第28章
散々泣いたせいか、ずいぶん感情がおちついた。
そんな俺を見届けると、桜さんは静かに立ち上がり、何も言わずに部屋を出て行った。俺のそばのテーブルには、彼女のフェイスタオルが置いてあった。
「みっともねぇなぁ」
いい年した男が、失恋一つで大号泣なんて、10代のガキみたいだ。
少し腫れぼったくなった目に、ポケットに入っていた目薬をさして、落ち着かせた。
「よしっ!」
気合いを入れ直し、部屋から出た。時計を見ると、あれから随分時間が過ぎていた。
今日の生放送は、2時間スペシャル、19時からオンエアだ。全出演グループのリハが終わったら、最終打ち合わせがある。
取り敢えず控え室に戻ろう。
いくら何でも、七海さんとリュウの話は、もう済んでいるだろうし、七海さん自身、今頃“ERIS”の控え室にいるだろう。あの二人のわだかまりはもう解けたし、2人はやり直すの・・・だろうか?
それはもう、俺のあずかり知らない事だ。もう七海とは、二度と会わないだろう。
吹っ切れた、といったら嘘だ。でも、ずっと溜め込んでいた感情を表に出し尽くしたせいか、心も体も軽い気がした。
控室に入ったら、笑って、いつも通り仕事しよう。そう心に決めた、その時だった。
「ようっ! 青木さん」
突然声をかけられて振り向いた。そこにはシンさんが立っていた。
「シンさん。こんにちは」
俺はそう言ってお辞儀した。いくら桜さんの恋人とはいえ、ここでは、俳優の"シン"さんだ。馴れ馴れしく振る舞うわけにはいかない。
「ドラマの撮影・・・どうなってるんですか? 明日香・・・さんが逮捕されたって」
シンさんと“ERIS”のマナト、明日香は、同じドラマに出演中で、今日、このテレビ局の別のスタジオで、そのドラマの撮影をしているはずだ。
その撮影中に、明日香の事務所の社長が逮捕、明日香さんも警察に連行された。明日香さんはドラマでも主要登場人物の筈だ。その明日香が不在になったとあれば、ドラマはどうなるんだろう?
「今、プロデューサーやらスタッフが走り回ってる。
今日の撮影は中止。
おかげで桜の今日の生本番、見られそうだ」
「そう・・ですか・・・」
当然だ。主要登場人物が警察に逮捕された、とあっては、ドラマ続行も難しくなるだろう。
明日香と事務所社長の逮捕。それがどれだけ大きな出来事か、改めて思い知った。
警察に逮捕された事実、暴力団とのつながり、それらすべて、明日香のイメージダウンだし、ひいては明日香がかかわったすべてのメディアのイメージダウンになる。
明日香が出演しているドラマ・バラエティー、明日香がモデルとして契約している女性誌、CM、それらの出演・契約がすべて白紙に戻る可能性がある。
以前、シンさんが言っていた、"立場"の話が脳裏をよぎった。
"俺やマナトも桜も、それぞれの立場とか仕事とか、人間関係も絡んで七海さんの為には動きにくい。
事務所も憲一さんも、今、一緒に仕事してる相手のことを、どうこう言える立場じゃない"
ドラマに出演しているマナトさんやシンさんが、明日香さんを陥れるような事が出来るわけがない。そんなことをすれば、シンさんたちが出演している大切なドラマを自分の手でつぶすことになる。
桜さんも然り・・・自分の手で、大切な友達を陥れることになる。そんな彼女の葛藤を、俺は見ていた筈だ。
でも、七海さんが平和に過ごせるため・・・泣き顔を見たくない・・・その一心で俺がやっていた事は、間違いではないと思っている。
明日香は悪い事をしたんだし、裁かれて当然だ。
でも、それによって起きる波紋の大きさは俺が考えていた以上だった。下手をすれば、ドラマシリーズが一本、お蔵入りになりかねない事態だ。
「ドラマの方は心配ない。何年もやってるドラマのシリーズで、シリーズごとにメインキャスト以外は殆ど入れ替わる。明日香の役どころもそうなるだろう。それに明日香は、今シリーズのみの出演だから、気にすることはない。
その明日香一人の不祥事でドラマをお蔵入りさせろ、って声よりも、ドラマ続行を望む声の方が多いだろう」
自分が出演しているシリーズドラマの事をそうはっきりと言える、シンさんのドラマに対する自信も大したものだ。
事実、シンさんが出演しているそのドラマのシリーズは毎年高視聴率を記録している人気ドラマだ。あのドラマが無くなるのを望む人は少ないだろう。
