12話 無名の当主
尾張国春日井郡清州城 織田信長
永禄四年五月中旬
「井伊谷で行われると申しておった会談、聞いていた日時通りだとそろそろだろうか」
「おそらくは。井伊谷に潜り込ませた者も、一色の入りは確認したと報せがございましたゆえ」
「五郎左、此度の婚姻まことに成ると思うか?」
「今川が松平の利用価値を理解していれば成るやもしれませぬ。いえ、むしろ会談にこぎつけた段階で、今川はこれを了承していると見てもよいのではございませぬか」
「ふむ。なんとも奇妙な話よ。敵となった松平と、今川の親類衆なる一色が手を組むなど。てっきり蔵人佐は俺のもとに姉を送り込んでくると思うておったがな。歳の近い兄弟も多いゆえ、その方が都合がよいとでも申してな」
「すでに姫様の輿入れの件、話が進みつつありますゆえ。あちらの遠慮だったのやもしれませぬ」
幼き頃より俺の傍におった丹羽五郎左衛門尉長秀は、わずかに外を見ながらそのように告げる。
なるほど、それもあり得る話か。元康の性格であれば、あまり積極的にはなれぬであろうからな。
元々の俺達の関係性を考えてみても。
しかしその結果として、興味もとうの昔に失っていた東海方面で気になる存在が出来てしまった。尾張国内、美濃方面と抱えるものが多い俺からすれば非常に迷惑な話この上ない。
わざわざ敵である一色の当主に嫁がせる。元康にとってみれば、それだけの価値があるということであろう。
「五郎左、その無名の一色家当主については何か聞いておらぬのか」
「蔵人佐殿からは師兄であったと聞いております。あまりに情報が少なく私自身も興味がありましたので独自に調べましたが、桶狭間での決戦後に家督を継承されたようでございます。覚えておられませぬか、義元を追い詰めた小平太殿に一太刀浴びせた武者がいたことを」
「覚えておる。おかげで小平太は歩行が困難となり、家督を弟の小藤太に譲らねばならなくなったのだったな」
「その一太刀浴びせた男こそが一色家の先代当主であったと。助太刀に駆け付けた新介殿により討ち取られてはいますが、骸はその武者の傍にいた者たちが死守し、結局首級をあげることは出来ませんでした」
そういえば確かに良勝が悔いておった。義元に加え、その男の首級も持ち帰ることが出来ればどれだけの手柄になったのかと。
俺はその時、一色の存在などさほど気にしてもいなかったゆえに義元の首級だけで十分だと伝えたのだが、実は相当に大物の首級であったのだと今さらながらに後悔する。いや、あの者たちの働きぶりは充分であったがゆえに、それ以上のことは決して望んではおらぬのだがな。
「ですが殿、例の噂については」
「あぁ。たしかにあれは傑作であったな。噂が流れたことで我らが真実を確かめなければ、誤った評価を蔵人佐につけるところであった。敵地に足を踏み入れ、堂々と敵対する大名家の親類衆と会う。肝が据わった豪胆な男なのだと」
「事前に聞いていた話もそのようなものでございましたゆえ。やはり外の者の言葉はいちいち疑わねばならぬと改めて思い知らされました」
「井伊谷はすでに松平と接触しており、鞍替えの支度も水面下で進んでいると。となると、此度の会談で肝が据わっているのは間違いなく一色の方であろう。井伊の動向について、俺達が知っていて当人が知らぬなどあり得ぬ話であるゆえに」
「父親が父親なら、子も子でございます。松平と一色、松平と今川。殿は東海に向ける関心は最早ないと申しておられましたが、今後はもう少し目を向けるべきやもしれませぬ」
長秀の言葉。これは間違いなく警戒を意味しているものである。
今川家の当主である氏真に義元のような器は無い。ゆえに上洛に拘ることもないであろうと、元康にすべてを任せた。俺は美濃を喰らい、そして西へ進むと。
だがここにきて不気味な存在が姿を見せてきた。東海に波を生む存在となるのか、ただの杞憂で終わるのか。
「そういえば一色家を調べる過程で面白き話を耳にいたしました。一色家の本貫地である大井川領でございますが、東海でも一際大きな港を有しており、商人の出入りが非常に活発であるとか」
「なに?」
「一色家は先代の頃より商人の保護と積極的な商いの奨励を行っているようで、一色家自体は非常に裕福な御家のようでございます。調べましたところ、八右衛門殿も彼の地の商人とは縁があるようで。あぁもちろん一色家とつながりがあるわけではございませぬが」
八右衛門は馬借にて財を成す当家の家臣、生駒八右衛門家長のこと。何も言うてこなかったのはやましいことだと思っていたからか?それとも正体を知らずに付き合いを持っていたのか。
いずれにしても俺にとってこの事実は都合がよいものだ。
「八右衛門を呼べ。少しばかり話がしたい」
「…かしこまりました」
「何、別に責めようなどとは考えておらぬ。ただ情報が欲しいだけよ」
長秀は明らかに「しまった」という表情をしておった。だが俺はまことに家長をどうこうしようとは考えておらぬ。少しばかり湧いて出てきた興味をどうにか抑え込むため、話を聞くことで満足しようと思っているだけのこと。
「今のままではまるで美濃攻めに身が入らぬ。森部の後も連中は見事に立て直して来よったからな」
「そのようなことでは困ります」
「ゆえに知るのだ。そして場合によっては」
口角があがったと自らでもわかった。それほどまでに俺は興味をそそられている。
「あまり無茶はされませぬよう」
「無茶?あぁ、そうだな。無茶か」
またも長秀が「しまった」というような表情をした。幼き頃よりよく見た表情である。
「一筆したためる」
「…それは八右衛門殿に向けてでございますか?」
「どうして俺が八右衛門なんぞに文を書かねばならぬ。送る相手は蔵人佐に決まっていよう」
「なおさらどうして蔵人佐殿に」
「例の話、急ぎ進めるようにと伝えるだけだ。俺もそろそろ背が冷たく感じてきたゆえに」
「なるほど。ではすぐに使者の用意をいたします」
「出来れば足の速いものが良い。道中、馬が駄目になっても走れる者が」
「はっ、ではその基準で用意いたします」
さて、長秀の言うように多少の無茶をさせてもらおうか。それで俺の興味が収まるのであれば、何も問題は無い。
そろそろ龍興の顔も拝みたいと思っていたところである。この元康の見栄が俺に勢いをつけさせてくれるやもしれんな。
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