13話 一人、また一人
駿河国安倍郡今川館 今川氏真
永禄四年五月下旬
「備中、井伊谷の会談。右門と蔵人佐の会談の行方がどうなったのか。何か話を聞いておるか?」
「会談は無事に井伊谷で行われ、両者は二人っきりで話をされたと聞いております」
「そ、そうか。それでその…」
麻呂のまるでその先を急かすような物言いであっても、泰朝は一切表情を変えず。いつも通り、順序だててしか話そうとはせぬ。そのせいで麻呂の心内は焦りに焦りを募らせていく一方。
麻呂が知りたいのはそのような話ではないと、間違いなく泰朝はわかっているであろうに。
「御屋形様が心配為されるようなことは何一つ起きていないと聞いております。すでに右門殿は大井川城へと帰城され、いつも通りの政務に戻られたと。また両家の婚姻、輿入れ時期については未定としながらも今川家中の混乱が落ち着くまでと輿入れ日時は一応設けられたようでございます」
「…そう、か。右門は無事に大井川領へと戻ってきたのだな。井伊谷に向かうと聞いた時は、まさか何か起きはしないかと心配したものであったが」
「先日も思ったことでございますが、随分と右門殿は堂々とされておりました。かつてのあの散々たる評価をされていた人物とはまるで別人のようでございます。当主になったことで自覚を持たれたのか、それとも別に心境の変化を起こす何かがあったのか」
泰朝にその気があるのかは分からぬ。しかしまるで麻呂に言われているようで、どこか居心地が悪く感じていた。麻呂には未だ今川家当主としての自覚が無い。そのように言われているような気がして。
もちろん泰朝がそのような底意地の悪いことを、わざわざ皮肉めいたような言い方をしたりしないことは分かっておる。それでも、そうだと理解はしていても。どこかざわつく何かが腹の底の方にずっと留まっているような不快感があるのだ。
「それにしても井伊谷で会談とは。御屋形様とは別方向の心配をしておりましたが、その件も含めて無事に終わってようございました」
「…右門は時々アッと驚くような無茶を平然とする」
「ですが一色家の扱いについて中立を表明していた家臣らは、今回の一件である程度良い感情で接するつもりのようでございます。あれだけ肝が据わっている様を見せられると、何も文句など言えますまい」
井伊が麻呂に愛想を尽かしておることは誰もが理解しておる。ゆえに元康と会う政孝が、井伊谷へ向かうと知らせてきたときは、監視のために大井川城に滞在している正綱に命じて止めさせようとした。周りが井伊を離反させるきっかけになりかねないと反対したゆえ、仕方なく政孝の無事の帰還を祈るにとどめたが…。
「ところで備中よ。此度の蔵人佐の行動はどういうつもりであったのであろうか」
「色々と考え、人をやって調べてはみましたが不明な点があまりにも多すぎます。わざわざ亡き大殿が認められた婚姻を持ち出してまで、一色家に姉を送り出す理由。これだというものはございませんでした。ですが松平を筆頭に、御屋形様の元を離れた者たちは味方となる者を増やすため片っ端から寝返りを誘うために声をかけているようでございます。井伊もまたその一つ。もしかすると一色もまた何かしらの企みがあったのやもしれませぬ。それこそこの輿入れなどは、そう思わせる最たるもの。とはいえあまりに露骨なやり方ではございますゆえ、少なくとも一色との接触に関しては、意図が別にあると思うておりますが」
「…そうか、蔵人佐の動きは読めぬか」
「もうしばし時を頂ければ、一連の動きに関する真相を突き留めますが」
「いや、今さらそのようなことを知ったところで意味なきことよ。それよりも、これ以上今川から離反する者が出ないよう手を打たねば」
もう誰にも心配はかけまいと、どうにか気丈に振舞ってみる。前向きな言葉を吐き出してみる。
しかしどれだけ表面を偽ってみても、結局中身は心の弱い麻呂のまま。少しの隙を突いて、弱気な麻呂が姿を見せる。頭を、心を支配する。
「備中」
「はっ」
