15話 身は岡崎に、心は一色に
三河国額田郡岡崎城 松平元康
永禄四年七月中旬
「殿、どうやら遠江が。いえ、三遠国境付近が少々騒がしい様子にございますぞ」
「すでに私の耳にも入っている。しかしあれは私の仕組んだことではない。未だ三河の東部にまで手が及んでいない状況で事を起こされたとしても、我らが手を出すことは不可能であろう」
「仮にその者たちが援軍を求めてきたら如何いたしますか。今後の為を思えば、兵を出しておくに越したことは無いように思えますが」
「出来れば出してやりたいところではあるがな。こちらも時期というものがあるゆえ、あまり無茶を言われてもどうにも出来ぬことがある。兵を東に向けようにも今橋の城が邪魔である。これまで何度も降伏の使者を出しているというのに、返事は拒絶ばかりでどうにもならんな」
忠次の言葉に私は思わず頭を抱えたくなった。
我らは変わらず三河の平定に精を出している一方で、政孝様に言われた通り家中の統制をはかっている。そんな中、三遠国境の今川方の領主らが不穏な動きを始めたという報せが届いたのである。
たしかに三遠国境は今川家における西方防衛の要であり、これを崩すためにいくつかの御家には声をかけた。井伊や飯尾もその一つではあったのだが、この時期に寝返るようにとは言っておらぬ。まだ我らが三遠国境への道中の安全を確保できていないことが最大の理由なのだが、加えて戦が続いていることで領民の不満がたまっていることも兵を動かしにくくなっている理由の一つ。
今川方にとって重要な地である今橋であったり、親類衆である鵜殿の籠る上ノ郷城に攻勢をかけられぬのもこれが原因であった。
「この時期に兵を動かせぬというのはなんとも」
「言うてくれるな、左衛門尉。私とて手際の悪さに悩まされているのだ」
「…ではこれ以上は控えさせていただきます。ただ一言だけ言わせていただくとすれば、この体たらくは我ら家臣の不手際でございますゆえ。そのことだけはどうか」
「私に気を遣ってくれるのか」
「いえ」
「そうか。ならば私の汚名を拭いとるような策を献じてくれるか」
「はっ」
ちょうどその時であった。部屋の外より「入りますよ」と声がかけられたのは。
忠次は即座にその場から立ち上がり、部屋の隅の方へと移動した。同時に開かれた先におられたのは、やはり姉上であられた。
「先約は左衛門尉でしたか」
「はっ。ですがすでに話は終わっておりますので」
「そうですか?悪いですね、気を遣わせてしましました」
「そのようなことは」
家臣らの多くは姉上に甘い。というよりも遠慮しているというべきか。元より父上が高く評価しておられたことを、多くの家臣らは知っておったゆえに。私としては実に不都合な話であるが。
しかしその一方で忠次や他数人の家臣らは線引きがきちんと出来ている。あくまで私の姉として接し、それ以上の感情は持っておらぬ。ゆえに信用できるのだ。
「蔵人佐殿、先ほど私のもとにこのような文が届きました」
「文?姉上に直接でございますか?」
「はい。私の頼みを聞いて城下に出ていた侍女が、商人に手渡されたと申していました」
「中を確認しても?」
「そのために持ってきたのです」
姉上より文を受け取り、中を早速確認する。しかし開いてすぐに送り主が誰であるのか見当がついた。
「これは…。その商人、まことに商人でございましょうか」
「私にはわかりません。侍女も商人から受け取ったことは間違いないと」
「殿、それはいったいどういうことなのでございますか?」
忠次が気になっているようであったから、私は文を床の上において忠次の方へと差し出した。「失礼」と言いながら文を受け取った忠次もまた、冒頭を読んだあたりで顔を上げる。
「松平独立以降、彼の地の庇護下にある商人は三河・尾張方面に商人を送り込んできてはおりませぬ。それは一色家としての方針でございますゆえ、商人があの方の文を持って岡崎入りするとはどうにも」
「ならば忍びの類であろうな」
文の送り主は政孝様であった。直接姉上の手に渡るように仕向けたのは、おそらく多数の目に触れさせぬため。
正式な手続きを踏めば、いったい何人の目にその内容が触れるか分からぬゆえに。
しかし忍びの類い、か。仮に事実であったとすれば、当家の情報は筒抜けである可能性が高い。
「左衛門尉、これは対策が必要であろうぞ」
「そのように考えておりました。半蔵殿にお願いし、ともに対策を練らねばなりませぬ」
「うむ。して内容についてでございますが」
