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第四章: 境界の守護者と四つの異能『選ばれし者たちは、まだ互いを知らない』  作者: ぃぃぃぃぃぃ


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第百八十八話:否定

 ライトが、再び踏み込んだ。

 足裏が爆ぜるような加速。一歩ごとに石床を粉砕し、全神経を右腕の一点、握り締めた剣へと凝縮する。

 剣を伝う、確かな抵抗。骨を震わせ、魔王の肉を断ち切る確かな重み。

 右腕に走った赤い線が、まだそこにある。届く。届いた。次も届く。その盲目的なまでの確信が、冷え切っていた彼の肉体に爆発的な熱を注ぎ込み、枯れかけた魔力を無理やり循環させていた。

 剣が、最短の弧を描き、魔王の首筋へと肉薄する。

 

 次の瞬間。

 

 ライトは、剣を振り始める前の体勢に戻っていた。

 戻っていない。……違う。なんだ、これ……。

 景色が巻き戻った感覚すらなく、瞬き一つする間に、振り抜いたという「事実」だけが、世界から静かに剥ぎ取られていた。

「……え」

 自分の声が、他人のもののように、どこか遠い虚空に落ちた。

 ライトの右手に、剣がある。振る前の角度で、微動だにせず、静止している。だが、確かに振り抜いた瞬間の痺れだけが、網膜に焼き付いた残像と、肉体が記憶している衝撃として、泥のようにこびり付いている。

「……今、俺、振ったよな」

 誰も答えない。答えるべき言葉を、世界が既に失っていた。

「当たってた……はずだろ……? さっきは、届いたはずなのに」

 問いかけは霧散し、魔王の虚無に吸い込まれて消える。直前までてのひらにあったはずの「成功」との断絶。積み上げたはずの一歩が、踏み出す前へと書き換えられる。その理解不能な違和感こそが、刃物よりも鋭く、彼の戦意の根底を削り取っていった。

 レイナが、魔力を練り上げた。

 闇という力の拠り所を失っても、今の彼女の胸には、灯ったばかりの「熱」がある。それを守るために、彼女は自身の生命力すらも薪にして、魔力の残滓を極限まで凝縮した。

 狙うは、魔王の右腕に刻まれた、あの「赤」。

 放たれた一撃は、光の尾を引いて魔王の傷口へと叩き込まれた。

 届いた。

 確実に、その魔力の奔流は傷を抉り、黒い虚無の内側へ侵食を開始した。

 

 次の瞬間。

 

 侵食が、始まる前に戻っていた。

「――違う」

 レイナが、叫んだ。喉を引き裂くような、拒絶の咆哮。

「今のは現実だった!!」

 彼女が必死に掴み取り、その両手で抱きしめたはずの「勝てる」という予感が、指の間から砂のように零れ落ちていく。

 目の前の無慈悲な現実に、彼女の精神が、剥き出しの否定を叩きつけていた。だが、世界は彼女の悲鳴を無視し、ただ平然と「なかったこと」を繰り返す。繋ぎ止めようとした現実が、意志の届かないことわりによって、幾度も幾度も塗り潰されていく。

 ステファニーが、異変を感知した。

 ライトの神経を、自身の魂を削ってまで縫い止めていた祈りが、音もなく剥がれ落ちていく。

 彼女が癒したはずの断裂が、縫い合わせたはずの傷が、処置を施す前の無惨な状態へと強制的に上書きされている。

「……私の、回復が」

 震える指先が、空を掻いた。

「なかったことに、されている……」

 治す。戻る。治す。戻る。

 その無限の反復。彼女が捧げる祈りは、広大な虚無の海に投げ込まれる小石にすらなれず、波紋を立てる前に消え去る。

「……意味が、ない……?」

 癒し手としての存在意義。仲間を護るという唯一の盾。そのすべてを無価値なゴミのように扱われ、根底から否定される、無機質な暴力。

「……どうすればいいのか、分からない……」

 彼女の瞳から生気が失われ、指先から力が抜け落ちていく。回復の術式を紡ぐこと自体が、空気を掴むような虚しい作業へと変質させられていた。

 アルトの瞳が、戦場を走査した。

 視神経を焼き、視力を代償にして得たその眼は、今や光景ではなく、世界の「記述」そのものを読み取ろうとしていた。

(……違う。これは、逆行じゃない。消えてるんじゃない……)

「……違う……違う……これ、消えてるんじゃない……」

 唇が、痙攣するように震える。アルトの知る魔術の範疇を、目の前の現象は遥かに凌駕していた。

「……発生したはずの出来事が……“なかったことにされてる”……?」

 論理の飛躍でも、魔法の干渉でもない。まるで、世界そのものが“それ”を認めていないかのような、絶対的な拒絶。

「……違う……これ……上から……潰されてる……?」

 アルトの指が、虚空で止まった。足元の距離が、わずかにズレる。一歩踏み出したはずの地点が、いつの間にか数センチ後ろに再定義されている。自分の立っている位置すらも信用できない。脳が沸騰するような熱を帯び、思考の断片が火花を散らして弾ける。

(……このままじゃ、固定できない。どうすれば……この拒絶に、抗える……)

 シエラが、口を開いた。

 他の四人を鼓舞するためではない。ただ、逃れようのない判決を宣告するように。

「――連携は、成立しない」

 冷徹な一言。

「この理の上ではな」

 彼女だけが見抜いていた。すべてを「零」に収束させる、否定の理。魔王が展開しているのは、自身を世界の中心に置き、周囲に生じるあらゆる変化を無効化し続ける閉鎖領域。

 その一言は、戦場に残っていた微かな熱を、一瞬にして氷点下へと叩き落とした。

 ライトが、もう一度振った。

 狂ったように。己の存在を証明するかのように。

 剣を伝う、確かな手応え。

 

 振る。戻る。

 振る。戻る。

 

 ――最初の一撃すら、存在していない。

 何も、積み上がらない。

 一手目すら、存在しないのだ。何度振っても、どれほど鋭い刃を届かせても、そのすべてが、砂浜に書いた文字が波にさらわれるように「無」へと帰していく。ライトの荒い呼吸だけが、積み上がることのない徒労を無情に証明していた。

 

 石床に落ちた魔王の血が、揺らいだ。

 消えてはいない。だが、その輪郭が、滲むように不安定になっている。先刻、あれほど鮮烈に、魔王の絶対性を否定するように輝いていた「証明」が、薄れていく。

 

 魔王という「無」を汚した一滴を、不純物として排除しようとする均一化。

 世界という巨大な意志が、そこにあったはずの「事実」を、最初から存在しなかったかのように均し、消し去っていく。

「……嘘」

 レイナが、その血を見つめながら喘いだ。

「消えないで。消えないでよ……!」

 彼女の指が、届かない赤を求めて虚空を彷徨う。その必死な願いすら、冷酷な記述の修正によって踏みにじられていく。

 

 アルトは、その血の揺らぎを、己の魂を削るような眼差しで見つめていた。

(……この構造を破るには、因果の外から楔を打ち込むしかない)

「……踏み込めば、戻れない」

 魔法使いという存在の終わりを示唆する、暗い淵。

 

 赤が、消えかけた。

 

 アルトの拳が、静かに、血が滲むほどに握られた。

 

 均衡を根底から崩すような、時間すらも歪ませる圧力が、彼らを包囲していた。

 世界の「流れ」そのものが、狂い、死んでいく。

 

 何一つ、成立していなかった。

 何も、始まってすらいなかった。

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