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第四章: 境界の守護者と四つの異能『選ばれし者たちは、まだ互いを知らない』  作者: ぃぃぃぃぃぃ


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第百八十話:常世の福音

 魔王が動かない世界で、シエラだけが動いた。

 それは、いかなる戦闘行動とも異なっていた。剣を抜かず、魔力を展開せず、詠唱の一節すら零さない。彼女はただ、属性を剥奪され、崩壊を待つだけの虚無の中を、一歩だけ、前に出した。

 その一歩だけで、虚無の圧力が、押し返された。

 消えかけていた世界が、無理やり呼吸を取り戻す。それは救済という名の、暴力的なまでの「存在の肯定」だった。

「アルト」

 シエラの声は、他の三人には届かない低さだった。この干渉を理解できるのは、彼だけだった。虚無がすべての振動を収奪するこの空間で、その言葉だけが、アルトの知性の核へと直接刻み込まれるように響いた。

 アルトが、焦点を失った眼鏡の奥で、シエラの背中を見た。

「私の力では、魔族は倒せない」

 断言だった。言い訳でも、謝罪でも、弱音でもない。ただ、この世界の事実を告げただけだった。

「だが——虚無の力を, 無効化することはできる」

 アルトの思考が、一瞬だけ停止した。

 虚無を無効化する。

 論理を拒絶する概念に対し、その前提を真っ向から上書きできる何かが存在するのか。

 彼の知性が瞬時にその解答を演算しようとしたが、シエラはすでに、前を向いていた。彼女の手が、世界そのものを「固定」するように静かに動く。

 世界の歪みが、彼女の周囲で静かに軋んだ。

 シエラが、静かに目を閉じた。

 光もなく。音もなく。ただ、彼女の周囲の空気が、本質を変えた。

 

 それは魔法でも魔力でもない。

 世界の設計図そのものに触れ、因果の糸を静かに結び直す干渉だった。

 虚無という「死の記述」の上に、別の、より強固で絶対的な「生の記述」が、問答無用で上書きされていく。

 アルトの眼鏡が、異常な光の偏差を捉えた。

(……これは、何だ。数式が、消えていない)

 一度は分解され、無意味な記号の羅列へと成り果てていた彼の理論が、シエラの干渉領域に触れた瞬間、再び重力を持って整列し直した。

 彼女が歩く場所だけが、ことわりが成立する「床」として再構築されていく。

《常世の福音エターナル・ブレッシング》。

 その名を、アルトは知らなかった。

 だが、その効果だけは、彼の知性が即座に理解した。

 彼女の周囲においてのみ、世界は「虚無という前提」を拒絶している。

「……シエラ、あんた」

 レイナが、戻り始めた闇を胸の奥で確かめるように、己の肩を抱いた。消えかけていた己の輪郭が、シエラの背中から溢れる力によって、強引に繋ぎ止められていく。

「祈りではない。世界が、決定されている……」

 ステファニーの瞳が揺れた。聖職者として一生を捧げてきた彼女の「祈り」が、シエラの放つ「決定」の前では、あまりに無力だった。それは神に縋る言葉ではなく、神そのものが世界を定義し直すような、絶対的な音色だった。

 玉座の影が、初めて、明確に動いた。

 指先でも、視線でもない。ただ、その存在の重心が、シエラの方向へと、ほんの一度だけ傾いた。魔王の瞳が、わずかに見開かれる。

「……なるほど」

 それは、初めて魔王が示した、明確な興味だった。見開かれた瞳の驚愕が、即座に昏い愉悦へと歪み、冷酷な笑みとなってその唇に刻まれる。

「……この力は——か」

 魔王の唇が紡いだその言葉の末尾は、アルトの耳には届かなかった。

 いや、届いた瞬間に、彼の脳がその情報を「理解不能な空白」として処理した。省略された言葉の背後に潜む、圧倒的な既視感。

 魔王は、何を知っている。

 この魔王という災厄に、何を認識させた。

 魔王の視線が、静かにシエラへ向けられた。

 だが、攻撃は来なかった。

 不気味な静止。

 しかし、アルトの知性は、その裏側にある別の深淵を覗き込んでいた。

(違う……面白がっているんじゃない。まるで、彼女を敵として定義できないかのような空白。……攻撃、できない?)

 シエラは、魔王を見なかった。

 彼女の視線は常に、膝をつき、必死に存在を繋ぎ止めようとしている仲間たちに向けられていた。魔王を敵としてすら認識していないかのような、あるいは、すでに裁定を終えた後の執行者のような、冷たい聖性。

 シエラの指先から零れる力が、四人の魂を強引に繋ぎ止める。

 ライトの右腕に、熱が戻った。だが、それは以前の光ではない。シエラの福音によって無理やり形を固定された、痛みを伴う暫定的な力。

 右腕の神経が、焼けた鉄のように軋んだ。治ることのない「概念の火傷」が、彼の皮膚を、そして魂を侵食していく。

「……はあ、はあっ」

 ライトは、戻った熱を確かめるように、震える拳を強く握り込んだ。痛みが走るたびに、自分がまだここに「在る」ことを確信する。

「……まだ、終わってない。……行くぞ、みんな! アルト、頼む!」

 

 その一言で、絶望の澱が弾けた。

 アルトは、血の混じった唾を吐き捨て、ひび割れた眼鏡を押し上げた。

 知性の盾が薄紙に過ぎないのなら、その薄紙に、この世界の崩壊をすべて記述し、管理してやる。

 シエラの福音がもたらした一瞬の「床」。

 それを、アルトの知性が、戦場という名の極限の盤面へと変えようとしていた。

 ここからが、俺たちの時間だ。

 盤面は、まだ崩れていない。

 玉座の影が、再びわずかに揺れた。

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