とりあえず忠次に文を返してもらい、ちゃんと内容の全てを確認していく。冒頭は姉上に対する挨拶から始まり、井伊谷で私とどのような言葉を交わしたのかまで律儀に書き纏められていた。
そしてその次、明らかに雰囲気の変わる内容。それは姉上ではなく、私に向けて書かれたもの。おそらくではあるが、政孝様はこの辺りの内容を気にして今回のような手段で文を届けられたのだと思われる。
敵国から届く文。それがたとえ政孝様であったとしても、内容については改める必要があるゆえに。そして不正が無いよう、複数人の目があるところで確認がされる。少なくともそれだけの人数の目に触れてしまう恐れがあり、口伝によって広まる恐れもある。
「なるほど。三遠国境で動きが出たのはこのためであったか」
「当然の話と言えば当然の話なのでございますが…。上手く利用された形になってしまいましたな」
「うむ。それに輿入れの話が進んでいることは、少なくとも東海の住人であれば誰もが知っている。そんな中でこのようなことを言われれば、我らは傍観に徹するほかない」
「『今川家より離反する口実に義弟の名を挙げた不届き者を成敗する』でございますか。たしかにこれでは我らは手出しできませぬな」
「仔細を読めばわかることではあるが、どうやら今川館でひと悶着あったようだ。しかし今川もやりよるわ。これを機に、三遠国境で私と接触のあった者たちを根こそぎ叩いてしまおうという算段であろう。そのうえで私が手出しできぬように釘まで刺された。おそらく私の思惑について勘づいておられる右門殿に、今の私は頭が上がらぬ」
「ではここは大人しくしておくと」
「三遠国境の遠江方面は、少なくとも今川の手で完全に抑え込まれるであろう。いや、曳馬城が耐えてくれればあるいは」
「そこに期待するしかないのでございますね」
「うむ…」
しかし、とは言えである。何かしら今川家中で動きがあったにしろ、どうしてあの者たちは三河の情勢を鑑みずに早まった行動をしてしまったのか。
たしかに今川を逆に喰らうために、曳馬の地は必要であった。またあの地さえ手中に収めることが出来れば、松平における東の要所としての役割だって期待できた。
にもかかわらず、我らがまだ手出しできぬゆえに大人しくしているよう伝えた傍からこのような行動。もはや我らが無理する必要も無い。曳馬の地を楽に手に出来なくなったことは実に惜しい話ではあるが。
「ところで蔵人佐殿」
「なんでございましょうか、姉上」
「一色様は此度の戦が初陣になると文に書いてありました」
「たしかにそのように書いてありましたが、それが何か?」
一呼吸、間が生じた。姉上はいったい何を言おうとされているのか。私には未だ予想が出来ない。
というよりも、姉上とはどうにも合わないことが多すぎる。同じ父と母を持ち、同じ師を持っていたにもかかわらず。
「私のことを無事に迎えに来てくださいましょうか」
「はぁ。私は幼いころの右門殿しか知りませぬが、その頃より常人とはかけ離れた何かを持っているとは薄々感じておりました。それが幼い私の勘違いでなかったとすれば、間違いなく右門殿は姉上を迎えに参られましょう。ただし曳馬城は堅城と名高く、攻める分には苦労いたします。ですので運が悪ければ、と生死は戦の常にございますゆえ絶対などという言葉は使えませぬが」
「たしかに」
忠次が頷くと、姉上はただ「そうですか」とだけ残して部屋を後にされた。ただ出て行く直前、少しだけ身体をこちらに向けて一言だけ残される。
「蔵人佐殿、左衛門尉殿。もし次、一色様の不幸を喜ぶようなことがあれば、遠慮は致しませんので。輿入れが決まった今、私の身は岡崎にあれど心はすでに一色様のもとにあることをお忘れなきよう」
そう言って、今度こそ部屋を出て行かれた。
忠次がどこか冷や汗をかいて私を見ている。
「先ほどの言葉をそのように捉えられるとは。やはり感性が豊かでございますな」
「…いや、私はどこかでそれを願っていたのかもしれない。右門殿の存在は間違いなく松平にとって脅威である。死んでほしいとまでは思っておらぬ。だが表舞台には出てこないで欲しいとは思っていたのか。それを姉上は勘づかれたのやもしれぬ」
「…」
姉上は恐ろしい。油断も隙も無い。
ゆえに私は姉上を遠ざける。たとえ血の繋がった身内であったとしても、私を、そして松平の家を危うくさせる者に遠慮など不要であるがゆえに。
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