第1話:高熱の代償は前世の記憶とギロチンの幻影
視界がぐらぐらと揺れている。
全身を炎で炙られているかのような熱さと、頭蓋骨の内側をハンマーでガンガンと叩き割られるような激痛。
息を吸うたびに喉が焼け焦げるように痛く、肺に熱気が入り込んでいくのがわかる。
「う、うぅ……っ」
私は、重く豪奢な天蓋付きのベッドの上で、熱に浮かされながら呻き声を上げていた。
意識が混濁する中、脳内に『知らない誰かの記憶』が濁流のように流れ込んでくる。
コンクリートで囲まれた四角い部屋。光るモニター。コントローラーの感触。深夜のカップラーメンの味。そして、画面の中で繰り広げられる、剣と魔法のファンタジー世界――乙女ゲーム『ルミナス・ハーツ』の数々のシーン。
(……え? 何これ、なに? 私、は……エルナで、でも、日本っていう国で生きていて……ゲームを……)
二つの全く違う人生の記憶が、熱で溶けた脳の中で急速に混ざり合い、そして一つの形にカチリと嵌まった。
バチィッ!!
その瞬間、嘘のように頭痛が引いた。
私は勢いよく跳ね起きる。汗で張り付いた前髪を乱暴に掻き揚げ、ゼエゼエと荒い息を吐きながら周囲を見渡した。
見慣れたはずの、無駄に広くて豪華な自室。アンティーク調の高級な家具。壁に掛けられた歴史を感じさせるタペストリー。
よろよろとベッドから抜け出し、部屋の隅にある姿見(全身鏡)の前に立つ。
そこに映っていたのは、月明かりのような美しい銀糸の髪に、血のように赤い瞳を持った、人形のように整った顔立ちの幼い少女だった。
見間違えるはずがない。
つい先ほどまで、前世の記憶の中でモニター越しに何百回、何千回と見てきた顔だ。
「……嘘でしょ。私、エルナ・フォン・ローゼンバーグになってるじゃないの!!」
エルナ・フォン・ローゼンバーグ。
由緒正しきローゼンバーグ公爵家の長女であり、誰もが羨む美貌と権力を持つ令嬢。
――そして、乙女ゲーム『ルミナス・ハーツ』における、最悪の『悪役令嬢』である。
「いやいやいや! 待って待って待って!」
私は鏡の中の自分を指差しながら、一人でパニックに陥っていた。
ルミナス・ハーツ。それは前世の私が狂ったようにやり込んだ、中世ヨーロッパ風の王道ファンタジー乙女ゲームだ。
平民上がりの光の魔力を持つヒロイン(マリア)が、魔法学園に入学し、王太子や騎士団長の息子、天才魔術師といった高スペックなイケメンたちと恋に落ちながら、世界の危機を救うという王道ストーリー。
その中で、エルナ・フォン・ローゼンバーグというキャラクターに与えられた役割はただ一つ。
『ヒロインをいじめ抜き、攻略対象たちからヘイトを集め、最終的に断罪されて破滅する当て馬』である。
前世の記憶が鮮明に蘇るにつれ、私の背筋を氷のような冷や汗が伝い落ちた。
エルナの末路は、どのルートを通っても悲惨の一言に尽きる。
王太子ルートなら、国家反逆罪をでっち上げられて王都広場での公開ギロチン処刑。
騎士ルートなら、魔物の森への永久追放(実質的な魔物のエサ)。
魔術師ルートなら、人体実験のモルモットとして地下研究所へ連行。
暗部ルートに至っては、寝首を掻かれて暗殺終了である。
「ふざけないでよ! なんだってよりにもよって、生存率0%の悪役令嬢なのよ!? ヒロインの親友ポジションとか、モブ村人Aとか、他にもっと安全な枠があったでしょうが!」
私は頭を抱えてベッドに突っ伏した。
シーツをバンバンと叩きながら、理不尽な運命に抗議する。
私はただ、温かいベッドで寝て、美味しいものを食べて、誰にも迷惑をかけずにダラダラと平穏に生きたいだけなのだ。
それなのに、このままゲームのシナリオ通りに進めば、待っているのは断罪と死。それも、かなり痛そうな死に方ばかりだ。
