第2話:義弟のヘイト管理を徹底したら、なぜか忠誠心をカンストされました
高熱から完全に回復した私は、ローゼンバーグ公爵邸の広大な自室で、今後の『生存戦略』についての綿密な計画を練っていた。
前世の記憶を取り戻し、ここが乙女ゲーム『ルミナス・ハーツ』の世界であり、自分が将来ギロチンにかけられる悪役令嬢エルナだと自覚してから数日。
私の目標はただ一つ。
『誰の記憶にも残らないモブとしてフェードアウトし、適当な領地の端っこで年金暮らしのような平穏な隠居生活を送ること』である。
そのためには、ゲーム内で私を死に追いやる数々の『破滅フラグ』を、根こそぎへし折る必要があった。
「まずは、一番身近な爆弾……義理の弟、ルカね」
私は羽ペンをクルクルと回しながら、羊皮紙に『ルカ・フォン・ローゼンバーグ』と書き込んだ。
ルカ。それは、数年前に我が公爵家に引き取られた遠縁の養子だ。艶やかな黒髪に、アメジストのように深い紫の瞳を持つ美少年。
しかし、ゲーム内のエルナは、公爵家の血を引かない彼を「どこの馬の骨とも知れない平民上がりが」と徹底的に見下し、陰に陽に陰湿ないじめを繰り返していた。
使用人たちもエルナの顔色を窺い、ルカを冷遇する。
その結果どうなるか。
ルカは心に深い闇と、エルナへの強烈な憎悪を抱えたまま成長する。そして物語の終盤、エルナがヒロインをいじめた罪で断罪される際、満を持して『裏切り者枠』として登場するのだ。
『姉上がこれまで行ってきた悪事の証拠は、全て私が記録しておりました。この女は、ローゼンバーグのダニです』
とかなんとか言って、王太子に決定的な裏帳簿や証拠品を突きつける。それが、ルカの役割だった。
「身内に敵がいるなんて、寝首を掻かれるリスクが高すぎるわ。ルカのフラグだけは、今すぐにでも折らなきゃ」
では、どうやってフラグを折るか。
普通なら「これまでの態度を改めて、優しく接して弟の好感度を上げる」と考えるだろう。しかし、私は乙女ゲームの恐ろしさを知り尽くしたガチ勢だ。
「下手に優しくして好感度が上がって、万が一にも『義弟ルート』に入ったらどうするのよ!」
ルカはただのサブキャラではない。特定の条件を満たせば攻略可能になる、れっきとしたメインキャラクターの一人だ。
エルナ・フォン・ローゼンバーグの基本スペックは高すぎる。絶世の美貌に、公爵令嬢というブランド。そんな女が急に優しさを見せれば、そのギャップで好意を持たれてしまう危険性が高確率で存在する。
攻略対象と関わるということは、物語の中心に引きずり出されるということ。それはすなわち、ヒロインとぶつかり、私の死亡リスクが跳ね上がることを意味する。
「愛も憎しみも、根源は『相手への関心』から生まれるのよ。MMORPGの基本中の基本、ヘイト(敵視)管理を舐めちゃいけない。敵のヘイトを稼がない一番の方法は、攻撃も回復もしないこと。つまり……」
私は羊皮紙に書かれたルカの名前に、大きくバツ印をつけた。
「完全放置(塩対応)。これに限るわ」
いじめない。けれど、優しくもしない。
会話は最小限。関わりを持たず、空気のように扱う。
彼が何をしていようが一切干渉しない。そうすれば、ルカから私への感情は「憎悪」でも「愛情」でもなく、「無関心」へと収束するはずだ。
これこそが、モブとして生き残るための最強の戦術である。
「よし、方針は決まった。早速、実践に移すわよ」
私は椅子から立ち上がり、気合いを入れて自室を出た。
向かう先は、公爵邸の裏庭。ゲームの記憶が正しければ、今日のこの時間帯に、ルカが使用人たちから嫌がらせを受ける『日常イベント』が発生するはずだからだ。
裏庭に続く廊下を歩いていると、開け放たれた窓の外から、甲高い笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ、本当に鈍臭いこと。公爵家の養子になられたからといって、所詮は平民の血。泥がよくお似合いですわね」
「お掃除の邪魔ですので、そこをどいていただけますか? ああ、ごめんなさい。もうお水をかけてしまいましたわ」
そっと窓から覗き込むと、そこには案の定、二人のメイドがルカを取り囲んでいる光景があった。
