第百八十五話:燃焼
剣が、重かった。
これほど重いと感じたことは、かつてなかった。
これは、鋼の重さではない。この白銀の刀身に凝縮された、逃げ場のない重力だった。
肘が軋み、肩が外れかける。それでもなお、その質量は腕ではなく、心臓に直接ぶら下がっているかのようだった。
ライトは、その重さを両手で支えながら、ゆっくりと、しかし深く肺の奥まで空気を吸い込んだ。
視界を塗り潰す白濁の中に、泥のような記憶が浮かんでは消える。
圧倒的な力を持つ女性――あの、原点。
「判断が遅い」と切り捨てる声と共に放たれる、すべてを見透かすような冷徹な視線。その記憶の残像と、今、目の前にいるゾディアックの赤い瞳が重なる。
かつて、自分が引き金を引けなかった戦いの再現。指先が、止まる直前。内側にある“断絶”が、最後の一歩を拒む。力はあった。決意もあった。それでも――足は、止まった。
その断絶は――今も、ある。
恐怖は消えずにそこにあった。だが、それはもう、彼を止めるためのものではなかった。魔王の視線に曝されるたび、ライトの心臓は握り潰されるような痛みを上げている。逃げ出し、すべてを投げ出したい衝動は、依然として背中を突き動かし続けている。
(……ああ、怖い。今でも、たまらなく怖い。……だから、行くんだ)
ライトの視線が、極限の盤面を彷徨う。
レイナが、自らの拠り所であった闇を失い――それでもなお、こちらを見ていた。あの時の呼びかけの余韻をその瞳に宿したまま、透き通るような白濁の中で折れずに立っている。
アルトが、眼鏡のレンズを血とノイズで砕き、視界のほとんどを失いかけながらも――それでも未来を繋ぐための計算を、一度たりとも止めていない。見えていないはずなのに、その指先は虚空に正確な記号を刻み続けている。
ステファニーが、己の祈りを削り、それでも手を止めずに、存在確率の綻びを執拗なまでに繋ぎ止め続けている。
そしてシエラが、自らの根源を摩耗させながら、この戦場の床を、たった一人で固定している。
誰一人、目を逸らしていない。誰一人、自分という役割を投げ出していない。
ライトは、シエラの背中を凝視した。
彼女の背は、相変わらずこちらを向いてはいない。だが、その背中から溢れ出し、世界を塗り替える福音の光が、ライトの剣に、彼の右腕に、一切の躊躇なく注ぎ込まれ続けている。
彼女は、何も言わない。励ましも、期待すらも――与えない。
だが、その沈黙こそが、唯一の答えだった。
――お前が、振り抜け。
この光を、この重力を、すべてお前が背負って、その先へ行け。
肺の奥まで空気が満ちる。酸素ではなく、光の粉を吸い込んだかのように、気管が灼ける。
呼吸を整えるたび、視界の白濁が一段と深く、濃くなっていく。全身に広がる恐怖は、冷たい電流となってライトの神経を焼き、本能は狂ったように警告を発している。
それでいい。
恐怖があるからこそ、この剣は本物なのだ。
恐怖があるからこそ、これは自分一人ではない、仲間と共に地獄を這いずり回るための剣なのだ。
光が、炎になった。
――恐怖を、燃料に変えて。
静止していた輝きが、流動を持った。白から、金へ。金から、純白のプラチナへ。
存在することそのものが、光という暴力的な運動へと変換されていく――静止を許さぬ変容。
ライトの両腕が、重さに耐えかねて震える。魔力回路が過負荷で焦げた臭いを鼻腔に届ける。
だが、その手だけは放さなかった。
ライトは、魔王を正面から見た。
恐怖を抱えたまま、彼は笑うという選択肢を捨てて、ただ前を視る。
静かな決意が、ライトの全身に、そして周囲の空間に充満した。
純粋な「向かう」という意志だけが、質量を持って残った。
――それ以外は、すべて焼け落ちた。
ライトが、剣を、ゆっくりと振り上げた。
その予備動作だけで、戦場の空気が一瞬にして凍りつき、石床が蜘蛛の巣状に砕け散る。理が、ライトの振り上げる剣の軌道に耐えかねて、悲鳴を上げ始めた。
音は、消えた。
世界が、音という概念を手放した。
何も、聞こえない。自分の鼓動すら。
レイナの闇も、アルトの演算も、ステファニーの祈りも、真空のような静寂に飲み込まれていく。シエラの福音すらも、その一撃の外縁で、激しい軋みを上げていた。
振り抜く、そのコンマ数秒前の静寂。
ライトの瞳に、魔王の姿がかつてないほど鮮明に映り込んだ。
それはもはや「敵」ではなく、切り裂くべき一点として――すでに処理済みだった。




