9話 御家騒動の回避
三河国額田郡岡崎城 松平元康
永禄四年四月中旬
「これはこれは姉上。いったい何用でこのように辛気臭いところに参られたので」
「あの文、まことに預けたそうですね。私があれだけ文の内容を改めるよう言い続けたというのに」
「あの文?あぁ、右門殿に返した文のことでございますか?たしかに右門殿の印象は悪く成ったやもしれませんが、全ては松平が生き残るため。都合よく巡って来た機会でございますゆえ、利用せねば勿体のうございます」
「左衛門尉の入れ知恵であることは分かっています。あなたにあのような考えが思いつく強かさはありません」
随分と手厳しいことを申される。
私の実姉であり、亡き父上が随分と可愛がっておられた久様。二十を越えて未だ誰の元にも嫁がず、松平が独立してからも今川に戻るよう何度も説得を試みておられる方である。
これを姉上一人が申しておられるだけならば放っておけばよいのだが、姉上は少々頭が回る御方であるゆえに、一部の家臣らに迷いが生じているのだ。非常に厄介であるゆえ私は織田弾正忠家に接近する一方で、姉上を松平の家から排斥するよう仕込みを行った。
それがかつて義元公によって承認された、政孝様と姉上の婚姻話。
間違いなく政孝様も何事かと考えておられるであろうが、まさか私が今後付き合いなど持たぬであろう場所に姉上を放り出したいだけとは思うまい。
「井伊谷での会談。明らかに裏があると思われる提案です。井伊は次郎三郎殿に近づこうとしているとも聞いています。なにゆえにそのような場所で会談を行おうなどと提案したのですか?もしや井伊の者と協力し、一色様を討とうなどとは考えていないでしょうね」
「姉上、今は蔵人佐にございます。それと右門殿を討つつもりなど微塵もございませぬ。今、今川家の怒りを買うような真似をすれば、当家は瞬く間に滅びの道を歩むこととなりましょう。せめて織田弾正忠家との関係がきちんと成るまでは、最悪でも小競り合い程度で事を収めておかねばなりませんのに」
「ならばどういうつもりであの返書を押し通したのか。もちろん当事者である私にも聞かせてくれるのでしょうね」
姉上は退かぬ御方である。そこが父上も頼もしいと思っておられたのであろう。
かつて我ら姉弟の母上にも漏らしておられた。「久が男であればどれほど頼もしかったか」と。父上は私よりも姉上を高く評価しておられたのだ。
そしてそんな父上の隠さねばならぬはずの心情を、一部の家臣らが知っておった。
この一丸とならねばならぬ状況で、姉上の考えを支持しようとする愚か者が出てきてしまっている。ゆえになんとしても、姉上は目も届かぬ場所に送り出さねばならぬ。たとえもう二度と会えなくなるとしても。
「当然の権利でございます。私の狙いは大きく分けて二つ」
「二つ」
「一つは周辺諸国へ、私の豪胆さを見せつけることにあります。それこそ織田弾正忠家などには、頼もしい存在だと思われなければなりませぬゆえ」
「…尤もらしい言い分ですね。それでもう一つは?」
「我らが独立してもうじき一年が経とうとしています。ですが今川家の新体制がかろうじて形を成してきたからなのか。混乱から立ち直り始めたこともあり、三河の平定が思った以上に遅れております」
これは紛れもない事実である。また当家家中もいくつか問題を抱えているゆえに、姉上の件を抜きにしても家中で分断が起きかかっている。
そこでまずは当家が三河の統治者であるに相応しいと示す必要がある。手っ取り早いのは朝廷より官位を賜るか。あるいは幕府から三河守護として認めていただくか。
しかし私には何の実績も無い。ならば縁を頼って公家衆に話を通していただき推挙していただくというのはどうか。私の周辺諸国での評価が上がれば、任ずるだけの価値があるとも思われるであろう。
「では考えなしの行動ではないと」
「もちろんでございます。すべては当家が大きくなるための根回し。当然でございますが姉上の幸せも願っておりますゆえ」
「今後敵対する恐れのある御家に送り込んでおいて、幸せを願うなどと。思ってもいないことを口にされるのは不快です」
「手厳しいことで」
姉上の眉間にまた皺が寄った。そもそも私たち姉弟の相性が悪いのであろう。
しかしそれよりも、である。散々主が好き勝手言われているというのに、目の前に控えている者たちは誰も何も言わない。
ただずっと我ら二人のやり取りを眺めているだけである。
「蔵人佐殿、やはり今ならばまだ間に合います。私が嫁いだあかつきには、一色様にお願いして再び今川家の軍門に降ることができるよう手を打っていただくということも」
