第百七十七話:扉の前
扉があった。
世界が、それ以上進むことを拒む扉。
因果の燃えかすが降り積もる最果てに、それは鎮座していた。
その高さは、知覚の限界を超えていた。天井が消えた暗闇へ向かって、その境界は伸び続けている。無機質で装飾の一切を排した表面は、光を反射することさえ忘れた虚無そのものの板だった。
扉の中心から、世界の裂け目と同じ波長の圧が滲み出している。
ステファニーの肌を覆う聖光は、その圧に触れた端から不吉な色に変色し、体温を奪いながら霧散していく。レイナの影は、意思を持つ生き物のように床を裂こうと暴れていた。
アルトは震える指で眼鏡を押し上げた。
九万回を超える失敗の未来を反芻し続ける彼の脳は過熱し、鼻腔からは絶えず鉄の匂いが溢れていた。この扉は、開けるためにあるのではない。何か、この世に在ってはならない不条理を閉じ込めるための、理の蓋なのだ。
誰も、すぐには動けなかった。
真空のような静寂が、鼓膜を内側から圧迫する。
「……さっさと、終わらせるわ」
レイナが低く吐き捨てた。拳からは、握りしめた際に滲んだ血が床に落ちる前に蒸発し、黒い煙を上げている。
「……勝率は、出ています」
アルトの声は掠れていた。何を計算し、何通りの仲間の死を体験してきたのか、誰も問わない。彼の瞳は、星座の観測者でさえ見つけられなかった「白紙の領域」を、血を流しながら手探りしていた。
「……私は、皆と行きます」
ステファニーが、目を閉じたまま唇を動かした。それは神へではなく、隣にいる仲間へ向けた、自らの魂を削り、因果を繋ぎ止めるための誓約だった。
「……役目を果たせ」
シエラが、黒鉄の剣の柄に指をかけたまま告げた。その瞳には、静かな覚悟だけが宿っている。言葉の矛先は、観測し続ける誰かへ、あるいは自らの命を駒として捧げようとする宿命へ向けられた、最後の手向けのように響いた。
ライトが、一歩前に出た。
右腕が、悲鳴を上げるような熱を帯びる。皮膚の隙間から漏れ出すのは、自身の存在を燃焼させて生み出す、危うい神殺しの炎だった。ライトが扉に触れた瞬間、彼の存在が世界から一瞬だけ消失し、再構築されるような錯覚が走った。
「行くぞ。……俺たちの結末を、奪い返しに」
ライトの手が、扉を押し開いた。
音はなかった。世界から音という概念そのものが剥奪されたような、完全な無。
ただ、世界の重さが一段階変わった。
その先に広がる空間は、城ですらなかった。
世界の傷口そのものが、広大な「間」として開いていた。裂け目から溢れ出す無彩色の光が空間を白と黒の鋭利な境界線だけで構成し、あらゆる色彩を喰い荒らしていた。
重力は死に、時間は腐敗し、純粋な滅びだけが空気を満たしている。
そして、その中心に。
玉座の輪郭が、空白の中に浮かび上がっていた。
それは――観測された瞬間、見る者の精神を
因果の藻屑へと変える絶対的な終着点。
アルトの視界で、たった一つの成功が砕け散った。
白紙の領域が、静かに開かれた。