まだ小さなルカは、泥水で汚れた服を着たまま、地面に這いつくばって何かを拾い集めている。それは、無惨に破られた魔法の教本だった。
ルカは何も言い返さず、ただ前髪で表情を隠し、震える手で紙切れを拾っている。
(うわぁ……出たよ、テンプレのいじめイベント。あいつらのせいで、私のギロチン確率がメーターみたいにギュンギュン上がってるのが見えるわ)
私は深いため息をついた。
ここで私が飛び出して「ルカをいじめるなんて許さない!」と庇えば、間違いなくルカの好感度が上がってしまう。
だからといって放置すれば、いずれルカの怒りは「見て見ぬふりをした公爵家(ひいては私)」に向かう。
ここは、冷徹に、そしてあくまで「自分のために」処理しなければならない。
「あなたたち。私の庭で、随分と騒々しい真似をしてくれているわね」
私は窓枠に手をかけ、わざと冷たく、そしてドスの効いた声で言い放った。
ビクッと肩を揺らして振り返ったメイドたちは、私の姿を認めるなり、ホッとしたような、媚びるような笑みを浮かべた。
「え、エルナお嬢様! 申し訳ございません。この小汚いネズミが、お嬢様の美しいお庭をうろついておりましたので、私共が教育をして差し上げていたのです」
「ええ、お嬢様が手を下すまでもございません。このようなゴミは、私共がしっかりと掃除しておきますので」
メイドたちの言葉に、ルカの肩がビクンと跳ねた。彼はゆっくりと顔を上げ、私を睨みつける。その紫の瞳には、明確な敵意と絶望が混ざっていた。
私はその視線を完全に無視し、メイドたちに向かって冷ややかな視線を下ろした。
「教育? 掃除? ……笑わせないでちょうだい。誰がそんなことを頼んだの?」
「え……?」
「私がいつ、その男をいじめろと命令したのかと聞いているのよ」
メイドたちの顔から、サッと血の気が引く。
私は扇子を取り出し、パチンと音を立てて開いた。口元を隠し、目を細めて彼女たちを見下ろす。悪役令嬢のスキル『威圧』のフル活用である。
「いいこと? あなたたちのその下劣な憂さ晴らしのせいで、将来、公爵家が……いえ、この『私』が、無用な恨みを買うリスクが生じるのよ。もしコイツが逆上して屋敷に火でも放ったら、どう責任を取るつもり? 私が焼け死んだら、あなたたちの安い命で弁償できるとでも思っているの?」
「そ、そのようなこと……! 私共はただ、お嬢様のために……!」
「黙りなさい。私の名前を隠れ蓑にして、自分の下劣な欲求を満たしているだけでしょう。反吐が出るわ」
私は扇子を閉じ、決定的な言葉を放った。
「あなたたちは解雇よ。今すぐ荷物をまとめて屋敷から出て行きなさい。私の視界で小賢しい真似をする輩は、一切容赦しないわ」
メイドたちは顔面蒼白になり、何度も土下座をして命乞いを始めたが、私は「アンナ、つまみ出しなさい」と背後に控えていた専属メイドに命じて、あっさりと事態を終わらせた。
泣き喚くメイドたちが引きずられていくのを見送った後、私はようやく、泥だらけで座り込んでいるルカに視線を向けた。
さて、ここからが本番だ。
絶対に、優しくしてはいけない。「大丈夫?」なんて言葉は、フラグ建設の呪文だ。
「……いつまでそこに座っているつもり?」
私は見下ろすように、極めて冷淡な声で言った。
ルカはビクッと体を震わせ、私を見上げた。
「勘違いしないでちょうだい。私はあなたを助けたわけじゃないわ。ただ、無能な使用人が私の庭で騒ぐのが鬱陶しかっただけ。それに、後になってあなたが『いじめられていた』なんて吹聴して、公爵家の名前に傷がつくのが面倒だっただけよ」
私はルカに向かって、一切の感情を込めずに言葉を紡ぐ。
「あなたもあなたよ。泥水をかけられるまで、なぜ黙っていたの? ここは公爵家よ。弱者は淘汰されるだけ。同情を引こうなんていう浅ましい考えなら、今すぐ捨てなさい。自分の身くらい、自分で守れるようになりなさい。……私は、あなたを庇う気も、優遇する気も、一切ないわ」
言い放つと同時に、私は踵を返した。
ルカには指一本触れず、差し伸べる手も見せず、ただ冷たく背を向ける。
(よし、完璧! これで「冷酷で関わりのない姉」というポジションは確固たるものになったわ。私のヘイト管理は完璧よ。あとはあの子が勝手に図太く育ってくれれば、将来私を恨む理由もなくなるはず!)
