8話 松平家と井伊家
遠江国榛原郡大井川城 一色政孝
永禄四年四月中旬
「これはなんとも…。いや、蔵人佐も上手く考えたものだな」
道房が持ち帰った元康からの返書を見た俺は思わずそう呟いた。
返書には「一度会いたいというのはこちらも同じ」だと書いてあり、その次に「もし会うことが出来るのであれば会談場所は井伊谷城がよい」と続く。
井伊谷城は現状今川から明確に離反したという宣言や行動は起こしていないものの、桶狭間での大敗以降で見るとほとんど登城していない。ゆえに誰も何も言わないが、井伊の心はすでに今川に無いのではないかとほとんどの者が思っていた。ただその証拠も無いゆえに、下手に混乱を招かぬために誰も言及していないだけだ。特に井伊谷の重要性は誰もが理解しているから余計にな。
「…やはりより確実に右門殿に害を与えようとしているのではないですか?井伊谷は未だ態度をはっきりとしていないと遠江では誰もが知っている話。政に疎い母の耳にすら入ってきているのですよ」
「ですが井伊は変わらず今川家の家臣として働いてはおります。行動に見えにくいだけで」
相変わらず心配そうに、元康からの返書を握り締める母。その様子を見てか、この場にいる者たちまで心配そうな顔をし始める。
ちなみにどうして元康が井伊谷での会談を望むのか。すでに井伊家から鞍替えの打診をされている可能性は大いにあるわけだが、これだとあまりに露骨すぎる。松平からの輿入れを認めた方々まで、井伊諸共訝しまれるやもしれん。そうなれば井伊谷にはすぐにでも今川から兵を差し向けられることになるだろう。
だがそれは元康としても到底認められぬ展開。仮に両者が繋がっていたとしても、それを明かすは今ではない。両家の関係をうやむやにする言い分。
それは旧今川家臣団三河衆と今川家の確執とでも言っておこうか。今川家より送りこまれた氏真様に近しい者たちを元康は信じることが出来ない。鵜殿や小原なんかは近づくだけでも嫌がるはずだ。
しかし井伊は事情が異なる。井伊家に近しい者たちと、此度元康に付き従った者たちの間に多かれ少なかれ縁があるのだ。同族であったり、古くから家同士で関わりがあったりと。
その辺りの縁を駆使して、此度の会談を実現させた。元康は自身の手の者が根回しをしたゆえに、かろうじて井伊なら信用できる、という格好をつけたわけだ。俺が上手く考えたものだと感心したのはまさにこの辺りの用意周到さに感嘆の声を上げたわけである。
「ところで主水」
「なんでございましょうか」
「井伊谷の怪しげな動きについて、具体的に知っている者はどれほどいるのだろうか」
「そうでございますね。当然のことながら今川家の御家中は多かれ少なかれ疑っておられましょう。同時にこの今川家の不安定さを勢力拡大の好機として見ている方がいるとするならば、それは甲斐の武田様では無いでしょうか。あちらもまた忍びを抱えておりますゆえ、同盟関係であることを良いことに患者を忍ばせていても不思議ではないかと」
「武田信玄か。信濃の平定に随分と時間をかけており、関東管領殿との争いも激化しているという。三国同盟は未だ存在こそしているが、三国の一角が崩れかかった今、武田の魔の手がこちらに向けられてもおかしくはないな」
「実際武田家の方々がどのようにお考えかはさておき、十分に警戒はしておくべきかと。井伊谷が松平家に降るのはまだ可愛げがあるように見えるほど、武田家の介入は面倒でございますゆえ」
武田家は順調に勢力を拡大したものの、北信濃の平定にはかなり苦戦している。というのも数年前に関東管領職についた越後上杉家の当主。後の上杉謙信が助けを求めてきた北信濃の国人たちの要請を受けて同地に入っているからである。
そのせいである程度の勢力拡大以降、武田家は厳しい状況が続いているのだ。
そして何よりも海が無い。海を得るためには、北か南に進むしかないわけだが北が全くと言ってよいほどに進展しない。ならば…。
「武田家は今川家の盟友です。それでも手を出してくると言うのですか」
「あくまで可能性の話でございます、母上。ですがもし仮に武田が井伊谷に調略を仕掛け、これに乗ってしまった場合、遠江衆は喉元に刃を押し付けられたような状況となりましょう。それは当時に今川家の窮地を意味するもの」
「…なにか手立てはないのですか」
「証拠はなくとも態度を見ればわかるもの。井伊家はすでに今川に気持ちがございませぬ。ならばいっそのこと蔵人佐に鞍替えさせてしまうべきやもしれませぬ」
俺の言葉を聞いた母は「なんと!?」と声を荒げられたが、武田につかれるくらいならまだマシという結論である。もちろん鞍替えされる前に井伊の気持ちをこちら側に連れ戻すことが一番であるがな。
