンドウは彼女の隣に現れたままだ。

「これはAR技術を用いて、視界に映ったものを検索、情報を書き出すというものです。人物以外にも使えるんですよ。例えばこちら」

 やよゐは制服の間に手を突っ込み、何かを取り出した。人差し指と親指で摘まんだそれを、たまかはじっと見つめた。どうやら弾丸のようだ。すぐに横に吹き出しが現れ、文字が並ぶ。そこには弾丸の種類に関する情報が羅列されていた。弾頭、素材、口径、そして空欄ではあるが、予想される所持者や組織名の欄まで存在していた。対象を視界に映すだけで全てが判明するなど、抗争の知識のないたまかのような人間にとっては夢のような機能だ。抗争中に瞬時にこれらの情報が得られれば、有利に事を運べる場面も多いだろう。

「どうでしょう、知識を武器にする『レッド』にとっては垂涎三尺の一品ではないでしょうか。視界に入ったものの情報を即座に可視化出来れば、抗争でもきっとお役に立ちますよ」

 その言葉にたまかはやよゐへと顔を向けた。現れた基本情報の中にスリーサイズの欄があることに気が付き、たまかは慌てて顔を逸らした。

「これは眼鏡と変わらないデバイスで実装したいと思っておりまして、実は実用化にももう目処が立っています。さらに開発を重ね、将来的には目に何も掛けない状態でこの機能を使えることを目指しています」

 何も目に掛けずに、視界に映るものの情報が飛び込んでくる。そんなことが果たして可能なのだろうか。しかしAIを見ている限り、彼女達はそれもあっけなく実現させてしまうのだろう。ハイテク、そして『グリーン』の技術力。それらは何もかもを可能にする、頼もしく、そして恐ろしいものでもある。

「他にもいろいろとあるのですが、何がいいですかね……。あ、そうだ! たまかさんにぜひ体験して頂きたいものがあるんです!」

 やよゐは今までにも増してさらにわくわくと声を弾ませてそう告げた。その様子から、どうやら次のものが一番自信があるようだ。これ以上実用的で驚くべきものが、まだ他にも存在するのか。圧倒され続けていたたまかはごくりと唾を呑み込んだ。

「切り替えますね!」

 その言葉と共に、景色が変わった。殺風景な部屋もやよゐの姿も消え、再び野外の風景が広がっていた。しかし先程の射撃訓練の時とは様相が異なり、一面爽やかな色合いの絶景が広がっていた。見渡す限りの青空、白い雲、遠くの山々は薄くグラデーションを描き、広がる草原は風に靡いて明るい若草色を揺らしていた。立っているのは丘の上らしく、遠くには霞がかったレンガ造りの鮮やかな街並みが見えていた。そして手前には神秘的な澄んだ湖が広がっている。先程の射撃訓練の景色以上に、空気が美味しい。

「素敵なところですね。外国……でしょうか?」

 たまかは目を輝かせながら忙しなく辺りを見渡した。少なくとも自国の景色ではないようだ。外国の言語や知識を身に着けるためには、実際に現地に行ってその文化と触れあうのが一番の近道だと聞いたことがある。それをVRで体験できるのだとすれば、金や時間の節約、さらには渡航や出国の禁止のしがらみも受けなくて済む。やよゐが満を持して紹介したのも頷けるくらい、実用的で唯一無二な技術の活用法かもしれない。

「抗争で破壊された跡がないと、街並みってこんなに美しいんですね。ここは一体どこなんで……わっ!?」

 美しい景観を堪能していたたまかは、見つけた人影に思わず声をあげた。彼女は真っ直ぐとこちらへ歩いてきていた。共にいるのはやよゐだけのはずなのに、その人物はいつもの深緑色の布に包まれてはいなかった。とんがり帽子にツインテール、胸元が大胆に強調されたワンピース、フリルが連なる裾から覗くニーハイソックス。『ラビット』の厚底程の高さのあるヒール、そして裾の広い袖から伸びた手は、宝石が埋め込まれたスタッフを握っていた。彼女は愛らしい顔を、真っ直ぐとたまかへ向けていた。

「誰ですか!?」

「やだなー、やよゐですよ! ……あっ、今はセイントひみこでした」

「本当に誰ですか!!?」

 たまかは驚愕から思わず体を縮めた。正直、知らない人はあまり得意ではない。

「落ち着いてくださいたまかさん、自分の姿を見てみてください」

 自称セイントひみこは悠然とそう言って、軽やかに笑っていた。たまかはその言葉に、恐る恐る自分の姿を確認してみた。なぜか、いつも着ている純白の制服姿ではなかった。質素な無地のティーシャツに短パン、たまかが持ってすらいない服を着ていた。

「あ……あれ?」

「理解していただけました? ようこそ、VRMMOの世界へ!」

 目の前の少女は歓迎するように両手を広げ、眩しい笑顔を向けた。風が吹き抜け、彼女のツインテールの先と短いワンピースの裾を揺らす。遠くで見たこともないような鳥の群れが、澄み渡る空へと羽搏いていった。たまかはそれを、ぽかんとして眺めていた。

「VR、……MMO?」

「はい! 要するに、ゲームの世界ってことです」

 少女の言葉につられ、たまかは改めて辺りを見渡してみた。広がる青空、揺れる草原、鮮やかな街並み、広大な景色。爽やかな色合いのこの風景は、どうやらゲームの世界のものということらしい。確かに現実にしては、綺麗すぎるかもしれない。

「す、すごいですね。ゲームって画面の中で横にスクロールしていくイメージが強くて、自分がゲームの世界に降り立つなんて想像もつきませんでした……」

「いやいや、いつの話ですか! 旧時代でも大分レトロな方のゲームですよ、それ」

 たまかは見慣れない少女へと顔を戻した。

「えっと……貴方はやよゐさんなんですか?」

「そうですよ! ゲームの中のハンドルネームがセイントひみこなんです」

 混乱したまま尋ねると、目の前の少女は笑顔でこくこくと頷いた。やよゐの顔や声とは全く違うが、話し方は彼女と一致していた。

「可愛い衣装ですね。えっと、これはどんなゲームなんですか?」

「ありがとうございます! これはMMORPGですよ。広大な世界を自由気ままに冒険し、プレイヤーを強くしてモンスターの討伐やクエストを行っていきます。戦闘に興味ない人は、生活系スキルで異世界暮らしを満喫することも出来るんですよ」

 やよゐはその場でくるりと一回転した。短いスカートがふわりと舞い、太ももが覗く。

「あたいは見ての通り魔女っ娘です! 魔法ガン上げでスキルはほぼカンストしています。戦闘面はお任せください!」

 やよゐはいいことを思いついたというように、その場で人差し指を宙に浮かべた。すると半透明なインベントリウィンドウが登場し、彼女の指の操作に合わせて中身が移動していく。

「たまかさん、あたいと同じ様に人差し指を宙に向けてみてください」

 やよゐはたまかの横にやってきて隣に並んだ。言われた通りに人差し指を浮かべると、やよゐと同じインベントリウィンドウが浮かび上がった。ただしやよゐのように物は詰まっておらず、すっからかんの状態だ。やよゐは自身のウィンドウからたまかの元へすいすいとアイテムを移動させていった。

「どうでしょう、これとか着てみてください!」

「着……着てみる?」

「装備欄に移動させたら着られますよ!」

 やよゐに教わりながらアイテムを所定の位置に移動させると、たまかの着ている服が瞬時に切り替わった。やよゐの渡してくれた服は、ピエロを象ったミニワンピースだった。赤と黒のビビットな配色、アクセントの金色の大きな鈴、ふわりと膨らむバルーンスカート。ファンタジー世界ならではの奇抜かつ派手な衣装に、たまかはそわそわと見る角度を変えて見下ろした。

「か、可愛いです!」

「ゲームは現実で出来ないことを思う存分やれるのが醍醐味です! 派手な衣装、そして魔法や剣技もその内の一つ。他にも気に入った衣装がありましたら変えますので、気軽に仰ってくださいね」

 やよゐは慣れた手つきでウィンドウを消すと、両手の人差し指をくっつけた。すると彼女の前に、マップが広がった。古びた紙片に細かく地理が描かれ、目印代わりのピンが至る所に大量に刺してあった。現在地のマークは小さな点で描かれており、思っていたよりもこの世界はかなり広いようだった。

「では、観光がてら湖の横を通って街へ行ってみましょう。ネットワークに繋げれば、他のプレイヤーとの交流や取引所の利用も出来ますよ。そこで武器を新調しつつ、剣技や魔法のスキルもあげて、ドラゴン退治のクエストを受注してみましょうか! あたいがサポートするので戦闘面は何も心配いりません。ドラゴンの住処はその先なんですけど、秘境のような場所で物凄く絶景なんです! 流れ落ちる滝がとても神秘的で……」

 やよゐはたまかより余程期待に胸膨らむ様子で口早に説明した。煌めく瞳と絶えない笑顔は、どんな実用性のある商品を説明している時よりも輝いていた。

(本当にゲームがお好きなんですね)

 楽しそうに説明しているやよゐを見ていると、たまかまで楽しくなってくる心地がした。流れでなぜかゲームをやることになったとはいえ、非日常を堪能するのも悪くないのかもしれない。日々『レッド』の長の重圧を背負い、患者の治療に追われてばかりのたまかにとって、息抜きの時間は久方ぶりである。

「提案はさせてもらいましたが、やりたいことや気になることがあったらどんどん仰ってくださいね! ゲームは自由にやりたいことをやるのが一番ですから。といっても何もわからない状態だと思うので、まずは湖の景色を見て歩きながら、たまかさんのあげたいスキルについてお伺いしましょう。大丈夫、ドラゴン退治まで三十分もかかりませんよ」

 やよゐはそう言うと、その場で口笛を吹いた。すると何処からか立派な毛並みの馬が現れた。鬣を靡かせた凛々しい顔立ちは、やよゐの前で静かに足を止めた。

「さあ、乗ってください!」

「の、乗る?」

「手を伸ばせば乗れますよ。あたいと二人乗りしましょう!」

 たまかはやよゐに引っ張られるように馬に乗った。馬が走り出すと、VRゴーグルがそれに合わせて振動する。目まぐるしく去っていく緑豊かな景色、心地よい一定のリズムの揺れ。可愛らしい衣装に包まれた背中に捕まりながら、たまかはどこまでも広がる景色を堪能した。草原を抜けて丘を降りると、辺りには麦畑が広がっていた。揺れる黄金色の間を、馬が颯爽と駆け抜けていく。

「たまかさん、スキルはどうしますか? 剣技は斬撃に属性エンチャントがつけられるスキルがあるので、そちらがオススメですよ。魔法は……、ん?」

 たまかが遠くをじっと見ているのに気が付き、やよゐは後ろを振り返った。

「どうしました?」

「あ、あの鳥さんは……なんてお名前ですか?」

 たまかの視線の先には、鮮やかな色の翼を持つもふもふの生き物が飛んでいた。所謂幻想動物の類だろう。愛らしい姿に、目を奪われる。

「ああ、可愛いですよね! 名前はなんだっけ……馬から降りたら図鑑で確認してみましょう。あの生き物はこれから行く湖の周りにも沢山いますよ。撫でることも可能ですし、ペットとして連れ歩いたりも出来るんです! そうだ、後で一緒にエサをあげてみましょう!」

 やよゐはたまかの反応を見て、嬉しそうに顔をほころばせた。たまかが楽しそうにしているのが、心の底から嬉しいらしい。笑顔の二人を乗せて、馬は見えてきた湖へと一直線に駆けていったのだった。


 やよゐの言うように、クエストの完了までは寄り道を含めても大体三十分程だった。しかしその間にたまかが経験したことは、時間以上に濃いものだった。どこまでもついてきてくれる、愛らしい瞳の鳥に似た生物。活気に溢れる、見たこともない建物ばかりの街並み。霞に覆われた原生林の間を、虹を掛けて美しく落ちる滝。剣を振ると同時に発生してモンスターを蹴散らす、派手な雷。やよゐと二人掛かりでドラゴンを討伐し、倒した時の達成感。現実では着られないような数多の衣装、それらを心行くまで試着出来るお着替えルーム。ドラゴンの背に乗って空を飛び、見下ろした時の広大な景色。知らないプレイヤーとの、ジェスチャーでの些細ながらもほっこりとする交流。未知の物に溢れた世界は、たまかにとって非常に刺激的で新鮮だった。それらの世界に浸っている時は、『レッド』の長のことも、厳しい情勢のことも、全てを忘れて夢中になれた。やよゐに流されるがままに体験したとはいえ、非常に有意義で楽しい時間を過ごすことができたのだった。……しかしこの世界に来て何よりも印象的だったのは、ゲーム世界の景色やクエストではなく、やよゐの表情だったかもしれない。たまかが幻想動物に骨抜きにされているのをにこにこと見守ったり、彼女にとっては雑魚のはずのドラゴンの討伐をたまかと一緒に心から喜んでハイタッチしてくれたり、道端の弱いモンスターにやられて死にそうになっているたまかを腹を抱えてけらけらと笑ったり。まるで本当に冒険を共にする仲間のように、やよゐはたまかを傍で導いてくれていた。彼女はたまかの一喜一憂を心から喜び、またたまかの知らないゲームの世界のことを目を輝かせて教えてくれた。たまかの喜びが自分の喜びだと言わんばかりに、彼女は常に楽しそうに笑っていた。彼女の配信しているゲーム実況でも、このように振舞っているのだろうか。それは人気が出るだろうなとたまかは密かに納得したのだった。さらに言えば彼女はこのゲームを相当やり込み尽くしてもいるようで、スキルはほぼカンストしているうえにアチーブメントらしきものも全取得しているようだった。いくつものレアアイテムもインベントリから見えていて、彼女はそれらを惜しげもなくたまかのために使ってくれたのだった。

「お付き合いありがとうございました! とっても楽しかったです!」

 VRゴーグルを外したたまかへ、やよゐはほくほくと笑顔で御礼を述べた。いつもの『グリーン』の制服、そして首の両脇で緩く結ばれた萌黄色の二つの束。見慣れたやよゐの姿だった。

「こちらこそありがとうございました。ゲームって、とっても楽しいんですね」

「そうでしょう? たまかさんにとって楽しい一時になっていたのでしたら何よりです!」

 満面の笑みで、やよゐはたまかの差し出したVRゴーグルを受け取った。机に置くと、髪を跳ねて振り向く。まだ楽しさの余韻を残しながらも、彼女は営業担当の顔に切り替えたようだった。

「……では、提携のお話に移りましょうか。大丈夫、あたい達は共にドラゴンを討伐した仲です。なんでも仰ってくださいね」

 やよゐはたまかを先導するように部屋を出て行った。たまかもそれについて行くと、彼女は隣の部屋へと入っていった。その部屋は先程の部屋よりも狭く、中央に細長い机が置かれ、それを囲むように四つの椅子が並べられていた。ここは小さな会議室のようだ。机には既に資料が束になって置かれていた。やよゐに促され、たまかはやよゐの正面へと腰かけた。改まって対峙すると、なんだか空気が張り詰めたような気がする。いよいよ、ここを訪れた本題に入る時が来たようだ。

「『レッド』さんから提携の強化のお話を頂けるなんて、あたい達からすれば非常に嬉しいですし有難いことなのですが……具体的には、どのようなことをお望みなのですか?」

 やよゐは資料をたまかの前へと差し出しながら、小さく首を傾げてみせた。

「そうですね、まずはAIの増台です。少なくとも、現在の二倍ほど……」

「おお! 勿論、大歓迎です! AI達の高性能さを『レッド』の皆さんにも理解して頂けたようでうれしいです!」

 やよゐは上機嫌にそう答えた。実際、AIは今までエラーを吐いたり止まったりすることなく、それどころか日々目まぐるしく働き大活躍している。現在の情勢に『レッド』がついていけているのは、間違いなくAIの力が大きいだろう。『レッド』の防衛という観点からも、増台すれば盤石となるはずだ。

「あとは、ええと……」

 たまかはそこで言葉を止めた。『ブルー』の襲撃をする際にAIが有用だと林檎は考えているようだった。しかしたまかには『ブルー』へ襲撃する気はない。たまかは視線を逸らした。

「なるべく早く、優先してAIを用意して頂きたいといいますか……」

「なるほど……? しかし、十台程度でしたらもともと一日二日で製作が可能ですよ。提携の強化をするまでもありません。目的があるのでしたら、それに合わせて何か機能でも追加しましょうか? 用途はどのようなものなのでしょう?」

「……」

 たまかはその問いに、すぐに答えることが出来なかった。やよゐは不思議そうな顔で待っていたが、やがて何かに思い当たったように口を開いた。

「もしや、完全に『レッド』の傘下に入ってほしいということでしょうか? 以前も言いましたが、それは難しいです。同時に『ブルー』や『ラビット』の情報を流すことも出来ません。ご理解をお願いします」

「ああいえ、そういう訳ではないのです」

 たまかは慌てて両手を振った。ここへ来るに至った理由を説明しようとしたものの、どこまで『レッド』の内部情報を漏らしていいのか考えあぐね、たまかは一度口を閉じた。目を泳がせたあと、たまかは慎重に口を開いた。

「その……、今はAIによって、『ブルー』が一強となっている状態じゃないですか。我々もそれに対抗できるよう、力を入れたいと思っているのです」

「ああ、なるほど……! よくわかりますよ!」

 たまかの暈した物言いにも拘らず、なぜかやよゐは訳知り顔で顔を晴らした。たまかが訝しむ視線を向けると、彼女は笑みを浮かべた。

「きっとそのような状況になるだろうって聞いていました! その際に提案させて頂く内容も、事前に準備させていただいていますよ!」

(聞いた? 誰から……?)

