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第四章: 境界の守護者と四つの異能『選ばれし者たちは、まだ互いを知らない』  作者: ぃぃぃぃぃぃ


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第百七十五話:誓い

 シエラの背中が、前を向いたまま動かない。

 その輪郭は、玉座の間を支配する赤い光に侵食され、今にも世界の背景に溶けてしまいそうだった。

 誰も、すぐには動けなかった。

 赤い光は、もはや視覚的な現象ですらない。それは肺の奥にまで染み込み、酸素の代わりに「絶望」を送り込む圧だった。心臓が不規則なリズムを刻み、血管の奥で熱い鉛が逆流するような不快感が五人を襲う。魔王の視線に触れた石床は、色も意味も剥ぎ取られ、ただの虚無を支える台座に成り果てていた。

 その静寂を、石が割れる音が切り裂いた。

 ライトが、一歩を踏み出したのだ。

 それは、シエラの隣に並ぶための一歩ではない。

 魔王の定義に屈し、止まったままでいることを、己という存在の根源が許さなかった。一歩。踏み出した足の下で、石床に放射状の亀裂が走り、右腕の刻印からは未完成の力の余剰が、黒い煤のような影となって噴き出していた。

 

 ライトが見つめる先、シエラの肌はすでに生者の血色を失い、世界の記録から削除される準備を終えた、欠落した未来の質感を帯びていた。彼は何も言わなかった。言葉を探す時間はなく、その価値さえも、この圧倒的な理の前では無意味だった。

「……あなたの覚悟は、無駄にしない」

 

 それは誓いだった。そして同時に、逃げ場のない呪いでもあった。

 シエラが選んだ「師としての消失」を、弟子が「戦士としての死」として承認した瞬間。シエラは答えなかった。だが、黒鉄の剣の柄を握りしめていた指の力が、ほんの一瞬だけ、凍りついた氷が解けるように緩んだ。それは感謝でも満足でもない。一瞬だけ「人」としての未練に触れてしまったことへの、微かな、そして最後の一震いだった。

 アルトが、震える指先で眼鏡を押し上げた。

 ヒビの入ったレンズの奥で、膨大な数の数式と因果の糸が、暴走に近い速度で再構築されていく。感情が湧き上がるよりも早く、彼の知性はシエラの提示した「消失という解」を、唯一成立する答えとして、強制的に受け入れた。

 それは救済ではない。彼は自らの内側に溢れようとする濁りを、冷徹な論理の檻に閉じ込めた。

(……泣くのは、計算がすべて終わった後だ)

 アルトの視界は、すでに目の前の王座を超え、その奥に潜む時間の分岐を捉え始めていた。彼にしか見えない秒針が、残酷な速度で逆回転を始める。

 ステファニーは、杖を握る両手に血が通わなくなるほど力を込めていた。

 彼女の感応能力は、今、この場に渦巻く四人の覚悟が、一つの巨大な濁流となって同じ方向へ流れ出したことを感知していた。それは美しい調和ではなかった。互いの恐怖と、拭い去れない後悔を塗り重ねた、泥臭い合意だった。

 そのあまりに重い感情の飽和に、彼女の精神は白く塗り潰されるような過負荷に耐えていた。だから彼女はただ、シエラが選んだ道の重さを、自らの霊核に深く刻み込んだ。

 レイナだけが、まだシエラを正面から射抜いていた。

 ライトの誓いも、アルトの承認も、ステファニーの覚悟も、今の彼女には届いていない。

 届いていたのは、ただ一つ。拭い去ることのできない、生理的なまでの嫌悪だった。

(この人は……本当に、それでいいと思っているのか)

 シエラの覚悟が本物であることなど、百も承知だった。だが、その高潔さが、自分たちを置いてけぼりにするその正しさが、レイナにはたまらなく残酷に思えた。

 それでも――視線だけは逸らさなかった。逃げる理由にはならなかった。納得は、死ぬまでしない。だが、今は進むしかない。

 彼女は一歩、ライトの半歩後ろへと踏み出した。

 シエラが、低く吐き捨てた。

「……終わっていない。動け」

 

 そこには満足も、弟子への感謝もなかった。

 ただ、戦うための機能を取り戻した四人を、奈落へ追い立てる、冷酷な指揮官の響きだけがあった。

 五人は、赤い光の中を歩み出した。

 それは前進ではない。戻れない未来へ踏み込む、一歩だった。

 足跡が刻まれるたびに、彼らの日常は静かに崩れていく。

 アルトの視線は、すでに最短の死を避けるための糸を紡ぎ始めていた。

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