私は心の中でガッツポーズを決めながら、自室へと急ぎ足で戻っていった。
早く帰って、ベッドでフカフカのクッションに埋もれてお昼寝がしたい。私の頭の中は、すでにその後のティータイムと睡眠のことでいっぱいだった。
◆ ◆ ◆
【ルカ・フォン・ローゼンバーグの視点】
泥水で濡れた服が冷たい。
破られた教本の切れ端を握りしめながら、僕は、去っていく義姉の背中を、ただ呆然と見つめていた。
エルナ・フォン・ローゼンバーグ。
誰もが振り返るほどの美貌を持ちながら、その中身は傲慢で冷酷な、公爵家の絶対的な支配者。
孤児だった僕がこの屋敷に引き取られてから、彼女は僕を「平民上がり」と蔑み、ことあるごとに冷たい視線を浴びせてきた。
使用人たちもそれに倣い、僕の食事に砂を混ぜたり、服を切り裂いたりといった嫌がらせを繰り返してきた。
僕は、この屋敷の全てを憎んでいた。
いつか力をつけて、この傲慢な女を引き摺り下ろしてやる。そう誓って、夜な夜なこっそりと教本を読み、独学で魔法の勉強をしていた。
だが、今日。
その教本を見つけられ、無惨に破り捨てられた。
もう駄目だと思った。公爵家の権力の前には、僕のささやかな抵抗など、虫ケラのように潰されるだけなのだと。
しかし。
そこに現れたエルナ義姉上は、僕を嘲笑うでもなく、一緒に泥を投げつけるでもなく……ただ、冷酷なまでに整った美貌で、メイドたちを一喝した。
『私の名前を隠れ蓑にして、自分の下劣な欲求を満たしているだけでしょう。反吐が出るわ』
『あなたたちは解雇よ』
その言葉は、僕の心を激しく揺さぶった。
なぜだ? 義姉上は、僕を憎んでいたのではなかったのか?
混乱する僕に、義姉上は冷たい視線を下ろし、こう言った。
『勘違いしないでちょうだい。私はあなたを助けたわけじゃないわ』
『無能な使用人が私の庭で騒ぐのが鬱陶しかっただけ』
『後になってあなたが吹聴して、公爵家の名前に傷がつくのが面倒だっただけよ』
――あ、ああ……!
その瞬間、僕の脳裏に、雷に打たれたような衝撃が走った。
なんてことだ。僕は、なんて愚かだったんだ。
義姉上は、僕を助けた恩を着せまいとしているのだ。
孤児である僕が、公爵令嬢から直接助けられれば、僕は彼女に一生逆らえない「負い目」を抱えて生きていくことになる。
だから義姉上は、わざと『自分のためだ』『公爵家のためだ』と悪ぶって見せたのだ。
僕の自尊心を守るために。
僕が負い目を感じず、胸を張って生きられるように!
『ここは公爵家よ。弱者は淘汰されるだけ』
『自分の身くらい、自分で守れるようになりなさい。……私は、あなたを庇う気も、優遇する気も、一切ないわ』
その厳しい言葉の裏にある、深すぎる慈愛に、僕は震えを止められなかった。
そうだ。公爵家という伏魔殿で生き残るためには、誰かに庇ってもらっているようでは駄目なのだ。
義姉上は、僕を甘やかすことを良しとしなかった。
ただ守るだけなら簡単だ。しかし彼女は、僕が自分の足で立ち、自分の力で生きていけるよう、『自立』を促してくれたのだ。
あえて突き放すことで、僕に強くなる理由を与えてくれた。
なんという気高さ。
なんという深謀遠慮。
彼女は、自分が『冷酷な悪女』として憎まれることすら厭わず、陰から僕を守り、導いてくれていたのだ。
それに気づかず、彼女を憎んでいた自分の浅はかさが恥ずかしい。
「……姉上」
泥だらけの手で、僕は胸の服をギュッと握りしめた。
紫の瞳から、ボロボロと熱い涙がこぼれ落ちる。それは絶望の涙ではなく、歓喜と決意の涙だった。
「姉上……不甲斐ない弟をお許しください。僕はもう、決して泥水に這いつくばったりはしません」
僕は必ず強くなる。
公爵家にふさわしい、いや、あの気高く美しい姉上にふさわしい男になる。
そしていつか、自ら悪役を演じてまで僕を導いてくれたあの人に、最高の恩返しをしよう。
全ては、愛する姉上のために。
◆ ◆ ◆
【エルナ・フォン・ローゼンバーグの視点】
それから、数週間の時が流れた。
メイドの解雇事件以降、私はルカと一切の関わりを持たず、自室でひたすらダラダラと過ごしていた。
おやつを食べて、本を読んで、お昼寝をする。
たまにアンナが「お嬢様は今日も、世界情勢について深くお考えになられているのですね」と的外れな感心をしてくるが、それ以外は完璧な平和が訪れていた。
「ふふふ。やっぱり私の計算は完璧だったわ。ルカの奴、あれ以来すっかり大人しくなって、私の前に姿も見せないし。完全に私へのヘイトが消えて、空気みたいな存在になったのね。大・成・功!」
私はベッドの上で寝転がりながら、お気に入りのクッキーを齧っていた。
平和だ。このまま10年引きこもっていれば、ギロチンなんて夢のまた夢。
そう確信して、二枚目のクッキーに手を伸ばそうとした、その時だった。
コンコン、と控えめながらもしっかりとしたノックの音が響いた。
「お嬢様。ルカ様が、お嬢様にお目通りを願いたいと廊下でお待ちです」
アンナの声に、私は「ぶふっ!?」とクッキーを吹き出しそうになった。
「は!? ルカが!? なんで!?」
慌てて口の周りを拭き、ベッドから飛び降りる。
関わらないようにしていたのに、わざわざ向こうからやって来るなんて、ゲームのシナリオにはない異常事態だ。
まさか、あの時のメイド解雇の件で、やっぱり恨み言を言いに来たのか?