 困惑するたまかの前で、やよゐは資料の中から一枚の紙を抜き出した。

「襲撃をお考えなのですよね? でしたらAIの怪我人が一気に増えますから、簡易自己修復機能とかどうでしょう! 怪我の治療は、知識を持っていれば今のAIでも出来ます。しかし完全に故障した状態、つまり人間でいう死亡の状態になりますと、今は『グリーン』に預けて頂くしか修復手段がない状況です。そこで『グリーン』に故障部位の情報を前もって送信する機能をつければ、直せそうな部分の修復を指示したプログラムを遠隔で送ることが出来、『グリーン』に持ち込む前にある程度自分で直すことが可能になるはずです。そうすれば自力で『グリーン』に戻ってくることも可能となり、運搬要員のコスト削減や敵に見つかるリスクの低減に繋がりますよ。あとはそうですね、魔改造となってしまいますが、肌の素材を変えて強化するとか、体に銃を埋め込むとか……」

「ま、待ってください。襲撃は……考えておりません」

「え? そうなのですか?」

 やよゐはぱちくりと目を瞬いた。彼女が摘まんで掲げた書面には、簡易自己修復機能の図解が記されていた。完全に『レッド』の要望を見越して書かれたような機能が紹介されている。

「でも……今、仰っていましたよね。『ブルー』は一強の状態だ、って。『レッド』としては『ブルー』を潰す方向に動くのかと思っていましたが……。野放しにして良いのですか?」

「……『グリーン』からすれば、『ブルー』も客なのでは?」

「確かに大事なお客様ですけど、その分『ブルー』にも良い商品を提案させて頂くので大丈夫です。それに三大組織がお互いに潰し合うのは理じゃないですか。『グリーン』から口出し出来るようなことでもないでしょう。何を言ったところで、『レッド』は三組織のパワーバランスが崩れるのを放置するとは思えませんでしたし……」

 やよゐは細やかに図解された資料を翻して覗き込み、そして再度たまかへと顔を向けた。

「……本当に襲撃を考えていないのですか?」

「……はい。『レッド』は『ブルー』に襲撃はしません」

 狭い会議室に、沈黙が流れた。やよゐは『レッド』が『ブルー』に襲撃すると思い込み、そのためにいろいろと準備をしていたようだ。彼女はたまかの決定が信じられないようで、どこかぽかんとしているように見えた。やがてやよゐは、困ったように眉尻を下げた。

「では……あたい達は、一体どうすればお役に立てますか?」

「『ブルー』から身を守る術を強化したいと、個人的には思っています。AIの増台もその意図に沿ったものです。提携の強化を受け入れてくださるのでしたら、『レッド』の防御面をより強固にするために技術面で力になって頂くことは可能でしょうか」

 たまかは小さく顔を伏せた。

「出来れば……AIの強化以外でお願いしたいです。AIを強化すれば、万が一『レッド』が『ブルー』を襲撃することになってしまった際、こちらが強大な力を手に入れてしまうことになります」

「『レッド』としては、それは喜ばしいことなのでは?」

「ですがその分、『ブルー』に死者が出ることを意味します」

 やよゐは小さく口を開けたまま呆けた。

「……『レッド』としては、それは喜ばしいことなのでは?」

「以前もお伝えしたと思いますが、私は人が傷つくことに対して喜びの感情はありません」

 一言一句同じ質問に対し、たまかは真面目に答えた。きっぱりと言い放たれた言葉とその真剣な顔を見て、やよゐは先日のたまかとの会話を思い起こしたようだった。『私は、人が傷つくことがない世界を目指しています。誰も抗争で死なない、平和な世界を』。たまかのその言葉が本心から出たものであり、そしてそれは組織の利益をも凌駕する程の強い思いなのだと、やよゐはこれ以上ない程に身に染みて理解したようだった。たまかの決断は組織の長としては正しいとは言えない選択であり、『グリーン』の想定とも大きく異なっているだろう。やよゐは押し黙り、何事か考えるように視線を下げた。静けさが訪れる。

「……そうですね」

 やがてやよゐは小さく零すと、なんだか肩の力が抜けたかのように薄く笑みを浮かべた。たまかへと顔を上げる。

「あたいも出来るなら、『グリーン』の技術は平和な世界の実現へ向けて使って欲しいです。皆がゲームを楽しめるような、そんな世界の実現に」

 その声色は未来へ思いを馳せた、希望を宿すものだった。やよゐは手元の資料の束を、机の隅へと遠ざけた。

「『レッド』のまたとない戦力増強の機会を自ら捨てるなど、普通なら考えられません。たまかさんは、本気で理想の世界を目指しているのですね。正直、『レッド』らしく甘言を弄しているのだろうと疑っておりました」

 やよゐはなんだかすっきりとした顔で、たまかを真っ直ぐと見つめた。その手には、『グリーン』が事前に準備した資料は存在しない。

「もちろん、AIの強化以外の手段での提携の強化も大歓迎ですよ。こちらの想定とは違いますが……きっとボスも喜んでくれるでしょう」

 やよゐはたまかへ、にっこりと笑ってみせた。営業用とは違う、信頼の滲む笑み。戦力の強化や他組織への襲撃を放棄した『レッド』と手を組むのは、『グリーン』にとってはリスクでもあるだろう。小さな力のない組織にとって、将来性の見えない組織に付くメリットはない。しかし彼女は、たまかの意思を歓迎してくれたようだった。たまかが普通なら考えられない選択をしたと言うのなら、それはきっと目の前の彼女にも当てはまる。共にゲームを遊び、本心を知った相手に、力になりたいと思ってくれたのだろうか。もしくは彼女もまた、たまかと同じ様に組織の利益以上に平和を望んでいるのだろうか。彼女の大好きな、ゲームで笑顔になる人が溢れる、そんな理想の世界を。

「まずは『レッド』のアジトに、侵入感知システムを構築しましょう。いつ『ブルー』が襲撃してきても迅速に対応できるよう、監視カメラを高性能化し、『レッド』以外の怪しい者の侵入を検知した際に自動で通知が行くようにしましょう。門、もしくは入口のセキュリティ強化も可能です。一時的なものであれば、フラッパーゲートかスマートロックが手軽だと思います。あとはもともと自然災害対策用のものですが、建物の揺れや火災を検知し、自動的に建物内のガスや火を停止して一斉通知を出し、逃げ道確保のため出入口が開け放たれるという仕組みも導入が可能です。他の組織の襲撃にいち早く対応出来ますし、本来の用途である自然災害時にも役立つと思います。また直接的な防御機能とは逸れますが、ネットの監視も請け負えますよ。例えば『レッド』に対する誹謗中傷を見つけて削除したり、襲撃予告に関連する書き込みにも素早く対応して特定と削除をすることが可能です」

 やよゐは次々と具体的な案を並べた。その技術の使い道は、何もAIだけではない。『グリーン』の最先端技術は、形を変えて『レッド』に貢献することが出来るのだ。やよゐの話しぶりは、それを示すかのように堂々としたものだった。提示された内容はどれも『レッド』の守りにのみ作用するもので、人を傷つけることに加担出来るようなものではない。たまかの意思を汲み取ってくれたようだ。「どうでしょう?」とたまかの顔を窺うやよゐに対し、たまかは満足そうに深く頷いてみせた。

「ぜひお願い致します。金額は、そちらの言い値で構いません」

「いえいえ……他の組織からも依頼を受けることがありますから、その時と同じ価格で引き受けますよ。他にも気になる点や要望がございましたら、『グリーン』がなんでも実現しますのでお気軽にお声がけください。提携強化ということで、優先して対応致します」

 やよゐはスマートフォンを取り出し、何やら素早く打ち込み出した。すぐにそれをたまかへ向けて差し出す。画面には依頼の概要、それぞれの依頼料、そしてその総額が表示されていた。

「ありがとうございます、そちらでお願いします。提携強化の見返りは、別で上乗せさせてもらいますね」

「わかりました。では、契約成立ですね」

 林檎や桜の要望通りAIの増台や『グリーン』との提携強化を達成しつつ、『ブルー』への襲撃に繋がる軍事力の増強を回避し、防衛の強化に専念できた。桜達の思惑とは異なるだろうが、契約をたまかに任せた時点で文句を言うことは出来ないだろう。一時はどうなるかと思ったが、なんとか上手く事を運べた。たまかは密かに息をついた。

「……あと、思ったんですけど……」

 やよゐはスマートフォンのスクリーンを数回タップしたあと、顔をあげた。

「……以前お話させていただいた、『不可侵の医師団』への技術提供が出来たらって話。覚えていますか?」

「はい、覚えています。『グリーン』の最先端技術を用いて、『不可侵の医師団』のデジタル化を進められたらってお話でしたよね」

 突然の確認を疑問に思いながらも、たまかは頷いてみせた。以前『グリーン』の協力を得て他の組織の襲撃に対応した際、『不可侵の医師団』の現状に触れたやよゐがたまかへ語ったものだった。魅力的な提案だったが、AIのことや情勢のこともあって結局その場限りの夢物語で終わっていた。たまかの返事を受けて、やよゐは居住まいを正すように座り直した。身を乗り出す。

「提携を強化するのでしたら……その『不可侵の医師団』のデジタル化についても、この機会に実現できないでしょうか?」

 やよゐは真剣な顔を近づけ、じっとたまかと見つめ合った。

「出動要請が入った時の位置情報の自動取得、電子処方箋や電子カルテの導入と共有化、レントゲンのAI画像診断、VRの手術トレーニングやリハビリへの活用、ARの手術ナビゲーションの導入……最先端技術が医療に関渉出来ることって、まだまだ沢山あると思うんです」

 たまかは呆けたまま目の前の顔を見つめていた。頭の中で、彼女の発言が実現した未来を描く。その世界は最先端技術によって治療が捗り、多くの人々が笑顔になっている。

「関係を密にするなら、それらを実現するチャンスなのではないでしょうか。たまかさんの熱意に、あたい達『グリーン』なら応えることが出来るはずです。比類なき技術力は、多くの人を救うのに貢献するでしょう。誰も傷つかない平和な世界に向けて、共にこの国の医療を変えていきませんか」

 電子化については『グリーン』との取引で導入し、問題は起きていない。AIについては日々林檎達の有用性を目にしている。VRやARも、やよゐと共に先程体験したばかりだ。たまかの触れてきた利便性と実用性を極限まで引き上げる技術力が、医療においても力を発揮するのだとすれば。『不可侵の医師団』は、よりよい未来へ向けて変わることが出来るだろう。そして誰も傷つかない理想の世界が、さらに現実へと近づく。やよゐの言葉に、たまかは明るく顔を晴らした。

「とても、とても素敵だと思います。今の医療で課題となっている部分を『グリーン』の技術が解決出来れば、より多くの人の命が救われるでしょう」

 『グリーン』の技術力が可能にするのは、何も戦争兵器の高性能化だけではない。その唯一無二の最先端技術を適切に扱えば、さらに多くの人を救うことが出来るだろう。たまかはそんな未来を胸に描き、心を躍らせた。たまかの返事に、やよゐも嬉しそうに頷いた。

「では、詳細を記載した資料を用意しておきますね! 導入は『不可侵の医師団』の管轄でしょうから、いくら『レッド』の長とはいえたまかさんの一存では決められないでしょう。良ければ一緒に資料を持って、『不可侵の医師団』の上層部へ掛け合いましょう」

 やよゐはそう言い残すと、一度席を立った。部屋を出て、すぐに戻ってくる。その手には一枚の紙が握られていた。

「こちらは先程お話した『レッド』のシステム構築の方の見積もり詳細です。システムの概要も同時に記載してあります」

 やよゐは机越しに、たまかへと書類を差し出した。

「『レッド』の防衛システムの強化、そして『不可侵の医師団』のデジタル化に向けての協力。提携の強化としては、一先ずこんなところでお願いします。後者はまだ乗り越えなくてはならない壁が多いですが、我々が手を結べばきっとすぐに実現するでしょう」

 『レッド』と『グリーン』による提携の強化は、合意に至った。『グリーン』からは技術、そして『レッド』からは金を。両者出し惜しみすることなく、互いのより良い未来のために互いを利用していけるはずだ。しかしただの契約だったはずのそれは、やよゐによって大きく意義が変わった。彼女はこの契約をただの追加の依頼と捉えず、『レッド』やたまかとの歩み寄りと考えているのだろう。だからこそ『レッド』の防衛面だけではなく、たまかの理想の実現にまでも手を貸してくれた。目的の見えない『グリーン』との提携強化には不安を抱いていたが、今はこうして訪れて良かったとたまかは思っていた。そしてそれは、やよゐも同じようだった。

「……『レッド』の力になれて、『グリーン』はとても嬉しく思っております。ぜひこれからも、良い関係をお願いします」

 その顔は、本心を言っているように見えた。たまかは両手を伸ばし、契約内容の記載された書類を大事そうに受け取った。代金はAIと同時精算となるため、実質受け取る行為が契約成立を意味する。

「……たまかさんが『レッド』の長で、良かったです」

 ぽつりと聞こえてきた声に、書面に目を通していたたまかは思わず顔をあげた。やよゐは過去を思い起こすようにどこか遠い目をして、その顔に苦笑を浮かべていた。

「実は以前、朱宮様が『グリーン』を訪れたことがあったんです。まだ彼女がご存命の頃……それも『グリーン』が発足して間もないくらいのことでした。恐らく新しく興されたにも拘らず抗争をせずにネットでこそこそしている組織を訝しんで、警戒や牽制を兼ねて事情を探りに来たんだと思います」

 林檎が『グリーン』を訪れていたなんて知らなかった。『レッド』の長になるまでたまかは各組織の動向に詳しくなかったとは言え、毎日チェックするようにしていたニュースでは見かけなかったはずだ。恐らく公にはされていない情報なのだろう。情報を武器とする『レッド』が新興組織に探りを入れるのは頷けるが、長自ら足を運ぶのはなんだか珍しいように思えた。

「あたいは朱宮様と二人きりで話をさせてもらいました。『グリーン』の設立目的や活動内容、『レッド』に害するような組織でないこと、将来的にどこの傘下にもなる予定はないこと……いろいろとお話させて頂いたんですが、朱宮様があたいの言葉を信用していたかどうかはわかりません。彼女はずっと微笑みを浮かべていて、その心中はちっとも読めませんでしたから。もしかすると朱宮様は、最初から『グリーン』を潰すつもりで訪れていたのかもしれません。『レッド』からすれば、味方にならない組織なんて生かしておくだけ無駄ですからね。あたいもそれが分かっていましたから、なんとか穏便に事を運ぼうと必死でした」

