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第四章: 境界の守護者と四つの異能『選ばれし者たちは、まだ互いを知らない』  作者: ぃぃぃぃぃぃ


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第百八十七話:最初の血

 世界が、軋んだ。

 ライトの剣が魔王に触れた。それは、衝撃ではなかった。

 石床が放射状に爆ぜ、剥がれた破片が重力を無視して虚空へと吸い上げられていく。天井のない暗黒の天球には、透明な何かが砕け散るような音と共に、無数の亀裂が走った。

 

 血が、落ちた。

 

 一滴。

 魔王の右腕に、細い赤が走っていた。深くはない。致命傷からはほど遠い、わずかな、しかし取り返しのつかない綻び。

 ――赤が、そこにあった。

 「絶対的な無」を象徴するその肌の上で、鮮烈な色彩が脈動している。周囲の闇が、その異物を排斥しようとして、逆にその質量に押し返されるように後退を始めた。

 魔王の瞳が、その傷を捉えた。

 自身の肉体を「損傷個体」として再定義する、静かなシステム的認識。

 ――だが、理解が、追いつかなかった。

 処理の完了したその後に、僅かな遅延レイテンシを伴って、異変が立ち上がる。

 魔王の瞳孔が、極限まで収縮した。

 呼吸が、止まる。

 感情を排したはずの顔が、生物的な拒絶に一瞬だけ歪んだ。数千年の演算の歴史に初めて生じた、致命的な「空白」。玉座の輪郭が蜃気楼のようにぼやけ、魔王の存在密度が、一瞬だけ薄れる。ことわりそのものが、初めて経験する未知に浸され、根底から震えていた。

 

「……は……? あ……あれ……なに……?」

 レイナの声だった。

 震えていた。あまりにも現実離れした光景を前に、喉の奥が引き攣れたように鳴る。彼女の視界の中で、揺るぎないはずの絶対者が、その輪郭を損なわせている。

「……あ……あいつ……な……なに、これ……!」

 乾いた笑いが、絶叫へと変わった。

「あ……あは、はは! 当たるんだ……あいつに……届くんだ! 勝てる……これ、勝てるよ……ライト!」

 狂おしいほどの叫びが、戦場を支配していた沈黙を塗り替えていく。彼女は涙を流しながら、魔王の右腕に刻まれた「赤」を指差した。その熱こそが、絶望を「打倒すべき敵」へと変質させた瞬間だった。

 ステファニーが、動いた。

 閉じていた目を開け、視界を覆う白濁の先にある、四人の「終わり」を凝視する。ライトの右腕は神経が焼き切れかけており、アルトの演算領域は自身の脳細胞を苗床にして崩壊の淵にある。

 彼女の手は、止まらなかった。

「……まだです。まだ、終わらせません」

 彼女の紡ぐ言霊が、ライトたちの断裂した神経に直接絡みつき、焼き切れた絆を、冷たい意志で縫い合わせていく。バラバラに散らばろうとする存在の破片を、魔力という杭で無理やり戦場に固定し続ける。その過酷なまでの維持こそが、今、死の一歩手前で彼らを繋ぎ止めている唯一の楔だった。

 アルトは、その傷を数式化しようとして、止まった。

 脳が焼けるような異臭が鼻腔を突き、思考の断片がノイズとなって散らばる。

(……傷の深さは問題ではない。魔王の虚無が、一瞬だけ収縮した。それが『事実』だ)

 崩壊しかけた知性の中で、新しい式が、強引に立ち上がる。

(……届く……この式なら、届く……!)

 完成にはほど遠い。数式は歪み、整合性を欠いている。だが、彼は掴んでいた。理解を超えた領域に、確かに「解」へと繋がる糸口が残されていることを。その確信だけが、彼の壊れかけた脳に、異常なまでの熱量を注ぎ込んでいた。

 ライトは、膝をついていた。

 右腕の感覚は消失し、肩から先はただの「冷たくて重い棒」がぶら下がっている。視界は依然として白く塗り潰され、全身が不気味な静止を強要されている。

 それでも、彼は顔を上げた。

 魔王の右腕に走る、細い、鮮烈な赤い線。

 

「……届いた」

 

 掠れた声が、誰にも届かないまま落ちた。

 一瞬だけ、肺の奥から震えるような息が漏れた。それは安堵であり、あまりにも過酷な一手目を完遂した人間の、生の証。

 ――初めて、この世界に爪痕を残せた気がした。

 氷のように冷たかった彼の胸に、一滴の、確かな「熱」が落ちていた。

 シエラは、その光景を無言で見ていた。

 《常世の福音》の出力がわずかに落ち、彼女の肌が内側からの摩耗でさらに白さを増していく。

 だが、この戦場が今なお「物理的な形状」を保っているのは、彼女の福音という名の土台があるからに他ならない。彼女は、この一撃を成立させるための盤面を、その身を削って支え続けていた。その瞳の奥底に、何かが灯った。自らが選んだ駒が、運命を物理的に破壊してみせたことへの、狂おしいまでの肯定。

 魔王の血が、石床に落ちた。

 液体が触れた場所から、石の質感が、虚無の色が、じわりと変質していく。

 ――消えなかった。

 理という無欠の鏡に投じられた一石は、決して元に戻ることのない歪みを、静かに広げ続けている。

 誰も、言葉にしなかった。

 取り返しのつかない「生」が、そこに、確かに刻まれていた。

 

 魔王が、ゆっくりと、傷ついた右腕を上げた。

 その動きには、先ほどまでの静寂とは異質の、重く、湿った「殺意」が宿っている。

 

 そのわずかな動きだけで、戦場の熱が、一瞬にして凍りつく。

 

 均衡を根底から崩すような、時間すらも歪ませる圧力が、すぐそこまで来ていた。

 

 世界の“流れ”そのものが、狂い始める。

 

 絶望は、終わっていなかった。

 本当の始まりが、目の前まで、その手を伸ばしていた。

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