「と、通しなさい……」
私は咳払いをして、悪役令嬢らしい不遜な態度でソファに腰掛けた。
ガチャリと扉が開き、部屋に入ってきた人物を見て、私は我が目を疑った。
「失礼いたします。姉上」
そこに立っていたのは、泥にまみれた弱々しい少年ではなかった。
身の丈に合った上質な騎士の訓練服をビシッと着こなし、背筋を真っ直ぐに伸ばした、凛々しい美少年の姿だった。
わずか数週間で見違えるように成長した……というか、顔つきが完全に『強者のそれ』になっている。
「……何の用かしら? 私はあなたと馴れ合うつもりはないと言ったはずだけれど」
私は内心の動揺を隠し、冷たく言い放つ。
しかし、ルカは私の冷たい言葉に一切怯むことなく、それどころか、感極まったような、キラキラとした尊敬の眼差しを私に向けてきた。
「はい。姉上のお言葉、片時も忘れたことはございません。姉上に甘えることなく、自らの力で立つため、この数週間、騎士団の訓練に混ぜていただき、死物狂いで剣と魔法の特訓に励んでまいりました」
「…………は?」
「ご報告いたします。本日、訓練用の鉄人形を魔法剣で一刀両断することに成功いたしました。騎士団長殿からも『天才だ』とお褒めの言葉をいただき、特例で正式な訓練生として認められました」
な、なんだってー!?
私は心の中で絶叫した。
鉄人形を一刀両断!? 騎士団長からのお墨付き!?
ゲーム本編でルカがそこまで強くなるのは、15歳で学園に入学してからのはずだ。なんで8歳の今、そんな異常なスピードで覚醒してるの!?
「これも全て、あの日に姉上が僕を突き放し、自立を促してくださったおかげです。姉上の深く、厳しい慈愛がなければ、僕は今も泥に這いつくばるだけの弱虫でした」
「……じ、慈愛? 突き放し……?」
「姉上」
ルカは、私の前で恭しく片膝をつき、まるで騎士が主君に忠誠を誓うかのように、胸に手を当てて深く頭を下げた。
「姉上があえて悪役を演じ、僕を陰からお守りくださっていること、このルカ、生涯忘れません。僕はさらに強くなります。そしていつか、姉上をあらゆる危険からお守りする『最強の剣』となってご覧に入れます。姉上のためなら、僕は何でもします!!」
バァァァン!! と、ルカの背後に目に見えない後光が差しているように見えた。
紫の瞳は、狂信的とも言えるほどの熱烈な忠誠心と愛情に満ち溢れていた。
「…………えっと」
私は、手に持っていたクッキーをポロリと落とした。
私のヘイト管理の計算式は完璧だったはずだ。
関わらない。冷たくする。助けない。
=無関心。
そのはずなのに。
(……ってなんでそうなるのよぉぉぉぉぉっ!?)
ルカの好感度が、カンストを通り越して限界突破している。
しかも、中途半端なサブキャラから、一騎当千の超有能キャラ(重度のシスコン)へと超絶進化を遂げてしまった。
これでは、将来物語のセンターステージに巻き込まれるどころか、彼自身がトラブルの中心になって私を巻き込んでくる未来しか見えない。
「あ、姉上? いかがなされました? 顔色が悪いです。まさか、お加減が……僕がすぐにお医者様を!!」
「……いいえ、結構よ。ちょっと……胃が痛くなっただけだから。もう帰って寝たいわ……」
「なんと! 胃痛を治癒する魔法、今夜徹夜で習得してまいります!!」
目を輝かせて部屋を飛び出していく義弟の背中を見送りながら、私はソファに崩れ落ちた。
絶対におかしい。私の計算は完璧だったはずなのに。
私の平穏な隠居計画は、早くも、身内からの『激重すぎる愛』という予期せぬ物理攻撃によって粉砕されようとしていた。