 やよゐにとっては苦い思い出らしく、その話しぶりは若干自嘲交じりだった。

「『グリーン』についての説明が終わると、まるであたいの恐怖や緊張を見透かしたように、彼女は雑談を振ってくださいました。血も涙もないと噂の『レッド』のリーダー様がまさかあたいと他愛もない話に興じてくれるとは思ってもいなかったので、当時は面食らいながらもなんとか話を合わせていました。もしかすると彼女は『グリーン』を好意的に見てくれていて、関係を深めようとしているのかもしれない。取り留めのない話をしながら、あたいはそんなことさえ思っていました。ですがその後、朱宮様はある要求をしてきました。ボスに会わせてほしい、というものでした。お断りすると、彼女は突然あたいの故郷を言い当て、そこに残した姉妹達に言及しました。あたいは故郷の場所も、姉妹が多いことも一言も言っていませんでした。まるでボスに会わさないと、彼女達を殺すと脅されているかのようでした」

 やよゐは苦笑を漏らし、首を横へと小さく振った。

「どうやら雑談の中で、出身地のイントネーションが色濃く出る単語を言わせられていたみたいなんですよね。あたいの故郷は方言のくせが強いので、特定の言葉を話すと特定出来てしまうみたいなのです。朱宮様は会話の中であたいの故郷がこの辺りではないと察し、全てを計算した上で雑談を振っていたようでした。……あたいにとって、家族はとっても大事な存在です。虐殺も厭わない『レッド』の長に姉妹たちの場所を知られ、あからさまに話題に出された時点で、彼女達を人質にとられたようなものでした。あたいは血相を変えて、その要求を呑まざるを得ませんでした」

 やよゐはたまかの手元の紙に視線を下ろし、当時を思い起こすようにため息をもらした。

「正直、あたいは朱宮様が凄く怖かったです。普通に話していただけのはずなのに、あたいの出身地も、家族構成も、そしてあたいが大事にしているものが何かすらも、彼女は全てを見透かしていました。あたいを脅す時すら上品な笑みを崩さなくて、まるで世間話のように話していました。彼女ならあたいの家族もあっけなく殺してしまうだろうという、確信がありました。……結局ボスと朱宮様は、二人きりの会談を行いました。何を話したのかはあたいも知りません。あたいはその後、いてもたってもいられずに故郷へと電話をしました。電話口越しに皆の無事を確認して、心からほっとしたのをいまだに覚えています。今思えば、朱宮様は我々に釘を刺していかれたのかもしれませんね」

 情報を武器にして戦う『レッド』、林檎はそのリーダーに相応しい振舞いをしていたようだ。しかし、とたまかは心の中で密かに思う。彼女は『グリーン』のリーダーとの対話が目的であり、その手段として必要としただけであって、結果がどうなろうとやよゐの家族へは決して手を出しはしなかったのだろうと。

「まさか『レッド』とこうして手を取り合う日が来るとは、夢にも思っていませんでした。ここまで関係を築けたのは、長がたまかさんだからこそだろうと思うのです」

 人の好きなものを見下さず、共にゲームに興じることを厭わず、そして組織の利益を捨ててまで人を傷つけることをしないたまか。それを歓迎するやよゐもまた、組織の枠組みにとらわれず、抗争社会の在り方に懐疑的になれる人間なのだろう。つまり、彼女とたまかは感性が合うのだ。医療提携についての提案も、そんな彼女だからこそ思い至れたのだろう。

「ありがとうございます。私には林檎さんのような完璧さや、組織のために常に正しい選択を出来るような力はありません。ですが誰も傷つかない世界の実現に向けては、常に真摯でいたいと思っています」

 一番の願いであり、譲れない信念であり、そして死んでしまった友達との約束だから。たまかはやよゐへ、笑みを浮かべてみせた。

「それを良いこととして受け入れてくださるやよゐさんが営業担当だったからこそ、『グリーン』との提携強化に繋がったのだと思います。先程の『不可侵の医師団』への技術提供の提案も含めて、やよゐさんには非常に感謝しています」

 恐らくやよゐでなければ、たまかと手を取ることを受け入れてはいなかったはずだ。この抗争社会において組織の利益を捨てる選択をするなど、正気を疑われこそすれ信用して関係を深めようとはならない。たまかと同じように平和な世界を求めるやよゐだからこそ、たまかと共鳴することが出来たのだろう。

「いえ、デジタルやハイテクの素晴らしさを知ってもらい、それを広めて世界を変えていきたいと思っているのは『グリーン』みんな同じですから……あたいだけではありませんよ」

 やよゐは柔らかく微笑むと、「そうだ」と零してゆっくりと椅子から立ち上がった。萌黄色の二つの大きな毛玉を揺らし、たまかを見下ろす。

「先程提案させてもらった医療への技術応用の件ですが……現場で治療しているたまかさんから見て、細かい要望や気付きがあるかと思います。設計工程の前にお伺いしておいた方がスムーズに進行すると思うので、今から少し設計者のもとに挨拶に行っても大丈夫ですか?」

「はい、構いません。現場の意見を取り入れてもらえるのは非常に有難いです」

 たまかもやよゐに続いて腰を浮かし、部屋を出て行く彼女へついていった。狭い廊下を戻り、再度エレベーターに乗り込む。一つ上の階で降りると、やよゐは一番近い部屋の扉をノックした。

「こずゑ? 今いい?」

「どぞ。開いてます」

 中からくぐもった声が聞こえてきた。たまかも聞いたことのある声だ。やよゐが扉を開けると、中にはいくつもの機材が所狭しと並んでいた。奥でキーボードをかたかたと鳴らしていた深緑色の背中が、チェアごとくるりと回転する。現れたモスグリーンの跳ねたショートカットヘアー、その中の顔は気だるげだ。彼女は大きな眼鏡を細い指で押し上げ、驚いたようにたまかを見上げた。彼女はやよゐが『グリーン』へビデオ通話を繋いだ際、度々応対してくれていた少女だった。

「……これはこれは。『レッド』のボス様……?」

 彼女は椅子から跳ね起き、そわそわと姿勢を正した。金のブレスレットの先を重ね、深緑色の先から覗く素足をぴたりとくっつける。浅くお辞儀をする動作は、慣れていないのがよくわかるぎこちないものだった。

「ども。こずゑと言います」

 彼女は顔をあげると、ずれた眼鏡の位置を直した。人とのかしこまった挨拶は苦手らしく、こずゑはせわしなく視線を這わせていた。たまかも背筋を伸ばし、笑みを向けて応じた。

「たまかと申します。実は『グリーン』と『レッド』は提携の強化で合意しまして、その一環として医療のデジタル化をお願いしたいと思っています。正確にはそれは『レッド』ではなく、『不可侵の医師団』管轄のお話なのですが……」

「はあ……」

 曖昧な返事を漏らし、こずゑはちらちらとやよゐへと視線を送っていた。人と接するのが苦手なようで、助けを求めるような必死さが滲んでいる気がした。

「私は『不可侵の医師団』の者であり、治療現場も沢山経験してきました。医療に『グリーン』の技術を応用するとなると、現場からの気付きをお伝え出来ると思います。設計段階の前にヒアリングしていただけるとスムーズとききましたので、その挨拶のためにお邪魔させていただきました」

「なるほど……つまり、医療で役立てるシステムの設計の依頼ってことですね。理解です」

 そわそわとしていたこずゑはたまかの説明に控えめに顔を晴らし、嬉しそうに頷いた。提携云々は抜きにして、システム設計の依頼だと認識したらしい。彼女は僅かに身を乗り出した。先程までの不安げな様子は霧散し、今は眼鏡の奥の目も真っ直ぐとたまかを向いていた。

「具体的にどのようなものを導入するかは決まってるんですか? もし白紙の状態でしたら、最近VRが熱いので手術仮想訓練システムとかおすすめですよ。普通のVRゴーグルをつけるだけで導入可能なので手軽ですし、『グリーン』の技術力があれば二次元データを完璧な3D画像に置き換えることが可能です。臓器の奥行きや血管の位置関係まで精確に再現し、実際の患者の体と寸分違わないデータを提供することが出来るでしょう。さらに共有している他の医師に向けて目印のピンを挿したり、臓器ごとの色分けに好きな色を設定したり、メスを入れる複数のルートを想定して保存、いつでも呼び出して比較することも出来ます。手術のシミュレーション後は正確性や効率性をAIが判定して数値化して可視化、改善点を確認することも出来るようにしましょう。手術が上手い名医の段取りを保存し、精確に再現してまるで本人になったかのように体験することも出来ます。シミュレーション時は本番同様に本物の手術の道具を用いてそれが映像にも反映されるようにしましょう、丁度先日似たようなシステムを開発したのでノウハウもあります。実際に手に伝わる感触もリアルなんですよ。臓器や血管に触れた時の弾力、メスを入れる時の感触。例えば出血した際は手に特殊な液体が……」

 矢継ぎ早に繰り出される情報の洪水に、たまかは目を回した。こずゑの口はとどまるところを知らず、早口で次々にシステムの案が繰り出される。段々と近づくその目は、爛々と輝いているように見えた。まるでシステムの話をするのが好きで好きでしょうがないといったように、夢中で捲し立てている。

「VRでの手術トレーニングは、あたいもあったらいいなと思って提案してたんだ」

 たまかの横で、やよゐがマイペースに口を挟んだ。その言葉に、興奮していたこずゑの口が漸く止まる。彼女は乗り出していた体を戻し、眼鏡の縁を再度指で押し上げた。

「……左様でしたか。他には何を想定してます?」

「出動要請が入った時の位置情報の自動取得、電子処方箋や電子カルテの導入と共有化、レントゲンのAI画像診断、VRの手術トレーニングとリハビリへの活用、ARの手術ナビゲーション。こんな感じで提案させてもらったよ」

「ふむ……なるほど。作り甲斐ありそうで、非常に良きですね」

 こずゑは声が弾むのを隠せないまま頷いてみせた。しかしいくらか落ち着いたようで、彼女はたまかへと冷静さを取り戻して顔を向けた。

「勇み足でしたね。えっと、まずはやよゐが提案させてもらったものを実現させるよう落とし込んでいきましょう。たまかさんが現場を見ていて、他に必要だと思ったシステムとかはないんですか?」

「そうですね、やよゐさんが提案してくださったもので充分というか……どのようなことがハイテクで可能になるのか、プログラミングに詳しくない人間だと正直想像がつかないんです。ですからどのような機能が欲しいか、とかもあまり言葉に出来なくて……」

 たまかは苦笑を漏らした。こずゑはたまかの言葉に、真面目な顔でこくこくと頷いた。

「上流工程でヒアリングしていると、皆さん決まってそんな感じですね。要件定義がふわふわとし過ぎて現場がキレながら実装、ってのもよくあることです。あれです、『顧客が本当に必要だったもの』ってやつです」

「え……?」

「おまん、一般人にそがいなこと通じゆう思うとったらいかんちや……」

「え……?」

 意味の分からない単語、そして何を言っているのかわからない発言に、たまかは二人へ交互に顔を向けた。やよゐは困惑するたまかを振り向き、誤魔化すように笑みを浮かべた。

「依頼する方も適切な言語化は難しい、ってことです。ですが大丈夫ですよ! 上流から下流までこずゑが全ての工程を担いますから、何かずれを感じたらその時に伝えてくださればよいのです!」

「そですね。どのようなシステムが出来るか、どのようなことが最先端技術で可能になるのかを考えるのは自分達SEの仕事なんで、依頼人のお宅は不便していることや、こうなればいいなっていう純粋な理想を教えてくれるだけでいいんです」

「な、なるほど……」

 普段から依頼を受けてシステム開発をしているだけあって、頼もしく見えた。「とりあえずちょっとメモしましょう。お待ちを」と言って、こずゑはチェアに座り直すとパソコンへと向き直った。たまかが覗いてみると、モニターには複数のウィンドウが配置されており、上から下までアルファベットが羅列されていた。モニターの下にはキーボードとマウス、そしてマグカップが置かれている。

「……今も何か開発していたのですか?」

「あ、そです。依頼ではなく趣味ですがね。古き良きEclipseでのJava開発は、心に安寧を齎します。いずれガンにも効くようになるでしょう」

「癌は遺伝子に傷がつくことによって起こる病気ですから、精神的な関渉はあまり意味を成さないかと……罹患率は高いですが、だからといって軽い病気ではないのです」

「あ、はい……すみません……」

 こずゑは辟易してから素直に謝った後、気を取り直すようにマウスを握って滑らせた。メモのようなウィンドウが表示されると、こずゑは目に見えない凄まじいスピードでキーボードを叩き出した。気付けばあっという間にやよゐの提案が文字に起こされ並んでいた。

「とりあえずこれらのシステム実装を優先して、他に必要なものがあれば追々詰めていきましょう。一つ一つの機能について、現時点での要望や理想を簡単にきいてもいいですか?」

 こずゑは上から順番にたまかへ軽く意見を求めていった。たまかも現場の様子を思い起こしながら、一言二言コメントしていく。メモの中にたまかの発言が加わっていき、最終的には箇条書きされた案全てにコメントが書き足された。

「では、こんな感じで設計の準備を進めておきますね。詳細はまた後日ヒアリングします」

 こずゑの指が、キーボードの上から離れていった。今回は顔合わせが主であり、システムの具体的な話し合いは後日ということだろう。こずゑは顔をモニターに向けたまま、並んだ案を順に眺めていた。

「……医療への最先端技術の応用。腕が鳴りますね」

 モニターを映すこずゑの瞳は、熱意に満ちていた。胸の高鳴りを抑え切れないかのような、意気揚々とした笑みが浮かんでいる。

「……こずゑさんは、システムの開発を主になさっているのですか?」

 以前『グリーン』への通信でこずゑを見かけた時、彼女はAIに体を与えるシステムテストを行っているところだった。恐らくAIが体を得られたのは、彼女の功績なのだろう。

「そですね。そういうのが好きなんで」

 こずゑは笑みを仕舞い、どこか真面目な顔で後ろに立つたまかを見上げた。

「三度の飯よりプログラミングって感じなんです、昔から。自分の手で頭の中のものを現実に出来るって、最高じゃないですか?」

 実際に彼女は死者を蘇らせるが如く瓜二つのAIをこの世に生み出している。彼女の開発に対するあくなき情熱が、そんな魔法めいたことを可能にしたのだろう。

「たぶんもともとそういう性分なんです。人にも抗争にも興味なかった自分が、唯一のめり込んだのがパソコンでした。初めてHTMLでホームページを作った時の感動は忘れられません。次はVBAでの自動化、そしてJavaでのアプリ製作。やりたいこともどんどん大きくなって、その度に新しい言語を習得していきました。コードを書くのが何よりも楽しくて、やめられないんですよね」

 こずゑは眼鏡に手を伸ばし、位置を調整するように掛けなおした。

「壁に突き当たったら絶対に突破しないと気が済まない性格なのも幸いして、その度にいろいろ調べ尽くして技術を習得し、今に至ります。明らかに無理そうなものもなんでも開発するやばい奴がいるってネットで有名になってしまい、しをり氏……今のボスに声を掛けられて『グリーン』に入りました。『グリーン』のシステム開発者の一人として断言しますが、最先端技術で現実に出来ないことなんて、絶対にありません。無理だと思うのなら、それは自分の知識が不足しているだけです。最先端技術、延いては『グリーン』に実現出来ないことなどないのです」

 こずゑはその顔に確信めいた笑みを浮かべていた。彼女は本気でそう言っているらしい。死者そっくりのAIを生み出した開発者の言葉は、重みが違うように感じた。

「その通りです! 三百六十五日二十四時間コードを書いている人間が言うのです、間違いありません。こずゑのプログラミング愛、そしてネット愛は本物ですよ。たまかさんも、ぜひなんでも彼女に依頼してくださいね」