「ギロチンなんて絶対に嫌! 首が飛ぶのよ!? 痛いに決まってるじゃない! 魔物のエサも嫌! 人体実験も嫌! 私は、天寿を全うして畳の上(この世界に畳はないけど)で死ぬの!!」
ひとしきりベッドの上で暴れ回った後、私は深呼吸をして冷静さを取り戻すよう努めた。
落ち着け、私。
幸いなことに、私は『ルミナス・ハーツ』を全ルートクリアし、隠し要素からバグ技まで全てを網羅したガチ勢だった。ゲームの知識なら誰にも負けない。
まずは現状の確認だ。
鏡に映る自分の姿から推測するに、今の私はおそらく8歳。公爵令嬢として我儘いっぱいに育てられ、ちょうど熱を出して寝込んでいたタイミングだ。
「ゲーム本編の舞台である魔法学園に入学するのは15歳。そして、運命の卒業パーティー(断罪イベント)が18歳……」
指折り数えて、私はニヤリと笑った。
「なんだ、まだ10年もあるじゃない」
10年。それは破滅フラグをへし折るには十分すぎる時間だ。
だが、ここで一つの問題にぶち当たる。
異世界転生ものの定番といえば、「現代日本の知識を使って、マヨネーズを作ったり、画期的な発明をして領地を豊かにし、周囲から一目置かれる」といういわゆる『内政チート』だ。
しかし、前世の私はただのゲーマーであり、マヨネーズの作り方も、火薬の調合方法も、活版印刷の仕組みも全く知らない。せいぜい「カップラーメンはお湯を入れて3分待つ」くらいしか役立つ知識がないのだ。
「現代知識チートは無理ね。下手なことをして目立ったら、最悪の場合『魔女』として異端審問にかけられる可能性だってある」
私の行動理念はただ一つ。
『徹底的に目立たず、関わらず、平穏無事に隠居すること』。
だからこそ、余計な発明など一切しない。私が頼りにすべきは、徹底的にやり込んだ『ゲーム知識』のみだ。
隠しアイテムの場所、敵の弱点、イベントの発生条件とタイミング。それらを駆使して、降りかかる火の粉を最小限の労力(最短ルート)で払い落とす。
「よし、方針は決まった。私は絶対に死なない。そのために、まずは身内のフラグからへし折っていくわ!」
私が真っ先にターゲットとして思い浮かべたのは、ローゼンバーグ公爵家に引き取られたばかりの義理の弟、ルカのことだった。
ルカは遠縁の貴族の孤児で、公爵家の養子として迎えられた美少年だ。
しかし、元のエルナは「どこの馬の骨ともわからない平民上がりが!」と彼を見下し、陰に陽に陰湿ないじめを繰り返していた。使用人たちもエルナの顔色を窺い、ルカを冷遇する。
その結果、ルカは心に深い闇とエルナへの強烈な憎悪を抱えたまま成長し、将来の断罪イベントにおいて『裏切り者枠』として決定的な証拠(エルナの悪事の記録など)を王太子に提出する、最も厄介な存在となるのだ。
「身内に敵がいるなんて、寝首を掻かれるリスクが高すぎるわ。ルカのフラグだけは、今すぐにでも折らなきゃ」
では、どうやってフラグを折るか。
普通なら「これまでの態度を改めて、優しく接して弟の好感度を上げる」と考えるだろう。だが、私はゲーマーだ。乙女ゲームにおける『好感度』の恐ろしさを知っている。
「下手に優しくして好感度が上がって、万が一にも『義弟ルート(逆ハーレムの一角)』に入ったらどうするのよ! 攻略対象と関わる=物語の中心に引きずり出される=死亡リスク上昇、よ!」
エルナ・フォン・ローゼンバーグの基本スペックは高すぎる。うっかり優しさを見せれば、そのギャップで好意を持たれてしまう危険性があった。
愛も憎しみも、根源は『相手への関心』から生まれる。
ならば、答えは一つだ。
「完全放置。これに限るわ」
私はポンッと手を打った。
いじめない。けれど、優しくもしない。
会話は最小限。関わりを持たず、空気のように扱う。いわゆる『塩対応』である。
