罪
「……行かないでくれ、エリカ」
最高権力者としての威厳も、冷徹な策略家の仮面も、すべてが粉々に砕け散っていた。
アレクセイ公爵は力なく私の足元へ崩れ落ち、私の腰に縋りついた。その美しい銀髪を私の体に押し当てて、まるでたった一人の母親を奪われそうになった子供のように、声をあげて泣き始めた。
彼の大きな背中が、激しく、そして本当に脆くガタガタと震えている。流れ落ちる涙が、私のスカートに冷たく染み込んでいく。
それは演技でも、実験でもない。すべてを手に入れながら、本当に欲しい「無条件の愛」だけを一度も与えられなかった、一人の孤独な少年の、魂の叫びだった。
私は、自分の腰に回された彼の強張った手を、そっと優しく包み込んだ。
私をこの部屋に閉じ込めはしたけれど、彼は決して私を殴ったり、恐怖で怯えさせたりはしなかった。最高級の美しい部屋を与え、私の心を傷つけないよう、ずっと紳士的に接してくれていたアレクセイ。彼の本物の涙に触れた瞬間、私の胸に、言葉にならない痛みが突き刺さった。
(私は……私は一体、何をしてきたの?)
私は今まで、レナードの暴力を、独占欲を、「彼には私しかいないから」と受け入れてきた。彼を許し、抱きしめることで、自分が彼の唯一の『揺りかご』であることに、どこか酔っていたのではないか。
彼が私を力で縛り付けることを、仕方のないことだと、それこそが彼の愛の形なのだと、自分自身で『是』として、彼を肯定し続けてしまっていた。
けれど、傷つけ、怯えさせ、思い通りにならないと分れば暴れる――そんなレナードの歪みを「愛」だと勘違いして甘やかし、彼を怪物に育て上げてしまったのは、他ならぬ私自身の間違いだったのだ。
暴力は、決して愛なんかじゃない。
私が彼の暴力に依存し、それを許し続けたから、すべてがおかしくなってしまった。自分たちが築き上げてきた『泥濘の世界』の悍ましさと、自分の選択の間違いに対する絶望が、静かに胸を満たしていく。
私は何も言わず、ただ、だまって涙を流した。
溢れ出る涙が頬を伝い、彼の銀髪に落ちていく。
完璧な世界のなかで、ただ一人の男として愛されたかった公爵。その彼の純粋で、私を傷つけない丁寧な渇きを、私は「傲慢だ」と切り捨て、レナードの暴力という名の依存に逃げ込んでいた。その申し訳なさと言葉にできない後悔で、胸が激しく締め付けられる。
私はだまったまま、足元で泣きじゃくるアレクセイの身体を、静かに、強く抱きしめた。
「エリカ……君が、私のために、泣いてくれているのか……?」
アレクセイの大きな手が、今度は私を包み込むように優しく背中に回される。
窓のない金色の鳥籠の中で、私たちは互いの体温を確かめ合うように、重なり合ってただ静かに涙を流し続けた。
そこにはもう、公爵と囚人という関係はなかった。ただ、歪んだ愛の迷路に迷い込み、傷つき合っていた二人の人間が、初めて心を通わせ、静かに涙を分け合う時間が流れていた。