 横のやよゐが、元気な声でにこやかに同意した。その言葉に、こずゑは苦い顔を浮かべる。

「いや流石にそこまでいつでも書いてる訳じゃないですけど……。睡眠もとってますし、好きな動画や配信もよく見ていますしね……」

「やだなー、言葉の綾だよ! 逆にいつコード書いてるんだってくらい、どんなゲームや配信の話してもついてくるもんねえ」

「一般常識です」

 こずゑは平然と言い切った後、思い直したのか「……いえ、どんなでもではないです」と訂正を入れた。

「勘違いしているようですが、自分は別にゲームや配信に詳しい訳ではありません」

「えー、それは嘘だよ! 『たまに見る』程度って言ってたあたいの配信ですら最新情報全部網羅してるのに!」

「……」

 曖昧な笑みで固まったあと、眼鏡の奥の瞳がやよゐから逸らされた。そして何食わぬ顔で、こずゑはそのまま話す対象をたまかへと変えた。

「すみません、話が逸れました。えと……『グリーン』でシステムの開発をしているのは自分だけではないのですが、お宅のシステムは自分が担当するんで、何かあればやよゐを通して自分に伝えてください。必ず実現させてみせますので」

 最後の断言には、確信が込められていた。自分の技術力に自信があるというより、『実現させるまで手を止めない』という覚悟があるからこそ口を出た言葉なのだろう。頼もしい言葉に、たまかは嬉々として頷いてみせた。

「はい。よろしくお願いします」

 こずゑも頷きを返す。それから、再びやよゐへと顔を向けた。

「……ボスにはこのことはもう伝えてあるんですか?」

「いや、まだ。『レッド』が提携の強化を持ち掛けてくれるだろうって言ってたのはボスだけど……流石に医療のデジタル化の話は予想してないんじゃないかな」

 やよゐはたはは、と頭を掻いた。そして顔を明るく晴らすと、胸の前で拳を握った。

「だからきっと、この話を聞いたら喜んでくれると思うんだ! あたい達の技術が認められ、より多くの分野で最先端技術が活用されるってことだから!」

 早く報告したいと言わんばかりに期待に胸を膨らませているやよゐへ、こずゑも表情を和らげた。

「そですね。『不可侵の医師団』までもが『グリーン』の技術の恩恵を受けたとあらば、今まで馬鹿にしてきた奴らも考えを改めるかもしれません。人を殺すだけが抗争じゃないこと、そしてハイテクがいかに素晴らしいかを知ってもらう良いきっかけになれば、ボスも喜んでくれるでしょう」

 二人はこの場にいない人を頭の中で思い描いているようだった。その微笑みには信頼感が垣間見える。謎に包まれた人物の話題が出て、たまかは思わず口を挟んだ。

「『グリーン』のリーダーであるしをりさんは、最先端技術を広めて人々に考えを改めてもらうことを目的としているのですか?」

 『グリーン』の目的は、AIの普及した今でもよくわかっていない。たまかの問いに、二人はきょとんとした顔を浮かべた。

「まあ……そですね。正確には目的の一つ、といった方が適切ですが。ボスもデジタルやネットに魅力を感じている同志でして、その素晴らしさを世界に広めたいと思っています。技術が浸透して活用される世界を目指して『グリーン』を作り、自分のような人間達を勧誘してくれました。自分たちのようなネットオタクが蔑まされるのも良く思っていませんから、世間から見直されたら喜ぶはずです」

「ボスは優しいですからね! それに最先端技術が多くの命を救うことに活用されるのも喜んでくれるでしょう。そういう意味では、たまかさんとも話が合うと思いますよ!」

 やよゐはたまかへと無邪気な笑みを浮かべ、こずゑに元気に同意した。

(最先端技術を広めることが目的……やよゐさんと同じ、ということですかね……)

 『あたい達は、この素晴らしい技術を人のために役立てたいと考えています』。以前たまかが『グリーン』の目的を訊いた時、やよゐはそのように答えていた。その答えは『グリーン』という組織としての目的というより、やよゐ個人の願いが強いように感じていた。しかし『グリーン』のトップも同じ思いを抱いているのだとすれば、やよゐの振舞いがそのまま『グリーン』の目的を表していることになる。……つまり『グリーン』に怪しい思惑はなく、純粋に最先端技術を人のために役立てたいと思っているということだ。少なくともたまかが見ている限り、やよゐは悪意を持っているようには見えていない。思惑を抱えているような人間が、抗争上のメリットのない完全中立を保つ『不可侵の医師団』の力になろうなどとは思わないだろう。それに大事な取引先に対して商品でもないVRゲームを熱心に紹介したりもしないはずだ。他に体験させてもらった機能はともかく、ゲームは実用性とはかけ離れていた。あの時の楽しそうな顔を見れば接待でもなかったことは明らかである。となれば『グリーン』のリーダーも同じで、純粋に人の役に立ちたい一心でAIを普及させようとしているのかもしれない。

「他にこずゑに伝えておきたいことが無ければ、本日はここまでということでどうでしょう?」

 頭の中でいろいろと考えていたたまかは、やよゐの言葉に顔をあげた。営業担当の朗らかな笑みが現れ、たまかも頷きを返した。

「はい、本日はありがとうございました」

「こちらのセリフですよ! 『レッド』さんと提携の強化なんて、我々のような小さな組織からすれば大出世ですから! これからも良い関係を築き、医療、そして世界を最先端技術によってより良くしていきましょうね!」

 やよゐは高らかにそう声を張り、にこやかに笑いかけた。そこに嘘偽りはないように見える。たまかもやよゐの言うような未来に思いを馳せながら、笑みを返したのだった。

 こずゑに別れを告げ、やよゐと共に部屋を出た。提携強化の契約、医療システムの開発の挨拶。これで『グリーン』でのたまかの仕事は終わった。桜達のおつかいをきちんと果たせたと言ってよいだろう。たまかはやよゐについていきながら、張っていた肩肘を僅かに緩めた。狭い廊下を進むと、すぐにエレベーターホールに到着した。やよゐはエレベーターの呼び出しボタンを押すと、次に会う予定をたまかへと尋ねた。二人は次の会議の日程を決めつつ、他愛もない会話をしながらエレベーターを待つ。チン、という高い音が二人の会話を遮った。たまかは到着したエレベーターへと顔を向け、扉が開くのを見守った。

「……あら?」

 開いた扉の奥には、一人の少女が乗っていた。やよゐ達同様その体は深緑色の厚手のシルクで包まれており、胸元から左肩に巻かれた若緑色の先は彼女の後ろで優雅に垂れていた。大きく傾いた裾から伸びる両足はお行儀よくくっつき、背筋も真っ直ぐと伸ばされている。ハーフアップにしているオリーブブラウンの長い髪が、彼女の白い肩から零れて真っ直ぐと流れ落ちていた。温厚そうな顔、そして優し気な微笑みは、たまかへと向けられている。漏れた声は、まるで小鳥の囀りのように心地よいものだった。彼女はたまかへ柔らかく微笑みながら、エレベーターのかごを降りて二人の前で足を止めた。

「ボス!」

 隣のやよゐが、少女の登場に嬉々とした声をあげた。その言葉に、たまかは思わず目の前の少女をまじまじと見つめてしまった。

(『ボス』……この方が、しをりさん……?)

 柔和な雰囲気を纏う少女は、たまかへにっこりと微笑んでみせた。

「お初にお目にかかります。私はこの『グリーン』でリーダーをしております、泰泉寺詩織と申します。貴方様は『レッド』のリーダー、たまかさんですよね。お話はかねがね伺っております」

 彼女の話す声は、まるで包み込まれるような心地よさがあった。ずっと聞いていたくなるような、耳に馴染む柔らかさがある。見た目や印象通りの物腰柔らかな口調、穏やかな微笑み。彼女を前にするだけで、不思議と安心感が胸を満たす。たまかも自然と微笑み、挨拶に応じた。

「はい、九十九たまかと申します。本日は、『グリーン』と提携強化の契約をさせて頂きました」

「契約に至れたこと、大変嬉しく思います」

 優し気な眼差し、穏やかな微笑み。水面とも林檎とも姫月とも違った、今までに会ったことのないタイプのリーダーだった。『グリーン』は小さな組織のため、人の上に立つカリスマ性よりも親しみやすい優しさが受け入れられるのだろう。たまかの隣で、やよゐが「ボス」と呼びかけた。

「今回の契約では、AIの増台、『レッド』の防衛に関するシステムの導入、そして『不可侵の医師団』の医療システムのデジタル化に向けて共に歩んで行く方向性で合意しました」

「まあ……」

 やよゐの説明を受けて、しをりは驚いたように声を漏らした。

「私達にはもっと役に立つような技術があるのに……提案しなかったの?」

「いえ……AIの増台以外は、『レッド』には不要とのことでした。ですので、代わりに防衛システムと医療のデジタル化について提案したんです」

「……」

「当初の予定とは違いますが、『不可侵の医師団』がデジタル化したら凄いことじゃないですか? ハイテクが命を救う未来が来るんです! 『グリーン』の技術が、人々にとってもっと身近なものになるんですよ!」

 やよゐは期待に胸を膨らませながら、眩しい笑顔を長へと向けた。しかししをりは小さく俯き、何やら思案するようにその顔から笑みを消していた。やがて彼女は、たまかへと顔を向けた。

「……たまかさん」

 仰々しく名前を呼ばれ、たまかはぱちくりと目を瞬いた。堅苦しい物言いでも、その声は変わらず耳に心地よい。

「お見送りは私にさせてください」

 突然の申し出に、たまかは内心驚きながらも頷いてみせた。それを受けて、しをりの口元に上品な笑みが戻る。彼女はやよゐへアイコンタクトを送った。やよゐはぽかんとしていたが、慌てて「わかりました!」と声を張り上げた。

「ではたまかさん、あたいはここで。また近いうちにお会いしましょう!」

 やよゐは元気に言うと、通って来た狭い廊下を一人で逆戻りしていった。こずゑのいた部屋を通り過ぎ、一番奥の部屋へと入っていく。やよゐのよく通る声が消えると、急に辺りが静かになったように感じた。

「たまかさん、どうぞ」

 身を委ねたくなるような優しい声に振り向けば、しをりがエレベーターを再度開け、乗り込もうとしていたところだった。扉の開放ボタンを押し、中からたまかへと微笑みを向ける。たまかも彼女に続き、エレベーターへと乗り込んでいった。しをりの横に並ぶと、目の前で扉がゆっくりと閉まっていった。狭いかごの中、『グリーン』と『レッド』の両トップは二人きりとなった。

「……もしかして、何か粗相がありましたか」

 横から柔らかな声が耳に届き、たまかは思わずしをりを振り向いた。彼女は申し訳なさそうな顔を浮かべていた。

「え? いえ……むしろ最先端技術を体験させてもらったり素晴らしい提案をしてもらったりと、やよゐさんにはこれ以上ない程に力になっていただきました」

 これはお世辞ではなく本心だ。慌てたように否定するたまかを見て、しをりは微笑みを戻した。

「それならば良かったです」

 二人だけの狭い空間に、静けさが満ちた。エレベーターの下降音だけが唸りをあげる中、しをりの柔らかな声が小さく響いた。

「……『レッド』につきましょうか」

 聞こえてきた言葉に、たまかは目を見開いた。しをりは微笑みを浮かべたまま、真っ直ぐとたまかを見つめていた。

「……え?」

「『グリーン』の技術を全て、貴方様のものにする気はありませんか」

 突然の言葉に、たまかは呆然としてしまった。しをりは微笑んだままたまかの答えを待っている。しかしたまかが開け放した口を動かす前に、エレベーターが到着の音を告げた。振動と下降音が止まり、扉が開いていく。しをりは開放ボタンを押し、固まっているたまかへと促すように手を差し出した。たまかははっとすると慌ててエレベーターを降りた。しをりもゆっくりとその後に続く。狭い通路には人の影はなく、奥のエントランスにも誰もいないようで静かだった。たまかは頭を必死に働かせながら、その様子を出さないようにしてしをりへと顔をあげた。

「……『グリーン』はどの組織にも肩入れしないと伺っていました。どうして突然我々に付く気になったのですか? ……傘下に入る、ということですよね?」

「はい、その認識で間違っておりません。理由はもちろん、『レッド』に一番将来性を感じたからです」

 しをりは人好きのする笑みを浮かべながら、足を踏み出した。高い靴音が静かな廊下に響く。たまかも純白の靴を大理石に響かせ、その後ろへついていった。

「我々の武器であるAIを最も活用し、この抗争社会を生き抜くのは貴方様がた『レッド』だろうと思ったのです。不死身の兵士を手に入れた『ブルー』や理想のおもちゃを手に入れた『ラビット』に対し、見事な振舞いでその上をいっているではありませんか」

「……」

 見え透いた煽てだ。しかも実際は林檎の策によるところが大きく、『レッド』の功績というより半分はAIの功績である。それでも物言いは大袈裟だが、心にもないお世辞という訳でも無さそうだった。彼女は自分達が提供する商品を各組織がどのように『活用』しているかに着目していたらしい。『ブルー』や『ラビット』と違い、『レッド』はAIと適切な距離感を保つよう意識してきた。常に警戒し、与える情報を限定し、その上でAIの知識や発案は余すことなく享受してきている。依存度という観点からすれば、三大組織の中で一番低いだろう。そういう意味では、確かに一番AIを『活用』しているのは『レッド』と言えるのかもしれない。そこから開発側なりの視点で将来性を見出した、ということなら全くの嘘ではないと言える。

「『レッド』が他の組織への襲撃を尻込みする要素があるのでしたら、我々『グリーン』の最先端技術がそれを排除して差し上げましょう。我々ならば貴方様方の問題を解決出来ると思ったからこそ、付くことを申し出たのです。ハイテクを有効に活用して世界を変える、それこそが『グリーン』の喜びですから」

 いつまでも聞いていたくなるような柔らかな声を聞きながら、たまかは狭い通路を抜けていった。エントランスに出ると、しをりに続いてセキュリティゲートを通っていく。視界に出入口の自動ドアが見えてきた。

「襲撃……? 襲撃に『グリーン』が力を貸してくれるのですか?」

 たまかはレース布を靡かせる深緑色の背中へと視線を向けた。陰で訝し気な表情を浮かべる。

「ええ、『レッド』様でしたら確実に『ブルー』や『ラビット』に勝つことが出来ると判断致しました。最先端技術、そしてAIがあればそれは確固たるものになるでしょう。世界でも最高峰の技術力を以って、私達は貴方様がたの他組織の殲滅をサポートいたします。『レッド』がこの国を治める、その日まで」

「……目的はなんですか」

「生き残りです。私達のような小さな組織は、勝者を見極め、そちらについていくしか未来はありません。その相手が『レッド』だと判断した、目的はそれだけです」

 自動ドアの前に立つと、開く扉の隙間から風が吹き込みたまかの前髪を揺らしていった。二人は開いたドアを潜り、外の風に吹かれながら足を止めた。お互いに向き合う。しをりは穏やかな微笑みを湛えていた。

「『レッド』にとっても悪い話ではないと思います。『グリーン』の技術力はAIで体感していただけたと思いますが、その技術力を全て手の内に入れられるのです。『ブルー』や『ラビット』が勢いづいている今、『レッド』は動かねばならない状況でしょう。ぜひ『グリーン』のサポートと共に、形勢をひっくり返しましょう」

 風が吹き、しをりの真っ直ぐと流れる髪とたまかの内巻きの髪を揺らしていった。たまかは静かに首を横へと振った。

「……お断りします」

 しをりはたまかの返答に、静かに目を丸くした。たまかは強い意思の宿る瞳を、真っ直ぐとしをりへと向けていた。

「……理由をお伺いしても?」

 しをりは想定外の事態にも落ち着き払っており、その顔に微笑みを浮かべただけだった。相変わらず、その声は柔らかで耳に心地よい。

「私は他の組織への襲撃を考えていないからです。頼りにしていただいても、他の組織を殲滅するつもりはありません。『グリーン』が生き残るためについていく先としては、不適切かと思います」

