観測者
ヴァルトシュタイン公爵邸の執務室。
夜の帳が下りた部屋で、アレクセイ公爵は、机の上に広げられた数枚の報告書を眺めていた。
報告書を提出したのは、公爵家が秘匿する『影』と呼ばれる隠密部隊。彼らが監視していたのは、とある男爵令嬢と、その婚約者である子爵令息の日常だった。
報告書には、今日のデートの様子が克明に記されている。
お互いに気合を入れすぎて笑い合っていたこと。
名物の甘味処で、男が女に貝細工の髪飾りを贈り、女が聖母のような笑みを浮かべてそれを受け取ったこと。
そして――帰り際、女がほんの一瞬、他の男(馬車の御者)に道を尋ねただけで、男の目が嫉妬に染まり、女の手首を赤くなるほど強く握り締めたこと。
「……なるほど。やはり、あの男はただの狂犬か」
アレクセイは薄い唇を歪め、冷ややかに呟いた。
「少しでも自分の視界から外れれば怯え、他の男と視線が交われば牙を剥く。そんな歪んだ器に、あの極上の愛が注がれているとは……片腹痛いな」
アレクセイの頭裏に焼き付いて離れないのは、卒業パーティーの夜に見たエリカの姿だ。
突き飛ばされ、泥に汚れながらも、狂える男を優しく抱きしめた、あの底なしの慈愛。
何でも手に入る人生だった。
だが、誰もアレクセイそのものを、無条件で、命を賭して愛してなどくれない。皆、ヴァルトシュタイン公爵という地位と権力、あるいはその美貌にひれ伏しているだけだ。
「私が欲しいのは、あの揺りかごだ。あの男の手から奪い、私のものにする」
アレクセイは立ち上がり、窓の外の闇を見つめた。
ただ力づくで奪うだけではつまらない。あの男爵令嬢は、男が「自分なしでは壊れてしまう可哀想な存在」だからこそ、その手を離さないのだ。
ならば、その前提をすべて叩き壊してやればいい。
アレクセイは静かに、影に向かって命じた。
「仕込みを始めろ。まずはあの騎士の『誇り』と『居場所』を奪う。彼が有能であればあるほど、奈落へ落ちた時の絶望は深い。……女が、自分の無力さを呪うほどにな」
公爵の計画は冷酷だった。
レナードの所属する王宮騎士団、そして実家の子爵家に、決して抗えないレベルの「罠」を仕掛け、レナードを社会的に完全に孤立させる。エリカがどれだけ愛を注ごうとも、彼女の手では決して救えないほどの絶望の淵へ、レナードを追い詰めるのだ。
アレクセイは『唯一の救済者』として、エリカの前に現れるつもりだった。
「待っていなさい、私のエリカ。その美しい愛を、私一人に捧げさせる日まで、あと少しだ」
闇の中で、公爵の極夜の海のような瞳が、妖しく怪光を放っていた。