「蔵人佐は竹千代と名乗っていた時からの付き合いじゃ。鶴丸と右門が名乗っておった頃は宗孚に師事し、とても長い時間を共有しておった。麻呂は二人を弟のように思い、少なくとも右門は麻呂のことを兄のように慕ってくれておった」
元康はずっと他人行儀であった。それでもしつこく絡む政孝に根負けしたのか、二人はそれなりの関係を築いているようではあったが。
あの頃の麻呂は、まさかこんな日が来るなんて微塵も思ってはおらんかった。
「思ってはおらんかった」
「御屋形様…」
「乱世とはまこと厳しいものであるな。弱き者はその手にあった何もかもが全て零れ落ちていく。どれだけ足掻いても、まるで意味をなさぬようにポロポロと。もはや麻呂には…」
「御屋形様」
「…いや、何でもない」
泰朝は不安そうに麻呂を見ておるが、今の言葉は決して口にしてはならぬと今さらながらに後悔したものである。少なくとも家臣らの前で溢してよい言葉では無かった。それがたとえ最も信頼している泰朝の前であったとしても。
すでに皆を失望させっぱなしの麻呂ではあるが、これ以上は絶対に踏みとどまらねばならぬ。父様が、お爺様が、ご先祖様方が築き上げてこられた今川の家を、麻呂が何としてでも守らねばならぬのだから。
「御屋形様、実は一つだけお伝えせねばならぬことがございます」
「如何したのだ、そのように神妙な面持ちで」
覚悟を決めた傍から、間違いなく不安な表情をこぼした自覚があった。しかし泰朝の真剣な表情はいつも麻呂にとって耳の痛い話である。ゆえに何か言われる前から眉間に皺を、声に震えを加えてしまった。
「実はこのような時にお伝えすべきかどうか悩んだのでございますが、事がことにございますゆえお伝えすることといたしました。こちらの文が先日、掛川の城門前に置かれておりました。文に汚れがあるのは、その際に大きめの石を重しにしていたゆえでございます。どうか中をご確認くだされ」
たしかに茶色い汚れがある。土をこすって落としたような。
それよりも内容を確認した。随分と乱雑な文字で、『曳馬城主、飯尾豊前守連龍は松平に内通している裏切り者である』とだけ書いてあった。
麻呂は内容について言及する前に、泰朝へと目を向ける。
「どうしてこのようなものが掛川城に届くのか」
「さて。ですが私の手に渡れば間違いなく御屋形様のもとに届くと確信していたのやもしれませぬ。もし松平と内通している者にこの文を届けても、消されるだけの話でございますゆえ」
「…なるほど。して真実のほどは如何であろうか」
「真実かどうかは調べて見ねば分かりませぬ。すでにこの文を受け取った日より曳馬城や豊前守殿の周辺を調べてはおりますが、これといって決定的な証拠があるわけでもありませぬゆえ。ですがもし仮にこれが事実であったとすれば、それは今川家にとっての一大事でございます。井伊谷・曳馬が真実のほどは不明ながら松平に内通の疑惑があり、これが両家ともに真実であった場合、遠江の西の防衛は崩壊いたします」
「豊前守を呼び出すのだ、備前」
「呼び出して如何なされます」
「その文を見せて問いただす。もし事実であれば…」
「その先は私にお任せくだされ。主様の手を汚させぬのも私の務めでございますゆえ」
麻呂は何も言えなかった。
本当は麻呂がすべきことであるのに、泰朝の言葉にホッとして、そして甘えてしまった。
「ですがもし登城命令を無視された場合は如何いたしましょうか。それこそ三河の、三遠国境の情勢不安を口実に断られることがあるやもしれませぬが」
「これまでは要請であった。しかし此度は命令である。主命は絶対であり、これを無視するとなると相応の罰を受けねばならぬ」
「…かしこまりました。すぐに使いを用意させましょう」
そういって泰朝は部屋を出て行った。
残された麻呂は、しずかに外を見て呟く。
「どうして麻呂を置いて先に逝ってしまわれたのですか、父様」と。
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