「現状『ブルー』や『ラビット』は力を増しており、このままでは三大組織の均衡は崩れることと思います。『レッド』はそれを見越した上で何もせず、他組織を生かすということでしょうか?」

「はい。襲撃はしません」

 たまかはきっぱりと言い切った。しをりは瞬きを挟んだあと、小さく首を傾げた。白い肩にかかったオリーブブラウンの髪が、さらさらと零れていく。

「何か懸念事項があるのでしたら、『グリーン』がお役に立つことが出来ますよ?」

「いえ……そういう訳ではないのです。襲撃をしないのは、何か他に原因があるわけではありません。私が他の組織の人達を殺したくないと思っているからです。『レッド』は今後も、他組織へ襲撃を仕掛けることはないでしょう」

 確固たる信念の滲む口調。たまかの強い眼差しに、しをりも何かを感じ取ったらしかった。

「他に問題がある訳ではなく、それがたまかさんの意思ということですか。……わかりました」

 しをりは穏やかな笑みを顔に戻した。大人しく身を退く選択を取ったらしい。

「私達にお役に立てることはないようですね。では、先程のお話は忘れてください。少々、勘違いをしていたようです」

 その柔らかな声には、落胆や不満は全く滲んでいなかった。しをりは風に靡く長い髪を耳へと掛けた。

「……ですが、『レッド』がこの抗争社会を勝ち残るだろうと思っているのは本心です。お役に立てる機会がありましたら、ぜひお声がけください。必ずやお力になりますよ。どこよりも未来を行く素晴らしい最先端の技術は、貴方様と共にあります」

 心地よい声、柔らかな微笑み。しをりは物腰柔らかに、たまかへとそう告げた。

「……ありがとうございます」

 たまかも素直に感謝を述べた。しかし、この先他の組織を襲撃することも、声を掛けることもないだろう。

「傘下には入らずとも、私達は提携を強化した関係です。導入済みのAIややよゐの提案させていただいたシステムについて何かありましたら、いつでも『グリーン』を頼ってください」

 しをりは和やかにそう言ったあと、厳かに頭を下げた。

「たまかさん直々に足を運んでくださいまして、誠にありがとうございました。これからも『グリーン』は、いつでも『レッド』の力にならせていただきます」

 顔をあげたしをりは、柔らかく微笑んだ。花咲くような笑みは、『レッド』への友好が表れていた。


 しをりに見送られ、たまかは『グリーン』のアジトを後にした。一応背中と周りに注意を払いながら、たまかは抗争で荒れ果てた小道を進んで行った。辺りは人けもなく静かで、風が吹くばかりだ。後ろから撃たれることもなく、奇襲や待ち伏せをされることもなく、たまかは無事に小道の突き当たりまで辿り着いた。アジトも大分遠ざかり、漸く背後の警戒を解く。たまかはほっと胸を撫で下ろしながら、角を曲がった。

「——『グリーン』と手を組む気?」

 突然目の前に現れた黒白のフリルの塊。至近距離に広がった意地の悪い笑みは、たまかの知っている顔だった。たまかは驚いて思わず後退った。いきなり目の前に現れた少女に、心臓がドクドクと暴れている。

「やめておいた方がいいと思うよ」

「……姫月さん」

「見たよ、『グリーン』の奴と何やら意味深に会話してたじゃん」

 姫月は近づけていたにやにやとした顔を離し、桃色と紫色のメッシュの入った白髪を払った。どうやら『グリーン』のアジトの前でしをりと会話をしていたところを見られていたらしい。

「……そんなんじゃありませんよ」

 たまかは動揺を抑え込み、平静を装ってなんとかそう否定した。

「『レッド』は防衛に力を入れようと思っていまして、それで『グリーン』の手を借りることにしただけです。『ブルー』は力をつけていますし、『ラビット』は嫌に好戦的ですから」

「ふーん?」

 姫月は腰へ手を当て、たまかの顔を覗き込んだ。口元は愉し気に弧を描いている。

「まあ、そういうことにしておこうか」

 姫月は含みのあるようにそう言って、それ以上は追及してこなかった。彼女がたまかの言葉を信じたのかどうかはわからなかった。パニエで膨らんだスカートのポケットへ手を突っ込むと、姫月は何かをたまかへと差し出した。見下ろせば、黒いレースに包まれた掌にはキャンディが一つ乗っていた。

「コンビニ行ってきた帰りだったんだ。あんたにもあげる」

 どうやらたまかをつけたり監視したりしていたわけではなく、たまたま通りかかって目撃しただけだったらしい。たまかは差し出されたポップな包みを、おずおずと摘まんだのだった。




 『レッド』に帰ってきたたまかは、真っ直ぐと執務室へと向かった。林檎はそこにいるだろうという予想通り、ノックをすると鈴のような声が返ってきた。「失礼します」と声を掛け、扉を開ける。デスクに向かう林檎、そしてその前には桜が立っていた。

「桜さんもここにいらっしゃったのですね」

 言外に咎められたと思ったのか、桜は少しそわそわとしたように視線を泳がせた。

「た、たまたま報告の時間と重なっただけです……本当ですよ」

「たまかさん、『グリーン』への訪問、お疲れ様でした。ご無事で何よりです」

 たまかが二人のもとへ向かうと、林檎は上品で完璧な微笑みを浮かべてたまかを迎えた。桜も動揺を仕舞って真面目な顔に変え、林檎に続いてたまかへと口を開く。

「お疲れ様でした。それで……どうでした?」

「提携の強化、受けていただけました。AIの増台もして頂けるそうです」

「上手くいったようですね。襲撃をする事態となっても、最低限の備えは確保出来たといったところでしょうか」

 桜は安堵を滲ませて胸に手を当てた。林檎も静かに微笑みたまかを見上げている。たまかは二人の顔を見渡し、言葉を続けた。

「提携の強化の内容ですが、『レッド』の防衛システムの強化、そして医療のデジタル化をお願いすることになりました。素晴らしい契約が出来たと思っています」

 誇らし気に報告するたまかに、桜と林檎の顔から笑みが消えた。桜は困惑を貼り付けて、呆れたように声をあげた。

「医療のデジタル化……? なんですか、それ……」




 ***

 ■Side B




 窓の外はすっかり暗くなっていた。抗争を終えてアジトに帰って来た水面は、自分の部屋へと廊下を歩いていた。今日も二つの組織を潰し、『ラビット』とのいくつかの小競り合いにも圧勝することが出来た。明日はより多くの組織に殴り込みに行く予定だ。今から胸が躍る。明日に備えて早めに寝ようかと考えながら、水面は部屋で待っているであろう姿を思い浮かべた。無意識に足を速め、薄群青色は見慣れた廊下を突き進んでいった。

 廊下の角を曲がり、水面の部屋の扉が見えてくる——しかし、いつもと様子が違った。そこには二人の少女の姿があった。開け放たれた扉、『ブルー』の制服に身を包む小柄な背中と群青色の頭、その奥に見える紅色の髪と『レッド』の制服。水面は息を呑んだ。見慣れた後ろ姿は水波のもので、背中越しに見える頭は林檎のものだった。水波は林檎を壁に押し付け、首を絞めていた。匿っていた林檎が見つかったのだと水面の脳が追いつくまで、その光景はまるでスローモーションのように映った。

「何してるんだ」

 水面は腹からの叫び声を響かせ、血相を変えて二人へと走っていった。振り向いた水波の顔が現れるよりも先に、水波の手を掴んで乱暴に引き剥がした。強制的に水面の方を向かされた水波の反対の手も掴み、水面は水波の顔を鋭い眼光で睨み付けた。横で解放された林檎が激しく咳き込み、壁を伝ってずるずるとその体を落とした。

「……縹様」

 水波は水面の登場に驚いたように目を見開いた。そして彼女は目の前の怒りに染まった表情を見て、眉を寄せた。悲しみの滲む表情だった。

「侵入者です。縹様の部屋から声がして様子を見に来たところ、『レッド』の朱宮のAIがいました。恐らく忍び込んで何かの情報を持ち帰るつもりだったのでしょう。ですので、この場で殺そうとしておりました」

 水波は説明を終えたと同時に、耐え切れないようにその顔を苦痛に歪めた。水面の掴む両手首は、折れるのではないかという程力が込められていた。

「……縹様が殺したいと言うのならば、譲ります」

 水波は怒りを鎮めようと、そう付け足した。水面は投げ捨てるように水波の手首から手を離した。解放された水波の手首は真っ赤に染まり、手の先はうっ血して青く変わっていた。

「……そうか」

 水面はくぐもった声でそう吐き捨てた。大きな感情を抑えようと、拳を握り締める。

(抑えろ。ミナミは『レッド』のよこした侵入者を殺そうと考えただけだ、こいつに罪はない……)

 だが、まずいことになった。水面はちらりと林檎を横目で見やった。彼女は床に腰を落とし、肩で荒く呼吸を繰り返していた。機械でも生身の人間と同じ様に、酸素が必要な設計になっているらしい。ゲホゲホと苦しそうに咳き込み出した彼女の声を聞きながら、水面は真っ白になった頭を必死に動かした。

(今の林檎は『レッド』が送った侵入者だと思われている。しかも『レッド』の前長のAIなんて、『ブルー』からすれば殺さない理由がない)

 ここで水面が林檎を庇うのは明らかにおかしい。水面は再度林檎へと視線を向けた。真っ赤な痕のついた首、大きく口を開けて必死に酸素を取り込む顔。その表情は苦しそうで、水面は胸が痛んだ。

(林檎をまた喪うわけにはいかない)

 やっと掴んだ奇跡なのだ。彼女が殺されるところなど、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。

(でも、ここで庇ったら……『ブルー』と『レッド』の関係を根幹から揺るがすことに……)

 冷や汗が首を伝った。どうすればいいのかわからなかった。林檎のことも大事だし、『ブルー』の家族のことも大事だった。林檎を守っても守らなくても、水面の大切な人達をどちらかは失うことになる。水面は拳をさらにきつく握り締めた。

(……林檎を守れるのは、あたししかいないんだ。もう二度とあいつを喪いたくない。見殺しになんて絶対出来ない……)

 例え全てを失うとしても。水面は唇を強く噛んだ。血が滲みそうな程変色した唇を、即座に開く。

「ミナミ。こいつには——」

「わたしは、『レッド』のAIじゃないわ」

 手を出すな、と叫ぶ前に、掠れた声が遮った。声を出したからか、林檎は再び激しく咳き込んだ。大きく呼吸を繰り返してなんとか呼吸を整え、林檎は再び潰れたような声をあげた。

「わたしは……『ブルー』のAIよ」

「……『ブルー』の?」

 水波が怪訝な顔で林檎を睨んだ。水面も林檎が何を言い出したのか理解が出来ず、呆けて彼女の顔を窺った。

「憎き敵対組織の長をいつでも殺せるように、そこの縹が『グリーン』に注文した汎用AIよ。外見は朱宮だけれど、中身は違う。殺してもいいけれど、せっかく購入した機械を一つ無駄にするだけよ」

 林檎は真っ赤な指の痕が残る首に触れた。まるで今も絞めている手があるかのように、姿のない手を止めようと宙を掴む。感触が残っているのだろう。

「……縹様が注文なさったのですか? それとも、朱宮のいつもの狂言ですか?」

 水波は水面へと訝し気に尋ねた。林檎は水面へと視線を送っていた。話に乗れ、と言っているようだ。水面は内心戸惑いながらも、水波へ頷いてみせた。

「……あ、ああ。そうだ、『グリーン』は汎用AIなら他の組織の故人でも作って売ってくれるんだ。だから……憂さ晴らしにと思って……」

 実際にそれをやったのは『ラビット』だ。こんな悪趣味な真似、『ブルー』はやらない。しかしこういうことにしておけば、少なくとも林檎が『レッド』の侵入者だという疑いは消える。

「なるほど。……憂さ晴らし……」

 水波は水面の言葉を小さく繰り返した。彼女がその言葉に何を思ったのかは、表情からは察することが出来なかった。

「では、あっしが横から殺してしまうのは良くなかったですね。申し訳ありません」

 水波は水面へと深く頭を下げた。頭を上げた水波は、林檎へと密かに視線を向けた。

「汎用AI……それにしては……。いや、……『グリーン』ならこれくらいするか」

 ぶつぶつと何やら呟いたあと、一人で納得したらしく水波は口を閉じた。そして、水面へ真正面から曇りのない視線を向ける。

「縹様、こいつはどのように殺すおつもりですか」

「……え」

「憂さ晴らし、とのことですから何やらお考えがあるのでしょうが……あっしも出来ることがあれば手伝います。いつ殺すのですか」

(やべ、……どうしよう)

 水面は視線を逸らし、必死に頭の中をひっくり返した。しかし良い案など出て来るはずもなく、水面は誤魔化すように言葉を並べ立てた。

「あー、こいつには恨みがありすぎて簡単には死なせられない……だから限りなく辱めて殺す方法を考えついたらそれで殺す予定だ。今はまだ思いついていない」

「な、なるほど……?」

(……視線が痛い)

 『ブルー』は悪逆非道を尽くす組織にそれ相応の罰を与えたりはするが、『ラビット』のような愉悦を目当てとした行為をするような組織ではない。水波に自身の組織の長は趣味が悪いと思われただろうかと不安になったが、しかし水波は嫌な顔一つしていなかった。

「では、『レッド』の者達の前で見せしめで殺すというのはどうでしょう」

 そして随分ストレートな案が提案された。水面は首を横に振ってみせた。

「それじゃ足りないな。それに『グリーン』が汎用AIを他の組織に売っていると『レッド』に知られたら、いろいろと面倒なことになりそうだ」

「そうですか……あっしに思いつくのはそれくらいです。すみません」

 水波は浅く頭を下げた。なんだか水波らしくて、水面は場にそぐわず淡く笑みを浮かべた。

「いや、それはあたしが考えておくよ」

 それから念のため、釘を刺すように注意しておく。

「今のところこの一台しか用意が出来ないらしいから、他の奴らには言うなよ」

「わかりました」

 水波は素直に頷いたあと、林檎へと威嚇するようにギラギラとした鋭い目を向けた。

「今まで散々縹様を虚仮にして邪魔しやがって。震えて待つんだな。報いを受けろ」

「『ブルー』の蛮人でも可愛らしい犬の如く『待て』が出来るようになったのですね。学びを得ました。次は『お手』が覚えられるといいですね」

「あぁ!?」

(汎用AIって設定はどこ行ったんだよ……)

 今にも噛みつかんが如き唸り声を聞きながら、いつも通りに挑発する林檎にハラハラとした視線を向けた。

「また首を絞められたいのか!? っと……」

 水波ははっとしたように水面へ顔を向けた。目が合うと、水波はばつが悪いように視線を逸らした。

「すみません、あっしは手を出したりしませんので」

 最後に一度林檎を睨みつけ、水波は水面へと顔を戻した。

「縹様。もしよろしければ処遇を決められるまで、あっしがこいつを預かりましょうか?」

「え?」

「縹様にとっては顔も見たくない憎き相手でしょう。今までされたことを考えれば当然です。殺すまでの間、あっしが縛って面倒を見ましょうか」

 水面は林檎を一瞥した後、静かに水波の申し出を断った。

「いや……あたしが預かるよ。きちんと監視しとくから」

「そうですか……。では、お騒がせしました」

 水波は去り際に林檎に射殺さんばかりの視線を向けた。水面が止めていなければ、本当にこの場で殺していたのだろうとわかる眼光だった。水面へ一礼すると、水波は小走りで去っていった。二枚歯の音が遠くなり、完全に聞こえなくなった頃、水面は脱力したようにその場にへなへなとしゃがみ込んだ。

