3話 松平家からの密使
遠江国榛原郡大井川城 一色政孝
永禄四年三月上旬
後に江戸幕府を開くことになる徳川家康こと、現松平元康は俺にとって従姉の夫に当たる人物である。従姉というのが歴史的にも名が知られている瀬名、またの名を築山殿なわけだが、結局三河の有力者であった松平を今川の手に留め置くことは出来なかった。
史実だと織田家に接近した元康は、今川派だった瀬名様と嫡子の信康を自刃させている。結果を見れば、今川との縁を完全に断ち切って織田家を選んだわけだ。
しかし一連の出来事について、まったく理解が出来ないわけではない。義元公亡き後、勢いを失った今川家と、逆に桶狭間の勝利により勢いを得た織田家。どちらにつけば優位に進むのかなど火を見るより明らかであったからな。
そんな春のある日、俺の憂いの元凶とも言える松平元康より使者が送り込まれてきた。当然すでに独立への動きを加速させている元康が送り込んでくる者であるゆえ、密使としてこっそり城へと入って来たのだが…。
「お久しゅうございます。そしてお父上である山城守様のことは、まこと残念にございました」
「桶狭間か。たしかにあの戦で全てが変わってしまったな。義元公はお討ち死にされ、亡き義元公の跡を引き継がれた御屋形様は、混乱を極めた家中をなかなかまとめることが出来ずに苦労されている。しかし重臣と呼ばれる者すら今川を離れようとする始末。その中には松平の名もあったか。しかし蔵人佐の気持ちがわからないわけでもない。ようやく訪れた三河奪取の好機をみすみす逃すなど、大将としての器がないことをおおっぴらに言っているようなものだ。松平は長年苦労した家ゆえ、その心中は察する」
目の前で頭を下げている男は、長年松平に仕えてきた酒井左衛門尉忠次という男だった。
今川としては裏切り者の松平だが、元康からすれば長年に渡る人質生活からようやく解放されたのだ。まずは足場固めに動くだろう。そこは予想通りだった。というよりも、史実通りというべきか。
「ご理解いただき感謝いたします。さて、早速ではございますが此度はあるお話を持ってきた次第。しかしここはいささか人が多いですな」
忠次は周りを見渡してそう言った。広間に集まっている家臣らがザワつく。とは言っても、忠次は松平の密使としてここにきているのだ。集まっている者たちは一色の重臣ばかりで、決して何か衝撃的なことがあったとしても口外はしないような面々だ。
それでも忠次は人払いをしろという。
「静かにせよ。わざわざ敵地に足を踏み入れてまで持ち掛ける話であるならば、左衛門尉が慎重になるのも仕方あるまい。四臣以外は広間から出よ。用が済めばまた呼ぶ」
部屋を出るように指示した家臣らは不服そうにしながらも広間から出て行った。
忠次は満足そうに頷いている。
「こちらの意図を汲んでくださり、加えて感謝いたします。やはり殿の言われたように、ただのうつけではないようで」
「なっ!?酒井殿、それはあまりにも無礼であろう!」
カッとなったのは佐助であった。腰を浮かしかけたが、隣の道房に手首をつかまれて大人しく腰を下ろす。
だが明らかに表情は不満全開である。ただうつけ云々は言われ慣れているゆえに、さほど俺には効かない。むしろあえてそのように振舞っていた部分すらある。
「話を続けよ、左衛門尉」
「はっ。実は殿の姉にあたる姫様、久様を一色様の正室としてお迎えいただきたいのでございます」
「なっ!?」
佐助は再び驚き声を上げた。さすがにさっきの今で立ち上がりこそしなかったが、眉間の皺はさらに深くなった。
「何を持ち掛けられても、俺は今川を、御屋形様を裏切らぬぞ」
「それは重々承知しております。かつて同じ師に仕えた者同士、その際に育まれた忠誠心はそう簡単に無くなるものではございませぬ」
「ならばどういうつもりで蔵人佐の姉を俺に嫁がせようというのか」
俺はジッと忠次の目を見た。それによる動揺はない。
史実では織田と手を結ぶのが永禄六年頃。嫡子信康と信長の娘である徳姫の婚姻同盟であった。今から見てもおおよそ二年は先の話だ。
仮に俺が今川から離れる算段をつけていたとしても、桶狭間からもうじき一年が経つ今ですら西三河の掌握にやっとな元康に味方するように振舞うのは困難だ。
ここ大井川領は遠江でも東の方に位置している。ここで立てば孤立無援以外の何者でもない。加えて俺に離反の意思は無い。
「なにもいきなりこの話を持ちかけたのではございませぬ。まずはこちらを」
そういって忠次は一枚の書状を取り出した。そこには見覚えのある花押が記されている。
「それはなんだ」
「亡き義元公より承認された取り決めでございます。取り決めを交わされたのは松平家先代の殿と、そして山城守様」
「父上と蔵人佐の父との取り決めだと?いったいどのような話が…」
そう尋ねようとしたとき、広間に残った爺こと氷上時宗がフッと視線を彷徨わせた。ちょうどその瞬間を俺が見ていたわけだ。
