第百八十六話:一閃
時間が、裂けた。
アルトの脳は、この瞬間を処理できない。
彼の「時覚」が、瞬きにも満たない刹那を、果てしない永遠の層へと強制的に引き剥がしていく。脳漿が沸騰するような高熱が視神経を焼き、眼鏡の奥で剥き出しになった左目が、激痛と共に未来を凝視する。
ライトの剣が、降り始めた。
音はない。世界は、音という概念をすでに手放していた。
暗黒の虚無を背景に、ただ白い光の軌跡だけが、世界の断層をなぞるように一本の線を刻んでいく。
それは、美しくなかった。
――だからこそ、本物だった。
洗練された技巧も、完成された美意識もない。あるのはただ、震える腕で、剥がれかけた爪で、己の存在すべてを賭して振り下ろす、泥臭い「生」が削れ落ちながら残した、一本の線。
アルトは、その線の先に、未来の分岐を視た。
無数ではない。三本だけだ。
一本は虚無に飲み込まれ、ライトの存在ごと消滅する。
一本は魔王の輪郭にすら触れず、虚しく霧散する。
そして最後の一本――世界に一つだけ残された“接触”。
(……そこだ)
アルトは、その絶望的な一本に向かって、自身のすべての存在確率を注ぎ込んだ。
指先が虚空を掻き、血の混じった液体が顎を伝う。脳の演算領域が剥がれ落ちていく感覚を無視し、彼はライトの剣が通るべき唯一の隙間を、一瞬にも満たない幅で固定した。それは演算ではない。世界の理を無理やり捻じ曲げる、泥臭い執着だった。
レイナは、呼吸を忘れていた。
闇を奪われた両腕を胸元で固く握りしめ、ライトの背中だけを、その網膜に焼き付けている。
祈ったことなど、一度もなかった。救いを求めたこともない。だが今、彼女の唇は激しく震え、音のない言葉を形作っていた。
それは、ライトをこの世界に押し留めるための、重さだった。彼が光の彼方へ消えてしまわぬよう、その背中に縋り付く、精神的な楔。
ステファニーの目が、静かに閉じられた。
杖を握りしめる両手は、血の気が引いて白磁のように透き通っている。
彼女は、空間そのものを外側から締め上げた。光の粒子が、その目的地に到達する前に霧散することを許さない。その反動で、彼女自身の血管が内側から圧迫され、鋭い痛みが全身を駆け巡る。それでも、彼女は一歩も引かなかった。
シエラは、ただ無言でそこに在った。
《常世の福音》の全出力が、ライトの剣が描く軌跡の直下に集中される。言葉も、指示も、不要だった。彼女の放つ光は、ライトの行く先を照らす道標であり、同時に、彼が魔王の深淵へ墜ちることを許さない非情なまでの肯定だった。
虚無が、抵抗した。
ライトの剣が魔王の敷く絶望の層に触れた瞬間、世界の前提そのものが、異物を排斥しようと膨れ上がる。
存在を否定する「無」の力と、泥に塗れてでも存在し続けようとするライトの「光」が、刀身の一点で激突した。
拮抗は、成立しなかった。
光が、虚無を――裂いた。
音もなく、爆発もなく。
何もなかったはずの場所に、鮮烈な断面が生まれる。そこにあった「何もない」という不変の真理が、静かに、しかし決定的に、左右へと分かたれた。
理が、悲鳴を上げることすら忘れて沈黙する。
魔王の瞳が、その軌跡を追った。
玉座に座ったまま、微動だにしないその姿。だが、その瞳の奥で、何かが変わった。
それは驚愕ではない。
もっと深く、もっと峻烈な――不可侵であったはずの自分に、異物の熱が“触れてしまった”という、静かな認識。
ライトの視界は、すでに白く濁り、右腕の感覚は熱を通り越して消失に近づいている。
この一撃が、自分に何を残すのか。あるいは何を奪っていくのか。そんなことを考える余裕は、細胞の一つにも残っていない。
ただ、届け。
剣が魔王へと届く、その刹那。
世界が、その呼吸をやめた。
綻びではない。
崩壊の予兆が、そこから滲み出していた。
だが、それが勝利に繋がる保証は――どこにもなかった。