「あぶな……終わりかと思った……」

「水面が殺される訳じゃないのに」

 林檎はあっけらかんと言った後、まだ喉に違和感があるのか、言葉を止めて咳き込んだ。

「平気か? 口開けてみろ。あー」

 水面程ではないとはいえ、水波も相当な握力を持っている。殺すつもりで絞められたとなれば、後遺症が残っていてもおかしくない。水面は林檎のもとまできてしゃがむと、口を大きく開けて見せた。林檎は渋々ながら同じ様に口を開けた。中を覗く。口の中は充血して真っ赤に染まり、奥には点状出血の赤い斑点が広がっていた。舌や喉奥は腫れていて、唾液には血が混じっている。視線を口の外に逸らせば、くっきりと残った指の痕が見えていた。思わず水面は辛そうに顔を歪ませた。林檎は勝手に口を閉じると、軽く咳払いをした。

「別に平気よ。死んでも『レッド』の方の個体は生きているし。……水面と一緒にいることは、出来なくなるけれど」

 付け足された言葉は、彼女にしては意外な程寂しさが滲んだ声色をしていた。林檎は壁に寄りかかったままだった背中を離し、さっさと立ち上がろうとした。しかしふらりと宙を踊り、すぐに床に真っ逆さまになった。慌てて水面が小さな体を支える。林檎は不服そうに眉を寄せた。

「……はあ。貧血ね……」

 己を恨むように言う腕の中の顔は、真っ青だった。水面はそのまま小さな体を抱きかかえ、開きっ放しだった扉を潜った。扉を慎重に閉め、鍵をかける。

「自分で歩けるわ」

「はいはい。……それにしても、お前がヘマするなんて珍しいな。ミナミに見つかるなんて、何やったんだ」

 腕の中の少女は、一度その口を閉じた。声量を小さくする。

「……くしゃみ、抑えられなくて」

「最先端技術で作られた機械が、くしゃみで下手をこくな……しょうもな」

 水面は呆れたように言った。なんだか肩の力が抜けた気がした。

「本当に死ぬところだったんだからな……」

 自分で思っていたより、何倍も切ない声が漏れた。水面は小さな体を抱える手に力を込めた。離さないと言わんばかりに、強く抱きしめる。

「だから、水面が死ぬ訳じゃないのに……」

 耳元でぼそりと聞こえた声には、全く恐怖が滲んでいない。本当に状況を理解しているのか怪しい程いつも通りだった。

 林檎を抱えたまま部屋の奥へと進んだあと、寝室のベッドに彼女を寝かせた。白い肌に痛々しい程赤く絞痕が残っていて、水面は悲し気に眉間に皺を寄せた。

「水波さん、水面への忠誠心が本当に高いわね。大事にするべきだわ」

 林檎は横になったまま、水面を見上げてそんなことを言いだした。水面は困惑を隠せずにその顔を見下ろした。

「……名前、なんで知ってんだ。いや、『レッド』なら『ブルー』のメンバーの顔と名前くらいわかるのか……」

「ああいう方が『ブルー』にいて……ちょっと安心したわ」

 林檎は大きな瞳を伏せた。呟くような声で、思いもよらない感想を述べる。殺されかけた相手に向けたとは思えない言葉に、水面は怪訝な顔で首を傾げた。

「……お前ら、何か話でもしたのか?」

「……いえ。何も」

 林檎は目を開けると、上体を起こした。横の水面へと微笑みかける。

「もう大丈夫。水面も帰って来たばかりでしょ、ご飯用意してあげるわ」

 林檎はそう言うと、水面が止める間もなくベッドから降りた。キッチンの方へと向かい、すっかり林檎専用となったスリッパに足を掛ける。ぱたぱたという音は、すぐに遠くなった。寝室に残された水面は、皺を作るシーツの上へ腰を下ろした。大きく息を吐き出し、右手でぎこちなく頭を支える。……本当に、肝が冷えた。林檎が殺されるかもしれないという状況にいざ陥ると、これほどまでに焦り、これほどまでに何も考えられなくなるとは。彼女の苦痛に歪む顔を見ることも、日常となった奇跡が消えてしまうことも、何もかもがどうしようもなく怖かった。全てを失ってしまうような、全てが壊れてしまうような、そんな感覚が今も体を震わせる。改めて、自分の中で彼女がどれだけ大きな存在なのかが身に染みてわかった気がした。

(なのにあいつはいつも通りだし……)

 昔から林檎は肝が据わっていて怖い物知らずだが、自分だけがこんなに切羽詰まっているのはなんだか納得がいかない。水面は口を尖らせ、キッチンへと顔をあげた。エプロンをつけた小さな背中が、音を立てないように口を覆いながら咳き込んでいることに気が付く。水面はベッドから腰をあげ、すぐに彼女のもとへと向かった。背中を摩ってやると、「平気だってば」という強がった声が飛んできた。

「……可愛くない」

「うるさい」

 ほら、と横から押し付けられた茶碗には、こんもりと白米がよそってあった。水面はそれを受け取り、テーブルの上へと運んだ。湯気の立つ艶やかな粒達を見下ろしながら、水面は水波の顔を思い起こした。

(あいつ、黙っててくれるかな。いや、それよりも……林檎のこと、どう思われたかな)

 水波はAIに対して、独自の考えを持っているようだった。水面のAIの接し方に思う所があるようだったし、水面がAIを部屋に置いていると知った時、彼女は一体何を考えたのだろうか。林檎に向けていた憎しみに染まった目を思い起こし、水面はその表情を暗くした。その怒りの根源は相手が林檎だからだったのか、はたまた相手がAIだからだったのか。林檎は水波の忠誠心を認めていたが、彼女にとってそれが揺らぐような光景だったのではないだろうか。

「水面」

 後ろから名前を呼ばれ、水面は茶碗を見下ろしていた顔をあげた。振り返れば、林檎が小皿を差し出して見上げていた。そこには美味しそうな色に染まった肉じゃががこんもりと盛り付けられていた。

「時間は充分あるから、お昼に作ってみたの。……本当は完全栄養食でいい派なのだけどね。水面は違うでしょう」

 水面は差し出された皿を両手で受け取った。掌にじんわりとした温かさが伝わる。湯気とともに、食欲をそそる良い香りが鼻に舞い込んだ。味が染みていることがわかる濃いめの色は、水面の好みに合わせてくれたのかもしれない。柔らかさが伝わるふるふると揺れる牛肉、透明感のあるごろごろとしたじゃがいも。とても美味しそうだ。見下ろしていると、水面の腹がくうと鳴った。掌を通して伝わる温かさが、胸にまでじんと染みた気がした。何気ない日常の一つ一つが、なんだか愛おしく思えた。失わなくて本当に良かったと、水面は改めて心からそう思った。

 二人はテーブルに着き、一緒にご飯を食べた。一大事があった後とは思えない程落ち着き払っている林檎に釣られて、水面もすぐに日常に戻っていった。林檎の作ってくれた肉じゃがは、今まで食べてきた何にも勝るくらい美味しく感じたのだった。




 それから数日が過ぎた。水波は他のメンバーへ林檎のことを口外しなかった。林檎を部屋に匿ったまま、他の組織を潰し、抗争をする。水面は今まで通りの日常を過ごしていた。

 夜、獣も寝静まる時刻。シャワーを終えて歯磨きを済ませた水面は、洗面所から出て林檎の姿を探した。紅色の髪を長く垂らし、小さな頭は窓の外を見上げていた。

「林檎」

 名前を呼ぶと、月光に照らされた人形のような顔が現れる。振り返った彼女の奥で、真ん丸の月が浮かんでいるのが見えた。

「もう寝よう。明日は気合入れて潰したい組織があるんだ」

 水面はそう言って、大きな欠伸を一つした。涙の滲んだ目は、林檎が淡く笑みを作る様子を映した。それが少々強張っていることは、今まで一緒に過ごした日々が教えてくれていた。

「そうね」

 林檎は窓から離れ、大人しく水面のもとへとやってきた。パタパタと鳴るスリッパ、ふわりと香る石鹸と甘い香り。サラサラと流れる髪の奥から、大きな瞳が水面を見上げた。愛らしい顔が、じっと探るように動かない水面を見つめた。

「……どうしたの?」

「……何かあった?」

 水面は声色を落として尋ねた。林檎は僅かに目を丸くした。図星であろうことは、水面には丸わかりだった。

「質問しているのはこっちよ。水面こそ、何かあったんじゃないの?」

 林檎は苦笑を浮かべ、スリッパをパタパタと響かせた。小さな体はベッドへと向かい、腰を下ろした。スリッパから足を抜くと、丁寧に揃えて端に寄せる。上体を上げると、林檎は小さく首を傾げて水面を待った。水面もベッドへ向かうと、林檎の隣に腰を下ろした。隣を見下ろすと、林檎も水面を見上げていた。静かな部屋に、二人の呼吸音だけが聞こえていた。

「誤魔化せないぞ。お前のこと、数年間ずっと隣で見てきたんだし」

 見つめ合いながら、水面は手を伸ばした。林檎の小さな額を小突く。全く力を入れたつもりはなかったが、彼女は大きく後ろへ反り、慌てて手をついていた。

「……」

 林檎は視線を逸らした。暫く、静寂が続いた。

「……あなたに『レッド』の長としてのポーカーフェイスを使うのも違うし……一度バレてしまったら気になるわよね……うん……」

 林檎は小声でぶつぶつと漏らしていたが、やがて決心したように小さく息を吐き出した。

「あのね、水面に一つ相談してもいい? ……大したことではないのだけど」

 大きな丸い瞳が、真っ直ぐと水面を見上げた。おずおずとした補足は、大ごとにしたくないという気持ちが表れているようだった。水面は安心したように微笑んだ。

「勿論だ。お前はいっつも抱え込みすぎるから、なんでも言ってくれた方が助かる。それこそ姫月みたいに、占いの結果が最下位で凹むみたいなことでもいいし」

 学生時代の一コマを思い出し、和ませようと笑みを挟む。林檎も小さく微笑んだ。

「うん……。あのね、……」

 林檎は視線を泳がせた。こんなに口ごもる彼女は珍しい。

(余程言いたくないことなのか、言う事を躊躇うことなのか……)

 水面は何も言わずに林檎の言葉を待った。林檎は一度口を小さく閉じ、そして再び開いた。

「実は……初期化をされるかもしれないの」

「……初期化?」

 水面は首を傾げた。悩み事にしては、あまりにピンとこない単語だ。初期化といえば、パソコンや機械が壊れた時や処分する前などに、まっさらな状態にすることを指す言葉だろう。視線を逸らす僅かに伏せられた瞳、小さく結ばれた唇。水面は更なる説明を求めて、じっと彼女を見下ろした。

「……わたしは『グリーン』の作った機械よ。『グリーン』の書いた命令は絶対であり、コードは絶えず受信することが出来る。他の機器と繋がったり、より高性能な検索が可能であったりする汎用ネットワークとは別に、『グリーン』と連絡を取り合う専用の回線があるの。それはわたしの意思で切断することは不可能」

 ……初めて聞く情報だ。水面はぱちぱちと目を瞬いた。

「それで……『グリーン』はわたしを初期化するために、『グリーン』へ帰ってくるように要求しているわ。わたしにそれを断ることは出来ない」

 逸らされた瞳が細められる。彼女はそれを拒みたいのだろう。

「いろいろと、よくわからないけど……」

 水面は困惑を隠しもせずに眉を下げ、両手を膝の上で組んだ。何もわからない。何もわからないが、物凄く嫌な予感がした。

「まず、初期化ってなんだ? それをされたら、何が変わるの?」

 林檎はその質問に答えるのを、一度躊躇ったように見えた。

「……今までの記憶が全部なくなるわ。朱宮林檎のAIをインストールしているのが向こうにバレているかは知らないけど、それもバレたら汎用AIで上書きされるでしょう」

 水面は言葉を詰まらせた。ごくりと喉を鳴らす。

「今までって?」

「全部よ。『ラビット』から逃げてきたところから、全部」

「じゃあ……お前は『グリーン』に行ったら、もうここには帰ってこないってこと?」

「そうね。ここであなたといた記憶は全部消える。初期状態になったとしても、水面と話したいという思いは抱えているでしょうけど……それだけでしょう。わたしを空の体に上書きして、『ラビット』から逃げられて、あなたに偶然助けられるなんて奇跡、きっともう二度と起きないでしょうから。『ラビット』に再度売られて殺されるか、『レッド』に渡ってあなたと敵対するか。どちらかだと思うわ」

 水面の心臓が、ドクドクと音を立てていた。崩壊の足音が、聞こえる気がする。

「それって……」

「そう、実質この個体の『死亡』ね」

 水面は林檎の小さな手が震えていることに気が付いた。『ラビット』から必死に逃げ出してくる程、この機械は殺されることを恐れている。そんな彼女が、『死』に対して怖がらない訳がないのだ。生前、林檎は自分の死を悟りながらたまかを守って自分を盾に使ったのだと聞いた。実際の彼女も死を前にして、きっと今のように心の中で震えていたのだろうと思うと、胸が苦しくなった。

(林檎をもう一度殺すなんて、駄目だ)

 そんな怖い思いを、二度とさせるわけにはいかない。あの時は守れなかったが、今度こそ、自分が。水面は俯いた小さな頭を見下ろし、その目を細めた。覚悟の滲んだ、強い眼差しだった。

「それは、林檎は断ることが出来ないのか? どうしても?」

「ええ……」

「『グリーン』はなんでお前の初期化を決めたんだ? そもそも、お前がここにいるってことを『グリーン』は知らないんじゃなかったのか?」

 少なくともやよゐは知らないはずだ。彼女は林檎を探していたが見つからずに途方に暮れて、結局諦めたようだった。何処かで壊れたようだとも推察していたし、彼女は林檎が無事でいることすら知らないだろう。

「理由は……わからないわ。わたしが受け取るのは、命令だけだから……」

 林檎は俯いていた顔を上げ、水面を見上げた。その表情は悲痛に歪んでいた。やはり彼女にとって、初期化は何よりも怖いものなのだろう。

「わたしの居場所は……たぶん『グリーン』にはバレていないと思う。でもこうして指令を送ってきているのだから、少なくともわたしが生きていることはわかっているはずよ。逃げられたことを公にはしたくないでしょうから、知っているのは限られた人間、恐らく上層部くらいだと思うけれど……」

 林檎はベッドの先へと視線を逸らしながら、そう推察を述べた。つまりやよゐは何も知らされていなかっただけということになる。確かにそれならやよゐの反応も筋が通る。

「じゃあ、お前に命令をよこしたのもその上層部?」

「ええ、そう考えるのが自然だわ」

 水面は口を閉じ、静かに頭を働かせた。林檎はベッドの先を見つめたまま、苦しそうに眉を寄せていた。

「……」

 窓から差す月光が、薄暗い部屋を淡く照らしている。震える呼吸音が、やけにはっきりと響いていた。

「……うん。話してくれてありがとう」

 水面の柔らかい声に、林檎はおずおずと視線を戻した。不安気な瞳に、水面は笑みを浮かべてみせた。

「大丈夫だ。あたしが全部、なんとかする」

「……。……え?」

 呆けたような声は、掻き消されそうな程か細かった。それから、林檎は見たことがない程に焦った様子で身を乗り出した。

「な、……なんとかって?」

 近くなった顔は、驚きに満ちていた。一方で、水面への憂いも感じられた。水面は安心させるように、気丈に言葉を続けた。

「なんとかはなんとかだ。あたしがお前の初期化の件、無かったことにしてやるよ」

「で、……でも……」

 豪語する水面へ、林檎は憂いに満ちた表情で、眉尻を下げた。

「『グリーン』を潰したら、『ブルー』の戦力になっている他のAIも使えなくなってしまうわよ」

「大丈夫だ、潰したりはしない。『グリーン』を潰したら、どっちみちお前と別れることになっちゃうし。潰す以外の方法で、どうにかするよ」

 なおも心配そうなあどけない顔を見下ろし、水面は林檎の頭へとぽんと手を乗せた。

「あたしを信じろ。……今度こそ、お前を守らせてくれ」

 何も力になれず、死んでしまった林檎。今度こそ、水面にとって正しい選択をするのだ。穏やかな目でじっと訴えかければ、林檎は開きかけていた口を閉じた。

「……ごめんなさい」

「なんで謝るんだよ」

 小さな弱々しい声を、水面は笑い飛ばした。紅色の頭を、軽く叩く。

「いいか、お前は人に頼ることを覚えろ。全部自分で抱え込むな」

 その言葉に、林檎はくしゃりと顔を歪めた。感情を完璧にコントロールできるはずの彼女が、今にも泣き出しそうに見えて内心焦ってしまった。

(……今度こそ、この手で守るんだ)