「皆聞いてくれ。此度蔵人佐が井伊谷を指名した理由を考えてみたのだ。やはり一番は蔵人佐の評判の為だと思う」
「評判、でございますかな?」
爺の言葉に頷いておく。
「蔵人佐は今川家より独立して、大名としての道を歩み始めた。しかし幼少期より今川家の人質だったがゆえに、蔵人佐個人としての実績があまりにもない。また今後松平と関係を持とうとする者が出てきたとき、いったいどういう人物なのかも分からないから付き合い始めが難しいという問題も出てくる」
「言われてみればその通りでございますが。それがいったいこの件とどう結びつくので?」
「井伊家は一応今も今川家の所属である。三遠国境に位置しているゆえ、当家と松平家の移動距離を見てもほとんど同じだ。ならば別に松平方の城でもよかったのではないかと思わぬか?」
その問いに爺は「なるほど」と数度首を縦に揺らした。
「殿、それはいったいどういうことで」
一方で理解が追い付かない佐助は続きを言うようにと急かした。
「あの辺りで有力な松平方の者と言えば、たとえば西郷とかがいるであろう?井伊谷から峠を一つ越えた先に城もある」
「そういえばたしかに」
「俺が少し遠くなるだけで移動距離も井伊谷とさほど変わらぬしな」
「では先ほどの評判というのは」
「あえて敵方の城で俺と会う。さすればこれを見た何も知らぬ者たちは、蔵人佐を度胸のある者だと評価するだろう。実際は蔵人佐にすり寄ろうとしている井伊の城であるから、むしろ危険なのは俺であるというのに」
ゆえに先ほど昌友に聞いたのだ。この井伊家を中心とした状況を誰が知っているのだろうかと。
「しかしいったい誰からの評判を気にしてなのか。やはり関係を築いている織田弾正忠家でございましょうかな」
「それもあるだろう。ただでさえ三河の平定がなかなか進まず泣きつくような格好になっているのが現状であるからな。だが俺はもう一つ大きな存在があると思っている」
「大きな存在でございますか?」
「それは幕府、あるいは朝廷といった京の勢力だ」
俺の言葉に昌友も「なるほど」と声を漏らした。
「…殿、もう少しわかりやすく説明していただけると」
「よいか、新左衛門。現状における朝廷も幕府も、今川家とは非常に良好な関係を築いている。そもそも今川家は足利将軍家御一家の一つで筆頭的地位を持つ吉良家の流れをくむ一族である。そんな名門中の名門を裏切り、さらには勢力の拡大先とすら見ている。今のままだと蔵人佐の心証は現状悪くなる一方だ」
「たしかに言われてみればその通りでございます」
「だがな。幕府も朝廷も今は力があるわけではない。力のある者とは仲良くしておかねばならぬのだ。蔵人佐が今後大きく成る存在だと印象付ければ、先述した二つの存在は今川と松平の価値について真剣に考え始めるだろう。少なくとも朝廷はそうなるはずだ」
肝が据わっている。頭が切れる。そして国一つを治める器量がある。こういったことを証明していくことで、東海における優位性を勝ち取ろうとしている。
この頃の元康は非常に慎重な性格で、先を見通す力が凄まじく優れていた。
ゆえに俺はこの辺りがこの一連の動きに関係しているのではないかとみているわけだ。
「してそう言った思惑があると理解しておきながら、ただその通りに動くのでございますか」
ようやく口を開いた正綱殿。実はずっと同じ部屋にいた。
間ぁ最低限しか口を開かないのは、あくまで監視役であることを理解しておられるゆえであろう。たまに我慢できなくなるのか、こうして話しかけてくれたりもする。
「まさか。主水、尾張国内に情報を流せ」
「はっ。しかしなんと?」
「そうだな…。遠江の井伊がしきりに松平へと文を送っている、噂がある。とかな。井伊が松平に鞍替えすれば、停滞している三河の平定もようやく進み始めるであろう、とかな」
「まことによろしいので?それでは先ほどの話が現実的になるのでは」
「井伊家はまだ鞍替えできぬ。まだ遠江自体が荒れていないからな」
「ではこの噂を尾張で流すのはやはり」
「朝廷だ幕府だと言ってもな。今の蔵人佐が最も気にしているのは、やはり織田弾正忠家の評価で間違いない。自身を立派に見せるために仕掛けた小細工が、結局無駄なものであった。下手をすれば間抜けなものになったと知れば、多少は行動に陰りが出てもおかしくはない。今の俺達に出来るのは、蔵人佐の勢いをくじき、今川家が立て直す時間稼ぎをすることなのだからな」
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