見つめるもの
「……馬鹿馬鹿しい」
王立学園の卒業パーティー。退屈な喧騒に嫌気がさし、3階のバルコニーに続く出窓で夜風を浴びていたアレクセイ・フォン・ヴァルトシュタイン公爵は、グラスの酒を揺らしながら、眼下の庭園を冷ややかに見下ろしていた。
最高峰の権力と、誰もがひれ伏す美貌。何でも手に入る退屈な人生を送る彼にとって、他人の色恋沙汰ほど価値のないものはなかった。
最初、裏庭で始まった若い男女の修羅場も、ただの不愉快な雑音に過ぎなかった。
男が激昂し、女を突き飛ばす。よくある、身の程知らずな男の嫉妬と暴力だ。
だが――続く光景に、アレクセイの指がピタリと止まった。
突き飛ばされ、泥に汚れたはずの男爵令嬢は、泣き叫びもしなければ、男を責めもしなかった。それどころか、怯えて震える男の肩を、まるで聖母のように優しく抱きしめたのだ。
『私はどこにも行かない。あなたの側からは、一生離れないわ』
風に乗って届いたその声は、あまりにも深く、あまりにも濁りのない「無条件の愛」に満ちていた。
どれほど傷つけられても、理不尽に罵倒されても、相手の全てを受け入れ、許し、包み込む。そんな底なしの愛の揺りかごが、この世に存在するのだろうか。
「……いいな」
アレクセイの喉から、掠れた呟きが漏れた。
冷徹で完璧主義な彼が、生まれて初めて抱いた、激しい【羨望】。
同時に、胸の奥で眠っていた狂気的な支配欲が、一瞬で目を覚ます。
あの男には、あの極上の愛を受ける資格などない。あれほど全き愛を向けられるべきなのは、この私だ。
「素晴らしいな、男爵令嬢。……いや、私のエリカ」
アレクセイはグラスを窓辺に置くと、酷く妖艶に、その薄い唇を歪めた。
暗闇に光る極夜の海のような瞳が、狂おしいほどの飢えを孕んで、遠くの小さな背中をじっと見据えている。
あの歪んだ男から、君を奪おう。
そして、私だけの頑丈な檻に閉じ込めて、その底なしの愛を、今度は私一人に注がせてみせる。
それが、エリカの平穏で歪んだ日常が、より深い奈落へと引きずり込まれる始まりの合図だった。