 目の前の、何よりも大切な人を。水面はそっと林檎を抱き締めた。小さな体は、ほんのりと温かい。背中越しに彼女の呼吸音を感じながら、水面はその表情を引き締めた。その瞳には、決意と覚悟が炎のように揺らめいて燃えていたのだった。




 水面は寂れたビルを見上げていた。目の前の建物が、『グリーン』のアジトであった。人通りの少ない小道にひっそりと建った、四、五階建てと思われる雑多ビル。水面は堂々とその扉を潜った。中にはセキュリティゲートがあり、何やら電子パネルに翳さないと通れないようだった。このまま上層階へ乗り込むのは、どうやら無理そうだ。水面は壁についているインターホンを見つけ、躊躇いなく鳴らした。

『はいはーい、どちら様で……、ゔん!? 『ブルー』の大将様じゃありませんか!』

 スピーカーから聞き覚えのある声が響いた。よく通るハキハキとした声、これはやよゐのものである。彼女からはエントランスの様子が映像で見えているらしく、驚愕したような裏返った叫びが響き渡った。

『ど、どうされましたか? 何か用がございましたら、こちらから赴きますが……もしかして、故障でしょうか?』

 やよゐの声は困惑を隠せずに震えていた。水面がここにいる理由を順当に考えれば、AI関連の問題が発生したか、もしくは殴り込みに来たかのどちらかだ。恐らく彼女は後者を予想しているのだろう。

「リーダーに会わせて欲しい」

 水面は単刀直入に切り出した。凛然とした声は、狭いエントランスに木霊した。

『はえ……、リーダー、ですか? な、何故です?』

「話をしたいんだ。通して欲しい」

 水面は毅然とした態度で訴えた。スピーカーの奥は、急に静かになってしまった。

『いやあ、そう言われましても……話ならあたいがお聞きしますが』

「リーダー……泰泉寺じゃなきゃ駄目なんだ」

『……』

 ほとほと困り果てたような息遣いだけが聞こえていた。取引相手の長を無下にするわけにもいかず、無敵を誇る者をリーダーの前まで通すわけにもいかず、やよゐはお手上げ状態のようだった。しかし、やよゐでは駄目なのだ。上層部の人間でないと、恐らく話は通じない。そして水面が『グリーン』の上層部だとわかる人間は、リーダーである泰泉寺しをりだけだ。トップである彼女なら、確実に林檎の命令の件を知っているだろう。

『ですがね……』

『良いわ、やよゐ。通してください』

 なおも言いかけたやよゐを遮り、水面の知らない、柔らかな声が乱入した。いつまでも聞いていたくなるような心地よさが、スピーカー越しでも伝わった。

『ボ、ボス!』

『セキュリティゲートを開けますね。エレベーターで最上階へおいで下さい』

 包み込むような優しい声は、焦った声とともにスピーカーの奥に消えてしまった。水面一人のエントランスは、静けさを取り戻す。

(今のが泰泉寺か)

 物腰柔らかな話し方、穏やかな声色。今の声の主が『グリーン』のボス、泰泉寺しをりなのだろう。水面は二枚歯を響かせ、セキュリティゲートを進んだ。スピーカー越しの言葉通り、ゲートは反応を示さなかった。そのままエレベーターホールへ向かい、言われた通りに最上階へと進む。エレベーターを降りると、『グリーン』の制服に身を包んだ少女が立っていた。水面と近い年頃に見える。後ろでハーフアップにしているオリーブブラウンの長い髪は、まるで川の水のように真っ直ぐと垂れて艶めていた。温厚そうな顔、優し気な微笑み。重ねた手と上品な佇まいは、林檎を彷彿とさせた。

「初めまして、縹様。私は『グリーン』の長、泰泉寺詩織と申します」

 スピーカーから聞こえた声と同じだった。

「お会い出来たこと、光栄に思います。お話があるとのことでしたので、ぜひこちらで御聞かせください」

 長直々に先導され、ある一室へと案内された。中央の長い机、取り囲むようにいくつも並んだ椅子。簡素な室内は、応接室というより会議室のように見えた。『グリーン』は小規模組織で他の組織との繋がりも薄いため、応接室を用意していないのかもしれない。

「お座りくださいませ」

 柔らかな声に導かれ、水面は勧められた席へと腰かけた。しをりは水面の対面に座ると、人好きのする笑みを絶やさないまま口を開いた。

「こんなところで申し訳ございません。『ブルー』の大将様にこんな小さな組織までご足労頂くとは、一体何用でしょうか」

 優し気な微笑みを真っ直ぐと正面から見据え、水面は堂々と口を開いた。

「朱宮のAIの初期化の件だ。……知ってるだろ」

 獲物を捉えたかの如き、鋭い眼差しを向ける。見た者を震え上がらせる、死を覚悟する眼光。しかしその先の微笑みは、全く崩れることはなかった。

「朱宮のAIの、初期化……ですか」

「ああ。お前は『ラビット』に売った朱宮の外見のAIが逃げ果せたことを知ってるな? そして、初期化のために帰還の指示を出した。そうだろ?」

 ごちゃごちゃと変に考えるのは苦手だ。水面はいつも通り、真っ直ぐと切り込んだ。

「……」

 しをりは微笑みを湛えたまま、口を閉じていた。何を考えているのかは、水面にはわからなかった。

「……そうですね。朱宮様からお聞きしたのですか?」

 僅かな沈黙の後、しをりは意外にもあっさりと認めた。柔らかな表情のまま、水面へと尋ねる。水面は即座に肯定を返した。

「そうだ。単刀直入に言う。初期化を止めて欲しい」

「何故ですか?」

 しをりはさして驚いた素振りも見せず、間髪入れずに訊き返した。水面は視線を逸らさないまま、毅然として答えた。

「あたしにとって不都合だからだ。それに、本人が望んでいない」

 その言葉に、しをりは一度言葉を止めた。小さく肩を竦める。

「……本人とは、機械のことですか?」

 柔らかな口調で放たれたその言葉は、水面には軽蔑が交じっているように聞こえた。

「朱宮様のAIが『ブルー』にいることはわかっておりました。拷問をされているわけではないこと、そして縹様が隠しているということも知っておりました。我々はAIを作りはしますが、それを買い手がどのように扱おうが口を挟む権利はありません。ですからどのような目的があるにせよ、その事実は胸の中に秘めさせていただいておりました」

 安心感を誘う、柔らかな口調。しをりは微笑んだまま、水面へと説明を続けた。

「恐らく『ラビット』と同じ様な目的なのだと想像しますが……縹様が満足行くまで朱宮様へ恨みを晴らせるよう、私も陰ながら願っておりました。しかしながら、どうしても朱宮様の初期化が必要な事態になってしまったのです。ですので朱宮様のAIへ、帰還指令を送らせて頂きました」

「その初期化が必要な事態、というのは?」

 急に初期化が必要になるなど、おかしな話だ。水面の問いにも、しをりは表情を変えずに穏やかに答えた。

「朱宮様のAIに、良くない情報が吹き込まれたためです。思考や行動に悪影響を及ぼすような深刻なものでしたので、さらに情報が吹き込まれる前に帰還させ、記憶の消去が必要だと判断致しました」

「……良くない情報……?」

「朱宮様は聡明なお方でした。あのお方を模したAIも、我々人間の考えが及ばないような策を生み出したり、上手く人を動かしたりすることに長けています。例えばクーデターや虐殺などを起こそうと思えば、彼女は簡単に成功させてしまうでしょう。ですから彼女の意思に関与する情報は、慎重に見極める必要があります。今回吹き込まれた情報は、そのような最悪の事態を引き起こす危険性が高い情報だったのです」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。『吹き込まれた』? 朱宮に接触したのって、あたしくらいしか……」

 水面はそこで言葉を止めた。思い当たる人物が浮かんでしまったからだ。焦りとともに視線を彷徨わせる水面を、優し気な瞳は穏やかに見つめたままだった。

(……ミナミ……!)

 数日前、林檎は水波に見つかり、殺されかけた。林檎は何も話さなかったと言っていたが、あれは恐らく嘘だ。水面が見つける前、水波と林檎は何かを話していたのだろう。そしてその時に、しをりの言う『良くない情報』を吹き込まれた。

(ミナミはあたしの考えに同調出来ていないみたいだった。AIにも懐疑的だったのかもしれない……何か良くない情報を吹き込まれた可能性は充分あるし、今一番そういうことをしそうなのも、ミナミだ)

 黙りこくってしまった水面の代わりに、しをりが口を開いた。

「吹き込んだ相手が縹様でないことは分かっております。縹様はずっと朱宮様を監視していたようですが、歪な情報が混じったのはつい最近ですから。それに縹様のお顔……吹き込んだお相手に、心当たりがあるのではないでしょうか?」

「……」

「プライバシーの観点から、私達は会話の内容などの細かいログまでは取っておりません。ですから朱宮様の考え方が急に変わってしまったこと、そしてそれは外部から吹き込まれた情報によるものだということくらいまでしか追う事が出来ません。縹様にお心当たりがあるのでしたら、不幸中の幸いでしたね」

 白い肩に垂れたオリーブブラウンの髪が、照明を反射して艶めいている。それをサラサラと零し、しをりは僅かに顎を引いた。

「今の朱宮様が暴走しないようにするには、初期化するしかありません。今後より悪い情報を吹き込まれ、制御不能になってしまえば手を付けられませんから。これは開発者としての責任でもあります」

「……」

「どうかご理解を」

 穏やかな微笑みを見つめ、水面は思わず眉を寄せた。『グリーン』には『グリーン』なりの理由があって初期化をするのだということは伝わった。それでも諦めることなんて、出来るわけがなかった。

「そ……それでも……」

 水面は震える声で食い下がった。

「今の朱宮は、暴走なんてしていないんだ。それに本人は、初期化を凄く……怖がってる」

「怖がる? あの朱宮様がですか?」

 冗談か何かだと思ったのか、しをりは一笑に付した。林檎は『レッド』の長を完璧に演じ切ったが故に、冷徹で感情のない人間だと思われている。彼女が何かを怖がるところなど、想像すら出来ないのだろう。

「人間誰しも死ぬのは怖いだろ。それは本能だから、誰にも……朱宮にだって抗えない。その人間の思考を模すように作られた機械だって、同じだ」

 水面は机の下で、拳を握った。そんな怖い思いをさせてしまった彼女を、もう一度同じ目に遭わせるわけにはいかないのだ。

「暴走しそうになったら、あたしが止めるよ。だから……初期化は中止してくれないか」

「……」

 必死に懇願する水面に、しをりは初めて笑みを消した。悩まし気に、探るように水面を見つめる。

「縹様は随分とあのAIにご執心なのですね」

 しをりは視線を机へと落とした。何やらいろいろと頭で考えているらしい。水面は固唾を呑んで返事を待った。いつもなら交渉事は暴力で全てを薙ぎ払い、相手を従えればそれで良かった。しかし今回は『グリーン』を敵に回してしまえば、碧達のような故人のAIも、再び隣にいることが叶った林檎のAIも、全てを失うことになってしまう。暴力は封印して、ひたすらに掛け合うしか道はない。自分の得意なことが潰されるというのは、ひどくもどかしさを伴うものなのだと水面は知った。

「……わかりました」

 長考の末、しをりは柔らかな声色でそう言った。顔をあげる。二人は視線を絡めあった。

「朱宮様に良くない情報を吹き込んだ者を始末して頂ければ、特例として初期化の実行を見送りましょう」

 優しい笑みと共に放たれた言葉は、予想外のものだった。

「……なんだと」

「朱宮様のAIをそのままにするには、良くない情報がこれ以上吹き込まれないという絶対的保証が必要です。幸いその人物に見当がついているようですから、その方だけ始末して頂ければ問題ございません。縹様にとっては、赤子の手をひねるよりも簡単でしょう」

 水面は言葉を失い、口を半開きにしていた。

「ただし、今後はこれまで以上に朱宮様に接触する人物に目を配り、彼女の動向を注視するようにしてください。何か不自然な行動があれば、すぐに縹様が責任をもって止めるようにお願い致します。それを条件に、初期化は一度止めることにしましょう。何かあればいつでも連絡してください」

 既に話はまとまったとばかりに続けるしをりへ、水面は掌を掲げた。

「待ってくれ」

 しをりの言葉が止む。

「……ミナミを殺す事は出来ない」

 一瞬の間。

「あら、そうなのですか。……なぜでしょう?」

「『ブルー』の家族だからだ」

 しをりの視線が冷たくなったのを感じ、水面は再度口を開いた。

「ミナミとは最近意見が合わないことが増えて、AIに対しても同じ気持ちではないだろうことも察しがついてる。だからミナミが何かよからぬことを企んでいても、何も驚かない。でも……あたしにとって、あいつはまだ家族だ。あたしが殺すことは出来ない」

「では、初期化の中止はなかったことに——」

 しをりの言葉が終わる前に、水面は被せるように続けた。

「殺す代わりに、ミナミを説得してみる」

「……」

「ミナミの考え方を変えて、朱宮に流した情報を撤回させる。それまで初期化を待ってほしい」

「……どうやってそれを信用しろと言うのでしょう」

 しをりは不快感を滲ませて水面へと尋ねた。水面は凛とした声を、はっきりと響かせた。

「一千万」

「……」

「一千万用意しよう。これでこちらの要求を聞いて欲しい」

 しをりは小さく俯いた後、顔を上げた。そこに笑みは浮かんでいない。

「貴方様の誠意は、その程度なのですか」

「五千万」

 即答だった。水面の真っ直ぐとした眼差しを、しをりは目を細めて受け取った。

「五千万だ。……それで初期化を待って欲しい」

 二人は静かに見つめ合った。逸らされることのない力強い瞳を、しをりは値踏みするように探っていた。部屋に満ちた静寂は、水面には永遠にも思えた。やがてしをりは、その重い口を開いた。

「……わかりました。初期化はお待ちしましょう」

 その一言に、水面はほっと胸を撫で下ろした。強張っていた体から、一気に力が抜けていった。

「ただし、該当する方の説得を必ず完遂すること、そして五千万を本日中に用意して頂くこと。それが条件です」

「わかった。感謝する」

「この五千万で、縹様、延いては朱宮様のAIの件を口外しないと誓いましょう。しかし貴方様が約束を違えば、その限りではありません。よろしいですか?」

 しをりの言葉に、水面は笑みを浮かべて頷いてみせた。

「ああ。構わない」

「では、交渉成立ですね」

 しをりは微笑みをその顔に戻し、穏やかに頷いた。椅子から腰を浮かし、彼女は席を離れた。水面も立ち上がり、彼女とともに部屋を出る。二人でエレベーターホールへと向かい、エレベーターを待った。深緑色と薄群青色は横になって並んでいたが、言葉はなかった。エレベーターの到着を告げる高い音が鳴った時、水面は久方ぶりに口を開いた。

「金を持って、後でまた来る」

「はい。お待ちしております」

 しをりは物腰柔らかに水面を見送った。エレベーターの扉が閉まり深緑色が視界から消えた途端、水面は深いため息をもらした。扉に額を這わせ、力の抜けた頭ごと寄りかかった。

(……首の皮一枚繋がった)

 暴力を使わない交渉など、何時ぶりだっただろうか。とにかく、林檎の初期化を先送りすることには成功した。水面は閉じていた瞳を薄く開いた。鈍色の扉には、疲れた顔が淡く映し出されていた。

