第27章
「・・・七海?」
不意にリュウが、七海を呼んだ。それは、俺が今まで聞いた、どのリュウの声よりも、優しい、慈愛に満ちた声だった。
突然名前を呼ばれたからか、七海は驚いて顔をあげた。
「・・・リュウ・・・」
顔をあげた七海さんは、今にも泣きそうだった。でも・・・とても綺麗だった。
そんな七海さんを、リュウは、静かな、優しい目で見つめた。
「辛い思いさせて、悪かったな。
七海が、そんな嫌がらせ受けてんの、気づいてやれなかった。
ごめんな」
そう言って頭を下げた。
言われた七海の方は、一瞬の間の後、静かに首を横に振った。
「ううん。もう、いいの・・・私こそ、勝手にいなくなって、ごめんなさい」
蟠りを解こうとする、二人の表情は、静かで、柔らかいものだった。
それなのに、俺は、この二人を見ているのが、この上なく辛かった。
そして、その辛さに耐えられなくなった俺は、そっと控え室から出て行った。
出て行く瞬間、七海さんが、寂しそうな目をして俺を見たような気がしたのは、きっと気のせいだろう。
控え室から少し離れたベンチに座って、ただ呆然としていた。
失恋確定・・・さっきの二人を見ながら、絶望的にそう思っていた。
俺の想いなんか、叶うわけがない。リュウの存在がちらついた頃から、薄々はわかっていた。
そんな思いに駆られながらも。
これでもう、七海さんは襲われることはない、という気持ちが混ざって・・・でもそれさえ、素直に喜べない。
願ったことのはずなのに。
気分が悪かった。
こんな後味悪いことはない。
七海の事は、良かったって思うし、こうなるために、俺だって必死になっていたはずなのに。
いざこうなってみると、こんなにも・・・
(苦しいんだな・・・)
“例えばリュウと七海さんがより戻したらさ、それを笑って見届けられるか?
笑って、おめでとう、良かったね、って、言えるか?
諦めるって、そういうことだぞ?”
いつか、シンさんが言ってたことが、鮮明に蘇ってきた。
「無理だ・・・」
俺は、自分の気持ちに、勝てそうもない。
笑って、おめでとう、なんて・・・
「言えねぇ・・・」
俺は、ベンチに寄りかかり、寝たふりをしながら、溢れ出てくる涙を堪えた。
「・・・さん? 青木さん?」
それからどのくらい過ぎてからだろうか?
耳元で、囁くような声が聞こえた。驚いて顔を上げると、すぐ側には七海さんがいた。
「・・・ごめんなさい・・・寝てました?」
申し訳なさそうにそう言う彼女の表情が、とても愛おしい。
さっきまで、リュウをまっすぐに見つめていたその目は、俺を捕らえていて。
今だけは、俺だけが彼女を独占しているような錯覚にさえ、陥る。
「いや・・・どうした?」
そう聞きながら時計を見ると、あれから随分時間が過ぎているようだった。といっても仕事に影響が出るような長時間ではなかったので、ほっとした。
「え?ううん・・・」
そういうと、七海は俺の横に座った。慌てて俺は、寝ぼけている頭を無理矢理起こした。
「リュウと・・・話は済んだのか?」
本当はこんな事聞きたくないのに、口は、心は、無意識にそう聞いていた。
まるで俺の心の傷を抉るように・・・
「あ、はい。
いろいろ、ありがとうございました」
七海さんはそういうと、俺に深く、頭を下げた。
「青木さんのお陰です。青木さんが・・・守ってくれて、側にいてくれたから、ここまで来られたんです」
「俺は別に何も・・・」
そんなお礼の言葉はいらないから・・・俺の側にいて欲しい・・・そう思うのは我が儘なのだろうか?
「よかったな・・・
リュウと、やり直すんだろ?」
言いながら、胸がまた、酷くいたんだ。
「・・・・え・・・・」
戸惑った七海の声を、俺は敢えて無視した。
「これで、リュウと・・・安心して付き合えるんだろ?」
「青木・・・さん・・・」
胸の痛みは、いくら無視しても、収まるところを知らず、どんどん痛んできた。
「これからはさ、芸能人の恋人なんだから。
今まで以上に気をつけなきゃ、駄目だよ?
