囚われの鳥
公爵の冷たい唇が私の手の甲に触れた瞬間、全身に鳥肌が立った。
選ぶことなど、できなかった。
私の身を彼に捧げるということは、レナードを裏切るということ。私が他の男のものになったと知れば、ただでさえ壊れやすい彼の心は、今度こそ完全に狂ってしまうに違いない。
「……嫌、です……。私は、レナードの婚約者です……! 彼を裏切るような真似は……」
私は震える声で絞り出し、公爵の胸を弱々しく押し返そうとした。
けれど、アレクセイ公爵は微動だにしなかった。それどころか、押し返そうとした私の両手首を、優しく、けれど絶対に逃がさない鉄の力で掴み、ベッドの上に縫い止めたのだ。
「裏切り? 心外だな、エリカ。私は君に、彼を救うための『聖女』になれと言っているんだよ」
公爵は困ったように眉を下げ、まるで聞き分けのない子供をあやすような声音で囁いた。
「君が私を拒めば、彼は数日中に公開処刑される。君の実家も、反逆者を匿った罪で取り潰しだ。……君がそのちっぽけな操とやらにこだわったせいで、大好きな人たちが全員死ぬ。それこそが、本当の『裏切り』ではないのかな?」
「あっ……、あ、ああ……」
言葉が出なかった。
公爵の紡ぐ言葉は、あまりにも理路整然とした絶望だった。
「泣かないでおくれ。私は君を傷つけたいわけじゃない。むしろ逆さ。あんな狂犬の顔色を窺い、怯え、手首にあざを作られる日々から、君を解放してあげたいだけなんだ」
公爵の長い指が、レナードに掴まれて青くなった私の手首をそっと愛おしそうに撫でる。
「私の妻になれば、誰も君を怯えさせない。この美しい部屋で、何不自由なく、ただ愛されていればいい。君の望む平穏のすべてを、私が与えよう。……その代わりに、あの男のことはすべて忘れなさい」
「忘れるなんて……そんなこと、できるわけが……!」
「できるさ。人間は、見えないものは忘れていく生き物だからね」
公爵はそう言って、私の耳元に顔を近づけた。
「――仕込みはすべて終わっている。君がここで『はい』と頷くだけで、明日の朝には彼が釈放される。……さあ、どうする? 私の愛しい白鳥。君のその綺麗な緑色の目で、私に救いを求めなさい」
窓のない部屋。時間の止まった金色の檻の中で、私は究極の選択を迫られていた。
レナードを救うためには、彼の愛した私を殺し、公爵の操り人形になるしかない。
私は絶望に身を震わせながら、涙の向こうに浮かぶ、あの優しくも狂おしいレナードの赤色の瞳を、必死に思い浮かべていた――。