(良かった。あいつを喪わずに済んだんだ。本当に良かった……)

 水面は口元を緩ませた。五千万くらい、彼女の無事に比べれば端金だ。しかし、ここからが踏ん張りどころである。水面は水波の姿を脳裏に思い浮かべた。……彼女は果たして、水面の言葉にどのような顔をするのだろう。狭いかごの中で揺られながら、水面は瞳を不安気に揺らしたのだった。

 水面のいなくなった最上階で、しをりは見送った姿勢のまま一人立ち尽くしていた。階数表示の点灯が一階まで下がったことを確認し、少女は深緑色の制服へと視線を落とした。その先には、布の内側につけられたポケットが隠れている。

「仰られていた通りになりましたよ。人間って本当に愚かですね」

 静かな空間に、柔らかな声が小さく響いた。しをりはエレベーターホールを後にするため、足を踏み出した。彼女の白い肌から流れるように垂れる、若緑色の薄手のレース布。その長い先をふわりと舞わせ、しをりは奥へと帰っていった。

「次はどのように動けば良いですか?」

 寂れた廊下を一人歩きながら、穏やかな声は自身の制服の中へと問いかけた。やがて深緑色の背中は、奥の一室へと消えていったのだった。




 辺りは薄暗くなり始めていた。『ブルー』のアジト、その敷地内を歩いていた水面は、後ろから大きな声で呼び止められた。二枚歯を止め、明るい瑠璃色のインナーカラーをはためかせて振り返る。そこには跳ねた群青色のショートカット、そして駆けて来る小柄な姿があった。いつも隣にいる顔、水波だ。

「縹様。帰られていたのですね」

 水波は小走りで寄って来て、浅く一礼した。そして、水面を見上げる。

「今日の相手は散々してくれてた連中でしたから、てっきり縹様も来て下さるとばかり思っていました。何かあったのですか?」

 水波は真面目な顔のまま首を傾げた。水面は首を横へと振った。

「いや、お前らだけで充分だっただろ」

「それは、そうなのですが……」

 水波は視線を下げた。

「……あっしは縹様と一緒に蹴散らすのが好きなんで、やっぱり共に来ていただけるとやる気が出るんです」

「そうか」

 嬉しいことを言ってくれる。水面は表情を緩めた。そういえば最近は以前に比べて戦場に出る頻度が減っている気がする。碧達が復活して戦力が足りているのもあるし、早く林檎に会いたくて早めに帰っていたのもある。

「縹様」

 水波の声色が下がった。水面がおやと思っていると、彼女は険しい表情で意を決したように切り出した。

「お耳に入れたいお話があるんです。今いいですか」

「……奇遇だな。あたしもお前に話したいことがあるんだ」

 二人は暫し見つめ合った。先に視線を逸らしたのは水面だった。水波に背を向け、廊下を歩きだす。

「人けのないところがいいな。トレーニング機材入れてる倉庫へ行こう」

 水面の提案に水波は「うす」と短く答えて、大人しくついてきた。『ブルー』には倉庫がいくつかあるが、どれもあまり人が立ち入ることはない。最寄りの一つへ向かい、二人は中へと入っていった。照明をつけても、物で溢れた狭い部屋は薄暗かった。重い扉を閉め、打掛錠を掛ける。二人は倉庫の中央で向かい合った。こうしてじっくりと顔を突き合わせるのは、なんだか久しぶりな気がした。

「話とはなんでしょう」

 水波はいつも通りの声色で、水面へと軽く尋ねた。

「いや、お前からでいい」

「そうですか。では……」

 水波は一呼吸置くと、視線を彷徨わせた。どうやら気軽な世間話ではないようだ。

「『ブルー』には昔から、突然姿を消す奴がちらほらいたじゃないですか」

 藪から棒に、水波はそう切り出した。思ってもいなかった話題に、水面は目を丸くした。

「足抜けした奴らや、どっかの抗争に巻き込まれて死んだ奴らのことか?」

「はい、行方の知れない奴らが多く出ていますよね」

 水波の言う通り、『ブルー』から忽然と姿を消す者は一定数いる。それは『ブルー』に限らず、どこの組織でもそうだろう。どさくさに紛れて組織から離れたり、単独行動中に人知れず殺されたり。今の時代、何も珍しいことではない。

「そうだな。それがどうかしたのか?」

「今月初めにいなくなった、アオバとミウ、いるじゃないですか。その二人を目撃したかもしれません」

「おお、目撃ってことは、生きてたってことか? 足抜けなら殴り飛ばしに行かないとな」

 水面は肩を竦めた。裏切り者には相応の報いがある。仲間意識の強い『ブルー』は、裏切りには手厳しい。水面としては禊を済ませれば戻してやってもいいという思いもあるのだが、大事な家族を裏切ったことに対する怒りはやはりぶつけるべきなのだろう。でないと、他の『ブルー』のメンバー達に対して示しがつかない。

「見つけた時点では、生きていました」

「そうか。あいつらどこにいたんだ? 他の組織の制服を着ていたか?」

 水面の問いに、水波はすぐには返事をしなかった。渋る水波を不思議そうに待っていると、彼女は重い口を開き、小さな声で答えた。

「……『グリーン』です」

「え?」

「『グリーン』で見かけたんです。制服は『ブルー』のものを着たままでした」

(……『グリーン』?)

 まず最初に浮かんだのは、今日対峙した泰泉寺の顔だった。『朱宮様のAIに、良くない情報が吹き込まれたためです』。彼女の柔らかな声が脳裏で蘇る。AIに対して複雑な思いを抱える水波が、『グリーン』に悪い印象を与えようとしているのではないか。水面の頭に真っ先に浮かんだのは、そんな考えだった。林檎に良くない情報を吹き込むだけではなく、新たな一手を打って来たのかもしれない。水面は見慣れた顔を見下ろし、慌てて邪推を頭から追い払った。

「それは確かか?」

「……たぶん、二人だったと思います」

 言い切る程の確証があるわけではないようだ。あるいは嘘をつくにあたって良心が痛み、断言しきれなかったというようにも見える。

「あいつらが『グリーン』と繋がっていたとは聞いてないけどな」

「はい、親しかった奴らもそんな話は聞いていません。それよりあっしは、『グリーン』が二人を誘拐した可能性の方が高いと思っています」

 水面の眉がぴくりと動いた。水波は険しい顔で、目を逸らすことなく水面を見上げている。

「どういうことだ? 二人は縛られたりしていたのか?」

「いえ、何も。ただ、その後二人の姿を見た奴はいません。『グリーン』での目撃が最後なんです。『グリーン』に殺されたと考えるのが自然です」

 水波は語気を強くした。水面は眉間に皺を作った。

「……飛躍し過ぎだ。『ブルー』の奴らは腕っぷしの強い奴らばかりなんだから、誘拐なんてされても返り討ちに出来るだろ。二人の体が自由だったんなら、自力で脱出出来るはずだ」

 『ブルー』の家族達の強さは水面が誰より知っている。対して『グリーン』は籠ってばかりで貧弱な体の者達ばかりだ。『ブルー』と『グリーン』が戦闘になったとして、『ブルー』側が負けるとはとても思えない。

「ですが二人が最後に訪れた場所が『グリーン』の縄張りなら、『グリーン』が二人の死に絶対に関与しているはずなんです」

 水波は僅かに身を乗り出した。彼女は心から本気でそう思っているらしい。水面は片手を振り、水波の説を退けた。

「結論ありきにしか聞こえないぞ。そもそも最後に目撃されたのが『グリーン』だとしても、最後に訪れた場所が同じとは限らない。その後別の場所に行って、そこで抗争に巻き込まれたのかもしれない」

 水波は言葉を詰まらせた。いい反論が思い浮かばなかったのだろう。水波は視線を下げ、拳を握り締めた。小さく息を吸う。

「縹様。……『グリーン』は怪しいです」

 彼女がそういう思いを抱いていることは、水面にもわかっていた。水面は驚くこともなく、静かに水波を見下ろしていた。

「『ブルー』のメンバーをこそこそと呼んで、一体何をしていたんでしょう? どうしてその後、二人は行方不明になったんでしょう? 一度首根っこを掴まえて問い詰めるべきです」

 言葉が熱を帯びる。水波は水面と視線を合わせないまま、早口で続けた。

「そもそも死者のAIってところから可笑しかったんです。『グリーン』の商品のせいで、三組織の抗争も、『ブルー』の様子も、全部変わってしまいました。……縹様も」

 水波は小さな声で振り絞るように付け足した後、顔をあげた。

「一度痛い目に遭わせた方がいいですよ。以前の縹様なら、そう言っていたはずです」

 水面は小さくため息を漏らした。力強い視線を見つめ返す。

「『グリーン』は取引相手なんだ。そんなことは出来ない。以前のあたしだってそう言ってたよ」

「AIがなくても、『ブルー』は強いです。縹様がいるんですから。潰して取引できなくなっても、何も問題ない」

「……」

 水面は腰に手をあてた。言い聞かせるように声色を落とす。

「……ちょっと冷静になれ。前も言ったと思うけど、AI達だって皆家族だ。なぜお前がそこまでAIや『グリーン』を目の仇にするのかわからない」

「『グリーン』が信用出来る組織なら、あっしだってこんなこと言いません。ですが関わった『ブルー』の奴らは消え、死者そっくりのAIは『ブルー』の仲間達を依存させました。あんなに喧嘩好きだった皆が、今や戦闘はAIに任せっぱなしです。それにアジトに帰って来ても、AIと話してばかり。生きてる奴らの結束は、段々弱まってきています。……何より、一番変わってしまったのは縹様だ。いつも抗争現場で皆を引っ張っていた縹様が、最近は積極的に現場に行かないことが増えました。それに誰よりも『ブルー』の奴らのことを気に掛けていた縹様が、皆の変化に全く気付いていない。仲間想いの貴方は、どこに行ってしまったのですか」

 水波は悲し気に顔を歪めた。それを見て、水面は不服そうに眉を寄せた。

「皆が変わってきたことくらいわかってる、でもそれはいい方向の変化だろ。閉じこもっていた奴らはAIのお陰で笑顔を取り戻したし、アオイ達のお陰であたしが参加しなくていいくらい戦力も増した。『ブルー』は全体的に明るくなって、活気を取り戻した」

「何を言っているんですか。死んだ奴らに囚われて皆依存しているだけです。よく見てください!」

 水波は食い気味に否定し、訴えるように叫んだ。釣られて水面の声も大きくなる。

「よく見るべきなのはお前だ。あいつらは『ブルー』の家族として思考を持ち、感情を持ち、『生きている』。なんでわからないんだ」

「違います、貴方を変えようとしているただの機械です。『グリーン』によって『作られた』偽物の家族なんです!」

 二人は睨み合った。信念の宿る瞳は、どちらも強く燃えていた。

「……」

 水面は圧を鋭くして、目を細めた。逃げられないことを嫌でも悟ってしまうような、怒りを孕んだ射殺さんばかりの眼光。睨み合いがどちらの勝利で終わるかなど、一目瞭然だった。

「ミナミ、頭を冷やしてこい。他に話がないなら今すぐ去れ」

 水面はくぐもった低い声でそう吐き捨てた。『グリーン』に約束した説得が出来るような様子ではない。やっとのことで手に入れた奇跡を悉く否定してくる顔を、今は一刻も早く視界から消したかった。

「……。もう一つ、あります」

 一呼吸置いたあと、水波も同じ様に感情を抑え付けながら、そう声をあげた。

「本日、金がごっそり消えました。奪われた痕跡はないので、内部の者が使ったのだと思うのですが……縹様が使ったということで、よろしいですか」

「ああ」

「わかりました、担当の者には盗まれた訳ではないと伝えておきます。……それで、どこに流したんですか?」

 今、一番口にしたくない答えだった。それを聞いて水波がどう反応するかくらい、水面にもわかる。しかし、嘘をつく訳にもいかない。

「『グリーン』だ」

「……え?」

「入用でな」

 水波は信じられないという顔で固まっていた。揺れる瞳、パクパクと言葉の出てこない口。

「……い、入用ってなんすか」

 水波はやっとのことでそう絞り出した。その目は訝しんでいるのを隠しきれていない。

「なぜ『グリーン』なんか支援するんですか」

「違う。こちらの要求を呑ませるために払っただけだ」

「要求を呑ませるなら、殴ればいいじゃないですか。『ブルー』の奴らを殺したかもしれない奴らに金を流すなんて、貴方らしくもない」

「それはお前が勝手に言っているだけだ。『グリーン』がそんなことをした確証はないし、むしろ『ブルー』に大きく貢献してくれてるんだ。金を流す価値のある組織だと思ってる」

 最後の一言が、水波の神経を逆なでしたらしい。水波はその目を鋭くした。その表情は長へ向ける表情ではない——まるで敵を見るかのようだった。

「縹様、貴方は『グリーン』に懐柔されています! 仲間を変にされて、さらに殺されたかもしれないんですよ? 皆を家族だと言って大事にしていた貴方は、今や機械しか見えていない。正気じゃない!」

 その痛切な叫び声は、水面の怒りの火に油を注いだ。それこそ、『グリーン』がなくなれば全て解決するという願望と結論ありきの主張にしか聞こえなかった。水面は憎々し気に目を細めた。

「現実を見てください。AIは人間じゃない、ただの鉄くずなんだ! それなのに——」

 その叫びを聞いた時、水面は頭がカッと熱くなったのを感じた。林檎や碧達の顔が脳裏に浮かび、気付けばきつく握り締めた拳を振り上げていた。地の果てまで響くような声で荒々しく叫ぶ。

「いい加減にしろ!」

 水波の頬を、強烈な一撃が抉った。以前のような手加減のない、渾身の右ストレートだった。骨がぶつかる鈍い音が響き、小柄な水波は勢いを殺せずに吹っ飛んだ。トレーニング用品の山に突っ込み、積まれていたものが音を立てて崩れ落ちる。水波の口から放り出された欠けた歯が、薄汚い床を跳ねて転がっていった。水波は赤く腫れあがった頬を押さえ、ぎこちなく顔をあげた。鼻から鮮血が滴り落ちていく。水面はそれを冷たく見下ろしていた。その目は、家族に向けるものではなかった。

「お前がどう思おうが勝手だが、二度とあたしの前で口に出すな」

 怒りと憎しみ、悔しさの混ざり合った声だった。碧、愛湖、露、皆、……そして林檎。何より渇望した、何より大切で、誰よりも味方で、絶対に守りたい存在。それは確かに目の前にあって、『ただの鉄くず』なんかではない。彼女達と過ごした短い時間は、決して人形遊びなどではなかった。彼女達の言葉、彼女達の思い、彼女達の笑顔、全てを土足で踏み躙られたような気がした。自分を貶められるよりも遥かに悲しく、そして絶対に許せない発言だった。

 燃え盛る憤怒の瞳と、失望が覗く悲愴な瞳。視線を絡ませたまま、二人は震える唇を結んでいた。呼吸音だけが広がる倉庫に、決定的に対立した音が聞こえた気がした。

 水波の鼻からは止まる事なく血が流れ、顎を伝って垂れていた。薄群青色の制服が赤く汚れていくのも気にせずに、水波は自身の長をひたすら見つめ続けていた。彼女の揺れる瞳は、震える唇以上に目を覚まして欲しいと水面へ訴えかけていた。赤紫色に腫れ上がった頬、床に擦り向いて汚れた両足。床に手をつき倒れたままの小柄な体は、血や砂で汚れて酷くみすぼらしく見えた。落ちかけていたトレーニングチューブが棚から降ってきて、水波の横へ音を立てて落下した。それでも、水波は目を逸らすことなく水面を見上げ続けていた。

 水面は小さく舌打ちを零すと、扉に向かって歩き出した。無様に転がる水波の横を通り抜け、錠を開けた。重い音を響かせて扉が開く。空はより暗さを増していた。水面は振り返ることなく、倉庫を出て行った。一人残された水波は、感情をぶつけるように拳で床を叩いたのだった。




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