「姉上。すでに瀬名の実家である関口家は御家の取り潰しという厳しい沙汰が下されております。男らと一部計画に加わった者は揃って腹を切り、首を刎ねられました。義父様もまた蟄居先の屋敷で腹を切られたと聞き及んでおります。今さら許しを乞うたところで許されるはずもございません。一色家もまた覚えこそ目出度い御家でございますが、その分ひどい妬み嫉みを向けられている。姉上の下手な動きで松平、そして一色が取り潰されるやもしれぬのです。それゆえ此度はどうか自重していただきたく」
「…そなたの奥は実家のことを」
「既に話しております。瀬名は毎日毎日、駿河の方へ向けて手を合わせ、経を読んでおります。ですが私の傍からは離れないと申してくれております」
正直に申せば、姉上に一色家への嫁入りを伝えた時よりも心が揺さぶられたものである。関口家の最期を聞いた瀬名の表情は。
しかしその後に聞いた、今川に戻りたければという話に関してはかたくなに首を振られてしまった。その時は、今川よりも私を選んでくれたのだと嬉しく思ったものであるが、今思えばもはや戻る家など瀬名にも無い。
瀬名家は義父様の実家であるものの、裏切った男の子どもを産んだ瀬名を受け入れることは出来ぬであろう。瀬名家はそれだけ今川にとって重要な御家であるゆえに。
「最後にこれだけ聞かせてください」
「なんなりとお聞きくだされ」
「一色家はあなたにとって邪魔な存在なのですか?現当主である右門様は次郎三郎殿…。いえ、蔵人佐殿にとって兄も同然であったはず」
「上総介様と同じでございます。もはや敵であり、それ以上の感情はありませぬ。それゆえ先ほどの問いの答えは『はい』と言えましょう」
「もし仮に一色様が蔵人佐殿に味方すると言ったら」
「もちろん喜んで迎え入れますとも。かつて暗い人質生活を送っていた中で、右門殿は私の光でしたので。そんな御方とまた同じ場所で笑い合うことが出来る。どれだけそれが幸せなことか。ですが」
私の言葉に姉上はジッと見つめておられた。
「ですが何ですか」
「右門殿は私に味方することはありません。たとえ姉上がどれだけ懇願したとしても、右門殿の今川家に対する…。いえ、上総介様に対する忠誠心だけは誰にも曲げられぬものでございますゆえ」
かつての事件。あの一件以降、政孝様は人が変わられた。
一色家の先代当主であられた政文様も忠誠心に篤い御方ではあったが、氏真様に対する忠誠心という意味では家中でも相当に優れている方であると思われる。
そんな御方を相手に私に味方するよう迫るのは愚策も愚策。
「では私は一色家に輿入れした後、いったいどうすればよいのですか」
「わざわざに松平の名を出す必要はありません。そのようなことをすれば、姉上は一色家中でも浮いた存在となりましょう。ゆえにただ武家の女として成すことを成してくだされば、私は弟として十分嬉しいものでございます」
言葉選びを間違ったとすぐに思った。
しかし姉上は珍しく何も申されずに部屋を後にされた。緊張状態から解き放たれたのか、側近である鳥居彦右衛門尉元忠と、石川与七郎数正は揃って息を吐いている。まるでずっと止めていたかのように、深い、それはもう相当に深い呼吸であった。
「相当お怒りのようで」
「当り前でございましょう。いくら左衛門尉殿が押し進められたからとはいえ、あの返書をそのまま渡したなどと知られれば、松平の行く末を案じておられる姫様ならば間違いなくこうなることは目に見えておりました」
「彦右衛門尉殿もまた左衛門尉殿に味方しておられたように思えましたが」
「あれは左衛門尉殿に説得されていたゆえに仕方なく」
なんて二人で責任を押し付け合うようなやり取りをしていた。しかし問題はそこではない。
姉上の発言を聞いて、こうして揺らぐ者たちがいるということ。
「姉上が出しゃばるような真似さえされなければ、家中の誰ぞに嫁いでもらうことだって出来たのだ。しかしあの御様子では、何をきっかけに家を割るような事態になるか…」
「家中の不満は溜まる一方でございます。姫様にそのつもりがなくとも、亡き大殿の血が流れているという理由だけで担ぎ上げられることは十分に考えられますゆえ」
「このような大事な時期に御家騒動など話にならぬ。姉上には申し訳ないが、やはりこの婚姻は何としても成さねばならぬ」
姉上を追い出すのは、下手に家中を割らないため。
家中に残せば、嫁ぎ先を利用して再び政に関与するような発言をされるやもしれぬゆえに。これらの行いは全て、御家騒動を起こさぬためのものであるというのは、間違いなく姉上も理解してくださるであろう。ただそのうえで、私のやり方が気に入らぬのであろうが。
「悪くお思いなされるな、姉上。たとえこの先今川家がどうなるとも、右門殿であればきっと姉上を大切にしてくださるであろう」
根拠はない。しかし右門殿のことを昔から知る私は、なぜかそう思えたのであった。
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