4話 織田弾正忠家の拡大政策
「…先ほど新九郎より話を聞きました。松平から嫁を貰うという話で四臣らと同意に至ったと」
俺がチラリと爺を見た。どこか申し訳なさそうに視線を逸らす。
明らかに合意したあの瞬間、爺は納得はしていない表情であったからな。合意は口だけだったわけだ。そして父上同様、母に頭の上がらない俺に対しての切り札としてこのような場を用意したのであろう。
「まことの話でございます。蔵人佐によって失われた三河の地をいずれ奪還し、今川の統治下で安定を保つためには非常に都合の良い話だと感じましたので」
「右門殿、あなたはいつも突拍子もないことを言って母を困らせてきました。それは当主になっても変わらぬのですね」
「理解しております」
「…松平に与そうと考えているのではありませんか?」
母は明らかに言葉を選んでいる様子だった。だが長い沈黙を破り、やっと口に出した言葉は思った以上にストレートで、爺も思わず目をカッと開いて俺の言葉を待っている。
だが俺の気持ちは昌友や忠次に言ったとおりだ。
「たしかに蔵人佐とも旧知の間柄ではございます。それこそ竹千代、鶴丸と呼び合った仲でございます。しかしそれと同時に御屋形様、当時は龍王丸様を恐れ多くも兄のようにお慕いし、今川館にて崇孚様に師事しておりました。そんな御屋形様をどうして簡単に裏切れましょうか」
「ですがですよ。ですが古くより今川家に仕えてきた者たちも大勢離れております。右門殿がその者たちと同じことを考えていたとしても」
「母上、改めて申し上げます。俺が御屋形様を裏切ることはございませんし、母上を一人置いてけぼりにすることもございません。この一色右門政孝、誠心誠意今川家の忠臣として今後も御屋形様にお仕えしていく所存でございます。そのうえで、今川家のお力になるため家中の厳しい目を敢えて受け入れ、蔵人佐の姉を娶ろうと考えております。しばらくは大変な日々が続くとは思いますが、いずれ来たるその日のために」
もしかすると三河統治の正当性は認められないかもしれない。だが何も手が無く、うだうだと三河の統治をだらけさせるよりは絶対にマシだ。何かしらカードを持っておくということは。
母は明らかに子の突拍子もない暴走を止めるため宥めるように話しかけておられたが、俺がとある名を出した途端に一気にトークダウンをされた。
「蔵人佐の正室である瀬名様とその御子らの命も、この輿入れで保障させるつもりでございます。蔵人佐はこれまた旧知の間柄にある織田弾正忠家に接近しておりますが、織田からすれば今川の縁者が松平にいることを不都合に考えましょう。ゆえに何かしら行動を起こす、あるいは交渉に出てきてもおかしくはございません」
「…ではあの子たちの命が危険だと?」
「まだなんとも。ですが蔵人佐が敢えて危険を冒し、過去の取り決めを持ち出してまで輿入れを強行したのには何かしらの理由があるはず。そこを突き、瀬名様や御子らの身の安全を約束させます」
「そのようなことが本当に出来るのですか?」
「そう仕向けます。おそらく今川家中で蔵人佐のことを一番理解しているのは俺でしょうから」
結局母はこの提案によって折れた。しかし嫁姑の関係は期待するなと最初から申しておられたが。まぁそれに関しては仕方ない。こちらでできる限りのことをやっておくだけだ。
だがこれで久姫との輿入れが成るわけではない。まだいくつもある壁の内の序盤の二つを越えたに過ぎない。むしろこれからが本番である。
遠江国榛原郡大井川城城門 一色政孝
永禄四年三月中旬
「主水、留守を頼むぞ」
「かしこまりました。殿もどうかご無事で」
「わかっている。爺にも耳が痛くなるほどに言われたばかりだ。今御屋形様の周囲はあまりにも不安定であるゆえ、最大限配慮しつつ今川館へと向かい、きちんと話をさせていただくつもりよ」
「さすがは殿にございます。出過ぎた発言にございました」
昌友は数少ない一門の人間として、俺が領地外へ出る際には留守役を担ってくれる。
特に此度は爺や佐助、道房らも同行しての旅路となるゆえに昌友が担う役目は非常に重たい。まぁいつものことではあるが。
「主水、母上のことくれぐれもよろしく頼む。承諾こそ頂けたが、やはりあまり納得もしておられぬ様子であったからな」
「それは殿の身を案じてのことでございましょう。御方様はいつも殿を第一に考えて行動されておりますゆえに」
「…まぁ理解していないわけではないが」
突然の正論に俺は思わず間を空けてしまった。まるで勝ち誇ったような表情をした昌友は改めて頭を下げる。
「どうかお気をつけて」
「あぁ」