「ただ、今シリーズに、今後明日香が出ることはないだろうな。オンエア分はともかく、今後のオンエアは、編集されるだろうし、脚本変更も入るだろう。追加収録もあるかもしれないし、これからちょっと忙しくなるかもな」
「・・・大変ですね・・・」
正直な感想を言った。それがどれだけ大変な事か、判る気がする。俺だって桜さんと"ERIS"のプロジェクトに関わった人間として、それがトラブるとどれだけの事が起こるか、考えるとぞっとする。
「まあ、その代わり、今日はもう終わりだ。それで桜とマナトの生演奏が見れるんだ。ラッキーって思っておくよ」
シンさんはそう言った。そして、少し離れた所にあるベンチに腰掛け、手招かれた。俺もその隣に座った。
「俺の事より・・お前は平気なのか?」
突然、俺に話を振られて、俺は言葉を失った。
「・・・俺だったら、リュウと戦ってでも、彼女を取るな。
桜が、別の男と恋愛してるところなんか見たくねぇしな」
確かに、シンさんだったら、どんなリスクを冒しても、彼女を・・・桜さんを取るだろう。
桜さんをとって、彼自身の手で、彼女を苦しめるものから全力で守るだろう。それが出来る人だと・・と思う。
シンさんは、それだけ強い人だ。
何せ、あの桜さんが心から信頼し、愛した人なんだから・・・
いつか、二人で夜の街を歩いていた姿を思い出した。俺の姿に驚いていたけれど、彼女は、今まで見たこともない、“ピアニスト”でも何でもない、好きな人と一緒にいる女性の顔をしていた。桜さんのあんな顔、今まで見たこともなかった。
桜さんをそうさせているのはシンさん、きっとこのシンさんの心の強さを、桜さんは愛したのだろう。
でも、俺は、シンさんではない。シンさんの様に強くはなれない。
だから、別の方法で、七海さんを守る。そう決めた。
「これで、七海さんが、もう襲われる事なんかなくなります。
俺が・・・望んだのはそれだけです」
血だらけで倒れてた七海さん。俺は、もうあんな姿、見たくない。
七海さんとのことを考えたとき、真っ先にそう思った。
だから・・・
「シンさん」
「うん?」
「俺、多分」
シンさんは俺の方を見た。整った顔立ちと、他の誰も持っていない独特の強い視線。この視線で凄まれたらきっと抵抗など出来ないだろう。でも、その強い視線に怖さはない。不思議な視線だと思った。
「もしも俺が、マナトさんやリュウさんみたいにカッコよかったとしても、
シンさんみたいに心、強かったとしても。
同じ答え、出してたと思います」
以前、シンさんに会った時に言われた言葉が、脳裏をよぎった。
"最後の最後で、後悔だけはするな"
と。
今、俺は後悔していない。七海さんが手に入らなかった口惜しさやもどかしさとかは、ないと言ったらウソだ。出来るなら、リュウさんのように、七海さんに愛される存在になりたかった。
でも。だからって、無理にでも七海さんを自分の手に・・・と、今は思っていなかった。
そんなことをしたら、七海さんは泣くだろう。七海さん自身が最も愛している人から、この手で引きはがす事になるのだから。
「後悔は、してません。
シンさんが、この前、勇気くれたんで、動けたんです」
「そうか」
シンさんは、目尻を細めて笑った。テレビ越しでは見たこともない笑みだった。
「桜が、以前、お前をスタッフに抜擢した理由、判る気がする。
粗削りだけど、お前は、強いな。
桜の強さと、よく似てる。
自分の幸せよりも、彼女の幸せを想える奴なんて、そう多くない」
俺は、一瞬の間の後、酷く嬉しくなった。桜さんの一番の想い人に認められた、そう思った瞬間、俺は思わず、シンさんに深く頭を下げていた。
「じゃ、俺は行くな。
そのうち一緒に呑むか?」
「はい!是非!」
俺は嬉しくなってそう答えた。その時には、聞いてみよう。
桜さんとシンさんがどんなふうに出会って、どんなふうに恋に落ちたのか・・・あんな格差恋愛の始まりがどんなだったのか・・・
シンさんは立ち上がり、じゃあな、と手を振った。俺は、その彼の背中に、もう一度、一礼した。
不思議と、心は晴れやかになっていた。
でも、この晴れやかさはつかの間の事だ、という事も、俺は判っていた。




