第百七十六話:最短の死
魔王城の最深部。そこではすでに「場所」という概念が崩れ始めていた。
世界の裂け目から漏れ出す歪みが、アルトの時覚を強制的にこじ開けた。網膜が内側から爆ぜるような光に焼かれ、彼の論理回路は、溢れ出す理を繋ぎ止めるための演算へと叩き込まれた。
視界が、二重になる。
現実の廊下を歩く肉体を、時間の層に刻まれた無数の残像が追い越し、因果律のズレが三半規管を激しく揺さぶる。
鼻腔に立ち上る、熱い鉄の匂い。
赤い生存拒絶の圧。
それは魔王の魔力ではない。
もっと遠い何か――星座のように冷たい視線が、この世界を観測していた。
遥か天の、動かぬはずの星座が、わずかに瞬いた気がした。
(――分岐が、収束していく)
九万三千を超える未来分岐が、一瞬で消えた。
可能性の消滅ではない。アルトの脳内で、仲間たちが死に、世界が瓦解する九万三千通りの「現実」が、秒間にも満たない間に強制体験され、捨て去られていったのだ。すでに数千年の孤独を駆け抜けたような疲弊が、アルトの精神を摩耗させていた。
無数の未来が枯れ落ちる中で、ただ一本の細い糸だけが、絶望の合間に針の穴のような光を放っていた。
アルトの足が、凍りついたように止まった。
玉座の間を流れる不気味な風の音が、ぴたりと止む。静寂が、鼓膜を内側から圧迫した。
ライトは振り返らなかった。
だが、アルトの呼吸が急速に生気を失い、その肩が震えたことだけは分かった。
「……勝てるルートが、あります」
アルトの声は、平坦だった。感情を抜き取られ、ただ事実を吐き出すだけの、冷え切った機械の声。
ライトの肩から、微かな緊張が解ける。アルトの言葉は、この戦場において、勝利を担保する唯一の「解」だった。
だが、アルトは一度、強く目を閉じた。
まぶたの裏に、たった一つの「成功」という名の地獄が焼き付いている。
「ただし――」
一拍。
ステファニーが小さく息を呑む音が、静寂を裂いた。彼女の指先が、杖を強く握りしめる。彼女の感応能力は、アルトの魂から噴き出した、どす黒い泥のような絶望の色を、すでに拾ってしまっていた。
「一人、必ず死にます」
沈黙。
赤い光が、その停滞を喜ぶように、一度だけ脈動した。
ライトは依然として前を見据えていた。振り返れば、アルトの眼鏡の奥に映っている「犠牲」の名前を、確定させてしまうことを恐れるように。
「……誰」
レイナの声だった。
その声は、幽かに震えていた。彼女の戦士としての直感は、アルトの沈黙の意味を、吐き気がするほど理解してしまっていた。
アルトは、答えなかった。
眼鏡の奥で、その誰かの死に様が、数万回リピートされ続けている。名前を口にすれば、その人物を「犠牲者」として配置したのは自分になる。
その停滞を、涼やかな声が切り裂いた。
「言う必要はない」
シエラだった。
彼女は、前を向いたまま、微動だにせずに告げた。
そこには悲壮感などなかった。ただ、研ぎ澄まされた刃のような、静謐な狂気だけがあった。
「……たぶんな。それが、最初からの計算だ――私たちがここに来た、あの最初の一歩の瞬間から」
レイナの拳が、血が滲むほど握り込まれた。
感謝は、一瞬にして、底知れぬ空恐ろしさへと変質した。
彼女は導いていたのではない。最深部の盤面を完成させるために、自分たちを「配置」していたのだ。
師弟という名の絆さえ、この一点で誰かを殺すための燃料に過ぎなかったのか。
アルトは、震える手で眼鏡を外した。
ヒビの入ったレンズが、視界を無数に寸断する。
(……違う。認めない)
最短は最善ではない。魔王を殺し、かつ「誰も死なない」生存。
それは、この世界が許さない数式だ。
(……僕は、その未来を壊すために、ここにいる)
「……それでも、進むしかない」
ライトが、重く、淀みのない足取りで再び歩き出した。その背中は、どんな論理的な絶望よりも力強く、アルトをこの「今」へと繋ぎ止める。
「最悪の結末……? そんなふざけた数式、私が一撃で叩き壊してやるわ」
レイナの声は、低く、地這うような唸りを帯びていた。拳から滴る血が、彼女の闘志がもはや生存本能を超え、運命そのものを殺すための執念へと変質したことを物語っていた。
「神よ……どうか、私たちに、まだ見ぬ明日を」
ステファニーは、仲間の背を守る祈りを静かに結び直した。その祈りは、仲間の運命に自分の魂を差し出すような決意であり、彼らの因果を支えるための、血を吐くような誓約となっていた。
「なら、進め」
シエラが、黒鉄の剣を鞘の中で微かに鳴らした。
アルトは、眼鏡を強くかけ直した。
(……未来を、壊す)
彼は、自らの知性を「観測者」から、因果をねじ曲げる「破壊者」へと転向させた。
「……未来はもう見た。だから、僕が先導して壊します」
最短を知るのは、僕だ。アルトは、自ら見つけた「成功」という名の糸を、その手で握り潰しながら一歩を踏み出した。
彼らを縛るのは、信頼という名の呪いだった。
五人は、最深部へと歩み出した。
足跡が刻まれるたびに、日常は遠のき、不可逆の「終焉」が目前へと迫る。
そしてアルトだけが知っていた。
この歩みの先にある未来を。
まだ誰も――シエラさえも見つけていない、白紙の結末を。
星座の観測さえ届かない未来を。




