7話 正当な統治者
遠江国榛原郡大井川城 一色政孝
永禄四年四月上旬
無事に今川館より大井川城へと帰還した俺は、すぐさま岡崎の元康の元へと使いを出した。元康が寄越したのが松平の重臣である酒井忠勝であったことを考えると、いくらただ文を携えるだけの使者とは言え半端な立場の者を送ることは憚られた。そこで四臣の一人である道房に何人かの家臣をつけて送り出している。
ちなみに預けた文はかなり挑発的とも言える内容になっており、中身を確認した爺は苦笑いをこぼし、母はふらりと身体を傾けられるほどには衝撃的だったようだ。
『先日の話、御屋形様より前向きなお言葉を頂戴したゆえ、当家は喜んで久姫をお迎えいたす。しかし一度も顔合わせもせず、ただ輿入れを済ませるのは少しばかり味気なく、一度面と向かって蔵人佐殿と話がしたい。急な申し出であること、またお互いに時間が限られていることを鑑みて全てそちらに任せるゆえ、日時と場所を書いた文を使者へと渡してほしい。出来るだけそちらに都合に合わせるが、あまり無理だけは言われぬようお願いいたす』
とまぁこんな内容である。母は絶対に今からでも取り下げるべきだと申しておられたが、やはりこの輿入れを推し進めようとした元康のこと。色々と探りを入れておきたいというのは本心だ。
久しぶりにあの男の顔が見たい、という個人的な事情を抜きにしても、一度ちゃんと顔を合わせておくべきだろうという結論に至ったわけである。
「…そろそろ三郎は岡崎についた頃でしょうか」
「何事もなく、順調に三河に入っていればそうでございましょうね」
「右門殿、やはり今からでも遅くはないと母は思いますが」
「母上、何度も申している通りでございます。それに蔵人佐も阿呆ではございませぬ。わざわざこの機会に我らを始末しようとは考えますまい」
間違いなく裏があるように思えるこの婚姻の申し入れ。俺を殺せば白紙に戻るだろうが、そうなったときに元康が被る何かがあるはずだ。だからこそ俺はだまし討ちにあわないと確信を持っている。
だがその一方で元康はどうだろうか。裏切り者である自分が敵地に赴けば、その首を獲らんとしている方々に狙われるという恐怖は間違いなくあるだろう。
なんせすでにこの話は氏真様の耳にまで入っているのだから。
「しかし我が兄より一色家の話を聞いた時は驚いたものでございます。まさか松平の縁者を室に迎え入れようとは」
「次郎右衛門尉殿には悪いことをしたと思うております。完全にただ巻き込まれただけでございますゆえ」
「巻き込まれた。まぁそうとも言えますが、これまではなかなか縁を持つ機会のなかった一色家、右門殿と話が出来る機会だと思えばそう悪い話でもないのやもしれませぬ」
この男、先日今川館で俺の監視役として名前が挙がった岡部次郎右衛門尉正綱殿である。城に戻って数日後に岡部の領地より送り込まれてきたのだ。
話を聞いた限りだと、やはり一部の家臣らより情報をダダ流しにするよう求められたとのこと。
しかし正綱殿の主は、兄である元信殿のみ。元信殿はただ一色と松平の婚姻に関して不審な点が無いかだけを氏真様に報告するようにと何度も申しておられたようで、迂闊なことは口外しないと予め宣言してくださっている。
こういう人材がもっと氏真様の御傍にいれば、状況もまた少しくらいは違ったであろうにな。なんせ氏真様の近くには私利私欲にかられた連中が多すぎる。氏真様もよく言えばお優しい方であるゆえに、そういった者たちを振り払えないのであろう。だからこそ今の惨状なわけで。
「そう言っていただけて、少しばかりホッといたしました」
「しかしそうは言うても、例の件はしっかりと御屋形様に報告させていただきますゆえ。それだけはお忘れなきように」
「もちろん。それに私に二心はありませんので」
「そう願うばかりでございます」
ニコリを笑みを浮かべられた正綱殿。
「三河の地を治めるために松平の血を入れる。兄上よりその話を聞かされた時、自然と良き考えだと思ったものでございます。三河という地は長らく今川・織田に挟まれ、常に戦の中に身を置いておりました。土地は痩せ、民は飢える。そんな時代も長らく続いていたと聞きます。そんな中で松平家が三河をほぼ手中に収めていた御方がおりました」
「蔵人佐の祖父、松平清康公でございますね」
「はい。あの御方が凄惨な最期を迎えなければ、東海における勢力図は今と全く違うものになっていたやもしれませぬ。いえ、私はそうなっていたと断言いたします」
たしかにそういった考えが出るくらいには、松平清康の評価は高かった。あの事件さえなければ。
そう、森山崩れである。随分と若くして命を落としたことを考えると、やはり天寿を全うしていれば歴史は大きく変わっていたかもしれないな。と、そもそも史実には存在すらしていない俺が思うのも変な話ではあるが。
「とにもかくにも松平の存在は、今もなお大きなものでございます。御屋形様が再び家中をまとめ上げたあかつきには三河の再平定も画策されましょう。そしていずれ彼の地を奪還した時、いったい誰がこの難しき地をまとめ上げるのか。宗家筋に当たる蔵人佐殿が再び彼の地の主に立つことはまずなく、だからと言って諍いの多い分家筋の者を祭り上げることもまた難しい」
「そこで我らの婚姻というわけでございます」
「まぁ困難は多いとは思いますが、無縁の者が無理やり治めようとするよりはまだよい結果を生むのではないかと期待できる。それにこの婚姻事態、松平の提案でございますゆえ」
そういうことだ。さすがは正綱殿。
岡部の頭脳役として長らく元信殿を支えているだけのことはある。
「しかし民はよくとも、松平譜代の家臣らが従うかどうか。そこが最大の問題であるようにも思えますね」
ずっと黙って話を聞いていた昌友がようやく口を開く。
「たしかにそれはその通りで」と正綱殿は頷いたが、まぁどの程度の再平定を行うかだとは思うがな。
松平という存在を徹底的に叩き潰そうとすれば、譜代の者たちの抵抗もそれに比例するように大きくなるように思える。少し制裁する程度に抑えれば、多少は言うことを聞かせられるかもしれない。
だがそれは第二・第三の元康を生むだけだ。いったい三河の地にどれだけ松平という家が存在しているのか。宗家は一つでも分家はめちゃくちゃに多いからな。
さきほど名が出た松平清康の死に関連した後世の一つの説として、松平清康と関係が悪かったと言われている分家桜井松平家の当主松平信定が、当時攻め込まれていた織田信秀と共謀した末に発生したのが森山崩れというものまであったくらいだ。
まぁ今の話はただの余談ではあるが、そういった力のある分家も存在していると俺は言いたいわけだ。
打ち勝つことを前提に話しているのだが、それはあまり気にせずにいきたい。ようは加減の話だ。三河の再平定は当たり前だが血だけでどうにかなるような単純なものではない。
これはあくまで手段の一つというだけの話。
「難しい話ではありますが、まずは奪い返さねば話になりませぬ。そのためには家中をどうにかまとめ上げねばならぬのでございますが」
「御屋形様は足掻いておられます。我らが諦めるには少々早いのではないかと」
俺の言葉を聞いた正綱殿は「そうでございますね」と頷く。
とにもかくにも元康からの返事が来ないと話は進まない。さて、あの男はこの挑発に乗って来るだろうか。
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