彼が何をしていようが一切干渉しない。そうすれば、ルカから私への感情は「憎悪」でも「愛情」でもなく、「無関心」へと収束するはずだ。
これこそが、モブとして生き残るための最強の戦術。
「ふふっ、完璧ね。ルカがいじめられているのを見たら、使用人を適当にクビにして『面倒ごとを起こすな』とだけ言っておけばいいわ。私が彼を助けたんじゃなくて、単に騒音が嫌だっただけ、というスタンスを貫くのよ」
誰も愛さず、誰からも愛されず、誰の記憶にも残らない公爵令嬢。
そして学園を卒業した後は、適当な理由をつけて領地の端っこにある小さな別荘に引きこもり、貯め込んだ私財で悠々自適のスローライフを送るのだ。
完璧な計画に、私はベッドの上で一人、高笑いを上げた。
「オーッホッホッホ! 見える、見えるわ! 私の輝かしい(超絶地味な)ニート生活が! 待ってなさい王太子、待ってなさいヒロイン! あんたたちの恋愛劇の舞台に、私は絶対に上がってやらないんだから!」
その時だった。
ガチャリ、と控えめな音を立てて寝室の扉が開いた。
「お嬢様、お加減はいかが……」
入ってきたのは、私の専属メイドであるアンナだった。
銀のトレイにお湯とタオルを乗せた彼女は、ベッドの上に仁王立ちして高笑いしている私の姿を見て、ピタリと動きを止めた。
無表情がデフォルトのアンナの目が、わずかに見開かれている。
「あ」
私はサッと真顔になり、静かにベッドの上に正座した。
気まずい沈黙が流れる。
熱で寝込んでいるはずの令嬢が、深夜にベッドの上で仁王立ちして高笑い。どう見ても狂気の発現である。
何か言い訳をしなければ。そう焦った私の口から出たのは、悪役令嬢としての染み付いたプライドの高い声色だった。
「……アンナ。少し、気分が良くなっただけよ。それより、これからは屋敷内の無駄を省きます。手始めに、ルカにちょっかいを出している暇な使用人どもを全員解雇しなさい。私の視界で小賢しい真似をする輩は、一切容赦しません」
ただ単に「いじめっ子をクビにしてルカに関わらない環境を作る(ついでに騒がしいのも嫌)」というだけの、保身から来るセリフ。
しかし、アンナは手にしたトレイを胸に抱き、静かに、しかし深い感銘を受けたかのように深くお辞儀をした。
「……承知いたしました、エルナお嬢様。お嬢様が熱病の淵から生還され、そのように『公爵家を背負う者としての真の覚悟』に目覚められたこと、このアンナ、心より喜ばしく存じます」
ん?
「これまでのルカ様への仕打ちも、全ては屋敷内に巣食う腐った使用人たちを炙り出すための『罠』だったのですね。そして今、自ら悪役を演じることをやめ、真の力を行使されると。……お嬢様のその深遠なるお考え、しかと受け止めました」
「…………はい?」
私は間抜けな声を漏らした。
罠? 悪役を演じていた? 深遠なる考え?
ちょっと待ってほしい。私はただ、「面倒くさいから関わりたくない」と言っただけなのだが。
「直ちに公爵閣下にもご報告し、屋敷の浄化を進めてまいります。お嬢様はどうか、その気高き御心をお休めくださいませ」
アンナは静かな感動に打ち震えながら、一礼して部屋を出て行った。
取り残された私は、ふかふかのベッドの上でポツンと一人、宇宙の真理について考えるような顔になっていた。
「……なんか、すっごい勘違いされてない?」
これが、私――エルナ・フォン・ローゼンバーグの、壮大なる『勘違いとすれ違い』の幕開けであった。
私の平穏への道程は、開始わずか数分で、早くも暗雲が立ち込め始めていたのである。
(頼むから、ただの面倒くさがりだって気づいてよおおおおお!)
公爵邸の夜空に、私の誰にも届かない心の叫びがこだましていた。