「爺、何か知っているのではないか」
「…儂は何も」
「そもそも父上が義元公と取り交わしたものである。ならば父上の側近であった爺が何も知らぬはずが無いと思うのだが」
汗をダラダラとかき始めた爺は、ついに観念したと頭を下げた。
「すべては亡き殿と、そして殿のお立場を守るためのものにございます。少なくとも当時はそういった意味で纏められた婚姻話」
「婚姻話?それはまことか?」
「まことの話でございます、一色様。当時、山城守様のお立場は非常に微妙なものでございました。それは一色家が駿河守護であった武衛斯波家の重臣一族であったことが発端でございます」
遠江一色家。たしかに忠次の言うように、遡れば名門斯波家の重臣一族へとたどり着く。武衛斯波家の右腕が甲斐家ならば、左腕は一色家とまで言われたほどだったと記録が残っている。一色家で言えば俺の大伯父まではそちら側だった。しかし大伯父が今川との戦により大井川流域で討ち死にし、跡を継いだ祖父が即座に条件付きで降伏したことで今に至るのだ。
短命だった祖父はまだ幼い父上を遺して逝かれたが、かろうじて得たものが大井川領の本領安堵と今川との婚姻関係であった。晴れて一色家は斯波家の重臣一族という元今川の敵という身でありながら、今川の親類衆としての地位を得たわけである。
「しかし現実は非情なものでございました。殿も同じようなものでございますが、元々今川に近しい御方々は我らが傍にいることを快く思われなかったのでございます。ですが一色家は駿河の西を守る一族、松平は今川勢力圏の西を守る一族。また統治が難しかった三河の有力者として手放すわけにはいかなかった」
「…そこで両家を結び付け、譜代の家臣らに負けぬように手を打たれたと」
「理由はそれだけではないのでございますが、概ねそのような話でございます。当時、義元公は三河派閥を手放さぬよう手を尽くしておられましたので」
「事の経緯は理解した。だが今となってはただの紙く…」
と言いかけて後悔した。さすがに紙屑は言い過ぎだな。なんせ義元公の花押入りの書状である。屑扱いは、そうなってしまった原因が元康側にあるにしても話の漏れ方によっては俺が悪者となりかねない。まぁ忠次をはじめとして、ここにいる者は誰も漏らさないとは思うが…。
「いや、義元公の書状がある限りは無下にも出来ぬか」
しかし考えようによっては、俺と元康の実姉である久姫の間に子が出来れば、その子もまた正当な三河の統治者たる資格を得るのではないか?
すでに半分が元康の手に落ちているゆえ、今川としても内の問題が解決すれば松平討伐に着手するだろう。だが義元公ですら手を焼いた三河の統治だ。
俺に正当性が転がり込んでくる?史実を知っている分、上手くやれば今以上に力を得ることが出来る予感がした。ただし実現させるためにはいくつもの、それはもういくつもの障害がある。
氏真様やその側近衆、とりわけ駿河衆と呼ばれる方々を説得するのは骨が折れるどころの話ではない。間違いなく疑われるだろう。そして監視だってされるはずだ。だが三河一国の正当性は喉が出るほどに欲しい。
元康が史実通りの動きをするのであれば、それを前提にこちらも手を打って行くしかない。
「分かった。どういった事情で、そのような過去の話を持ちだしたのかは知らぬ。だが敢えてここは考えさせてもらおう。もちろん御屋形様にはお伝えするがそれでも構わんな?」
「もちろんでございます」
しかし厄介ごとを持ち込まれたことは事実である。いくら好機であったとしても、リスクの方が圧倒的に大きいこの状況。
だがそうであったとしても、何か裏があるはずだと勘を働かせる。いったいあの男、松平元康は何を考えているのか。
そしてそのうえで、だ。従姉である瀬名様のことも心配ではある。すでに今川家中の人間の手引きにより、昨年末に今川館を脱した瀬名様とそのその子供たち。手引きしたのが瀬名様の御実家である関口家だという疑惑が生じたため、当主である氏純殿をはじめとして多くの関係者らが屋敷での謹慎を申し付けられている。
また瀬名様やその子らには信長という脅威も後々生じてくるわけで。
母も義元公の養女であるとはいえ、姪にあたる瀬名様の身を案じておられた。俺としても母のためにも、何かできることは無いか探してみたいと思う。せっかく何の因果か、松平との縁が生じようとしているのだからな。
「ではご返答、岡崎の地よりお待ちしております」
そう言って忠次は帰って行った。
とりあえず四臣らの話を聞いた後、纏まり次第で母に伝え、家中の意見として氏真様にお伝えせねばなるまい。今はまだどうしたいという意思は薄い。ただせっかく三河の地を治める口実を得ようとしているのだ。みすみす手放すのは勿体ない話ではある。
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