ま、俺がこんな事言わなくても、リュウや杉崎さんが、きっと気をつけてくれるだろうけど、さ」
俺はそこまで言うと、彼女の顔を見ないようにして立ち上がった。
「・・・青木さんっ・・・」
七海さんの、俺を呼ぶ声・・・それだけで、酷く切なく、悲しくなってくる。
「じゃ、俺・・・仕事あるからさ。
あ、今日の生放送・・・聞いていけよ?せっかくリュウの・・・ERISの生歌聴けるんだから。
滅多にないだろ?」
こそまで言うと、俺は彼女の頭を優しく撫でた。
これで・・・彼女に触るのは最後・・・そう言い聞かせながら・・・・
「青木さんっ!」
何か言おうとしている七海を置いて,俺はそのベンチを去った。
これ以上、余裕はなかった。
これ以上、彼女の隣に座る自身はなかった。
これ以上、心の傷を自分で抉る痛みに・・・耐えられない・・
七海から逃げるように、廊下を足早に歩いた。顔を上げると今にも泣きそうだった。
「あ、青木君っ!」
そんな声と同時に、ぎゅっと腕を掴まれた。
「うわっ!」
びっくりして、掴んだ人を見ると・・・俺よりも背の低い、小柄な女・・・桜さんだった。
「青木君」
「ど、どうかしたんですか?桜さん?」
一瞬、何かトラブルかと思った。でも・・・
「青木君こそ・・・何処に行くの?」
「何処って・・・別に・・・」
もうそっとして置いてほしい。俺自身、平然としているのにも、そろそろ限界だった。
「一人にして・・くれませんか?」
そこまで言うと、桜さんの腕を振り払い、行こうかと思った・・・が、桜さんは再び俺の手首を掴んだ。
この細腕のどこにこんな力があるんだ?と思うほど、しっかりと、俺の手首を掴んでいる。
そして、一瞬、何か考え込んでから。
「こっちへ」
小さくそういうと、桜さんは俺の手首を掴んだまま、引っ張ってどこかへと歩きはじめた。
「ち、ちょっと!桜さん!」
「話は後、ちょっとつき合って」
そう言いながら、桜さんは、控室からすぐ近くにある小さな会議室へと引っ張っていった。
その部屋は、ピアノが設置されていて、桜さんが指のアップに使っている部屋だった。
エアコンがちゃんと効いていて、暑くも寒くもない、ちょうど良い温度と湿度に設定されていた。
桜さんはその部屋に俺と一緒に入ると、ドアを閉め、鍵をかけた。
そして俺の腕を放し、部屋の隅から椅子を引いてくると、
「座って」
そう言って俺を座らせた。
桜さんの、意味不明な行動を理解できないまま、俺はその椅子に腰掛けた。
「どうかしたんですか? 桜さん?」
「いいから!」
そう言いながら、桜さんはピアノの前に腰掛けた。そして、いつものように大きく息を吸って、吐くと・・・ピアノの演奏を始めた。
ピアノから流れる曲は、桜さんの得意な激しい超絶技巧な曲でもなく、今“ERIS”とコラボしているあの曲でもなかった。
簡単で、シンプルな曲だった。ともすると、音楽教室から聞こえてきそうな、技術的にも難しくない、曲・・・・
(なんだっけな・・・この曲・・・)
桜さんの突飛な行動に戸惑いながらも、聞こえてくるメロディーに耳は釘付けになった。
この仕事に就いてから、何度か聴いたことのある曲だった。
俺の悩みを全く意に介することなく、桜さんは平然として演奏していた。
そして・・・
ようやっと、この曲を思い出したのは、曲が半分位過ぎてからだった。
(思い出した!)
確か、ベートーヴェンの、ピアノソナタ第31番。
いつか、桜さんが話してくれた。
『この曲はね、ベートーヴェンの晩年の曲なの』
ベートーヴェンと言えば、「運命」とか「第九」とかいった、ダイナミックで重たい曲ばかりだと思っていた。けど、この曲は、そんな印象はなく、優しくて、温かくて、甘い曲だった。
『ベートーヴェンの晩年の作品なの。副題が、“愛をもって”っていうの。ベートーヴェンが、こういう甘い曲を作るの、珍しいのよ』
そう言って、嬉しそうに演奏してくれた。
『留学中はね、こういう曲、苦手だったんだ。
もっとダイナミックで、聴く人の心を鷲掴みにするような曲が好きだったんだけど・・・
つい最近。こういう甘い曲もいいな、って思うようになったの。
もしかしたら、私の心が、甘くなったのかもね。
一人で泣きたいときとか・・・この曲聞きながら泣くこともあったっけな?』
冗談交じりにそう言っていた。
(一体何でこんな曲を・・・)
そう思いはした。
けど。
この曲を聴きながら。気がつくと・・・目頭がどんどん熱くなっていった。そして・・・堪え続けていた涙があとからあとから溢れてきた。
(っ!なんで今更・・・)
泣くつもりはなかった。
でも。
後から後からこみ上げる感情は。
まるでピアノの音で解放されるように溢れていった。
それくらい、桜さんのピアノは、今の俺の無防備な心に直接響いてきた。
それはどんな慰めの言葉よりも絶大だった。
心だけ、ピアノのメロディーに優しく抱きしめられているみたいだった。
ピアノの曲は、それほど大きな音ではない。
でも、俺一人の泣き声くらいは、容易に隠してくれた。
気がつくと俺は、ピアノの音に守られるようにして、感情を放出した。
「っ・・・・・」
声を殺しながら、泣いていた。
そして桜さんは、そんな俺の嗚咽に気づかずに・・・いや、きっと気づいていた。気づいていて、気づかないふりをしていたのだろう。・・・ピアノを弾き続けた。
この曲が終わると、また別の曲、そしてまた・・・
演奏する曲はみな、静かな心洗われる曲だった。でも、静かなりに音量のある曲だったのは、俺の泣き声を消すためか・・・
(もしかして、桜さんは・・)
両手で顔を押さえ、下を向きながら。耳と心だけは桜さんの音に釘付けになっていた。
もしかして、桜さんは。
俺が泣ける場所を、ピアノで作ってくれていたのかもしれない。
その証拠に、さっきから桜さんは、一度もこちらを見ようとしない。一曲終わっても、すぐに次の曲を始め、曲の間を長く作ろうとしていない。さらに、流れる曲も、どこかで聴いたことのあるような、耳に覚えのある優しい曲ばかりだった。
それに気づいたときには、俺の涙腺はもう、すっかり崩壊して、修復不可能なほどだった。
結局俺は、桜さんのこの無言の心遣いに癒されていった・・・
一瞬、曲が止まった時、桜さんは一瞬だけ、俺の方をみた。そして、みっともなく泣いている俺を一瞬だけ見て取ると、まるで何もなかったように視線をピアノへと移して、演奏を再開した。
(泣いてていいよ、我慢しなくていいんだよ)
桜さんの声が、ピアノの音を通して聞こえてきたような気がした。
俺は、そんな桜さんのピアノの音に、甘えることにした。
せめて今だけは。
桜さんのピアノの音に癒されながら、
泣いていたかった。
泣き止んだときには、立ち直るから、と。
ピアノのメロディーと桜さんに申し訳なく想いながら・・・




