第33話 ファーストキス
長屋のマンションに到着し、エントランスを抜けて部屋に入る。
「ど、どうぞ」
「お邪魔しまーす……」
部屋に上がった黒須は、興味深そうに部屋の中を見渡す。特に物は多くないが、ところどころに衣類が散乱している。
「悪いね。少し片付ければよかったな」
「大丈夫、気にしないよ」
そのまま長屋はリビングに通した。
「それで……、この後何かする?」
「とりあえず、勉強かな。部室じゃ何も出来なかったし」
「了解。俺も勉強するかな」
そういって二人はバッグからノート類を出して、テーブルに広げる。
そしてそのまま、無言で勉強の時間が始まった。
「……」
静かである。外から聞こえる自動車の音。ときどき鳥の鳴き声と風のざわめきが聞こえてくる。
しかしそれ以上に、今のこの状況になっている長屋の心臓が一番騒がしいだろう。
(この状況、どうすればいいんだ? いや、このまま勉強すればいいのかもしれないけれど、それでも一つ屋根の下に男女がいるって状況はさすがにマズいだろうよ……)
正直、長屋は勉強に身が入らなかった。横で興味深い動画を流されているような状況だ。
(そうだ、勉強……。今は勉強しなければ……)
そういって無理やり思考を目の前に置かれているノートに注目させる。
すると、どんどん心が穏やかになっていき、自分の世界に没頭していくことができた。
その瞬間だった。
「ねぇ、陽介君……」
心の平穏を乱す原因にもなっている黒須が、声をかけてきた。
「う、うん。何?」
「この問題が分からないんだけど……」
そういって物理の問題を見せてくる。理数系が得意な長屋は、問題を見れば解法がポンと出てくる。
それを黒須に教えようと、顔をちょっと近づけて手を出した。
その時、黒須が長屋の手の上にそっと黒須が手を乗せる。これは大したことではない。ここまでは日常で手を繋いでいるようなことの延長線に過ぎないからだ。
問題は黒須の表情や息遣いであった。なにやら少し苦しそうな呼吸で、その音も聞こえてくる。
「……茜? どうかした?」
いつもとは違う様子に気が付いた長屋が、黒須のことを見る。その顔は紅潮しており、ちょっとだけいつものような目をしていなかった。
「陽介君……」
黒須の顔が、長屋の顔に接近する。文字通り、目と鼻の先だ。
「あ、茜……」
目と目がばっちり合うこの状態になって、長屋は察する。
(これキス待ちか?)
そう考えると、先ほどよりも心臓の鼓動が大きくなる。体内の血流が多くなり、体温が上昇するのが分かるだろう。
この時になって、長屋はドアップになった黒須の顔をよく見る。長いまつげ、シルクのような肌、プルンとした唇。
もはや二人のことを止める存在はなかった。
二人の唇の距離は徐々に狭まり、そして重なった。
ほんの1秒くらいだろうか。長屋のファーストキスの味は、よく分からなかった。感覚も柔らかい物に触れたようなものしか感じない。
だが確かに、二人の間に特別な絆が生まれた瞬間ではあった。
「ごめん、急にキスなんて……」
黒須が目を逸らしながら謝る。
「そ、そんな、俺は茜とキスできて嬉しいよ」
長屋は慌ててフォローする。
「それじゃあ……。陽介君からキス、してくれる?」
黒須からのおねだりだ。
据え膳食わぬはなんとやら。長屋は黒須と正対し、黒須の肩に手を置く。
そして二人は目を閉じて、もう一度キスをする。
今度のキスで、長屋は多幸感をたっぷりと味わう。好きな人とのキスというのは、こんなにも愛おしくて、そして安心するというのを、十分に理解した。
今度は数秒ほど唇が重なる。感覚ではもっとしていたようにも感じるだろう。
そして唇同士が離れると、自然と言葉が出てくる。
「茜、好きだ……」
「私も、陽介君……」
正直勉強どころではなくなったが、二人にとって大切な日となった。