ふり返ると、すでに馬が俺を待っている。俺が元服を果たした際に、まさかまさか氏真様が祝いとして信濃の良馬を贈ってくださったのだ。まぁ妬み嫉みがひどかったが、それはそれである。
「では行くとしようか」
「はっ。参りましょうぞ」
爺が隣で馬に跨り、俺もまた同様に跨った。同行する佐助や道房は護衛の者たちを率いているため傍にはいない。
愛馬の腹を蹴り、俺達は今川館への旅を開始した。
「殿、少しばかりよろしいでしょうか」
しばらく進んだ頃、少しばかり俺の傍を離れていた爺が再び隣に並んだ。
その表情は明らかに険しく、一目見て何かがあったのだと理解できた。
「どうかしたのか、そのような真剣な表情で」
「織田信長めは、桶狭間での勝利以降東海への進出意欲を一切見せておりませぬ。近頃は美濃への進出に躍起になっているようで」
「そのようだな。俺の耳にもそのように届いている。どうやら義父であった美濃の国主、斎藤道三を殺した倅が死んだようだ。跡を継いだのは順当に嫡子であったようだが、これがまたどうにもならぬ男で家中もなかなか纏まらぬらしい。それを考えると、あの男はまことに運がよいな」
「さすがは殿、お耳が早い。そして今しがた報せが届きました。森部の地にて織田方が大勝利であったと」
「そうか」
森部の戦い。織田と斎藤による攻防において、織田方が斎藤家の当主交代後に大勝利を飾った戦である。これもまた史実通りに事が進んだということ。
一色家というイレギュラーがいくつかの歴史を変えてこそいるが、現状はそこまで大きな影響を及ぼしていない。
そもそも美濃の平定に関しては、森部で大勝を収めたからといって一気に進んだわけでは無かったはずだ。この後も数度にわたる攻撃を行い、大きな傷を負いながらもかろうじて追い詰めていく。現当主である斎藤龍興がどれほど凡愚であったとしても、かつて斎藤道三を支えてきた家臣らは未だ健在であるからな。
少なくとも信長が美濃の国人衆らの調略に動くまでは、膠着状態が続くと予想する。あくまで史実通りに事が運ばれるのであればの話だが。
そしてその信長が快進撃を続けている尾張国内であるが、実は未だ尾張国内は完全なる統一が成されていない。そもそもの話をするのであれば織田家は当家の元主家であった武衛斯波家の守護代を担っていた一族だ。尾張守護代として地位を盤石とすると、後に斯波家に代わって尾張にて実権を握るようになる。
織田信長はその中で織田弾正忠家の出身であり、現状において同族で信長と対立関係かそれに近い立場を有しているのが同じく弾正忠家の犬山に拠点を置く織田信清。信長と信清は従兄弟同士であり、現在は信長の姉を娶り軍門に下っている。かつて対立していた両家は一時的な安寧を手にしてこそいるが、不仲の種は完全に刈り取られていない。これも史実通りに行くのであれば、もう一波乱あってもおかしくはない。それが尾張の現状。
「念のためだ。栄衆を尾張に入れ、動向を監視させよう」
「栄衆ですな。たしかにあの者たちの出身である尾張での活動であれば、何かと都合がよろしいでしょうな。では尾張をかき乱しましょうかな?」
「出来ればそうしたいが、あの男がこちらに手出しをしない限りは情報収集に徹しておくべきであろうな。今はまだ敵対するわけにもいかぬゆえに。そして万が一の時に使うのが蔵人佐というわけよ」
「…なるほど、そのように松平家をお使いになられるので」
ちなみに栄衆とは父上の代より一色で抱えている忍び衆である。元々は尾張国内の山中に隠れ里を持っていたようだが、何があったのか尾張を出て遠江へと越して来たらしい。そしてこれまたどういう経緯があったのか、父上に雇われたとのこと。
栄衆は情報戦に優れた集団である一方で戦闘自体はからっきしである。だがこの時代はいかに早く情報を手に入れるかが勝負の分かれ目と言っても過言ではないゆえに、俺もまた父上と同様にこの者たちを重宝しているわけだ。
「爺、尾張は当たり前の話ではあるが蔵人佐に対しても手心は無用だ。遠慮なく栄衆を動かせ」
「かしこまりました」
しかし信長か。史実だと信長が今川と戦ったのは桶狭間が最後であったはず。なぜならば元康が対今川における織田の防波堤としての役割を担ったからである。まぁ後に防波堤どころか、逆に武田との挟撃によって今川は食われてしまうわけだがな。
だが何が影響して歴史が変わるか分からぬ現状。出来るだけ準備だけは整えておきたいところである。俺もまた出来ることはやっておかねばならぬな。
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次回投稿は未定です。更新をお待ちくださいm(_ _"m)




