第百八十九話:禁忌への踏み込み
視界が、歪んでいる。
いや、歪んでいるのは世界の方だ。
ライトの聖剣が魔王の核を捉えたはずの瞬間。レイナの闇がその存在を呑み込もうとしたその瞬間。あらゆる「着弾」は、発生した直後に、最初から存在しなかったかのように消滅する。
魔王の能力。それは物理的な防御でも、次元的な回避でもない。
「……結果の、削除」
アルトの唇から、乾いた独白が零れた。
攻撃は当たっている。魔王の肉体に刃が触れ、魔力が爆ぜる「事実」は一度成立しているのだ。だが、その直後に世界というシステムが、その一行を丸ごと抹消している。
書かれた文字を消しゴムで消すのではない。書かれたという歴史そのものを、ページごと破り捨てているのだ。
これでは、どれほど速く、どれほど強く撃ち抜こうとも意味をなさない。
「……違う」
アルトは、自らの思考を断じた。
「これは、“速さ”の問題じゃない」
ライトたちが繰り返している特攻は、成立しない答えをなぞり続けるだけの、無意味な消耗に過ぎない。
魔王の能力の本質は、タイミングの操作。
事象が成立し、それが過去として固定される直前の、わずかな隙間。そこに魔王の「否定」が走り、過去になる前に消し去っている。
ならば、答えは一つしかない。
「否定される前に――」
アルトの思考から、温度が消えた。もはやそれは判断ではなく、冷徹な演算だった。
「結果を、確定させる……!」
――消えない“事実”として。
その言葉を刻んだ瞬間、アルトの背筋に氷の楔が打ち込まれた。
理屈は通る。だが、成立する保証はどこにもない。それは人の領域を絶望的なまでに踏み越える、あまりに危うい仮説だった。
脳裏に、師・ルナの凍り付くような声が蘇る。
『アルト、いい。これだけは、死んでも守りなさい。加速と減速を同時に、自分という一つの回路で回してはならないわ。それは魂の器を内側から崩壊させかねない禁忌。もし行えば……あなたは二度と、魔法使いではいられなくなるかもしれないわ。――少なくとも、元のあなたではいられないこともある……私のように。それでも、あなたがどうなるかは、誰にも分からない』
変質。あるいは破綻。
魔法使いにとって、魔力回路の死は存在そのものの否定に等しい。
無限であるはずの力を湛えながら、自らの手でその「通り道」を崩壊させかねない矛盾した狂気が、喉元まで迫っていた。
アルトは、震える右手を胸に当てた。
冷たい確信が、全身に満ちる。
失うものが何であれ、止まる理由にはならない。二度と、あの数式の美しさに触れられなくなるとしても。
だが。
隣で、ライトが折れかけた心を剣に託し、血を吐きながら前を見据えている。
レイナが、震える手で魔力を練り直し、アルトを背中で守り続けている。
ステファニーが、絶望の淵でなお、アルトの「解」を信じて祈りを捧げている。
彼らを守るために。
この理不尽な世界の否定から、彼らの歩んできた「結果」を救い出すために。
(……決まってるだろ。何を、迷う必要がある)
決断は、静かだった。
叫ぶ必要も、昂ぶる必要もない。ただ、積み上げてきた論理の果てに、その「一歩」を置く。
「……シエラさん」
視線だけで、背後のシエラへ合図を送った。
その瞬間、シエラの瞳が鋭く細められた。弟子の選ぼうとしている手段がいかにデタラメなものであるか、その異常性に気づいてしまった“だけ”の目だった。
何かを言いかけ、シエラはフッと小さく、口角を上げた。
止めはしない。ただ、この戦場の行く末を、一瞬たりとも見逃すまいとする強烈な視線が、アルトの背中を貫いた。
「ライト、レイナ。指示を出します」
アルトの声は、澄んでいた。
その響きは、もはや人間のそれではなかった。
「次の一撃で、終わらせる。僕が魔王の理を固定する。否定が走る隙間を、無理やり抉じ開けて維持する。……その瞬間に、二人の《原初爆ぜる一撃》を叩き込んで。光と闇を、寸分違わず重ねるんだ」
「……わかった。合わせる」
ライトが、聖剣を握り直す。その瞳に、迷いはなかった。
「ズレたら終わりよ。任せなさい」
レイナが、不敵な笑みを浮かべて魔力を昂ぶらせる。
「アルトさん……やってください。私は、貴方を支えます」
ステファニーの震える声が、アルトの背中を押し上げた。
四人の意志が、歪みながら、同一の解へと収束していく。
アルトは一歩、前へ踏み出した。
魔王の歪曲はタイミングの操作だ。
加速で否定を誘い出し、減速で事実を固定する。
自分という単一の回路の中で、正反対のベクトルを衝突させ、意図的に理の歪みを生み出す。
その歪みこそが、世界に「結果」を焼き付けるための、たった一つの楔となる。
(理論は組み上がった。……だが、成立する保証はない)
アルトは、肺腑を空にするための、長く、深い呼吸を一つ。
(否定される前に、世界へ固定する――。それが、僕の出す“答え”だ)
アルトの両手が、ゆっくりと、左右へ広げられた。
右手に、青白く爆ぜるような《アクセラレーション》の残光。
左手に、重く沈み込むような《デセレーション》の深淵。
それらが、彼の心臓、魔力回路の起点へと向かって、収束していく。
ルナが言っていた「禁忌」の扉が、今、アルトの手によって押し開かれる。
眼鏡の奥の瞳には、もう、迷いを切り捨てた。
――それは、“成立してはならない式”だった。
今、この瞬間。
アルトは、その禁忌の境界を、踏み越えた。




