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第四章: 境界の守護者と四つの異能『選ばれし者たちは、まだ互いを知らない』  作者: ぃぃぃぃぃぃ


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第百八十一話:時の盤面

 アルトの視界は、もはや「現在」を捉えていなかった。

 シエラの福音が虚無の中に「床」を固定したその瞬間から、彼の知性は現実というキャンバスを剥がし、その裏側に潜む時間の層へと滑り込んでいた。

(熱い。脳が、溶けそうだ)

 視界の端で、ライトの残像が三つに分岐する。一つは虚無に呑まれ、一つは座標の歪みに潰され、最後の一つだけがかろうじて生存という細い糸を渡っている。

 アルトが駆使する《時覚》は、もはやスキルという枠ではない。それは、魔王が歪め続ける時空の濁流に対し、自らの精神を極限まで薄く引き延ばし、強引に「観測」という名の杭を打ち込む自傷行為に等しかった。

「ライトさん、右一・八二。……そのまま姿勢を落として」

 思考の直接伝達。ライトは考えなかった。考える時間すら、魔王の歪曲の中では贅沢な不純物だった。指示の通りに身体を投げ出した瞬間、ライトの首筋を、音も衝撃もない真空の刃が通過した。直前まで彼が立っていた空間が、砂糖菓子のように脆く崩れ、消滅する。

(……一・三秒、更新。次は、来る)

 アルトの眼鏡のレンズに、蜘蛛の巣のようなヒビが走った。衝撃を受けたのではない。彼の脳が叩き出す膨大な演算熱が、フレームごと世界を拒絶しているのだ。

 鼻孔から熱い液体が滴り、唇を濡らす。だが、アルトは瞬きすら許されなかった。一瞬の暗転は、仲間全員の確定した死を意味する。

「……レイナさん、座標三九六。闇の密度を最大に」

 レイナが動く。だが、彼女の視界に映る魔王は、蜃気楼のように揺らぎ、定まらない。剣を突き出そうとしても、空間が折れ曲がり、刃は自分の背後を指している錯覚に陥る。

「……っ、どこにいるのよ!」

 叫びは虚無に吸われる。だがその時、アルトの思考を通じて冷たい数式が流れ込んできた。

 シエラの、他の三人には届かない声。それはアルトの脳を経由し、戦場全体を記述する言語として、レイナの闇に干渉した。

(三、七、一四——九節。歪みの『節』を叩け)

 シエラが提示したのは解ではない。魔王という巨大な矛盾を解くための、唯一の鍵となる数式。

 アルトは戦慄した。シエラの指示は、魔王の歪曲を破壊するのではない。魔王が作り出した偽の空間の中に、正解へと至る唯一の点を定義している。

「……三秒で作ります」

 アルトが歯を食いしばる。

 彼の《時覚》が、戦場全体の時間の層を無理やり剥がし、再構成し始めた。

 魔王の空間歪曲にはリズムがある。虚無の侵食が更新される周期。シエラの福音が床を保持できる限界密度。それらすべてを定数として、アルトは未来の設計図を書き換えた。

 眼球の裏側で火花が散る。演算負荷によって、幼い頃の記憶や、ささやかな日常の記憶が、黒いノイズに沈みかける。その代償として彼が掴み取ったのは、現実の〇・七秒を遅延させるという、理への反逆だった。

「……今だ! 〇・七秒の遅延が発生します。ライトさん、第二波に合わせて……全力で!」

 ライトが、右腕に刻まれた概念の火傷のような激痛を、意志の力で踏み越えた。

 熱い。右腕が灰になるような感覚。だが、その痛みこそが、自分が虚無に呑み込まれていない証だった。

「アルトを——信じる!」

 ライトが踏み込む。彼の背後には、過去数秒間の動きが残像として張り付き、どれが本物のライトか判別不能な光景が広がる。

 遅延が来た。

 魔王の周囲で、時間が粘り気を持ち、歪んだ空間が元の座標へ戻ろうとして停滞する。

 ライトの剣が、歪みの隙間を縫うように走った。

 完全ではない。魔王の肉体を断つには至らない。だが、その刃は確実に、魔王の存在を保護する虚無の衣の外縁を裂いた。

 玉座の影が、初めて大きく揺らいだ。

「……そこよ!」

 レイナが、ライトの生み出した〇・三秒の綻びに、自らの闇を流し込んだ。

 それは攻撃というより、魔王の存在を固定するための楔だった。

 二人の攻撃が、アルトの設計した時間の連鎖によって、因果を無視して重なり合う。

「……はあ、はあ……、今の、手応えがあったわ」

 レイナの腕が、過負荷で小刻みに震えている。

 ステファニーは、その四人の綻びを見逃さなかった。

「精神を、離さないでください……! まだ、皆さんはここにいます!」

 ステファニーの祈りは、崩壊し続ける三人の人格と肉体の定義を繋ぎ止めるための祈りだった。

 アルトは、激痛の中で眼鏡を押し上げた。

 右のレンズが、完全に砕け散った。視界の半分が闇に沈む。だが、残った左の視界には、シエラの姿が焼き付いていた。

 シエラは、戦場の外縁で、動かなかった。

 福音を維持し、四人の絶望的な奮闘を見つめている。

 その眼差しは、慈愛ではない。

 自らの設計図が、未知の脅威に対してどれほどの精度を発揮するかを検分する、冷徹な設計者のそれだった。

(……なぜだ)

 アルトの脳を、新たな棘が刺す。

 シエラが提示した数式。それは、魔王の弱点を予測しているのではない。まるで、最初からそこに存在していた綻びを、ただ静かに指し示すような——あまりに的確すぎる解答。

 

 シエラは何者だ。

 そして、なぜ魔王は、シエラへの攻撃を試みることすらしない。

 その問いに答えを出す余力は、今のアルトにはなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。

 

 シエラが構築したこの盤面の上で、自分たちは、初めて魔王を標的として認識し始めたのだ。

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